40 / 46
第四章
二. ギターとの出会い(一)
しおりを挟む
「兄さんがそこまで追いつめられていたなんて」
ワタルの部屋の前で、ハヤトは廊下の壁にもたれかかって座っていた。
ライブ後のミーティングを飛び出したはいいが、ワタルと沙樹がどこに行ったか解らない。結局追いかけることもできず自宅に戻ったところ、駐車場にワタルの車を見つけた。
「なんだ、灯台下暗しじゃないか」
ふたりが帰っていると確信したハヤトは、はやる気持ちでワタルの部屋までおしかけた。
勢いで部屋に入ろうとしたとき、ワタルの声がハヤトの行動を止める。
話の内容はすべてドア越しに聞こえてくる。それが予想以上に深刻だったので、部屋に入ろうにも入れなくなった。
「兄さん……」
立ち聞きするつもりはなかったが、去ることができずそのまま留まった。
ぶつけるつもりだった怒りの感情は、話を聞いているうちに徐々に小さくなり、やがて消え去っていた。
ワタルの体験は、音楽の世界で生きることを夢見るハヤトの考えを、いとも簡単に打ち砕いた。恐ろしいまでの現実が目の前に突きつけられる。自分の考えがいかに甘かったかを、いやでも考えてしまう。
「これがプロの世界か。厳しいなんて言葉じゃ表現しきれないよ」
ワタルたちのバンド、オーバー・ザ・レインボウがプロになった日から、音楽の世界は、雲の上にある夢の国から手に届きそうな現実の存在へと変わった。ハヤトが憧れる世界で生きる兄の姿は、離れた土地に住んでいる自分が見ていても、まぶしくて目がくらみそうになる。
プロのミュージシャンという職業が、憧れから目標に変わるまでに時間はかからなかった。虹のステージに立つ日に向けて、練習に明け暮れる日が始まる。
絶対に音楽の世界に入る。兄を追い越してみせる。そう考えるだけで闘志がわいて、厳しいレッスンや、勉強と手伝いの両立も苦にならなくなった。
すべては、ワタルよりも先を走りたいという思いからだ。
「ぼくはいつから兄さんを追いかけていたんだろう」
ハヤトは壁にもたれて、静かに目を閉じた。
☆ ☆ ☆
幼いころのハヤトにとって、ワタルはときどきやってくる異邦人だった。
夏になると突然ふらっとやってきて、母や祖母にかわいがられる。よく解らないが、自分の居場所を脅かす存在だった。
少しだけ世の中が見え始めたころ、両親が離婚していることと、ワタルが父に引き取られた実の兄だということを知った。
ワタルが来るときは、いつもたくさんのプレゼントを持ってくる。欲しくても買ってもらえないおもちゃをくれるので、季節外れのサンタクロースみたいに感じていたころもあった。
それでもハヤトは、ワタルの存在と訪問が気に入らない。
都会で多くのものに囲まれ裕福に暮らしているだけでも羨ましいのに、ここにいる間は、何をするにも兄が優先される。そんなワタルに、ハヤトは子供心に嫉妬を抱いていた。
母と祖母は小さな旅館を切り盛りして、毎日働き詰めだ。三人が食べていくには困らないが、それが原因でハヤトは母や祖母にあまりかまってもらえない。それどころか遊びたいときでも我慢して、家や旅館の手伝いをしていた。
生活のためにはしかたないと解っていても、寂しさと不満でいっぱいになることもあった。
何も知らない小さなハヤトは、自分たちをそんな境遇に追いやったのは、父が自分と母を捨てたからだと考えた。そして父に対するうらみが、いつの間にかワタルに向けられる。そのせいでハヤトはどうしても素直になれない。
だがワタルは、そんなハヤトを決して嫌わなかった。ひと夏の間に何度も何度もハヤトのもとにきて、いろいろな話をしてくれる。
都会で体験したことや面白そうなことを自慢げに話すのではなく、「来年の夏はハヤトがおいでよ」という誘いの言葉で終わる。そんな兄を見るにつれ、ハヤトは卑屈になる自分が嫌になる。
しかし一度拒否した兄の手を、自分から取ることはできない。それは幼いハヤトにできる、唯一の反抗だった。
和解のチャンスは、ほんの小さなことがきっかけにやってくる。
ある年の夏休み、ワタルはギターを持って訪ねてきた。
「友達とバンドを始めようって話が出てね。まだメンバーが集まってないのに、さっそく曲を渡されて『二学期が始まったら一緒に練習して、文化祭でライブに出るぞ』なんて言うんだよ。それで、ここにいる間も練習することになったんだ」
そう言うと、ワタルはギターを抱えて弦を一本ずつ爪弾いた。
「バンド? なにそれ」
「音楽を演奏するグループだよ。おれたちはロック中心で演っていくんだ。でね、『うちには使っていないアコギがあるよ』って言ったら、パートがギターに決まったんだ。エレキはそのうち買えばいいから、今はアコギでやろうってさ。おかしなバンドだろ」
あきれ返ったような口調に反して、ワタルの口角はわずかに上がっている。
エレキがエレクトリック・ギター、アコギがアコースティック・ギターを指すのをハヤトが知ったのは、のちのことだ。
家にアップライトと電子ピアノがあるが、ろくに触れることのないハヤトにとってはただのインテリアだ。時たま母親が懐かしそうに弾いているのを見たことはあっても、自分が弾くための物だと思ったことは一度もなかった。
それなのに、目の前に出現したギターが気になって仕方がない。ワタルが練習しているそばで、ハヤトはもらったおもちゃで遊ぶことも忘れてずっと見ていた。
ただ見ているだけで満足だった。
そんなハヤトを煙たがることもなく、ワタルは黙々とギターを弾き続けている。
兄弟なのに、こうやって同じ時間を過ごしたことはなかった。ワタルを羨んでいたハヤトは、一緒に遊ぶどころか、兄が来ている間は避けるように友だちの家に行くことも多かった。最小限しかワタルと接してこなかった。
ところが今は、ワタルのそばを離れられない。わだかまりよりも、ギターへの興味のほうが大きかった。
ギターを弾くワタルの姿が新鮮だった。多くのものに恵まれて、何不自由なく生活していると思っていたワタル。だが兄が指に怪我をしながらも、ずっと練習する姿は、ハヤトの知らなかったワタルの一面を見せていた。
ワタルの部屋の前で、ハヤトは廊下の壁にもたれかかって座っていた。
ライブ後のミーティングを飛び出したはいいが、ワタルと沙樹がどこに行ったか解らない。結局追いかけることもできず自宅に戻ったところ、駐車場にワタルの車を見つけた。
「なんだ、灯台下暗しじゃないか」
ふたりが帰っていると確信したハヤトは、はやる気持ちでワタルの部屋までおしかけた。
勢いで部屋に入ろうとしたとき、ワタルの声がハヤトの行動を止める。
話の内容はすべてドア越しに聞こえてくる。それが予想以上に深刻だったので、部屋に入ろうにも入れなくなった。
「兄さん……」
立ち聞きするつもりはなかったが、去ることができずそのまま留まった。
ぶつけるつもりだった怒りの感情は、話を聞いているうちに徐々に小さくなり、やがて消え去っていた。
ワタルの体験は、音楽の世界で生きることを夢見るハヤトの考えを、いとも簡単に打ち砕いた。恐ろしいまでの現実が目の前に突きつけられる。自分の考えがいかに甘かったかを、いやでも考えてしまう。
「これがプロの世界か。厳しいなんて言葉じゃ表現しきれないよ」
ワタルたちのバンド、オーバー・ザ・レインボウがプロになった日から、音楽の世界は、雲の上にある夢の国から手に届きそうな現実の存在へと変わった。ハヤトが憧れる世界で生きる兄の姿は、離れた土地に住んでいる自分が見ていても、まぶしくて目がくらみそうになる。
プロのミュージシャンという職業が、憧れから目標に変わるまでに時間はかからなかった。虹のステージに立つ日に向けて、練習に明け暮れる日が始まる。
絶対に音楽の世界に入る。兄を追い越してみせる。そう考えるだけで闘志がわいて、厳しいレッスンや、勉強と手伝いの両立も苦にならなくなった。
すべては、ワタルよりも先を走りたいという思いからだ。
「ぼくはいつから兄さんを追いかけていたんだろう」
ハヤトは壁にもたれて、静かに目を閉じた。
☆ ☆ ☆
幼いころのハヤトにとって、ワタルはときどきやってくる異邦人だった。
夏になると突然ふらっとやってきて、母や祖母にかわいがられる。よく解らないが、自分の居場所を脅かす存在だった。
少しだけ世の中が見え始めたころ、両親が離婚していることと、ワタルが父に引き取られた実の兄だということを知った。
ワタルが来るときは、いつもたくさんのプレゼントを持ってくる。欲しくても買ってもらえないおもちゃをくれるので、季節外れのサンタクロースみたいに感じていたころもあった。
それでもハヤトは、ワタルの存在と訪問が気に入らない。
都会で多くのものに囲まれ裕福に暮らしているだけでも羨ましいのに、ここにいる間は、何をするにも兄が優先される。そんなワタルに、ハヤトは子供心に嫉妬を抱いていた。
母と祖母は小さな旅館を切り盛りして、毎日働き詰めだ。三人が食べていくには困らないが、それが原因でハヤトは母や祖母にあまりかまってもらえない。それどころか遊びたいときでも我慢して、家や旅館の手伝いをしていた。
生活のためにはしかたないと解っていても、寂しさと不満でいっぱいになることもあった。
何も知らない小さなハヤトは、自分たちをそんな境遇に追いやったのは、父が自分と母を捨てたからだと考えた。そして父に対するうらみが、いつの間にかワタルに向けられる。そのせいでハヤトはどうしても素直になれない。
だがワタルは、そんなハヤトを決して嫌わなかった。ひと夏の間に何度も何度もハヤトのもとにきて、いろいろな話をしてくれる。
都会で体験したことや面白そうなことを自慢げに話すのではなく、「来年の夏はハヤトがおいでよ」という誘いの言葉で終わる。そんな兄を見るにつれ、ハヤトは卑屈になる自分が嫌になる。
しかし一度拒否した兄の手を、自分から取ることはできない。それは幼いハヤトにできる、唯一の反抗だった。
和解のチャンスは、ほんの小さなことがきっかけにやってくる。
ある年の夏休み、ワタルはギターを持って訪ねてきた。
「友達とバンドを始めようって話が出てね。まだメンバーが集まってないのに、さっそく曲を渡されて『二学期が始まったら一緒に練習して、文化祭でライブに出るぞ』なんて言うんだよ。それで、ここにいる間も練習することになったんだ」
そう言うと、ワタルはギターを抱えて弦を一本ずつ爪弾いた。
「バンド? なにそれ」
「音楽を演奏するグループだよ。おれたちはロック中心で演っていくんだ。でね、『うちには使っていないアコギがあるよ』って言ったら、パートがギターに決まったんだ。エレキはそのうち買えばいいから、今はアコギでやろうってさ。おかしなバンドだろ」
あきれ返ったような口調に反して、ワタルの口角はわずかに上がっている。
エレキがエレクトリック・ギター、アコギがアコースティック・ギターを指すのをハヤトが知ったのは、のちのことだ。
家にアップライトと電子ピアノがあるが、ろくに触れることのないハヤトにとってはただのインテリアだ。時たま母親が懐かしそうに弾いているのを見たことはあっても、自分が弾くための物だと思ったことは一度もなかった。
それなのに、目の前に出現したギターが気になって仕方がない。ワタルが練習しているそばで、ハヤトはもらったおもちゃで遊ぶことも忘れてずっと見ていた。
ただ見ているだけで満足だった。
そんなハヤトを煙たがることもなく、ワタルは黙々とギターを弾き続けている。
兄弟なのに、こうやって同じ時間を過ごしたことはなかった。ワタルを羨んでいたハヤトは、一緒に遊ぶどころか、兄が来ている間は避けるように友だちの家に行くことも多かった。最小限しかワタルと接してこなかった。
ところが今は、ワタルのそばを離れられない。わだかまりよりも、ギターへの興味のほうが大きかった。
ギターを弾くワタルの姿が新鮮だった。多くのものに恵まれて、何不自由なく生活していると思っていたワタル。だが兄が指に怪我をしながらも、ずっと練習する姿は、ハヤトの知らなかったワタルの一面を見せていた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
14
1 / 3
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる