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第二章

五. かすかな予感(四)

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 ――得能くんなら何か知っているかもしれない。

 沙樹は店を飛び出し、人通りの少ない路地で哲哉に電話をかけた。この前のように彼女が一緒かもしれないが、そんなことを気にしている余裕はない。
 呼び出し音ひとつが長く感じる。四回のコールでやっと繋がった。
「あ、得能くん?」
 はやる気持ちを抑えつつ話しかけたが、肝心なときに限って留守番電話サービスに切り替わる。
 当てが外れてがっかり半分、そして解答が得られなくて苛立つ気持ちが半分混ざったまま、沙樹はスマートフォンを切ろうとした。ところが慌てた拍子に手が滑って、ディスプレイにニュース一覧が表示された。
 一番見たくない芸能人の顔と「浅倉梢、交際を告白?」という見出しが書かれている。
 事実を受け入れたくない沙樹は、哲哉に対し強気な発言をしたものの、ネットを避けていた。だが目に入ってしまった今は、興味を抑えられない。
 震える指で記事の本文を表示させる。それは今日発売された週刊誌の記事だった。ふと顔を上げると、一ブロック先にコンビニエンスストアがある。沙樹はそこで一部購入し、記事にざっと目を通した。
 浅倉梢と一緒にホテルのロビーにいるワタルの写真が、見開きで大きく掲載されている。服装からすると、最近の写真であることはまちがいがない。
「なんだ、ふたりで東京にいたんだ……」
 ワタルと浅倉梢はそろってどこかのホテルに身を隠していた。報道の渦中にいるふたりが一緒に過ごすなど、どう考えても軽率としか思えない。
 いや違う。恋人同士だから、事実を報道されたところで何のダメージもないのだろう。
「そういうことだったのね」
 沙樹の行動は独り相撲だった。哲哉がいくら応援してくれても、人の心はつなぎとめられない。ワタルの誠実さ、やさしさ、そして愛は、沙樹の元から浅倉梢のものとなった。
 片や、超人気アイドルでだれからも好かれる才能にあふれた少女。
 片や、FM局に勤めていながら音楽に関してはまったくの素人。
 比べるまでもない。十人いれば十人全員が梢を選ぶ。
 木枯らしが通りを駆け抜け、街路樹の枯葉を舞い上がらせた。昼間は暖かくても、夜になれば気温はぐっと下がる。
 肌を刺す冷たい風に、心の奥にある残り火を消してもらいたい。

 沙樹はライブハウスの前で立ち、ぼんやりとワタルのことを考えていた。
 心変わりなら、はっきりと別れの言葉を告げればいい。その気もないのにつなぎとめておいて、別の人とつきあっている姿を見せるなんてあまりにも酷すぎる。
 ワタルとは長いつきあいだったが、こんな形で人の心をもてあそぶような残酷な男性だとは、夢にも思わなかった。
 だが沙樹は心の片隅で、こんな終わり方をする日が来るような気がして、ずっと恐れていた。
 仕事中心ですれ違いばかりの日々。人気のミュージシャンとラジオ局の社員では、住む世界が近いようで遠い。
 デビューまで苦労を共にした恋人を捨て、綺麗な女優とつきあい始めるという話は珍しくはない。いつまでも続くと思っていた自分が甘かった。
 哲哉に励まされ、ありもしない希望を信じていた。でも、もうすべては終わった。
 ライブハウスに戻ろうとするが、一歩が踏み出せない。ハヤトがワタルの弟かもしれないという可能性が怖かった。
 初めて会ったときに懐かしい感覚に包まれたのも、ずっと昔から知っていたような気がしたのも、ハヤトのうしろにワタルを見ていただけだ。警戒心もなくつきあえたことや、わけもなくときめいてしまったことは、ワタルに対する思いだった。
 それに気づいた今、これまでと同じように接することはできない。
 罪悪感が胸に広がる。
 ハヤトに会えば、ワタルに対する想いをぶつけてしまうかもしれない。沙樹は感情をコントロールする自信がなかった。

 ――これがぼくの気持ちだから。沙樹さんがだれを想っていてもね。

 ハヤトは迷いのない眼差しを向けてくれた。沙樹も同じ気持ちになれるかもしれないと思っていた。だがすべてはワタルという幻想イリュージョンを追いかけていたにすぎない。
 迷う心とは裏腹に、沙樹はライブハウスに向かった。扉を開けたとたん、ハヤトのボーカルが耳に届く。
 透明感のあるテノールだ。言葉ひとつひとつを、ガラス細工を扱うように丁寧に歌っている。澄んだ歌声と繊細な表現方法が聴く人を優しく包み、安らぎを覚えさせるのに。
 一体となった観客とバンド、その中に沙樹のいる場所はない。
 確認こそできなかったが、あのふたりが兄弟なのはステージを見れば解る。ハヤトの音楽的才能は、ワタルと同じDNAのなせる技だろう。
 ハヤトがワタルを忘れさせてくれると思っていた。すでにワタルのことを忘れかけていると思っていた。
 それどころかワタルに一番近い人間を通して、無意識のうちに影を追っていたとは。
 
 人の気持ちとは、こんなにも残酷なことができるのだろうか。

 沙樹は自分の行動が招いた結果に、唇をみ締めるしかできなかった。

    ☆   ☆   ☆

 沙樹は控え室に入り、テーブルの上に買ったばかりの週刊誌を広げた。グラビアページに掲載された浅倉梢の写真は、主演映画公開の舞台あいさつで撮影されたものだ。梢の歌う主題歌はワタルが提供している。
『初めはレコーディングの合間に勉強を教えてくれてたんです。そのうち仕事以外でも会うようになりました。お食事? ええ、何度かご一緒しました。優しくて思いやりのあるお兄さんです。友達以上、恋人未満って言いますよね。今はまだそんな感じかな』
 ブログの交際宣言は昨日のことだから、週刊誌の記事はタイトルと違い、思わせぶりな書き方で断定は避けていた。
 感情抜きで記事は読めないが、浅倉梢の言うことはよくわかる。沙樹とも同じような過程で距離が縮まっていった。

 浅倉梢は、ワタルに恋している。こんな大スターが相手ではライバルにもなれない。

 沙樹は椅子にかけていたコートを取り、袖を通した。
 今から宿に帰りチェックアウトすれば夜行バスにぎりぎり間に合う。東に向かうバスならなんでもいい。これ以上ここに長居したくない。
 手帳を開き「急用ができたので今から帰ります」とハヤトあてのメッセージを書いてページを破いた。確実に読んでもらうために、ハヤトのロッカーにマグネットでとめる。
 哲哉への連絡は夜行バスに乗ってからでいいだろう。ワタルとハヤトが兄弟かを確認するのは、そのときでも遅くない。
「帰ったら引越し先を探すかな」
 ワタルとの思い出がたくさん詰まった部屋に、いつまでも住んでいたくない。
 短かったがいろいろな意味で実りのあった旅行を思い返す。
 哲哉の優しさと思いやりは、男女を越えた友情が存在することを教えてくれた。仕事でワタルと顔を合わせるのはつらいが、哲哉がいればうまく乗り越えられる。恋愛は消えても友情は続く。
 ワタルのことも愛しさえしなければ、いつまでも友達でいられたかもしれない。

 店内の演奏が響いてくる。聴こえてくるのは哲哉の作ったバラードで、ファンクラブの投票で一位になったものだ。
 感情を抑えた歌声が淡々と、そして切なく響く。短い日々の中で共に過ごした時間がまぶたの裏に浮かぶ。
 偶然の出会い。ボーカルを耳にしたときに受けた驚き。途方にくれた沙樹を助け、旅館に案内してくれた。偶然ふれたときのときめき。いろいろなところを歩き、ライブハウス巡りもした。そして昨夜と、ライブ直前の出来事……。

 ワタルのイリュージョンを見ていたのか、ハヤト自身に惹かれ始めたのか。今の沙樹には解らない。あいまいな気持ちのままで会っては、まちがいなくハヤトを傷つけてしまう。
 曲が終わった。次はラストナンバーだ。一刻も早くこの場を去らなければ、ハヤトと顔をあわせてしまう。沙樹は控え室を出ようとして、バッグを手にした。
 ちょうどそのときだ。誰かが扉をノックした。まさかライブの最中に人が来るとは思わなかった沙樹は、急いで荷物を手にした。
「は、はい」
 沙樹は反射的に入り口に背を向けた。ドアが開いて、だれかが入ってくる気配がする。バンドメンバーの友だち、いや店のスタッフだろうか?
 訪問者がだれであれ、部外者の自分がここにいる理由を説明するだけの気力は残っていない。
「すみません。ちょうど、失礼するところだったんです」
 相手の顔を見ることなくそばを通り過ぎ、沙樹はドアノブに手をかけた。
「あれ、もしかして……沙樹、なのか?」
「えっ?」
 唐突に名前を呼ばれ、沙樹の動きが止まった。
 ハヤト以外にこの街で自分を知っている人はいない。
 それなのに訪問者は、沙樹を知っている。
 いつも耳にする懐かしい声で、その人は「沙樹」と呼んだ。

 体温が急上昇して動揺で頬が熱くなり、胸の鼓動が激しいビートを打つ。
 不安と恐れが心に広がった。だがそれ以上の期待を胸に抱きながら、沙樹はゆっくりとふりかえる。
 白と黒のスニーカー、カーキ色のチノパン、チェックのシャツの上に羽織っているのは黒いジャケット。シンプルで着飾らないが、見慣れたセンスのいいコーディネート――。
 期待と不安でいっぱいになりつつ、訪問者の顔を見上げる。
 すぐそばに立っていたのは、沙樹がずっと捜していた人物だ。
「ワ、ワタルさん……なの?」
 一瞬、ハヤトを見まちがえたのかと思った。だが演奏は終わっていない。ステージからハヤトの歌声が響いてくる。

 そこにいるのはほかのだれでもない、本物の北島ワタルだった。
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