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第二章

五. かすかな予感(二)

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 「この辺でぼくたちのバンド、ザ・プラクティスのメンバーを紹介するよ。このでっかいのがドラムのマサルこと乾優いぬいまさる。うちのリーダーで、見ての通り体力自慢。というわけで力仕事も担当してるんだ」
 といって、最初に声をかけてきた人物を指した。がっしりとした体格で、長髪を後ろで一つに束ねている。八十年代のハードロックバンドから出て来たような雰囲気だ。
「こっちがベースの久保翔太くぼしょうた。通称ショウ。あいつはキーボードのヒデで、本名は戸田英嗣とだひでつぐ。ヒデは小学生時代からの腐れ縁なんだ」
 前髪に赤いメッシュを入れた中肉中背のショウは、元気いっぱいに手をふる。白いTシャツに重ね着した臙脂えんじ色のベストと髪の色が映えている。おしゃれな人物だ。
 黒縁のメガネをかけたヒデは、カジュアルなジャケット姿で、礼儀正しく立ち上がり会釈をした。
「そして、ぼくがギターとボーカルのハヤトくん。この街の逸材、未来のスーパースターまちがいなしだよ」
 出会いのときにプロを目指しているかを訊いたら、上手い具合にはぐらかされた。でも今は自分がそのときの返事を忘れたように、かなりハイテンションで話を続けている。
 旅館を出たときはいつもと変わらなかったのに、店の駐車場に車を停めた途端、様子が一変した。
 沙樹が戸惑っていると、
「ライブ直前のハヤトはいつもああなんです。本人に言わせると、本番前にテンションを上げないとステージで失敗するんじゃないかって不安になるらしいんですよ。それを忘れるために意識してやってるけど、初めて見ると驚きますよね」
 マサルが沙樹に近づき、こっそりと耳打ちしてくれた。
「だれでも本番前は緊張します。ハイにならないとやってられないのは、みんな同じだから」
 マサルは頭をかきながら照れ笑いした。
 哲哉やワタルたちオーバー・ザ・レインボウのメンバーにはあまり見られない姿だ。ライブ直前の彼らは、波ひとつない水面のように穏やかに開演を待っている。踏んできた場数の違いかもしれない。
「マサルさんは落ち着いて見えますよ」
「ステージまでまだ時間がありますからね。ハヤトはああ見えて繊細だから早い時間からあんなふうになるけど、オレは鈍いから直前まで実感がわかないんです。それより、沙樹さんはハヤトとどういう知り合いなんですか。昼の練習で急に『あとで東京のFM局の人を連れてくる』って言いだしたから驚きましたよ」
 そう言いながらマサルは、どうぞ、と沙樹に椅子を勧めてくれた。ややこしい出会いなので返事に困っていると、ショウが会話に加わる。
「沙樹さん、道に迷ったかなんかで困ったんじゃないですか? そこに偶然ハヤトが通りかかったって感じ? ハヤトってお節介だから、それを見て声をかけてきたんでしょう? でもここだけの話、ハヤトがお節介を焼くのは女性限定なんですよ。俺たちには冷たいのなんのって」
「こらショウ。沙樹さんに何を吹き込んでるんだよっ。お節介なのは認める。でも女子限定じゃないぞ。老若男女、困ってる人を放っておける人の方がおかしいんだよ。人は助け合って生きるもんだろ」
「なんだよ。急に話を大きくしちまって。でもそのわりにいつまでも彼女ができない、悲しいキャラなんだよな」
「悪かったな。どうせぼくはいつもフラれてばかりだよ。そして毎夜枕を濡らしてるんだ」
 しくしくと泣きまねをするハヤトに、ショウがさらなる攻撃をしかける。
「身長が災いしてるんだよ」
「いいんだっ! 身長なんて気にしないって言ってくれる女子を探すっ。最近じゃカワイイは正義なんだよ」
「でも結局はカッコいい男子に彼女ができるんだぜ」
 そう言うとショウは前髪をサラッと掻き上げた。
 確かにルックスはバンド内で一番だ。多少のヤンチャさもあるようなので、バンドの中で一番の人気者になれそうだ。
「今日のハヤトはいつもよりテンションが高いな。大丈夫か?」
 ふたりが掛け合い漫才のような会話をしているのを見て、マサルが腕を組み、眉間にしわを寄せてつぶやいた。
「沙樹さんがいるからな。音楽業界の人にいいとこ見せたくてガチガチなのさ」
 ヒデは軽く聞き流し、手元の楽譜をめくっている。それを見たマサルが、急に手をパチンと叩いた。
「解った。今日はオーバー・ザ・レインボウのコピーをするからだよ。ハヤトには特別な思い入れがあるからな」
「ああ、確かに。よし、今夜のライブはいつも以上に気合を入れようぜ。ハヤトのために」
 ヒデは楽譜を閉じて親指を立てた。
 
 ――特別な思い入れ?
 
 ハヤトとの間でオーバー・ザ・レインボウが話題に出たことはあったが、そんなものは少しも感じられなかった。好きだとは話していたが、それ以上に何があるのだろう。
「ねえ、思い入れってどういう意味ですか?」
 マサルは、あっと言って掌で口元をふさぎ、ごまかすように視線を逸らした。
「マサル。おしゃべりしてないで、そろそろ準備に取りかかってくれよ」
「すまない。今行く」
 ハヤトの突然の指示で、マサルは沙樹との会話を中断し、そそくさと店内に移動した。おかげで沙樹は答えを聞き出せなかった。偶然とはいえ邪魔されたのが恨めしかった。
 そのとき沙樹は唐突に、ワタルのサインがこのライブハウスにあるような予感がした。
 浅倉梢が交際宣言をしたあとだ。見つけたところで今更ワタルに会いに行くつもりはない。それでも確認したい衝動を抑えられなかった。
「ハヤトくん。あたしも手伝うことない?」
「サンキュー。じゃあ、あれを持ってって」
 ハヤトはテーブルの上に置かれている人数分の楽譜を指さす。沙樹はそれを持ち、店内に入った。
 
 カウンター近くの壁には、多くのサイン色紙が飾られている。
 沙樹は楽譜をみんなのスタンドに配った後で、さりげなくカウンターに近寄った。
 緊張のあまり両手を握りしめ、ひとつひとつ丁寧に確認する。沙樹の知っているミュージシャンのサインもいくつか貼られている。地元のインディーズバンドばかりではなく、プロも演奏するときがあるのだろう。
 心臓の鼓動が耳につく。これは違う。隣のサインもワタルが書いたものではない。その下に貼られている色紙を見た瞬間「あっ」と沙樹は心の中で叫んだ。文字の並びが「WATARU」と読める。
 
 見つけた!
 
 沙樹はドキドキしながら、そのサインをじっくり見た。
 だがそこに書かれた日付は先月のもので、同じワタルでも別人のようだ。ソロのサインではなく、バンド全員のもので、あとは知らない名前が並んでいる。
 第一ソロで書いたサインに、他のメンバーの名前が並ぶわけがない。
 沙樹は力が抜けるのを感じたが、まだチェックしていないものが五~六列残っている。同じ失敗を繰り返さないように、余計な期待を込めることなくすべてのサイン色紙を見終えた。
 
 ここにも北島ワタルのサインは貼られてなかった。
 緊張が失望に変わる。
 この街がワタルにゆかりのある場所だという予感は、見事に外れた。期待した手がかりは見つからない。そしてワタルは遠い人になった。
 ふたりをつなぐ赤い糸は、完全に切れている。
 やるせない気持ちに気づかれるのがいやで、サイン色紙の前で力なく立っていると、沙樹は背後から突然声をかけられた。
「たくさん色紙が飾られているでしょう」
 振り向くと、ヒデが腰に手を当てて立っていた。
「最も大半はアマチュアのものですけどね。レギュラーで演奏してた先輩たちや、地元限定で有名なバンド、そして夢破れて帰って来て、またここで演奏している人もいます。だからどれもこれも聞いたことのない名前ばかりでしょ」
「でも、中にはプロのサインもありますね」
「ええ、いますよ」
「……たとえば?」
 もしかしたらワタルのサインはデザインが変わっていて、沙樹が見落としたかもしれない。最後の望みをかけて沙樹はそれとなく問いかけた。
 ヒデは色紙を見渡しながら口を開く。
「セイレーンでベースを弾いてる陣内さんって、ご存知ですか?」
 半年ほど前にキャンペーンでFM局にきたバンドだ。標準語で喋っているのにときどき訛りが混じっていたのでよく覚えている。
「クロスロードやオーバー・ザ・レインボウは……流石にないですよね。ファンだから直筆があれば見たかったんですけど」
「あんな大物がうちに来るわけないですよ。縁もゆかりもないのに」
 ヒデはアメリカ人がよくやるように、肩をすくめて手のひらを上に向けた。
 沙樹はもう少しでワタルの名前を出し、再度確認しようとした。
 だが哲哉に「目立った行動は慎めよ」と忠告されたことを思い出し、踏みとどまる。第一ワタルの実母がいるかもしれないという情報は、ごく一部の人しか知らない内容だ。
「そうだ、うちのサインもあるんですよ」
 とヒデは、まだ新しい色紙を指さした。
 色紙の中央には大きな文字で「目指せプロ!」と力強く書かれている。
 なれない文字でたどたどしく書かれたそれは、寄せ書きという言葉が似合いそうなサイン色紙だった。

   ☆   ☆   ☆

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