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第二章

二. 揺れる想い(二)

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 周りの空気が一変した。大通りから少し外れただけなのに、草木の匂いが立ち込める。今まで街中にいたはずが、突然自然の森に迷い込んだ。
「わあ」
 意外な場所の出現に、感嘆の声が出た。
 市街地の中心に小高い丘をもつこの街は、それを囲むようにして発展してきた。ふもとに、森を背にしてモダンな洋館が建っている。緑の中にある大正浪漫。時代を飛び越えてしまったような驚きだ。
「すてきな場所ね。ここだけ時間が止まっているみたい」
「よかった。沙樹さんに喜んでもらえて」
 晩秋の柔らかな陽射しをうけ、ハヤトが笑みを浮かべた。ライブハウスのスポットライトより、自然に囲まれているほうがハヤトらしさが引き立つ。
「あー、気持ちいい」
 沙樹はハヤトの手を放し、両腕を上げて背伸びした。コートを脱ぎ、全身で太陽を浴びる。
「寒くない?」
「ぽかぽかして気持ちいいよ」
 沙樹はコートを手に、洋館の外まわりを一周した。デートコースにもなっているのか、観光客に混じってカップルの姿を見かけた。
 ワタルも来たことがあるだろうか。正面玄関に立ちバルコニーを見上げながら、姿を消した恋人に想いを寄せる。
 洋館の中も一般公開されていたので、沙樹は興味津々で足を踏み入れた。
 大広間には、丁寧な細工の施されたビードロのグラスや陶器のカップなどといった展示物が、ガラスケースの中に行儀よく並べられている。壁にはめられたステンドグラスを通り抜けた陽射しは、色とりどりに装飾されて、室内をあざやかに演出し、沙樹にも降り注いだ。
 広間を満たす七色の光は虹の輝きにも似て、ステージを飾るたくさんのライトを連想させる。沙樹はステンドグラスを見上げるように立ち、目を閉じた。明るい光がまぶたを通して網膜を刺激する。
 ミラーボールに反射されたライトがあふれるステージに、オーバー・ザ・レインボウの姿が浮かんだ。
 優しい風に葉をそよがせる木々の音と、遠くの大通りを行き交う車の音が、静かな館内までかすかに届く。それらの音がイメージの中の歓声と重なって、沙樹はコンサートホールにいるような錯覚を起こした。
 見慣れているはずなのに、何度見ても新しい発見のあるライブだ。力強いボーカルに圧倒され、激しいビートに体が震える。ステージの上にはギターを弾くワタルの姿もあった。哲哉と絡み合いながら、誰よりも活き活きと演奏している。見ているこちらまで、ステージで歌っているような錯覚すら覚えるほどの連帯感がある。
 あのライブを、今までと同じ気持ちで楽しめるだろうか。そんな考えが頭をよぎり、一気に気持ちが沈む。心の中に生まれた重い鉛を感じていると、不意に人の気配を感じて、沙樹は目を開けた。
「……えっ?」
 逆光の中にたたずむ人影が見える。
「まさか、そんな……」
 コートとバッグが床に落ちた。まぶたに浮かんだ映像を、現実の世界で見てしまったのだろうか。

 手を伸ばせば消えてしまいそうな陽炎かげろうの中に、ワタルが立っていた。

 ほんのわずかではあったものの、心の底で偶然に会うことを期待していた。だが実現するとは夢にも思っていなかった。
 今すぐ駆け出して胸に飛び込みたい。それなのに体が硬って足が動かない。想いが溢れてくるのに言葉は何も出てこない。ワタルを見つめるだけしかできなく、息をするのもおぼつかない。見つめるだけで精一杯だ。
「……ワ」
 やっとの思いで声を出しかけたときだ。
「沙樹さん、どうしたの?」
 ワタルが沙樹のそばに近づき、イリュージョンがゆれて消えた。
「え、ハヤトくん?」
 ステンドグラスの下にいたのは、ワタルではなくハヤトだった。会いたい気持ちが七色の光に惑わされ、沙樹に残酷な幻を見せた。
「夢でも見てた?」
 ハヤトは床に落ちたコートとバッグを拾い、沙樹に手渡した。
「名前を呼ばれて現実に引き戻された。そんなふうに見えたよ」
 ハヤトの、どこか思い詰めたような瞳が沙樹の足元を見た。
「いつ入ってきたの?」
「沙樹さんのすぐあとだよ。ずっとうしろにいたのに、全然気づいてなかったんだね」
 ハヤトは持っていたネックウォーマーを被り、沙樹に背を向けた。
「どうしたの? どこに行くの?」
「大学。さっきロック研の仲間からメッセージが入ってさ。週末、急にライブを依頼されたっていうんで打ち合わせしたいから、カフェテリアに来いって」
 ふりむきもしないで、ハヤトは話を続ける。
「ぼくから誘ったのに、急にキャンセルしてごめん」
 沙樹の歩みが止まった。
 ――気にしなくていいから行ってよ。
 そう言いたかったのに、声が出なかった。沙樹を拒否するような背中に、言葉が止まった。
 ハヤトを見送ったあと、沙樹はうつむき加減で洋館を出た。木々のざわめきが耳につき、通り過ぎる風が冷たい冬を運ぶ。
 秋晴れを思わせるような澄み切った青空はすでになく、いつの間にか厚く鉛色をした雲が広がり、冬の訪れを主張していた。

   ☆   ☆   ☆

 ハヤトと別れてから、沙樹はひとりで繁華街にでかけた。
 ワタルと出かけるときは、CDショップや書店に行くことが多い。CDショップは仕事の延長でもあったが、書店は完全にワタルの趣味だ。中でもSFやミステリーが好きで、それが高じてSF映画もよく観に行った。
「そうか、映画館にいるかもしれないんだ」
 沙樹はスマートフォンで上映作品を調べたが、ワタルが好みそうなものはなかった。
 ちょうど目の前にあった大きめの書店に足を運ぶ。会える可能性はないと解っていても、素通りできない。そして予想通りワタルの姿を見つけられないで終わった。
 闇雲に捜しても意味がない。そのことを実感したとたん、疲れがどっと出てきた。
 沙樹はカフェに入り一息ついた。ガラス越しに街路樹を見ると、去って行ったハヤトの後ろ姿が浮かんだ。
 バンド仲間からの呼び出しは、おそらく口実だ。しかしそんな言い訳を作って沙樹を置き去りにした理由が解らない。
 今朝はハヤトを避けたかったのに、いざ去られると落ち着かない。
 ほんの少し話しただけなのに、昔から知っているような感覚に包まれた。ハヤトがそばに近づいただけで、沙樹は平常心をなくしてしまう。指が軽く触れただけで胸が高まる。恋を知ったばかりの少女ではない。自分が今どういう心境になっているのかは簡単に判断できた。
「でも認めたくないよ。こればかりは」
 ここに来た目的は忘れていない。それ以外のことに気を取られている時間はないのだから。
「解っている。やらなきゃいけないことは」
 沙樹はコーヒーを飲み干し、カフェを後にした。

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