14 / 46
第二章
二. 揺れる想い(二)
しおりを挟む
周りの空気が一変した。大通りから少し外れただけなのに、草木の匂いが立ち込める。今まで街中にいたはずが、突然自然の森に迷い込んだ。
「わあ」
意外な場所の出現に、感嘆の声が出た。
市街地の中心に小高い丘をもつこの街は、それを囲むようにして発展してきた。麓に、森を背にしてモダンな洋館が建っている。緑の中にある大正浪漫。時代を飛び越えてしまったような驚きだ。
「すてきな場所ね。ここだけ時間が止まっているみたい」
「よかった。沙樹さんに喜んでもらえて」
晩秋の柔らかな陽射しをうけ、ハヤトが笑みを浮かべた。ライブハウスのスポットライトより、自然に囲まれているほうがハヤトらしさが引き立つ。
「あー、気持ちいい」
沙樹はハヤトの手を放し、両腕を上げて背伸びした。コートを脱ぎ、全身で太陽を浴びる。
「寒くない?」
「ぽかぽかして気持ちいいよ」
沙樹はコートを手に、洋館の外まわりを一周した。デートコースにもなっているのか、観光客に混じってカップルの姿を見かけた。
ワタルも来たことがあるだろうか。正面玄関に立ちバルコニーを見上げながら、姿を消した恋人に想いを寄せる。
洋館の中も一般公開されていたので、沙樹は興味津々で足を踏み入れた。
大広間には、丁寧な細工の施されたビードロのグラスや陶器のカップなどといった展示物が、ガラスケースの中に行儀よく並べられている。壁にはめられたステンドグラスを通り抜けた陽射しは、色とりどりに装飾されて、室内をあざやかに演出し、沙樹にも降り注いだ。
広間を満たす七色の光は虹の輝きにも似て、ステージを飾るたくさんのライトを連想させる。沙樹はステンドグラスを見上げるように立ち、目を閉じた。明るい光がまぶたを通して網膜を刺激する。
ミラーボールに反射されたライトがあふれるステージに、オーバー・ザ・レインボウの姿が浮かんだ。
優しい風に葉をそよがせる木々の音と、遠くの大通りを行き交う車の音が、静かな館内までかすかに届く。それらの音がイメージの中の歓声と重なって、沙樹はコンサートホールにいるような錯覚を起こした。
見慣れているはずなのに、何度見ても新しい発見のあるライブだ。力強いボーカルに圧倒され、激しいビートに体が震える。ステージの上にはギターを弾くワタルの姿もあった。哲哉と絡み合いながら、誰よりも活き活きと演奏している。見ているこちらまで、ステージで歌っているような錯覚すら覚えるほどの連帯感がある。
あのライブを、今までと同じ気持ちで楽しめるだろうか。そんな考えが頭をよぎり、一気に気持ちが沈む。心の中に生まれた重い鉛を感じていると、不意に人の気配を感じて、沙樹は目を開けた。
「……えっ?」
逆光の中にたたずむ人影が見える。
「まさか、そんな……」
コートとバッグが床に落ちた。まぶたに浮かんだ映像を、現実の世界で見てしまったのだろうか。
手を伸ばせば消えてしまいそうな陽炎の中に、ワタルが立っていた。
ほんのわずかではあったものの、心の底で偶然に会うことを期待していた。だが実現するとは夢にも思っていなかった。
今すぐ駆け出して胸に飛び込みたい。それなのに体が硬って足が動かない。想いが溢れてくるのに言葉は何も出てこない。ワタルを見つめるだけしかできなく、息をするのもおぼつかない。見つめるだけで精一杯だ。
「……ワ」
やっとの思いで声を出しかけたときだ。
「沙樹さん、どうしたの?」
ワタルが沙樹のそばに近づき、イリュージョンがゆれて消えた。
「え、ハヤトくん?」
ステンドグラスの下にいたのは、ワタルではなくハヤトだった。会いたい気持ちが七色の光に惑わされ、沙樹に残酷な幻を見せた。
「夢でも見てた?」
ハヤトは床に落ちたコートとバッグを拾い、沙樹に手渡した。
「名前を呼ばれて現実に引き戻された。そんなふうに見えたよ」
ハヤトの、どこか思い詰めたような瞳が沙樹の足元を見た。
「いつ入ってきたの?」
「沙樹さんのすぐあとだよ。ずっとうしろにいたのに、全然気づいてなかったんだね」
ハヤトは持っていたネックウォーマーを被り、沙樹に背を向けた。
「どうしたの? どこに行くの?」
「大学。さっきロック研の仲間からメッセージが入ってさ。週末、急にライブを依頼されたっていうんで打ち合わせしたいから、カフェテリアに来いって」
ふりむきもしないで、ハヤトは話を続ける。
「ぼくから誘ったのに、急にキャンセルしてごめん」
沙樹の歩みが止まった。
――気にしなくていいから行ってよ。
そう言いたかったのに、声が出なかった。沙樹を拒否するような背中に、言葉が止まった。
ハヤトを見送ったあと、沙樹はうつむき加減で洋館を出た。木々のざわめきが耳につき、通り過ぎる風が冷たい冬を運ぶ。
秋晴れを思わせるような澄み切った青空はすでになく、いつの間にか厚く鉛色をした雲が広がり、冬の訪れを主張していた。
☆ ☆ ☆
ハヤトと別れてから、沙樹はひとりで繁華街にでかけた。
ワタルと出かけるときは、CDショップや書店に行くことが多い。CDショップは仕事の延長でもあったが、書店は完全にワタルの趣味だ。中でもSFやミステリーが好きで、それが高じてSF映画もよく観に行った。
「そうか、映画館にいるかもしれないんだ」
沙樹はスマートフォンで上映作品を調べたが、ワタルが好みそうなものはなかった。
ちょうど目の前にあった大きめの書店に足を運ぶ。会える可能性はないと解っていても、素通りできない。そして予想通りワタルの姿を見つけられないで終わった。
闇雲に捜しても意味がない。そのことを実感したとたん、疲れがどっと出てきた。
沙樹はカフェに入り一息ついた。ガラス越しに街路樹を見ると、去って行ったハヤトの後ろ姿が浮かんだ。
バンド仲間からの呼び出しは、おそらく口実だ。しかしそんな言い訳を作って沙樹を置き去りにした理由が解らない。
今朝はハヤトを避けたかったのに、いざ去られると落ち着かない。
ほんの少し話しただけなのに、昔から知っているような感覚に包まれた。ハヤトがそばに近づいただけで、沙樹は平常心をなくしてしまう。指が軽く触れただけで胸が高まる。恋を知ったばかりの少女ではない。自分が今どういう心境になっているのかは簡単に判断できた。
「でも認めたくないよ。こればかりは」
ここに来た目的は忘れていない。それ以外のことに気を取られている時間はないのだから。
「解っている。やらなきゃいけないことは」
沙樹はコーヒーを飲み干し、カフェを後にした。
「わあ」
意外な場所の出現に、感嘆の声が出た。
市街地の中心に小高い丘をもつこの街は、それを囲むようにして発展してきた。麓に、森を背にしてモダンな洋館が建っている。緑の中にある大正浪漫。時代を飛び越えてしまったような驚きだ。
「すてきな場所ね。ここだけ時間が止まっているみたい」
「よかった。沙樹さんに喜んでもらえて」
晩秋の柔らかな陽射しをうけ、ハヤトが笑みを浮かべた。ライブハウスのスポットライトより、自然に囲まれているほうがハヤトらしさが引き立つ。
「あー、気持ちいい」
沙樹はハヤトの手を放し、両腕を上げて背伸びした。コートを脱ぎ、全身で太陽を浴びる。
「寒くない?」
「ぽかぽかして気持ちいいよ」
沙樹はコートを手に、洋館の外まわりを一周した。デートコースにもなっているのか、観光客に混じってカップルの姿を見かけた。
ワタルも来たことがあるだろうか。正面玄関に立ちバルコニーを見上げながら、姿を消した恋人に想いを寄せる。
洋館の中も一般公開されていたので、沙樹は興味津々で足を踏み入れた。
大広間には、丁寧な細工の施されたビードロのグラスや陶器のカップなどといった展示物が、ガラスケースの中に行儀よく並べられている。壁にはめられたステンドグラスを通り抜けた陽射しは、色とりどりに装飾されて、室内をあざやかに演出し、沙樹にも降り注いだ。
広間を満たす七色の光は虹の輝きにも似て、ステージを飾るたくさんのライトを連想させる。沙樹はステンドグラスを見上げるように立ち、目を閉じた。明るい光がまぶたを通して網膜を刺激する。
ミラーボールに反射されたライトがあふれるステージに、オーバー・ザ・レインボウの姿が浮かんだ。
優しい風に葉をそよがせる木々の音と、遠くの大通りを行き交う車の音が、静かな館内までかすかに届く。それらの音がイメージの中の歓声と重なって、沙樹はコンサートホールにいるような錯覚を起こした。
見慣れているはずなのに、何度見ても新しい発見のあるライブだ。力強いボーカルに圧倒され、激しいビートに体が震える。ステージの上にはギターを弾くワタルの姿もあった。哲哉と絡み合いながら、誰よりも活き活きと演奏している。見ているこちらまで、ステージで歌っているような錯覚すら覚えるほどの連帯感がある。
あのライブを、今までと同じ気持ちで楽しめるだろうか。そんな考えが頭をよぎり、一気に気持ちが沈む。心の中に生まれた重い鉛を感じていると、不意に人の気配を感じて、沙樹は目を開けた。
「……えっ?」
逆光の中にたたずむ人影が見える。
「まさか、そんな……」
コートとバッグが床に落ちた。まぶたに浮かんだ映像を、現実の世界で見てしまったのだろうか。
手を伸ばせば消えてしまいそうな陽炎の中に、ワタルが立っていた。
ほんのわずかではあったものの、心の底で偶然に会うことを期待していた。だが実現するとは夢にも思っていなかった。
今すぐ駆け出して胸に飛び込みたい。それなのに体が硬って足が動かない。想いが溢れてくるのに言葉は何も出てこない。ワタルを見つめるだけしかできなく、息をするのもおぼつかない。見つめるだけで精一杯だ。
「……ワ」
やっとの思いで声を出しかけたときだ。
「沙樹さん、どうしたの?」
ワタルが沙樹のそばに近づき、イリュージョンがゆれて消えた。
「え、ハヤトくん?」
ステンドグラスの下にいたのは、ワタルではなくハヤトだった。会いたい気持ちが七色の光に惑わされ、沙樹に残酷な幻を見せた。
「夢でも見てた?」
ハヤトは床に落ちたコートとバッグを拾い、沙樹に手渡した。
「名前を呼ばれて現実に引き戻された。そんなふうに見えたよ」
ハヤトの、どこか思い詰めたような瞳が沙樹の足元を見た。
「いつ入ってきたの?」
「沙樹さんのすぐあとだよ。ずっとうしろにいたのに、全然気づいてなかったんだね」
ハヤトは持っていたネックウォーマーを被り、沙樹に背を向けた。
「どうしたの? どこに行くの?」
「大学。さっきロック研の仲間からメッセージが入ってさ。週末、急にライブを依頼されたっていうんで打ち合わせしたいから、カフェテリアに来いって」
ふりむきもしないで、ハヤトは話を続ける。
「ぼくから誘ったのに、急にキャンセルしてごめん」
沙樹の歩みが止まった。
――気にしなくていいから行ってよ。
そう言いたかったのに、声が出なかった。沙樹を拒否するような背中に、言葉が止まった。
ハヤトを見送ったあと、沙樹はうつむき加減で洋館を出た。木々のざわめきが耳につき、通り過ぎる風が冷たい冬を運ぶ。
秋晴れを思わせるような澄み切った青空はすでになく、いつの間にか厚く鉛色をした雲が広がり、冬の訪れを主張していた。
☆ ☆ ☆
ハヤトと別れてから、沙樹はひとりで繁華街にでかけた。
ワタルと出かけるときは、CDショップや書店に行くことが多い。CDショップは仕事の延長でもあったが、書店は完全にワタルの趣味だ。中でもSFやミステリーが好きで、それが高じてSF映画もよく観に行った。
「そうか、映画館にいるかもしれないんだ」
沙樹はスマートフォンで上映作品を調べたが、ワタルが好みそうなものはなかった。
ちょうど目の前にあった大きめの書店に足を運ぶ。会える可能性はないと解っていても、素通りできない。そして予想通りワタルの姿を見つけられないで終わった。
闇雲に捜しても意味がない。そのことを実感したとたん、疲れがどっと出てきた。
沙樹はカフェに入り一息ついた。ガラス越しに街路樹を見ると、去って行ったハヤトの後ろ姿が浮かんだ。
バンド仲間からの呼び出しは、おそらく口実だ。しかしそんな言い訳を作って沙樹を置き去りにした理由が解らない。
今朝はハヤトを避けたかったのに、いざ去られると落ち着かない。
ほんの少し話しただけなのに、昔から知っているような感覚に包まれた。ハヤトがそばに近づいただけで、沙樹は平常心をなくしてしまう。指が軽く触れただけで胸が高まる。恋を知ったばかりの少女ではない。自分が今どういう心境になっているのかは簡単に判断できた。
「でも認めたくないよ。こればかりは」
ここに来た目的は忘れていない。それ以外のことに気を取られている時間はないのだから。
「解っている。やらなきゃいけないことは」
沙樹はコーヒーを飲み干し、カフェを後にした。
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
身分差婚~あなたの妻になれないはずだった~
椿蛍
恋愛
「息子と別れていただけないかしら?」
私を脅して、別れを決断させた彼の両親。
彼は高級住宅地『都久山』で王子様と呼ばれる存在。
私とは住む世界が違った……
別れを命じられ、私の恋が終わった。
叶わない身分差の恋だったはずが――
※R-15くらいなので※マークはありません。
※視点切り替えあり。
※2日間は1日3回更新、3日目から1日2回更新となります。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
吉原遊郭一の花魁は恋をした
佐武ろく
ライト文芸
飽くなき欲望により煌々と輝く吉原遊郭。その吉原において最高位とされる遊女である夕顔はある日、八助という男と出会った。吉原遊郭内にある料理屋『三好』で働く八助と吉原遊郭の最高位遊女の夕顔。決して交わる事の無い二人の運命はその出会いを機に徐々に変化していった。そしていつしか夕顔の胸の中で芽生えた恋心。だが大きく惹かれながらも遊女という立場に邪魔をされ思い通りにはいかない。二人の恋の行方はどうなってしまうのか。
※この物語はフィクションです。実在の団体や人物と一切関係はありません。また吉原遊郭の構造や制度等に独自のアイディアを織り交ぜていますので歴史に実在したものとは異なる部分があります。
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる