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第二章
二. 揺れる想い(一)
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翌朝、朝食を終えた沙樹は食堂に残り、タブレットでライブハウスを検索していた。背後に人の気配を感じたと同時に「沙樹さん、おはようございまーす」と、とびきり元気のいい声がかけられた。顔を見なくともハヤトだと解った。
「おはよう」
沙樹は画面から目を離さず、形だけあいさつを返した。
「ゆうべはよく眠れた?」
「ええ。おかげさまで」
ごく普通の会話を続けるが、沙樹はハヤトの顔を見ることなくタブレットの操作を続ける。我ながら意地悪な態度をとっているのだと思うが、どうしてもタブレットの画面から目が離せない。
「ふーん」
ハヤトの声のトーンが落ちた。機嫌を損ねたのかもしれない。沙樹の胸がかすかに痛んだ。
ハヤトの気配を感じたときから、沙樹の緊張が始まった。
初対面のときに感じた不思議な懐かしさと、部屋に案内されたときのハプニングが原因で、自分の中にどんな感情が生まれるのか解らない。ハヤトがいる安心感と、気持ちを乱されるのではという不安。どちらが強くなるのか予想すらできない。
「ねえ、何調べてるの? あれ、ライブハウス?」
ハヤトは横に座りタブレットを覗き込んだ。息づかいが聞こえそうな距離が苦しい。
「そうよ」
「わざわざこんな田舎で? 観光地めぐりもしないの?」
「どこへ行こうとあたしの勝手でしょ。それともあたしの行動が気になる?」
惑わされる自分が嫌で、わざと突き放すような言い方をした。ところが、
「うん。とーっても気になる」
「……え?」
耳元でささやかれたような気がして、沙樹は指の動きを止めた。
――あたしの……行動が気になる?
ハヤトの意図が図れない。でも視線を合わせる勇気がない。
「ライブハウスなら、ぼくが案内するよ」
ハヤトは突然、沙樹の見ているタブレットを取り上げた。
「ちょっと、何するの? 邪魔しないで」
突然の行動に沙樹は思わずハヤトを見た。
視線がぶつかった途端、沙樹は胸の鼓動が高まる。
「やっとふりむいてくれたね」
そこに不機嫌な顔はなく、いたずらっ子が「してやったり」という得意げな顔で沙樹を見ていた。
社会人の自分が大学生の男の子にからかわれている。そう思うと沙樹は頬が熱くなる。
「沙樹さん、ぼくのことを避けてない?」
「そんなことないって。調べ物に夢中だっただけよ」
「ほんと?」
「ハヤトくんを避ける理由なんてないでしょ」
無理して自然な表情を作るうちに、頬の紅潮が引いてきた。
「よかった。気に障るようなことしちゃったかなって心配してたよ」
ハヤトは屈託のない笑顔を向けた。
懐かしくて優しい微笑みが、沙樹の胸をかすめる。
そのときだ。突然浅倉梢の名前が耳に飛び込み、沙樹は厳しい現実に引き戻された。だれかが食堂のTVをつけたようだ。
芸能ニュースで、ワタルたちの話題が取り上げられていた。映画の舞台挨拶に登場した梢に「おつきあいは順調ですか?」とレポーターが問いかける。肯定も否定もせず、笑顔であしらっているようすが画面に映った。中途半端で思わせぶりな態度が気に障った。
ワタルと浅倉梢の記事が世間をにぎわし、新聞もTVも次々と新しい情報を投げてくる。無防備の沙樹に容赦なく。
浅倉梢の顔を見るたび、彼女の肩を抱くワタルがちらつく。
この瞬間もワタルは、沙樹ではなく浅倉梢の手を取っているかもしれない。ワタルの優しい瞳に映るのはだれだろう。
「沙樹さん、どうしたの? 顔色が悪いよ。もしかして部屋が寒くて風邪をひいたの?」
沙樹がわずかに陰りを見せただけなのに、ハヤトは見逃さない。それはワタルといたときに感じる安心感にも似て、ともすればそれに頼ってしまいそうになる。
「ううん、大丈夫。元気よ」
「よかった。じゃあ、これからぼくがいろいろ案内するよ。もちろんライブハウスも」
「案内って、大学は?」
「ところが運のいいことに、今週は大学祭のおかげで講義がないんだ」
時期的にはそうだろうが、鵜呑みにはできない。さりとて疑うのも申し訳なくて、沙樹はハヤトの言葉を信じることにした。
「支度ができたら裏の駐車場に来てね。先に行って待ってるよ」
それだけ言い残すと、沙樹の返事も聞かずにハヤトは姿を消した。
その元気と明るさ、そして不思議な懐かしさが、ともすれば沈んでしまいそうな沙樹には何より心地よく、安らぎとなっていた。
☆ ☆ ☆
市街地の駐車場に車を停め、ハヤトはアーケード街を歩く。せっかく観光に来たというのに、見慣れた名前の店が並ぶ商店街には興味が出ない。こんな時間にライブハウスが開いているはずもないので、沙樹はハヤトの目的がつかめなかった。
「どこに行くの?」
「いいところだから期待して」
こんな街中に何があるのかと訝しく思いながら、沙樹はハヤトと並んで歩いた。
晩秋の青空が広がり、暖かな空気が心地よい。路面電車が街の中をのんびり走る。ゆったりと流れる時間が、疲れた心を癒してくれる。
沙樹はハヤトの横を歩きながら、行き交う人の群れの中にワタルを捜した。店の中、通りのむこう、バス停の列に、横断歩道を渡る人たち。無駄な努力と解っていてもやめられない。
予想通り見つけられなかった沙樹は、気落ちしながらハヤトに視線を戻した。
「あ、あれ?」
すぐ横を歩いていたはずなのに姿が見えない。曲り角ではぐれたのか。沙樹はその場に立ち、あたりを見まわした。
「ねえハヤトくん、どこ行ったの?」
また置き去りにされた。何も言わずに行ってしまった。信頼した人は突然姿を消す。
――いや……いやだ。いや、だ。
――おいて、行かないで。
――ひとりにされるのは、もう絶対に、い、や、だ!
沙樹は目を固く閉じて、両手で耳を塞ぐ。大声で叫びそうになったその瞬間――。
不意に誰かが沙樹の肩を軽く叩いた。
「もう、ちゃんとついてきてくれないと、迷子になっちゃうよ」
沙樹は恐る恐る目を開ける。
「あ……」
目の前にいたのはハヤトだ。
ほっとした表情は日だまりのように温かい。気づかいが沙樹の全身に行き渡り、孤独という氷を溶かす。
沙樹は胸の鼓動が高まり、顔が火照った。慌ててうつむいたが、気づかれたかもしれない。なぜこんなにも動揺するのだろう。
ハヤトは何事もなかったように沙樹の手を取り、スクランブル交差点を渡った。そしてビルとビルの間にある、狭い通りに入った。
「おはよう」
沙樹は画面から目を離さず、形だけあいさつを返した。
「ゆうべはよく眠れた?」
「ええ。おかげさまで」
ごく普通の会話を続けるが、沙樹はハヤトの顔を見ることなくタブレットの操作を続ける。我ながら意地悪な態度をとっているのだと思うが、どうしてもタブレットの画面から目が離せない。
「ふーん」
ハヤトの声のトーンが落ちた。機嫌を損ねたのかもしれない。沙樹の胸がかすかに痛んだ。
ハヤトの気配を感じたときから、沙樹の緊張が始まった。
初対面のときに感じた不思議な懐かしさと、部屋に案内されたときのハプニングが原因で、自分の中にどんな感情が生まれるのか解らない。ハヤトがいる安心感と、気持ちを乱されるのではという不安。どちらが強くなるのか予想すらできない。
「ねえ、何調べてるの? あれ、ライブハウス?」
ハヤトは横に座りタブレットを覗き込んだ。息づかいが聞こえそうな距離が苦しい。
「そうよ」
「わざわざこんな田舎で? 観光地めぐりもしないの?」
「どこへ行こうとあたしの勝手でしょ。それともあたしの行動が気になる?」
惑わされる自分が嫌で、わざと突き放すような言い方をした。ところが、
「うん。とーっても気になる」
「……え?」
耳元でささやかれたような気がして、沙樹は指の動きを止めた。
――あたしの……行動が気になる?
ハヤトの意図が図れない。でも視線を合わせる勇気がない。
「ライブハウスなら、ぼくが案内するよ」
ハヤトは突然、沙樹の見ているタブレットを取り上げた。
「ちょっと、何するの? 邪魔しないで」
突然の行動に沙樹は思わずハヤトを見た。
視線がぶつかった途端、沙樹は胸の鼓動が高まる。
「やっとふりむいてくれたね」
そこに不機嫌な顔はなく、いたずらっ子が「してやったり」という得意げな顔で沙樹を見ていた。
社会人の自分が大学生の男の子にからかわれている。そう思うと沙樹は頬が熱くなる。
「沙樹さん、ぼくのことを避けてない?」
「そんなことないって。調べ物に夢中だっただけよ」
「ほんと?」
「ハヤトくんを避ける理由なんてないでしょ」
無理して自然な表情を作るうちに、頬の紅潮が引いてきた。
「よかった。気に障るようなことしちゃったかなって心配してたよ」
ハヤトは屈託のない笑顔を向けた。
懐かしくて優しい微笑みが、沙樹の胸をかすめる。
そのときだ。突然浅倉梢の名前が耳に飛び込み、沙樹は厳しい現実に引き戻された。だれかが食堂のTVをつけたようだ。
芸能ニュースで、ワタルたちの話題が取り上げられていた。映画の舞台挨拶に登場した梢に「おつきあいは順調ですか?」とレポーターが問いかける。肯定も否定もせず、笑顔であしらっているようすが画面に映った。中途半端で思わせぶりな態度が気に障った。
ワタルと浅倉梢の記事が世間をにぎわし、新聞もTVも次々と新しい情報を投げてくる。無防備の沙樹に容赦なく。
浅倉梢の顔を見るたび、彼女の肩を抱くワタルがちらつく。
この瞬間もワタルは、沙樹ではなく浅倉梢の手を取っているかもしれない。ワタルの優しい瞳に映るのはだれだろう。
「沙樹さん、どうしたの? 顔色が悪いよ。もしかして部屋が寒くて風邪をひいたの?」
沙樹がわずかに陰りを見せただけなのに、ハヤトは見逃さない。それはワタルといたときに感じる安心感にも似て、ともすればそれに頼ってしまいそうになる。
「ううん、大丈夫。元気よ」
「よかった。じゃあ、これからぼくがいろいろ案内するよ。もちろんライブハウスも」
「案内って、大学は?」
「ところが運のいいことに、今週は大学祭のおかげで講義がないんだ」
時期的にはそうだろうが、鵜呑みにはできない。さりとて疑うのも申し訳なくて、沙樹はハヤトの言葉を信じることにした。
「支度ができたら裏の駐車場に来てね。先に行って待ってるよ」
それだけ言い残すと、沙樹の返事も聞かずにハヤトは姿を消した。
その元気と明るさ、そして不思議な懐かしさが、ともすれば沈んでしまいそうな沙樹には何より心地よく、安らぎとなっていた。
☆ ☆ ☆
市街地の駐車場に車を停め、ハヤトはアーケード街を歩く。せっかく観光に来たというのに、見慣れた名前の店が並ぶ商店街には興味が出ない。こんな時間にライブハウスが開いているはずもないので、沙樹はハヤトの目的がつかめなかった。
「どこに行くの?」
「いいところだから期待して」
こんな街中に何があるのかと訝しく思いながら、沙樹はハヤトと並んで歩いた。
晩秋の青空が広がり、暖かな空気が心地よい。路面電車が街の中をのんびり走る。ゆったりと流れる時間が、疲れた心を癒してくれる。
沙樹はハヤトの横を歩きながら、行き交う人の群れの中にワタルを捜した。店の中、通りのむこう、バス停の列に、横断歩道を渡る人たち。無駄な努力と解っていてもやめられない。
予想通り見つけられなかった沙樹は、気落ちしながらハヤトに視線を戻した。
「あ、あれ?」
すぐ横を歩いていたはずなのに姿が見えない。曲り角ではぐれたのか。沙樹はその場に立ち、あたりを見まわした。
「ねえハヤトくん、どこ行ったの?」
また置き去りにされた。何も言わずに行ってしまった。信頼した人は突然姿を消す。
――いや……いやだ。いや、だ。
――おいて、行かないで。
――ひとりにされるのは、もう絶対に、い、や、だ!
沙樹は目を固く閉じて、両手で耳を塞ぐ。大声で叫びそうになったその瞬間――。
不意に誰かが沙樹の肩を軽く叩いた。
「もう、ちゃんとついてきてくれないと、迷子になっちゃうよ」
沙樹は恐る恐る目を開ける。
「あ……」
目の前にいたのはハヤトだ。
ほっとした表情は日だまりのように温かい。気づかいが沙樹の全身に行き渡り、孤独という氷を溶かす。
沙樹は胸の鼓動が高まり、顔が火照った。慌ててうつむいたが、気づかれたかもしれない。なぜこんなにも動揺するのだろう。
ハヤトは何事もなかったように沙樹の手を取り、スクランブル交差点を渡った。そしてビルとビルの間にある、狭い通りに入った。
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