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第二章
一. すきま風と大きな手がかり(二)
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不意にスマートフォンが鳴った。ロック画面に哲哉の頭文字が表示されていた。沙樹は頭を軽くふって気持ちを切り替える。
『お疲れ。どうだい状況は。今日は移動で精一杯だったろ』
「もうくたくたよ。明日からのことを考える余裕もないの」
沙樹は座椅子に座り、背もたれに体を預けた。
『そうじゃないかと思って、古い手帳やカレンダーアプリの記録を数年分読み返したんだ。そしたら偶然、おもしろいメモをみつけたぜ』
「おもしろいメモって?」
期待に沙樹の心が弾む。ワタルに関することなら、どんな小さな手掛かりでもいい。
『結論から言うと、ライブハウスに行け、だな』
「ライブハウスってどういう意味なの?」
さっき観たばかりのハヤトたちのライブを連想し、胸に小さな痛みが走った。
『ワタルはデビュー直前に、知り合いのライブハウスでゲスト出演してるよ。大きなところじゃなくて小さめの――そうそう、生演奏をBGMにしているジャスティ規模だよ。自分のことを知らない人たちの前で、実力を試したかったらしい。評判よくてオーナーにサインを頼まれたって喜んでたのを思い出したんだ。ただし残念なことに、店の名前まではメモってない』
「つまり、ライブハウスをまわって、サインを探せばいいのね」
『その通り。飛び込みで演奏させてもらえるくらい親しいのなら、オーナーかスタッフのだれかが、お袋さんの連絡先を知ってるかもしれない。上手くしたら、そこからたどりつけるぜ』
ライブハウスだけなら、すべてまわっても知れている。わざわざ来て正解だった。
「ありがとう、得能くん」
手を伸ばせば届く距離にワタルがいる。今の沙樹にとって、そのことが何よりも一番希望となる。
『仕事の合間に見直してたから、時間がかかってすまなかったよ。手がかりが見つかったのは、半分は西田さんの執念――いや、怨念かな』
「怨念って、あのね」
沙樹がぼやくと、哲哉の笑い声が聞こえた。
『ごめんごめん。でもくれぐれも言っておくけど、ワタルの実家を見つけても無駄に終わる可能性もあるんだぜ。そこにいるって保証はないんだからさ』
期待した結果が得られなかったとき、沙樹が落胆しないよう気を配ってくれる。哲哉なりの思いやりだ。
『それともうひとつ。目立った行動は慎めよ。芸能レポーターにまちがわれると、何も教えてもらえないだけじゃなく、追い返されるかもしれないぜ』
「ご心配なく。得能くんのアドバイスは忘れてないから」
『まあ、最悪見つけられなくても気にすんなよ。一月もしないうちにワタルは帰ってくるって。雲隠れしたまま仕事を放り出すなんて絶対にしないよ』
時間が解決することは沙樹も解っている。それでも行動に移したのは、待っている時間を少しでも短くしたかったからだ。
「仕事と言えば、得能くんは曲作り進んでる?」
『だめ、まーったく進んでない。アルバムのテーマが決まってないから、思うようにまとまらないんだ。ワタルの抜けた穴は痛いよ。無事に帰ってきたら、あいつをどこかに祀っておこうと思ってるとこさ』
「祀る?」
金の屏風を背にして床の間に飾られているワタルの姿を想像し、沙樹は思わず失笑した。
「それって、いいかも」
『だろ? なんなら西田さんも横に座りなよ。お雛様になれるぜ』
「遠慮する。見てる方が楽しそうだもん」
哲哉は努めて気分を和ませてくれる。仕事の進捗を考えれば、沙樹以上に困っているかもしれないのに、それを微塵も感じさせない。いつもの調子で雑談を交わしているうちに、沙樹は心の底に巣食っている重い物が消えているのを実感した。
『じゃあな。また何か思い出したら連絡するよ。おやすみ』
「得能くん、待って」
沙樹は電話を切ろうとする哲哉を止めた。特別言いたいことがあったわけではない。もう少し声を聞いていたかった。
『なんだい?』
「えっと……ありがとうね」
いろいろな感情が溢れてきて、それらを悟られないように普通に答えたつもりだった。だが。
『にし――沙樹さん。大丈夫?』
哲哉は珍しく沙樹を名前で呼んだ。
「うん、大丈夫だよ」
『泣いて……ないみたいだな』
こちらの顔は見えないのに、哲哉にはすべて見抜かれている。声だけですべてを読めるのは、アーティストの持つ感性の鋭さに違いない。
沙樹は一呼吸おき、いつもの声に戻した。
「また明日電話するね。今くらいの時間だったらいい?」
『いいよ。ただし、ひとりで部屋にいるとは限らないけど』
――ひとりとは限らない?
予想もしない返事に、沙樹は一瞬言葉をなくす。
「ちょ、ちょっと待って。ひとりじゃないって……まさか、彼女と一緒?」
哲哉に恋人がいたなんて初耳だ。いつ彼女ができたのか。そんなことよりこんな遅い時間に女性と話していると知ったら、彼女が怒り出すかもしれない。
「ごめん、全然気づかなくて。あたし、彼女に謝らなきゃ。電話替わって――」
『なあに、そのことなら心配するこたあないさ。帰りにうまいもの買ってきてくれたら、おれは満足だぜ』
それだけ言い残すと、沙樹の返答を待たずに哲哉は電話を切った。
沙樹のうろたえを楽しんでいるようだったが、これがいつもの哲哉なりの励まし方だ。
そんなことより、哲哉の彼女はどんな人物だろう。よくまあ隠し通したものだ。沙樹はワタルとのことを棚に上げて、彼女候補を考える。だがいくら考えてもヒントすら出てこない。
「帰ったら紹介してもらうんだから」
スマートフォンを手にしたまま、沙樹は疲れた体を横たえた。ふかふかの布団が心地よい。
取るものもとりあえず東京を離れた。慌ただしく過ぎた初日は、寝場所を探して彷徨う寸前で回避され、なんとか順調なスタートが切れた。
「ハヤトくんのおかげだね」
軽く目を閉じると急に睡魔に襲われ、深い眠りに落ちた。
『お疲れ。どうだい状況は。今日は移動で精一杯だったろ』
「もうくたくたよ。明日からのことを考える余裕もないの」
沙樹は座椅子に座り、背もたれに体を預けた。
『そうじゃないかと思って、古い手帳やカレンダーアプリの記録を数年分読み返したんだ。そしたら偶然、おもしろいメモをみつけたぜ』
「おもしろいメモって?」
期待に沙樹の心が弾む。ワタルに関することなら、どんな小さな手掛かりでもいい。
『結論から言うと、ライブハウスに行け、だな』
「ライブハウスってどういう意味なの?」
さっき観たばかりのハヤトたちのライブを連想し、胸に小さな痛みが走った。
『ワタルはデビュー直前に、知り合いのライブハウスでゲスト出演してるよ。大きなところじゃなくて小さめの――そうそう、生演奏をBGMにしているジャスティ規模だよ。自分のことを知らない人たちの前で、実力を試したかったらしい。評判よくてオーナーにサインを頼まれたって喜んでたのを思い出したんだ。ただし残念なことに、店の名前まではメモってない』
「つまり、ライブハウスをまわって、サインを探せばいいのね」
『その通り。飛び込みで演奏させてもらえるくらい親しいのなら、オーナーかスタッフのだれかが、お袋さんの連絡先を知ってるかもしれない。上手くしたら、そこからたどりつけるぜ』
ライブハウスだけなら、すべてまわっても知れている。わざわざ来て正解だった。
「ありがとう、得能くん」
手を伸ばせば届く距離にワタルがいる。今の沙樹にとって、そのことが何よりも一番希望となる。
『仕事の合間に見直してたから、時間がかかってすまなかったよ。手がかりが見つかったのは、半分は西田さんの執念――いや、怨念かな』
「怨念って、あのね」
沙樹がぼやくと、哲哉の笑い声が聞こえた。
『ごめんごめん。でもくれぐれも言っておくけど、ワタルの実家を見つけても無駄に終わる可能性もあるんだぜ。そこにいるって保証はないんだからさ』
期待した結果が得られなかったとき、沙樹が落胆しないよう気を配ってくれる。哲哉なりの思いやりだ。
『それともうひとつ。目立った行動は慎めよ。芸能レポーターにまちがわれると、何も教えてもらえないだけじゃなく、追い返されるかもしれないぜ』
「ご心配なく。得能くんのアドバイスは忘れてないから」
『まあ、最悪見つけられなくても気にすんなよ。一月もしないうちにワタルは帰ってくるって。雲隠れしたまま仕事を放り出すなんて絶対にしないよ』
時間が解決することは沙樹も解っている。それでも行動に移したのは、待っている時間を少しでも短くしたかったからだ。
「仕事と言えば、得能くんは曲作り進んでる?」
『だめ、まーったく進んでない。アルバムのテーマが決まってないから、思うようにまとまらないんだ。ワタルの抜けた穴は痛いよ。無事に帰ってきたら、あいつをどこかに祀っておこうと思ってるとこさ』
「祀る?」
金の屏風を背にして床の間に飾られているワタルの姿を想像し、沙樹は思わず失笑した。
「それって、いいかも」
『だろ? なんなら西田さんも横に座りなよ。お雛様になれるぜ』
「遠慮する。見てる方が楽しそうだもん」
哲哉は努めて気分を和ませてくれる。仕事の進捗を考えれば、沙樹以上に困っているかもしれないのに、それを微塵も感じさせない。いつもの調子で雑談を交わしているうちに、沙樹は心の底に巣食っている重い物が消えているのを実感した。
『じゃあな。また何か思い出したら連絡するよ。おやすみ』
「得能くん、待って」
沙樹は電話を切ろうとする哲哉を止めた。特別言いたいことがあったわけではない。もう少し声を聞いていたかった。
『なんだい?』
「えっと……ありがとうね」
いろいろな感情が溢れてきて、それらを悟られないように普通に答えたつもりだった。だが。
『にし――沙樹さん。大丈夫?』
哲哉は珍しく沙樹を名前で呼んだ。
「うん、大丈夫だよ」
『泣いて……ないみたいだな』
こちらの顔は見えないのに、哲哉にはすべて見抜かれている。声だけですべてを読めるのは、アーティストの持つ感性の鋭さに違いない。
沙樹は一呼吸おき、いつもの声に戻した。
「また明日電話するね。今くらいの時間だったらいい?」
『いいよ。ただし、ひとりで部屋にいるとは限らないけど』
――ひとりとは限らない?
予想もしない返事に、沙樹は一瞬言葉をなくす。
「ちょ、ちょっと待って。ひとりじゃないって……まさか、彼女と一緒?」
哲哉に恋人がいたなんて初耳だ。いつ彼女ができたのか。そんなことよりこんな遅い時間に女性と話していると知ったら、彼女が怒り出すかもしれない。
「ごめん、全然気づかなくて。あたし、彼女に謝らなきゃ。電話替わって――」
『なあに、そのことなら心配するこたあないさ。帰りにうまいもの買ってきてくれたら、おれは満足だぜ』
それだけ言い残すと、沙樹の返答を待たずに哲哉は電話を切った。
沙樹のうろたえを楽しんでいるようだったが、これがいつもの哲哉なりの励まし方だ。
そんなことより、哲哉の彼女はどんな人物だろう。よくまあ隠し通したものだ。沙樹はワタルとのことを棚に上げて、彼女候補を考える。だがいくら考えてもヒントすら出てこない。
「帰ったら紹介してもらうんだから」
スマートフォンを手にしたまま、沙樹は疲れた体を横たえた。ふかふかの布団が心地よい。
取るものもとりあえず東京を離れた。慌ただしく過ぎた初日は、寝場所を探して彷徨う寸前で回避され、なんとか順調なスタートが切れた。
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