11 / 46
第二章
一. すきま風と大きな手がかり(一)
しおりを挟む
沙樹が今いる場所は、哲哉に教えられた街だった。出たとこ勝負の行動はスタートで躓きかけたが、ライブハウスで偶然に出会ったハヤトに助けられて事なきを得た。こうして沙樹は彼の家が経営する旅館に宿泊することになった。
市街地を抜けると、五分ほどで観光ホテル街についた。小さな街で高い建物がない分だけ空が広い。
ワタルは今どこでどうしているだろう。
「……さん、ねえ、沙樹さんってば」
「あ、ごめん。なに?」
「ったく。急に黙り込んだかと思うと物思いにふけってさ。何度声をかけても、返事してくれないんだもん」
心配しているとも不機嫌ともとれるような、ハヤトの声だ。沙樹は頭を軽くふり、過去から現在へ気持ちを切り替えた。
ライブハウスで演奏していたハヤトたちを考えると、職業柄いろいろと気になることがある。ぶしつけとは思いながらも興味は抑えられなかった。
「さっき『レギュラーになるのが第一目標』って言ってたでしょ。将来はプロを目指してるの?」
「うーん、どうかな。そんな先のことまでみんなで話したことないや」
運転席のハヤトは前を見据えたままサラッと流すように答えた。だがプロという言葉を耳にしたとき目が一瞬輝いたのを、沙樹は見逃さなかった。
バンド活動をしていれば一度は考える世界だ。それらに必要な実力も伴っている。なぜ素直に認めないのだろう。
「人気があるバンドなんでしょ」
「田舎のライブハウスだよ。喜んでくれてるのは常連のお客さん、いわば身内だね。人気バンドだなんて言うのは身の程知らずだって」
「そんなに謙遜することないのに。ハヤトくんの声は……きゃっ」
いきなりブレーキを踏まれ、車が急停止した。信号が赤に変わっている。荒い運転をする子だと振り向くと、ハヤトは正面の信号を見つめたまま続けた。
「沙樹さんってさ、ぼくらのことスカウトしたいの?」
「FM局の社員は、そんなことしないよ」
「そうなんだ。よかった。沙樹さんに仕事の対象に見られなくて」
口元に笑みを浮かべていても、ハヤトの目はずっと信号を見据えたままで、まったく笑っていない。
質問の内容を考えれば勘違いされても仕方がないと、沙樹は出過ぎた好奇心を反省した。
「ここに来た理由って、本当は仕事絡みでしょ?」
「純粋に観光旅行よ」
「だったら、仕事のことは忘れなきゃ」
だが、沙樹には忘れてはならない大きな目的がある。ワタルを捜し、真相について語ってもらうことだ。
すべて無駄になるかもしれない。無謀な行動が成功する保証はどこにもない。
「仕事、仕事って言ったから、何か嫌なことでも思い出した?」
口を閉じた沙樹に、ハヤトが心配そうに話しかける。返答に窮していると、
「わかった。彼氏にフラれた傷心旅行しでしょ」
「そ、そんなんじゃないって」
触れられたくない部分にいきなり切り込まれ、沙樹は慌てて否定してそっぽを向いた。
「ごめんなさい、冗談です。機嫌なおしてくださいっ!」
沙樹の態度が明らかに変化したので、ハヤトの声が上ずってきた。うろたえを無視して窓の外を見続けていると、
「沙樹お姉さま、お願い。反省してますっ。ごめんなさいっ」
焦っているにしては明るい声の謝罪が続く。急ブレーキのときに見せた妙な拒絶感は、どこにも残っていない。
不思議な感覚だった。
不安だらけの中なのに、ハヤトと話していると、忘れていた穏やかな気持ちにつつまれる。学生時代、オーバー・ザ・レインボウの仲間と過ごした時間に似ていた。
「ほら、あの交差点曲がってすぐの建物だよ」
宿に着いたらハヤトと別行動をとらなければならない。沙樹はそんな小さなことが少し残念に思えてきた。
☆ ☆ ☆
ハヤトの家が経営するみなみの旅館は、温泉街の一角にある小規模旅館や民宿のひとつだ。旅館と名乗っているものの、民宿という方がふさわしい規模だ。
受付にいたのが母親だろう。親しみやすい雰囲気がハヤトと似ている。遅い時刻の飛び込みをわびると、「よくある話ですよ」と優しく微笑んだ。
ベルボーイよろしく荷物を手にしたハヤトに案内されて、沙樹は部屋に向かった。
「大きなホテルや旅館みたいに立派な設備はないけど、家庭的なところを楽しんでってね」
ときどき沙樹をふりかえりながら、ハヤトはざっと建物内の説明をしてくれた。そして二階奥の部屋の前で止まり、鍵を開けた。
「ここだよ」
十二畳ほどの部屋は新しい畳の匂いがして、フローリングのマンションに住む沙樹に、田舎に住む祖父母の家を思い出させる。
「部屋の鍵、忘れないうちに渡しておくね」
「ありがと」
受け取ろうとしたとき、ハヤトの指と沙樹のそれが軽くふれた。瞬間、微量の電流が沙樹の体を走った。沙樹は慌てて手を引っこめる。不意に車での出来事が脳裏に浮かんだ。
自然に流れる日焼けした黒髪とよく動く黒い瞳、そしてかすかに香るフローラルの匂い……。
沙樹の胸にさざ波がたつ。
「荷物、ここでいい?」
「え?」
沙樹は平穏を装ってふりかえった。
鍵を渡されたときの妙な感覚が体に残っている。何かに対する恐れが判断を狂わせ、沙樹はひったくるように荷物を取った。
「あっ」
ハヤトは手を離すタイミングが遅れ、バランスを崩し、沙樹に倒れかかる。沙樹は避けようとして足元がよろけ、壁に背中をぶつけてしまった。
「いってー」
すぐ耳元で声がした。ゆっくりと目を開けた途端、ハヤトの顔が飛び込んできた。沙樹にぶつかるのを避けようとして、右手を壁に押しつけている。頬にハヤトの息がかかった。これが俗にいう壁ドンなのね、と沙樹はぼんやりと感じた。
「あっ、ごめんなさい!」
ハヤトは頬を赤らめて飛び退く。沙樹が固まっていると、「大丈夫、背中痛くない?」と心配そうに訊いた。沙樹はうなずくことしかできない。
「よかった、怪我がなくて。ぼくは右腕がじんじんするよ」
ハヤトは右腕を軽くふりながら苦笑した。
「うーん。ギターを弾くのには影響ないか」
右手を握ったり開いたりして、腕の具合を確認している。
「よし、大丈夫だ。じゃあ、おやすみなさい。よい夢を」
「……おやすみなさい」
元気な挨拶を残してハヤトは出て行った。
静けさの戻った部屋に、フローラルのかすかな香りが残っている。
何かが胸をかすめた。
「な、何よ。ちょっと壁ドンされたくらいで。女子高生じゃあるまいし。莫迦莫迦しい」
何事もなかったように、沙樹は倒れたスーツケースを起こして部屋のすみにおいた。そのとき畳の上で何かが灯りを受けて反射しているのをみつけた。
それはギターをモチーフにしたキーホルダーで、ワタルをイメージして作られたバンドメンバーのグッズだ。スーツケースの持ち手につけていたが、今のハプニングでパーツがとれてしまった。
星形の部品を手に取って見つめると、ワタルの笑顔が重なり、陽炎のごとく揺れて消えた。
「ねえワタルさん、どこにいるの? 早く会いたいよ……」
市街地を抜けると、五分ほどで観光ホテル街についた。小さな街で高い建物がない分だけ空が広い。
ワタルは今どこでどうしているだろう。
「……さん、ねえ、沙樹さんってば」
「あ、ごめん。なに?」
「ったく。急に黙り込んだかと思うと物思いにふけってさ。何度声をかけても、返事してくれないんだもん」
心配しているとも不機嫌ともとれるような、ハヤトの声だ。沙樹は頭を軽くふり、過去から現在へ気持ちを切り替えた。
ライブハウスで演奏していたハヤトたちを考えると、職業柄いろいろと気になることがある。ぶしつけとは思いながらも興味は抑えられなかった。
「さっき『レギュラーになるのが第一目標』って言ってたでしょ。将来はプロを目指してるの?」
「うーん、どうかな。そんな先のことまでみんなで話したことないや」
運転席のハヤトは前を見据えたままサラッと流すように答えた。だがプロという言葉を耳にしたとき目が一瞬輝いたのを、沙樹は見逃さなかった。
バンド活動をしていれば一度は考える世界だ。それらに必要な実力も伴っている。なぜ素直に認めないのだろう。
「人気があるバンドなんでしょ」
「田舎のライブハウスだよ。喜んでくれてるのは常連のお客さん、いわば身内だね。人気バンドだなんて言うのは身の程知らずだって」
「そんなに謙遜することないのに。ハヤトくんの声は……きゃっ」
いきなりブレーキを踏まれ、車が急停止した。信号が赤に変わっている。荒い運転をする子だと振り向くと、ハヤトは正面の信号を見つめたまま続けた。
「沙樹さんってさ、ぼくらのことスカウトしたいの?」
「FM局の社員は、そんなことしないよ」
「そうなんだ。よかった。沙樹さんに仕事の対象に見られなくて」
口元に笑みを浮かべていても、ハヤトの目はずっと信号を見据えたままで、まったく笑っていない。
質問の内容を考えれば勘違いされても仕方がないと、沙樹は出過ぎた好奇心を反省した。
「ここに来た理由って、本当は仕事絡みでしょ?」
「純粋に観光旅行よ」
「だったら、仕事のことは忘れなきゃ」
だが、沙樹には忘れてはならない大きな目的がある。ワタルを捜し、真相について語ってもらうことだ。
すべて無駄になるかもしれない。無謀な行動が成功する保証はどこにもない。
「仕事、仕事って言ったから、何か嫌なことでも思い出した?」
口を閉じた沙樹に、ハヤトが心配そうに話しかける。返答に窮していると、
「わかった。彼氏にフラれた傷心旅行しでしょ」
「そ、そんなんじゃないって」
触れられたくない部分にいきなり切り込まれ、沙樹は慌てて否定してそっぽを向いた。
「ごめんなさい、冗談です。機嫌なおしてくださいっ!」
沙樹の態度が明らかに変化したので、ハヤトの声が上ずってきた。うろたえを無視して窓の外を見続けていると、
「沙樹お姉さま、お願い。反省してますっ。ごめんなさいっ」
焦っているにしては明るい声の謝罪が続く。急ブレーキのときに見せた妙な拒絶感は、どこにも残っていない。
不思議な感覚だった。
不安だらけの中なのに、ハヤトと話していると、忘れていた穏やかな気持ちにつつまれる。学生時代、オーバー・ザ・レインボウの仲間と過ごした時間に似ていた。
「ほら、あの交差点曲がってすぐの建物だよ」
宿に着いたらハヤトと別行動をとらなければならない。沙樹はそんな小さなことが少し残念に思えてきた。
☆ ☆ ☆
ハヤトの家が経営するみなみの旅館は、温泉街の一角にある小規模旅館や民宿のひとつだ。旅館と名乗っているものの、民宿という方がふさわしい規模だ。
受付にいたのが母親だろう。親しみやすい雰囲気がハヤトと似ている。遅い時刻の飛び込みをわびると、「よくある話ですよ」と優しく微笑んだ。
ベルボーイよろしく荷物を手にしたハヤトに案内されて、沙樹は部屋に向かった。
「大きなホテルや旅館みたいに立派な設備はないけど、家庭的なところを楽しんでってね」
ときどき沙樹をふりかえりながら、ハヤトはざっと建物内の説明をしてくれた。そして二階奥の部屋の前で止まり、鍵を開けた。
「ここだよ」
十二畳ほどの部屋は新しい畳の匂いがして、フローリングのマンションに住む沙樹に、田舎に住む祖父母の家を思い出させる。
「部屋の鍵、忘れないうちに渡しておくね」
「ありがと」
受け取ろうとしたとき、ハヤトの指と沙樹のそれが軽くふれた。瞬間、微量の電流が沙樹の体を走った。沙樹は慌てて手を引っこめる。不意に車での出来事が脳裏に浮かんだ。
自然に流れる日焼けした黒髪とよく動く黒い瞳、そしてかすかに香るフローラルの匂い……。
沙樹の胸にさざ波がたつ。
「荷物、ここでいい?」
「え?」
沙樹は平穏を装ってふりかえった。
鍵を渡されたときの妙な感覚が体に残っている。何かに対する恐れが判断を狂わせ、沙樹はひったくるように荷物を取った。
「あっ」
ハヤトは手を離すタイミングが遅れ、バランスを崩し、沙樹に倒れかかる。沙樹は避けようとして足元がよろけ、壁に背中をぶつけてしまった。
「いってー」
すぐ耳元で声がした。ゆっくりと目を開けた途端、ハヤトの顔が飛び込んできた。沙樹にぶつかるのを避けようとして、右手を壁に押しつけている。頬にハヤトの息がかかった。これが俗にいう壁ドンなのね、と沙樹はぼんやりと感じた。
「あっ、ごめんなさい!」
ハヤトは頬を赤らめて飛び退く。沙樹が固まっていると、「大丈夫、背中痛くない?」と心配そうに訊いた。沙樹はうなずくことしかできない。
「よかった、怪我がなくて。ぼくは右腕がじんじんするよ」
ハヤトは右腕を軽くふりながら苦笑した。
「うーん。ギターを弾くのには影響ないか」
右手を握ったり開いたりして、腕の具合を確認している。
「よし、大丈夫だ。じゃあ、おやすみなさい。よい夢を」
「……おやすみなさい」
元気な挨拶を残してハヤトは出て行った。
静けさの戻った部屋に、フローラルのかすかな香りが残っている。
何かが胸をかすめた。
「な、何よ。ちょっと壁ドンされたくらいで。女子高生じゃあるまいし。莫迦莫迦しい」
何事もなかったように、沙樹は倒れたスーツケースを起こして部屋のすみにおいた。そのとき畳の上で何かが灯りを受けて反射しているのをみつけた。
それはギターをモチーフにしたキーホルダーで、ワタルをイメージして作られたバンドメンバーのグッズだ。スーツケースの持ち手につけていたが、今のハプニングでパーツがとれてしまった。
星形の部品を手に取って見つめると、ワタルの笑顔が重なり、陽炎のごとく揺れて消えた。
「ねえワタルさん、どこにいるの? 早く会いたいよ……」
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
【完結】捨ててください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
ずっと貴方の側にいた。
でも、あの人と再会してから貴方は私ではなく、あの人を見つめるようになった。
分かっている。
貴方は私の事を愛していない。
私は貴方の側にいるだけで良かったのに。
貴方が、あの人の側へ行きたいと悩んでいる事が私に伝わってくる。
もういいの。
ありがとう貴方。
もう私の事は、、、
捨ててください。
続編投稿しました。
初回完結6月25日
第2回目完結7月18日
【完結】忘れてください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。
貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。
夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。
貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。
もういいの。
私は貴方を解放する覚悟を決めた。
貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。
私の事は忘れてください。
※6月26日初回完結
7月12日2回目完結しました。
お読みいただきありがとうございます。
【完結】ゆきおんな
須賀マサキ(まー)
ホラー
死に直面したときの人の気持ちを知るために、武彦は薄着で雪の降る中、外に立っていた。
もう少しで何かをつかみかけたとき、ゆきにその様子を見つけられて、山荘の談話室に戻される。何かあったらどうするのと咎めるゆきに、武彦は幼いときの記憶を語り始めた。
寒い夜だから
須賀マサキ(まー)
ライト文芸
塾講師のバイトを終えたワタルは、いつものようにいきつけの喫茶ジャスティを訪れる。そこにいたのは沙樹だった。普段ならこんな遅い時間に見かけることはない。
違和感を覚えながらも話しかけると、沙樹から思わぬ答えが返ってきた。
それを聞いたワタルは、自分の本当の気持ちに少し気づき始める。
☆ ☆ ☆
オーバー・ザ・レインボウシリーズです。
結婚話を書いたあとですが、時間を戻して大学時代のエピソードを書きました。
今回はふたりが互いの気持ちに気づき始めるきっかけとなったエピソードです。
☆ ☆ ☆
ほっこりじんわり大賞の関係で、エピローグのみ6月中に公開しました。
先に公開した『夕焼けと花火と』の連載終了後に続きを公開していきますことをご了承ください。
白い初夜
NIWA
恋愛
ある日、子爵令嬢のアリシアは婚約者であるファレン・セレ・キルシュタイン伯爵令息から『白い結婚』を告げられてしまう。
しかし話を聞いてみればどうやら話が込み入っているようで──
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
夕焼けと花火と
須賀マサキ(まー)
ライト文芸
夏休みに実家に帰省した玲子は、久しぶりに幼なじみと会う。驚いたことに彼女は、中学時代のクラスメートで初恋の相手とつきあいはじめていた。
彼氏はいないのかという問いかけに、玲子は武彦を思い浮かべる。だがこれが恋心なのか、自分でもよく解らなかった。
懐かしい夕焼け空を見ながら、玲子は自分の気持ちを見つめなおす。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる