地球のために

須賀マサキ(まー)

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第五話 惹きつけられるボーカル

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 今日は部活が休みだ。
 例のごとくぼくは朝の家事をする。料理の得意な兄さんは、早起きして宿泊客の朝食作りを手伝っている。
 ぼくらはそれぞれ家や旅館の仕事を手伝い、九時になってようやく朝ごはんを済ませた。
「あー、疲れた」
 リビングでぼくが一息ついて漫画を読んでいると、コーヒーの香りが漂ってきた。

 コーヒーって香りはいいんだけれど、いざ飲むと苦くて苦手なんだ。と思っていたら、ぼくの前には汗をかいたグラスにオレンジシュースがおかれる。
 顔を上げると兄さんが正面の椅子に座り、自分の前にはアイスコーヒーをおいていた。ぼくの好みをわかってくれているんだね。

「どうだい? 部活がないんだったら、このあと一緒にギターでも」
「本当?」
 ぼくは読みかけの本を閉じる。兄さんが来てから初めての土曜日。勉強づくしでおあずけになっていたギターのレッスンだ。
「毎日練習しているから、かなり上手くなったよ。聴いてくれる?」
「もちろん。そのあと何か、一緒に弾こうか」
 ぼくたちはそれぞれのグラスを持ち、二階にある兄さんの部屋に移動した。

 うちには兄さんの部屋もあるんだ。夏休みくらいしか使うことがないので、普段はぼくのギターや音楽関係のものを並べている。
 もちろん今は兄さんがここで寝泊まりしている。

 ベッドに並んで腰かけて、ハードロックを演奏した。この前おばあちゃんに買ってもらったアルバムは、兄さんもCDと楽譜を買ったそうだ。
 というわけで中から一曲、同じギターパートを弾くことにした。
 兄さんと弾くのは二年ぶりだから、どこまでついていけるか心配だ。でも終わってみたらなんとかまちがえることなくやり遂げられた。多少テンポがずれそうになったところがあったけど、兄さんはぼくに合わせてくれた。

「ギターの腕も随分と上達したね」
 ぼくの演奏を聴いて兄さんは褒めてくれた。
 だがそれだけではない。楽譜通りに弾けていない個所やリズムが崩れた場所を指摘して、どうやればいいか教えてくれる。
 ぼくはアドバイスを楽譜に書きこんだ。気づかなかった弱点を指摘してもらえると、次に練習するときにもっと上手く弾けるようになる。

 ぼくは最近になって、兄さんが以前話していた「手がちゃんと動いてまちがわずに弾けても、それで終わりじゃない」という言葉の意味が解ってきた。
 その話を聞いたころのぼくは、ギターどころか楽器だってろくに触れたことがなかった。だから、上手に弾いている兄さんが、何度も練習を繰り返す理由が解らなかった。

 思えばあの日、兄さんが弾いている姿を見たのが、ぼくとギターの出会いだった。
 そのときぼくは、兄さんに対する反発心より、目の前にあるギターが気になってしかたなかった。
 ほとんど兄さんを無視していたくせに、自分でも現金だと思う。でも同じ曲を何度も何度も繰り返す兄さんが、はじめは理解できなかった。

 そんなときふと、兄さんの指に絆創膏が貼られているのに気づく。
 ――そんなに怪我をするまで練習しているなんて……。

 兄さんは甘やかされたお坊ちゃんじゃない。ぼくが知らないだけで、いろんなところで努力を重ねている。
 誤解が解けたそのとき……。

 ぼくは兄さんの背中を追いかけたくなった。
 ギターという楽器を通して。

 断られるのを覚悟で、「ぼくにも……ギターを弾かせてくれる?」と頼んでみた。
 すると兄さんは、眉をひそめて楽譜をにらんでいたのがウソだったように、輝く笑みを浮かべ、ギターを差し出してくれた。

 あのとき兄さんが快く弾かせてくれたから、今のぼくがある。
 目指す道が見えた瞬間であり、一方的に抱いていたわだかまりが消えた瞬間でもあった。


   ☆  ☆  ☆


「今度軽音部の練習に来てよ。ぼくね、友だち四人でバンドを組んでるんだ」
 楽譜を閉じながら言うと、兄さんは興味深げにぼくの顔を覗き込む。
「ジャンルは?」
「もちろんロックだよ。海外のハードロック。英語の勉強にもなるでしょ。ぼく、ギターとボーカルをやってるんだよ」
「ボーカルも? 大したもんだな」
「いやあ、そうでもないよ」
 カラオケで一番点が高かったからという理由で決められたのは黙っておこう。

「去年から母さんにボイストレーニングを受けてるんだ」
「へえ。それは本格的だ。うらやましいな」
 母さんは昔、音楽関係の仕事をしていたらしい。ピアノや歌で収入を得ていた時期があるそうだ。
 ぼくが音楽を始めたことを喜んで、仕事の合間にいろいろ教えてくれる。
 兄さんと母さんがぼくの先生だ。

「文化祭ではライブを開くんだ」
「それは見に行きたいな。でも大学があるから無理か。週末とはいえ、移動日を考えたら休まないと来られないし」
 兄さんは残念そうに言うと、ギターをスタンドに立てた。そしてベッドを背もたれにして、床に座り直す。

 ぼくは机の上においたペットボトルのコーラを手にして、兄さんにも一本渡した。
 一口飲むと冷たい刺激が喉を伝わる。エアコンが効いた部屋にいても、全力で弾いた後は体温が上がる。

「文化祭のライブは友だちが録画してくれるよ。そしたらコピーして送るからね」
 そう言うと兄さんは本当に嬉しそうに口元に笑みを浮かべる。この爽やかさがうらやましい。

「兄さんのやってるバンドは……えっと、なんてったっけ」
 スタンダードナンバーのタイトルと同じだったはずだ。
「オーバー・ザ・レインボウだよ」
「それそれ。ライブとかやってるの?」
「夏休み前に初めてソロをやってね。ずっと対バンばかりだったから、お客さんが来るか心配だったけど、それなりに入ってくれてホッとしたよ」

「ビデオある?」
「USBメモリに保存したのを持ってきてたはずだけど……」
 兄さんはバッグからMacBookを取り出して机の上におき、USBメモリを挿してライブ映像を再生してくれた。

 暗くてざわついている中に、ボーカルの独唱が響く。
 それが一瞬止まったタイミングで楽器の演奏が入り、ミラーボールがステージを照らし出した。メンバーは全部で……ああ、五人か。
 いよいよライブのスタートだ。ぼくはなんだか緊張して、思わず拳を握りしめる。

 それはときどきフォーカスがぼけて、素人が撮影しているのが丸解りの映像だった。
 でもライブの臨場感は伝わってくる。画面の左側でギターを弾いているのが兄さんだ。楽しそうだよ。
 へえ、客席に手を振る余裕まであるんだ。

「あっ、この人って……」
 思わず言葉が口をついて出る。
 それはライブが進んでいき、兄さん以外を見る余裕ができたときだ。
 ぼくの体が震えた。

 なんて力強い歌声なんだ。
 全身で歌を表現する彼のエネルギーに、ぼくは圧倒される。
 ところが、バラードになったとたん歌声は表情を変え、聴いているぼくを優しく、そして切なく包んだ。
 ぼくの心はボーカリストの思いのままだ。

 完全にノックアウトされた。
 かなわない。
 年齢差を考えても、ぼくにはここまで表情豊かに表現できない。

 敗北感が胸に広がる。ギター片手に気軽に歌うぼくとは、真剣さも表現力もすべてが違いすぎる。
 尊敬する気持ちと同時に、ぼくの心に嫉妬心が生まれた。
 すごい。でもそれ以上の悔しさに唇をかむ。

「どうした、そんな顔して」
 醜い気持ちに気づかれないように俯いたけれど、勘の鋭い兄さんは気配で察したに違いない。
 ぼくはディスプレイから目を背けたまま、「この……ボーカリスト……」と呟いた。
 兄さんは、そぅか、と言って再生を止めた。

「ハヤトには解ったのか。中学生なのに哲哉てつやの秘めた実力が読み取れるなら、それはハヤトにも可能性があるって証拠だよ」
「……え?」
 慰めの言葉かもしれないけれど、ぼくのしぼんだ心はちょっぴり膨らむ。
「哲哉の歌い方を気にする必要なんて全然ないからね。たしかに迫力も表現力もあるけど、それは哲哉が特別だからなんだ」

 特別、という言葉にぼくは顔をあげた。
「それって、生まれつきの才能があるってこと?」
 哲哉さんという人は、ロックをするために生まれてきたような天才なの?
 ところが兄さんは首を左右に振り、両手を組んで何かを思い出すような遠い目をする。
「違うよ。哲哉にとってロックは、人生そのものだからね」
「それ、どういうこと?」
 解るようで解らない。

「ロックと出会えたから、今の哲哉が哲哉でいられるんだよ」

「音楽との出会いが人を作るってこと? 何かがロックに影響されたの?」
「ある意味その通りだけどね。でもそんな単純な話でもないんだ」
「そうなんだ……」
 今のぼくには、詳しく話されても理解する自信がない。多分その、哲哉さんって人に会うまでは。

「どうした? 哲哉の歌がそんなに気になる?」
「だって……あんなふうに歌えないよ。実力が違いすぎる」
 兄さんはぼくの頭に手を乗せて、くしゃっとなでた。そしてぼくと視線の高さを合わせる。
 なんだよ、子供扱いしてさ。

「ハヤトはまだ中二だろ。哲哉は高三だよ。これだけの年齢差があるんだ。心配しなくていいさ」
「でも高校生になったぼくが、あそこまで歌えるとは思えないよ」
 生まれついての才能は努力しても手に入らない。選ばれた者だけが持てる特別なものだ。
「当たり前さ。あれは哲哉の個性だよ。これまでの生き方がそのまま歌になっているんだ。
 ハヤトがまねてもできるものじゃないし、そんなことしても無意味だよ」

「ぼくには才能がないから無駄なんだね……」
 兄さんの言葉にぼくはまた気持ちがしぼんだ。

「いや、才能とは別の次元なんだ。歌にしても演奏にしても、その人の癖や個性が出るだろ。だから哲哉の歌い方を意識する必要はないんだ。
 ハヤトにはハヤトの歌い方がある。ハヤトにしかできない表現方法がある。無理して哲哉と同じやり方を選ぶ必要はないってことさ」
「つまり、好きに歌っていいってこと?」
 解るような解らないような感じで、ぼくの頭は混乱してくる。

「そうさ。ハヤトはまだ、描き始めた画用紙みたいなものだよ。
 もちろん好きだなって思う歌い方は、どんどん真似していいんだよ。そうじゃないものは……まだ追求しなくていいんじゃないかな。
 まずは自分の目標を見つけるほうが先だ」
 兄さんはそう言うとMacをシャットダウンする。

「手本にするんだったら、なるべくたくさん取り入れるべきだな。好きなボーカリストやギタリストに出会ったら、徹底して聴き込むといいよ。
 それがいつかハヤトの中で化学反応を起こし、新しい個性が生まれるからね。
 そんなふうに成長したハヤトの歌い方やギターの弾き方が楽しみだな」

 兄さんのいうことはちょっと難しかった。
 化学反応なんて理科の授業みたいだ。ビーカーや試験管を持っている自分を想像して、ぼくはますます混乱する。
 でも兄さんと話すのは楽しい。もっといろんな話を聞きたい。一緒に暮らしていたら、たくさん話ができるのに。残念だな。

 ぼくの個性ってどんなのだろう。いつかだれかに何かを伝えられるような、影響を与えられるような音楽を生み出せるかな。
 その日が来たら、麻衣に気づいてもらえる? 大好きな女の子に届くといいな。

 将来に思いを馳せるのは、作文の宿題を考えるより何百倍も楽しいし、ずっと身近な感じがする。
 地球のためっていうテーマは、倉田先輩の言うように環境問題くらいしかないんだろうか。身近なようで違うような気がする。

 まだぼくの中に答えは見つからない。


   ☆  ☆  ☆


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