通りすがりの王子

清水春乃(水たまり)

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番外編

課長久世敦による割り勘の掟 前編

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「課長、確認お願いします」
「おう」

差し出された書類にざっと目を通して、久世は「はい、おっけ」と目の前に立つ人物にそれを戻した。

「え」

何が「え」だよ、と眉を跳ね上げると、先月大阪支社から転勤してきたばかりの部下、有馬ありまゆいが少し怯む。

「あの、よろしいんでしょうか。明日、この条件で先方に最終提案するのですが」
「これでいけるって踏んだんだろう?」
「……はい」
「じゃあ、何も問題ないだろうが」
「もう少しマージンを上積みすべきだとか……」
「はあっ? 折衝分も含めて積んであるんだろう?」
「……はい」

ったく、向こうでどんな上司の下に付いていたんだか。
ふとセコイ勝負をする男の顔が浮かんで、久世は眉を顰めた。

「お前、誰の下に付いていた」
「あちらでですか? 林田課長です」

ビンゴだ。

「更に積んで、通せるのか」
「いえ。結局このラインを基に交渉することになるとは思いますが」
「だったら、無駄なことをするな。そんなやり方は、相手の信用を損なう」

目を何度か瞬かせた有馬は、「了解です」と答えると、薄く微笑んだ。
ふと手許の時計を確認すると、既に八時をまわっている。

「飯でも食ってくか」
「はい?」
「終わったんだろう?」
「ええ」
「じゃあ、とっとと支度して行くぞ」

久世は返事を待たずにデスクの上を片付け、背広を羽織った。

桜井コーポレーションからほど近いこの小料理屋は、酒も飯も美味い上に値段も手頃だ。
路地を一本入った目立たない場所にある、カウンター席だけの小ぢんまりした店なのだが、そういったことに鼻の利くサラリーマンで連日ほぼ満席である。
とはいえ、ウィークデーでこんな時間とくれば、席の確保も容易かった。

「言っておくが、割り勘だからな」

おしぼりで手を拭きつつ久世がそう言うと、隣で同じようにおしぼりを手にしていた有馬の肩から、ふっと力が抜けるのがわかった。

「もちろんです」

彼女はにっこり微笑むと、思わずといったように口にする。

「よかった」
「よかった?」

割り勘を宣言して“よかった”と言われるとは。
怪訝な顔をする久世を他所に、有馬はカウンターに並べられた大皿の上の惣菜に目をやった。

「バツがついて、色々な意味でハードルが下がったと思われたのか、食事のお誘いがそのままの意味でなかったことも、それなりにあったものですから。割り勘からホテルって、まずないですものね」
「あ゛ぁん?」
「課長、ガラ悪いですよ」
「そんな下衆なことをすると思われた、俺の自尊心が吠えたんだよっ」

久世はふん、と鼻を鳴らすと、大皿から適当に料理を注文する。
次々と目の前に並ぶ皿を前にして、有馬が目を輝かせた。

「美味しそう!」
「そうでしょう。実際美味しいのよ」

着物姿の女将がふふ、と笑う。

「冷めないうちに召し上がれ」
「いただきます」

鶏肉の山椒焼きを口にした彼女が、目を閉じほぅとため息を吐く。

「……こっちに転勤してきて良かった」
「大袈裟な」

久世はビールに口を付けながら笑った。

「それほど美味いわけじゃない」

料理のことを言っているのではないと承知の上、茶化す。

「そんなことを言う人は、食べなくてよろしい」
「待て、それは俺の好物のっ!」

久世が袂を押さえた女将の手と、手羽先の甘辛煮を巡る攻防を繰り広げる様子を、有馬はクスクス笑いながら眺めている。
そして、自分に言い聞かせるように口にした。

「本当に良かった。何にもなかったことには出来ないけど、少なくとももう一回、ゼロに近い所からやり直すことが出来るんだから」

そのやけにしみじみした口調は、何かを無理矢理呑み込み、あるいは吹っ切ろうとするかのような苦いものが含まれているように、久世には感じられた。

「――まあ、食え」

有馬の方に、手羽先の甘辛煮の皿を押しやる。

「食って腹を満たせ。腹が満ちれば、自ずと背筋も伸びる。背筋が伸びて頭が上がれば、真っ直ぐ前も見やすかろうよ」
「――え?」
「意地を通すにも、体力が必要ってことだ」

こちらを向いた大きな目が少し潤んだような気がして、久世は慌てて付け加えた。

「どんだけ食っても構わんぞ。俺は自分の食った分だけしか払わないようなみみっちいヤツじゃないからな。きっちり半分出してやる」
「うっわ、久世クン、ケチくさっ」

 混ぜっ返す女将に「うるせー」と言い放ち、久世はビールを呷った。

  * * *

「……課長は、何も聞かないんですね」

お馴染の小料理屋、残業後の割り勘の夕飯を、有馬と既に何度か共にしていた。
互いにしがらみのない独り身であるからして――

「聞いてほしいのか」

離婚に至った経緯を?
諸々の軋轢を?
噂はそれとなく久世の耳にも届いている。
しかし、それを直接本人から聞きたいとは思わなかった。
そしてまたそう思う理由を、久世は敢えて深く考えない。

「そういうわけでは」

有馬が苦笑を漏らす。

「でも、お聞きしたいことは」

何だ、と久世は片眉を跳ね上げた。

「課長は、結婚なさらないんですか」

カウンターに肘を付き、有馬の方に身を乗り出して久世は返す。

「結婚するような相手がいたら、例え割り勘でも、こんな時間こんな場所で、お前と二人きり飯を食ったりしない」
「はいはい、そうでした、課長は意外と操が固いんでしたよね」

有馬はそう軽くあしらうと、重ねて尋ねてきた。

「訂正です。結婚しようと思ったことはないんですか」

久世は、山芋のステーキを頬張りつつ即答する。

「ないな」
「チラとも思わなかったんですか?」
「思わなかったな」
「何でですか?」

何で?
それは難しい質問だ。
こんな歳だし、それなりに付き合った女たちはいた。
しかしその女たちに、永続的な何かを感じたことはない。
一体どうやって、ソレが特別な何かだなんてわかるというのだ?

「――思うに」
「思うに?」
「俺のシンデレラは、ガラスの靴を落とし忘れているんじゃないか」

「しかもまさかのロマンチスト!」と爆笑する有馬の頭を軽く小突き、久世も声を上げて笑った。

「靴がないんじゃ、シンデレラは捜せないですね、王子っ!」
「だな」

そう、恐らく久世のシンデレラは、今日も強化ガラスの靴で、どこぞのオフィスを闊歩してるのだ。
ここではない、遠いどこかの。

「あら、お久しぶり」

その時、女将が歓迎の声を上げた。
引き戸を開けてそこに立っていたのは、我が社の常務であり友人でもある桜井誠と、その身重の細君であった。

「――げ」

久世が呻く。
隣の有馬も目を瞠った。

「――常務?」
「はい、常務ですよー」

細君の方がニヤリと黒い笑みを浮かべて答える。

「これはこれは久世課長、お久しぶりです」
「お前、そんなにでっかい腹でこんな時間に出歩いていいのか」
「だって、どうしてもここの揚げ出し豆腐が食べたくなっちゃったんですもん」
「桜井、何甘やかしてんだよ」

ふふん、と鼻で笑った桜井は、有馬にちらりと遣った視線を久世に戻すと「まあ、そう慌てるな」と言った。

「俺の口は堅いぞ」
「そういうんじゃ、ねぇよ」

久世たちの隣に、あっという間に二人分の席が用意される。
細君の世話を細々と焼いていた桜井は、揚げ出し豆腐を注文すると、徐にこちらに向き直り、少し改まった口調で尋ねてきた。

「――で、そちらは?」
「営業一課の有馬だ。四月に大阪から転勤してきた」
「有馬です。久世課長の下で働かせていただいております」
「そうですか。もうこちらには慣れましたか」

ぶふっと噴き出す細君を、桜井が振り返って睨め付けた。

「お前はっ!」
「だって」

桜井の向こうに座った細君がクスクス笑いながら、久世の背後に座った有馬に向かって身を乗り出す。
聞けば臨月という妊婦には厳しい体勢なんじゃないのか。

「すみません。私が初めて秘書として見まみえた時の対応とあまりに違うから可笑しくて」
「いいか、余計なことを」

言うんじゃない、というセリフを彼女はあっさりスルーした。

「ビジネス英語くらいできるんだろうなって英語で捲し立てた後、欧州とやり取りするんだからドイツ語だって出来ないとなってドイツ語で煽ってきたんです」
「……はい」

目を瞬かせる有馬に、小声で細君は続ける。
いや、小声にしたところで当然聞こえているのであるが。

「だから私、カチンときちゃって。ドイツ語で当然でしょって答えて、フランス語でこっちの方が得意ですけどって言った後、これはまだ勉強中ですけどって中国語でダメ押ししたんです。その時の顔ったら」

さすが、懐刀と言われただけのことはある……初っ端からそんな調子だったとは。
耐えきれずに有馬も噴き出した。

「ほら実里、揚げ出し豆腐だ。これを食ったら、さっさと帰るぞ」

これ以上余計なことを言わせまいと桜井が急かす。

「ええー」
「“ええー”じゃない。腹の子に障るだろう」
「だって誠さん、この子が出てきたら、暫くこんな風に二人きりで出かけるなんてこと、出来なくなるじゃないですか」

驚いたことに、桜井が口籠り赤面した。

「すげぇな」

思わず呟くと、有馬も隣で頷いている。
そして本当に揚げ出し豆腐だけを食べさせると、桜井は「お先に」と言って渋る細君をあっという間に連れ去った。

「……ちょっと常務のイメージが変わりました」
「まぁ、他には黙っていてやってくれ」

このところ、細君を巡ってだいぶ綻びを見せてはいるものの、一応、クールな切れ者で通しているんでな、対外的には。
久世は苦笑する。

「それにしても、随分険悪な状態で始まったみたいなのに、ああいう関係に納まるって不思議ですね」
「それは、まあ、本気でぶつかり合ってきたからじゃないのか、聞いた通りの調子で。あんな風に甘やかすのは、アレがただ甘やかされるだけで良しとする女じゃないってわかっているからだろう」
「なるほど」

蓮根のはさみ揚げを箸で弄びつつ、有馬はぽつりと呟いた。

「……ぶつかることがなかったのは、相性がいいからだと思っていたんですけど。結局、お互いに踏み込まずにいたってことなんですかね。私は相手のことを何もわかっていませんでした」

少し項垂れた頭を、久世はぽんぽんと撫でる。

「揚げ出し豆腐食うか。アレがどうしても食いたいと言うくらいなんだから、美味いんだろう」
「いいですね」

そう頷くと、有馬はふっと微笑んだ。

「三十過ぎて、頭をぽんぽんと撫でられることがあるなんて思いもしませんでした」

俺がそんなことをするとも思わなかったがな。
久世は肩を竦め、揚げ出し豆腐を注文した。
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