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外伝
あのときのアリス
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「早く連れて来いって煩いんだ」
正確に言えば、「逃げられる前に、早く連れてきなさい。千速さんが、うっかり目を覚ますとも限らないでしょう」だったが。
それが、母親がひとり息子に言うセリフか?
しかも、「前科があるでしょう?」とは、どういうことだ。
「楽しみにしているみたいなんだ」
千速は、瑞穂の実家へと招かれた。
* * *
長いアプローチを瑞穂の車で抜けている時から、何となく感じてはいた。
にこやかに出迎えてくれた瑞穂の両親と、玄関先で挨拶を交わした時にも。
どうぞ、とリビングに案内され、そのリビングに続くサンルームを見た瞬間。
千速は目を丸くして、足を止めた。
振り返って瑞穂の母を見ると、それはそれは楽しそうに、
「思い出した?」
と言って微笑んだ。
隣で瑞穂が、眉間に僅かなしわを寄せて
「何を」
と尋ねる。
千速は瑞穂の顔を見上げると、まじまじと眺めた。
額に掛かる、癖のない艶やかな黒髪。
涼やかな目元。
引き結ばれた薄い唇。
かすかに痕跡を刻むえくぼ。
――そうか。
この人は、こんな風に面影を残しているのだ。
おもむろに人差し指で、瑞穂の眉間をクイクイとこすると、
「そんな難しい顔してると、皺が出来ちゃうよ、瑞穂クン」
千速はにっこり笑った。
「ずっと昔も、そんな風に難しい顔してた」
* * *
玄関先で二組の親子は固まっていた。
お互いの子供を見て、困惑を隠せずにいる。
「あら」
「まあ」
招待した方は、それでも気を取り直し、
「とりあえず、上がってちょうだい」
と言った後、ぷ、と吹き出した。
招待された方も、
「では、お邪魔します」
と答えた後、くす、と笑った。
「やだ、私達ったら」
「思い込みって、危険ですわね」
社交の場で出会った二人は、立場も年齢も近かったということから話が合い、しかもお互いに同性の同い年の子供がいるということで、では、今度子供も一緒にお茶でも……という話になったのだった。
子供達はといえば、お互いに
「同い年の男の子が遊びに来るわよ」
「同い年の女の子がいるところへ遊びに行くわよ」
と言われており、いざ向かい合ってみれば、相手が女の子であり男の子であることに、少なからぬ肩透かしを食らった気分だった。
「千速ちゃん、だったのね」
「瑞穂くん、だったのね」
「でも、同い年ですものね?」
「それなりに、遊ぶのではないかしら?」
そう言って母親達は、薄情にも
「遊んでらっしゃい」
と二人を放り出した。
五歳とはいえ、既にオトコはオトコ、であり、オンナはオンナ、なのであるが、その辺の機微は都合よく忘れ去られた。
「僕は今日、男の子と遊ぶつもりでいたんだ。幼稚園でだって、女の子とは遊ばない」
明るいサンルームまで歩いてくると、瑞穂は不機嫌そうに言った。
「なんで?」
不思議そうに千速は首を傾げる。
私は、幼稚園で男の子とも女の子とも遊ぶけど。
「女の子は面倒だ。泣いたり、拗ねたり、わめいたり」
それは、男の子だって同じ。
男の子の方が、もっと聞き分けがなくて単純な分、面倒。
力に頼ろうとするし。
千速はそう思ったけれど、それを口にはせず、瑞穂の眉間に指をぴた、と当てるとクイクイとこすった。
「おっかないお顔してると、そのまんまになっちゃうよ」
それから、にっこり笑う。
「千速は、お兄ちゃまがいるから、男の子の遊びもできるよ。何して遊ぶ?」
瑞穂はムッとした。
幼稚園では、ある意味王子である瑞穂に対して、こんな風に勝手に話を進める女の子などいない。
置いてあるボードゲームなどを眺めながら、千速は聞いた。
「瑞穂くんは何月生まれ?」
「六月」
「千速は五月。じゃあ、千速がお姉さんだ」
女の子は、くるり、と振り返って、くふふ、と笑う。
瑞穂は、益々不機嫌そうな顔になった。
「将棋盤だー。将棋するの?」
「回り将棋や、はさみ将棋はやらない」
「本将棋だよ」
「勝負する?」
瑞穂は将棋盤と駒を持って、サンルームのソファーに陣取った。
何が、お姉さんだ。
一ヶ月しか違わないのに!
「王手」
「……」
何度かかわしたものの、もう数度詰められていた。
子供同士の将棋で、ここまで瑞穂が追い込まれることはなかった。
オンナのくせに、本将棋が出来るなんて。
しかも強いなんて。
瑞穂の前に座る千速は、小首をかしげて瑞穂の次の手を待っている。
「待った」をかけるのは、五歳とはいえオトコのプライドが許さない。
瑞穂は、唇を噛んだ。
その時、千速が庭を指差して、
「ねぇ、瑞穂くん、あれってブランコ?」
と尋ねた。
庭には楓の大木があり、その大きな枝から卵を斜めに切ったような形の、籐のブランコが下げられていた。
「そうだけど」
「すごいね! 千速、乗りたい!」
瑞穂は逡巡した。
「……まだ、勝負がついてない」
千速は、難しい顔をしている瑞穂の視線を捕らえると、ニコリと笑いかけた。
「お願い」
大きな猫目が、ワクワクしている気分を映して、きらきら輝いている。
瑞穂は勝負に拘っている自分が、急に馬鹿らしくなった。
――まぁ、負けることもあるさ。
「いいよ」
そういって立ち上がると、やったぁ! と喜ぶ千速を庭先に案内した。
「……将棋、強いね」
ブランコ目指して走りながら、瑞穂は隣の千速に言った。
「お兄ちゃまに教えてもらったの。千速のお兄ちゃまは、格好良くて、頭が良くて、優しくて、運動も出来るの」
瑞穂は少し面白くない。
幼稚園では、いつだって何だって、瑞穂が一番よく出来た。
隣を走る女の子は、リボンをつけたツインテールをぴょんぴょんさせながら、楽しそうにスキップしている。
水色のワンピースの裾が、フワフワ跳ねた。
ブランコは、子供二人が仲良く並んで座れる大きさだった。
ゆっくりと揺らすと、木漏れ日がちらちらと落ちてきて、涼やかな風が千速のスカートを揺らし、瑞穂の前髪をさらりとはねていった。
「すてきー」
「ここで本を読むと気持ちいいんだ」
卵の殻の中に納まるみたいにして、ふたりは体を寄せあって、穏やかな午後の庭を眺めながら揺れていた。
暫くしてブランコから、ぴょん、と飛び降りると、千速は空に向かって伸びている大きな木の枝を見上げる。
風に揺れて、生い茂った葉がザワザワと音を立てていた。
「大きな木だねー」
「木登りも出来るんだ」
枝振りがちょうど子供の木登りにも適していて、ブランコの吊るしてある枝よりも少し上が、瑞穂の秘密基地であった。
「男の子の遊びも出来るんでしょ? 木登りもする?」
瑞穂はちょっぴり意地悪な気分で言った。
こんなフリフリのワンピースを着ていたら、汚すのが嫌できっと断るだろう。
だけど。
自分の秘密基地に案内したい。
あの特別な場所を見せてあげたい、そんな淡い好意を抱いてもいた。
千速は自分のワンピースを見下ろして、少し躊躇ったが、うん! と頷く。
「男の子の遊びもできるよ!」と言うだけあって、千速は木登りも上手だった。
瑞穂の秘密基地に座って足をブラブラさせ、こっそり隠された瑞穂の「宝物」を一緒に検分した。
「お茶にするわよー。戻ってらっしゃい」
庭先に出たはずの、ブランコにいたはずの子供たちの姿が見えず、瑞穂の母はそう呼びかけながら周囲を見渡す。
すると、楓の木の上に瑞穂だけでなく、千速の姿も認めて大いに慌てた。
「危ないから、ちょっと待って!」
もちろん、そんな言葉はあっさり無視され、瑞穂は枝を少し降りたところから、ぴょん、と飛び降り、ニヤリと笑って千速を見上げた。
千速もニヤリと笑って、当然瑞穂の後に続く。
大丈夫。お家でも、木登りはしているもの。
スカートをはためかせて無事地面に着地した千速だったが、水色のワンピースは、途中の枝に引っかかり、ビリッと音を立てて、スカートに大きな裂け目が出来ていた。
しまった、と瑞穂の顔が歪む。
千速は、裂けてしまったスカートを振り返り、硬直した。
「どうしよう」
大きな目が涙をためて瞬いた。
お兄ちゃまが、よく似合うねって褒めてくれたワンピースなのに。
「泣かないで。一緒に謝ってあげる」
瑞穂が、千速の頭を撫でながら言った。
ごめんね、僕が木登りに誘ったりしたから。
千速は、涙をいっぱいためた瞳で、瑞穂を見つめた。
ああ、涙がこぼれそうだ。
瑞穂は千速のほっぺたを両手で包むと、ちゅっとキスをした。
その瞬間、声にならない叫びが後ろから発せられて、瑞穂の首元が、グイと引かれる。
「――瑞穂っ!」
瑞穂の母が、肩で息をして仁王立ちしていた。
後からやってきた千速の母が口元を押さえて、あらまあ、と呟く。
びっくりして、千速の涙が引っ込んだ。
「な、何やってんのっ!」
「マコくんが、女の子が泣いていたら、キスすれば泣き止むって言ってた」
「……あのワルガキ」
その後、クスクス笑う千速の母のとりなしで、裂けたスカートも、キスも、「仕方ないわね」のひと言で、片付けられた。
但し、危ないことはしないように、ときつく言い渡されて。
* * *
あの後――
「あの後、ずっと会わなかったね」
「あの後?」
瑞穂はまだ思い出さない。
――またいつか、あそぼ。
千速はサンルームまで歩いていくと、瑞穂を振り返って
「王手」
と駒を指すまねをした。
瑞穂の眉間の皺が徐々に晴れて、目が驚愕に見開かれる。
「お前。あのときのアリス」
水色のフワフワのワンピースを着た、ツインテールのアリス。
名前の記憶が薄れ、顔立ちの記憶が薄れ。瑞穂の中では、あの時千速が着ていた水色のフワフワのワンピースとツインテール、クスクスというい笑い声だけが――アリスみたいな女の子のイメージだけが強く残った。
「何、アリスって」
千速が不思議そうに言う。
「水色のワンピース」
「やだ。それだけでアリス?」
瑞穂が、首を振って笑いながら尋ねた。
「……あの時、お前わざと将棋を止めたのか?」
霞んでいた面影が、焦点を合わせる。
そうだ。
この、大きな猫目。
悪戯そうな、輝き。
千速は、肩をすくめて
「竜兄に、オトコを追い詰めちゃいけないって教えられていたもの」
そう言って笑った。
「……敵わないな」
「お茶が入ったわよ」
瑞穂の母が二人を呼ぶ。
瑞穂は千速のもとまで歩いていくと、顔を覗き込んだ。
「木登りは、まだする?」
「……そうね。スカートじゃなかったら」
二人は顔を見合わせて微笑み、サンルームを後にしてリビングに向かう。
「秘密基地はまだあるの?」
「どうだったかな。まだ何か残っているかも」
二人の気持ちをつなぐ、小さな思い出のかけらが。
************************************************
実は昔、一度会っていた二人。
千速の「幼稚園の時にしたキス」というのが、コレでした。
そして、マコくんとは、当然、桜井 誠氏です(笑) 当時中学生。
ご指摘を受けまして、誤字修正しました。ありがとうございました。
大分前にご指摘いただいており、修正したつもりが直っておらず・・
大変遅くなりました。
正確に言えば、「逃げられる前に、早く連れてきなさい。千速さんが、うっかり目を覚ますとも限らないでしょう」だったが。
それが、母親がひとり息子に言うセリフか?
しかも、「前科があるでしょう?」とは、どういうことだ。
「楽しみにしているみたいなんだ」
千速は、瑞穂の実家へと招かれた。
* * *
長いアプローチを瑞穂の車で抜けている時から、何となく感じてはいた。
にこやかに出迎えてくれた瑞穂の両親と、玄関先で挨拶を交わした時にも。
どうぞ、とリビングに案内され、そのリビングに続くサンルームを見た瞬間。
千速は目を丸くして、足を止めた。
振り返って瑞穂の母を見ると、それはそれは楽しそうに、
「思い出した?」
と言って微笑んだ。
隣で瑞穂が、眉間に僅かなしわを寄せて
「何を」
と尋ねる。
千速は瑞穂の顔を見上げると、まじまじと眺めた。
額に掛かる、癖のない艶やかな黒髪。
涼やかな目元。
引き結ばれた薄い唇。
かすかに痕跡を刻むえくぼ。
――そうか。
この人は、こんな風に面影を残しているのだ。
おもむろに人差し指で、瑞穂の眉間をクイクイとこすると、
「そんな難しい顔してると、皺が出来ちゃうよ、瑞穂クン」
千速はにっこり笑った。
「ずっと昔も、そんな風に難しい顔してた」
* * *
玄関先で二組の親子は固まっていた。
お互いの子供を見て、困惑を隠せずにいる。
「あら」
「まあ」
招待した方は、それでも気を取り直し、
「とりあえず、上がってちょうだい」
と言った後、ぷ、と吹き出した。
招待された方も、
「では、お邪魔します」
と答えた後、くす、と笑った。
「やだ、私達ったら」
「思い込みって、危険ですわね」
社交の場で出会った二人は、立場も年齢も近かったということから話が合い、しかもお互いに同性の同い年の子供がいるということで、では、今度子供も一緒にお茶でも……という話になったのだった。
子供達はといえば、お互いに
「同い年の男の子が遊びに来るわよ」
「同い年の女の子がいるところへ遊びに行くわよ」
と言われており、いざ向かい合ってみれば、相手が女の子であり男の子であることに、少なからぬ肩透かしを食らった気分だった。
「千速ちゃん、だったのね」
「瑞穂くん、だったのね」
「でも、同い年ですものね?」
「それなりに、遊ぶのではないかしら?」
そう言って母親達は、薄情にも
「遊んでらっしゃい」
と二人を放り出した。
五歳とはいえ、既にオトコはオトコ、であり、オンナはオンナ、なのであるが、その辺の機微は都合よく忘れ去られた。
「僕は今日、男の子と遊ぶつもりでいたんだ。幼稚園でだって、女の子とは遊ばない」
明るいサンルームまで歩いてくると、瑞穂は不機嫌そうに言った。
「なんで?」
不思議そうに千速は首を傾げる。
私は、幼稚園で男の子とも女の子とも遊ぶけど。
「女の子は面倒だ。泣いたり、拗ねたり、わめいたり」
それは、男の子だって同じ。
男の子の方が、もっと聞き分けがなくて単純な分、面倒。
力に頼ろうとするし。
千速はそう思ったけれど、それを口にはせず、瑞穂の眉間に指をぴた、と当てるとクイクイとこすった。
「おっかないお顔してると、そのまんまになっちゃうよ」
それから、にっこり笑う。
「千速は、お兄ちゃまがいるから、男の子の遊びもできるよ。何して遊ぶ?」
瑞穂はムッとした。
幼稚園では、ある意味王子である瑞穂に対して、こんな風に勝手に話を進める女の子などいない。
置いてあるボードゲームなどを眺めながら、千速は聞いた。
「瑞穂くんは何月生まれ?」
「六月」
「千速は五月。じゃあ、千速がお姉さんだ」
女の子は、くるり、と振り返って、くふふ、と笑う。
瑞穂は、益々不機嫌そうな顔になった。
「将棋盤だー。将棋するの?」
「回り将棋や、はさみ将棋はやらない」
「本将棋だよ」
「勝負する?」
瑞穂は将棋盤と駒を持って、サンルームのソファーに陣取った。
何が、お姉さんだ。
一ヶ月しか違わないのに!
「王手」
「……」
何度かかわしたものの、もう数度詰められていた。
子供同士の将棋で、ここまで瑞穂が追い込まれることはなかった。
オンナのくせに、本将棋が出来るなんて。
しかも強いなんて。
瑞穂の前に座る千速は、小首をかしげて瑞穂の次の手を待っている。
「待った」をかけるのは、五歳とはいえオトコのプライドが許さない。
瑞穂は、唇を噛んだ。
その時、千速が庭を指差して、
「ねぇ、瑞穂くん、あれってブランコ?」
と尋ねた。
庭には楓の大木があり、その大きな枝から卵を斜めに切ったような形の、籐のブランコが下げられていた。
「そうだけど」
「すごいね! 千速、乗りたい!」
瑞穂は逡巡した。
「……まだ、勝負がついてない」
千速は、難しい顔をしている瑞穂の視線を捕らえると、ニコリと笑いかけた。
「お願い」
大きな猫目が、ワクワクしている気分を映して、きらきら輝いている。
瑞穂は勝負に拘っている自分が、急に馬鹿らしくなった。
――まぁ、負けることもあるさ。
「いいよ」
そういって立ち上がると、やったぁ! と喜ぶ千速を庭先に案内した。
「……将棋、強いね」
ブランコ目指して走りながら、瑞穂は隣の千速に言った。
「お兄ちゃまに教えてもらったの。千速のお兄ちゃまは、格好良くて、頭が良くて、優しくて、運動も出来るの」
瑞穂は少し面白くない。
幼稚園では、いつだって何だって、瑞穂が一番よく出来た。
隣を走る女の子は、リボンをつけたツインテールをぴょんぴょんさせながら、楽しそうにスキップしている。
水色のワンピースの裾が、フワフワ跳ねた。
ブランコは、子供二人が仲良く並んで座れる大きさだった。
ゆっくりと揺らすと、木漏れ日がちらちらと落ちてきて、涼やかな風が千速のスカートを揺らし、瑞穂の前髪をさらりとはねていった。
「すてきー」
「ここで本を読むと気持ちいいんだ」
卵の殻の中に納まるみたいにして、ふたりは体を寄せあって、穏やかな午後の庭を眺めながら揺れていた。
暫くしてブランコから、ぴょん、と飛び降りると、千速は空に向かって伸びている大きな木の枝を見上げる。
風に揺れて、生い茂った葉がザワザワと音を立てていた。
「大きな木だねー」
「木登りも出来るんだ」
枝振りがちょうど子供の木登りにも適していて、ブランコの吊るしてある枝よりも少し上が、瑞穂の秘密基地であった。
「男の子の遊びも出来るんでしょ? 木登りもする?」
瑞穂はちょっぴり意地悪な気分で言った。
こんなフリフリのワンピースを着ていたら、汚すのが嫌できっと断るだろう。
だけど。
自分の秘密基地に案内したい。
あの特別な場所を見せてあげたい、そんな淡い好意を抱いてもいた。
千速は自分のワンピースを見下ろして、少し躊躇ったが、うん! と頷く。
「男の子の遊びもできるよ!」と言うだけあって、千速は木登りも上手だった。
瑞穂の秘密基地に座って足をブラブラさせ、こっそり隠された瑞穂の「宝物」を一緒に検分した。
「お茶にするわよー。戻ってらっしゃい」
庭先に出たはずの、ブランコにいたはずの子供たちの姿が見えず、瑞穂の母はそう呼びかけながら周囲を見渡す。
すると、楓の木の上に瑞穂だけでなく、千速の姿も認めて大いに慌てた。
「危ないから、ちょっと待って!」
もちろん、そんな言葉はあっさり無視され、瑞穂は枝を少し降りたところから、ぴょん、と飛び降り、ニヤリと笑って千速を見上げた。
千速もニヤリと笑って、当然瑞穂の後に続く。
大丈夫。お家でも、木登りはしているもの。
スカートをはためかせて無事地面に着地した千速だったが、水色のワンピースは、途中の枝に引っかかり、ビリッと音を立てて、スカートに大きな裂け目が出来ていた。
しまった、と瑞穂の顔が歪む。
千速は、裂けてしまったスカートを振り返り、硬直した。
「どうしよう」
大きな目が涙をためて瞬いた。
お兄ちゃまが、よく似合うねって褒めてくれたワンピースなのに。
「泣かないで。一緒に謝ってあげる」
瑞穂が、千速の頭を撫でながら言った。
ごめんね、僕が木登りに誘ったりしたから。
千速は、涙をいっぱいためた瞳で、瑞穂を見つめた。
ああ、涙がこぼれそうだ。
瑞穂は千速のほっぺたを両手で包むと、ちゅっとキスをした。
その瞬間、声にならない叫びが後ろから発せられて、瑞穂の首元が、グイと引かれる。
「――瑞穂っ!」
瑞穂の母が、肩で息をして仁王立ちしていた。
後からやってきた千速の母が口元を押さえて、あらまあ、と呟く。
びっくりして、千速の涙が引っ込んだ。
「な、何やってんのっ!」
「マコくんが、女の子が泣いていたら、キスすれば泣き止むって言ってた」
「……あのワルガキ」
その後、クスクス笑う千速の母のとりなしで、裂けたスカートも、キスも、「仕方ないわね」のひと言で、片付けられた。
但し、危ないことはしないように、ときつく言い渡されて。
* * *
あの後――
「あの後、ずっと会わなかったね」
「あの後?」
瑞穂はまだ思い出さない。
――またいつか、あそぼ。
千速はサンルームまで歩いていくと、瑞穂を振り返って
「王手」
と駒を指すまねをした。
瑞穂の眉間の皺が徐々に晴れて、目が驚愕に見開かれる。
「お前。あのときのアリス」
水色のフワフワのワンピースを着た、ツインテールのアリス。
名前の記憶が薄れ、顔立ちの記憶が薄れ。瑞穂の中では、あの時千速が着ていた水色のフワフワのワンピースとツインテール、クスクスというい笑い声だけが――アリスみたいな女の子のイメージだけが強く残った。
「何、アリスって」
千速が不思議そうに言う。
「水色のワンピース」
「やだ。それだけでアリス?」
瑞穂が、首を振って笑いながら尋ねた。
「……あの時、お前わざと将棋を止めたのか?」
霞んでいた面影が、焦点を合わせる。
そうだ。
この、大きな猫目。
悪戯そうな、輝き。
千速は、肩をすくめて
「竜兄に、オトコを追い詰めちゃいけないって教えられていたもの」
そう言って笑った。
「……敵わないな」
「お茶が入ったわよ」
瑞穂の母が二人を呼ぶ。
瑞穂は千速のもとまで歩いていくと、顔を覗き込んだ。
「木登りは、まだする?」
「……そうね。スカートじゃなかったら」
二人は顔を見合わせて微笑み、サンルームを後にしてリビングに向かう。
「秘密基地はまだあるの?」
「どうだったかな。まだ何か残っているかも」
二人の気持ちをつなぐ、小さな思い出のかけらが。
************************************************
実は昔、一度会っていた二人。
千速の「幼稚園の時にしたキス」というのが、コレでした。
そして、マコくんとは、当然、桜井 誠氏です(笑) 当時中学生。
ご指摘を受けまして、誤字修正しました。ありがとうございました。
大分前にご指摘いただいており、修正したつもりが直っておらず・・
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