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その一年のエピソード
陣中見舞い
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年が明けて、瑞穂の父貴穂も療養を終え現場に復帰した。
とはいっても、体調を見ながら限定的に、ではあるが。
それに伴い、瑞穂は営業本部長という正式役職名がついた。
「叔父さん、わざとですね」
不在の間の労をねぎらう叔父に、恵吾がさり気なく問い質した。
「わざと、瑞穂をひとりで放り出すようなことをしたでしょう」
貴穂は、さて何のことやら、と惚けたが、
「まぁ、どうにも立ち行かなくなったら出張るつもりでいたが、私の後を付いて回らせるより、遥かに効果的に顔と実力が売れただろう」
とニヤリとした。
――この狸め。
恵吾はピクリ、と口元を歪め尋ねた。
「……失敗するかもとは、思わなかったんですか」
「それなりに、奴の実力を買っているからね。まぁ、この程度で足を引っ張られてコケるようなら、器じゃないってことだ」
親というより、厳しい経営者の顔をちらりと見せて、貴穂は言い放った。
「それに、お前が付いていてくれるのがわかっていたからな」
「……」
「何だ。何か言いたそうだな」
お陰で、俺も瑞穂も えらい大変な目に遭いましたからね、と恵吾は思う。
が、言っても詮の無いことだ。
この叔父は、承知で負荷をかけたのだから。
しかし。
「このままなし崩しに瑞穂に権限委譲して、華絵叔母さんと楽隠居、なんて許しませんからね」
「……そんなことは、考えておらん」
いささか後ろめたそうな顔をして、貴穂は答えた。
「お前、可愛くないぞ。そういうことは、わかっていても口にしないでおくものだ」
「引退するなら、どうしようもない爺どもに、きちんと引導を渡してからにして下さいね。順調に片付けても十年くらいですかね? その間は前面で活躍していただきますから、体調には充分留意して下さいよ」
十年もか……と呟く貴穂に、恵吾は容赦なく追い打ちをかける。
「もっと早く引退したかったら、瑞穂をさっさと一人前に仕上げるんですね。能力的なものは、昨年の代理業務で瑕疵なしと証明できたはずです。内部の不穏分子もあぶり出せたようですし……」
叔父さん、この状況を利用したでしょう、と恵吾は、叔父を冷ややかに見つめた。
「その辺りをさっさと掃除して、瑞穂の環境を整えてやって下さい。……ついては、社長」
ここで、カチ、と公のスイッチが入った。
「瑞穂を、新年の挨拶がてら、こちらのリストの経営者と顔合わせさせてやって下さい」
「……復帰したばかりの社長に対して、容赦ない仕事の振り方だな」
貴穂は苦笑して、リストの一覧に目を通すと、
「私の秘書にスケジュール調整させなさい。その際は、お前も同席するように」
そう言って、社長の顔に戻り、行け、と手を振った。
* * *
『限定的ではあるが、親父が、無事復帰を果たした』
瑞穂からメールが届いた。
『おめでとう。良かったね。瑞穂も体に気をつけて』
と返す。
少しは時間が出来たのかしら?
相変わらずの、業務連絡ぶりなんですけど。
そう思う千速であったが、こちらも新年の挨拶に、父、兄と同席させられて多忙な休日を過ごしていた。
* * *
一方、瑞穂も父の側に控えて、新年の挨拶を受けることが続いていた。
似たような人脈に接するが、出会うことは無い。
しかし、お互いにお互いの、それとない噂を耳にするのであった。
「いや、復帰おめでとうございます」
で始まり、世間話のついでに
「加藤建設さんにもご挨拶にお伺いしましてね。例年社長とご子息のお二人でしたが、今年はご令嬢も同席されておられて。あんなに美しいお嬢さんがいらっしゃるとは、存じませんでしたよ」
などと耳にすること数回。
表情は変わらないものの、ピクリと反応する瑞穂に、父と恵吾は気付いているだろう。
何故、今、表に出始めた……
自分が身動きの取りにくいこんな時期に、と瑞穂は苦々しく思う。
『滝川重機の社長が、年明けの挨拶で千速に会ったと言っていた』
メールを送る。
『そう?面白い社長さんだった』
返信を見て、瑞穂は眉を顰める。
自分が聞きたいのは、そういうことではない。
『何故、同席をすることに?』
イライラしながら返信を待つ。
そしてまた、あっけない答えが。
『休日に秘書をわざわざ呼び出すのも可哀想だから、お前が代わりにどうだ、どうせ暇だろう、と父に言われたの。確かに暇だし(笑)』
千速の父の何らかの思惑もあるのだろうが――
頼むから、自分が迎えに行くと約束した時まで、大人しく、ひっそりと、過ごしていてくれないだろうか。
余計な心配をしないで済むように。
しかも、自分の身にも、予想はしていたことであるが、様々な、そして巧妙なトラップが用意されることが増えた。
「是非一度、ご子息も交えて会食を」
などという誘いに、仕方なく父に同行してみれば、先方には、社長令嬢が着飾って伴われていたりするのだ。
社長である父不在中も、滞りなく大企業の舵取りをこなした、
そんな実績が、将来有望な後継者、婿候補として瑞穂の名を高めた。
自分が、意図しない所で、憶測をたっぷり含んだ自分の噂が流れる。
恐らく、千速もそれを耳にしているだろうが、それを問い質すメールが送られてくることはない。
それは、ある意味千速らしくもあり……
業務連絡は続く。
* * *
「ところで、瑞穂が面白いことになっているのをご存知ですか?」
恵吾が、貴穂に探りを入れた。
貴穂はふっふっと笑った。
「お前も気付いたか」
「この所、表向き見せませんがイライラしています」
貴穂が、少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「私が倒れたせいで、瑞穂は獲物を狩り損ねているんだよ」
「……獲物、ですか」
恵吾は、終わったクリスマスパーティーの招待状を手にしていた瑞穂を思い出した。
パーティー前は、社内の重鎮達からも足を引っ張られることが多く、自分も瑞穂も、肉体的にも精神的にも追い詰められていたように思う。
思い通りに運ばない諸々に、イライラを募らせていた時だった。
夕飯をとる暇もなく、二人とも残業で遅くまで残っていたある日。
徐に引き出しを開けた瑞穂が、恵吾に向かって何かを放り投げた。
肩に当たったそれを拾い上げてみると、紙に包まれたチョコレートだった。
キオスクで売られているような、個包装されて紙箱に入っているようなもの。
「お前、酷い顔してる。しんどい時ほど、この程度のこと何てことないって顔をしていろ。俺たちには、これを乗り越える知恵も、力も、時間もある」
そう言って、自分でもひとつ口に入れた。
あの瑞穂が、安物のチョコレートをデスクに常備とか?
「……何でこんなもの」
「体が元気になると、気持ちも元気になるんだと」
恵吾も紙を剥き、口に放り込んだ。
じんわりと広がる甘みが心地よく、確かに、体が糖分を求めていた、と訴えているようだ。
「誰が、そんなことを?」
同じようなシチュエーションがあったかのような言い方だ。
「……俺の獲物」
「?」
少し淋しそうに口角を歪めた瑞穂だったが、次の瞬間には
「血糖値上げて、乗り切るぞ」
と、いつもの冷静な、表情に変わったのだった。
結局、パーティーの成功によって、瑞穂の力量が認められることになり、その他諸々のことも、嘘のようにスムーズに進むようになった。
そして今は、父が復帰したことで、後ろ盾を得て磐石の立場に立っている。
―――あの時、瑞穂は俺の獲物と言っていた。
あの招待状の宛名は。
「その獲物の仕業ですかね。年末には、あの瑞穂が、女に一方的に通話を切られてましたね」
貴穂は、ぶわっはっはっ、と大笑いしながら、
「そうか、そうか。そうだろうとも」
と頷いていた。
「ご存知なんですか?」
「ん? まあな。お前も、そのうちにお目にかかるだろう。瑞穂を面白いことにしているのは、間違いなくその獲物だろうな」
時々――そう、一日に一度、多くて二度。
着信したメールを眺めて、表情を緩める瑞穂がいる。
側にいるからこそ、わかる。
大した長さもない、メールだ。
そのメールが、瑞穂の緊張を解く。
そしてまた、このところのイライラ……
それをもたらしているのも、その獲物。
恐らく、その獲物に関する噂が、原因だ。
―――さて。どうしたものか。
が、バレンタインの翌日、それはあっさり解決された。
小さな紙バッグを下げて、迎えの車に乗り込んだ瑞穂は、非常に機嫌がよかった。
「何か、あったのか?」
「いや、何も」
……何かあったことは、悪いが丸わかりだ。
あのイライラはどこへ行った。
社に着き自分の部屋に入ると、瑞穂は真直ぐにデスクに向かい、紙バッグから、チョコレート――例の、キオスクで買えるタイプの安価なもの――を大量に取り出すと、大事そうに引き出しに納めた。
――!?
何でまた、そんな安物のチョコレート?
バレンタインなのに?
「どうしたんですか、それは?」
思わず口にした疑問に、
「陣中見舞い。獲物からの」
瑞穂が、甘やかな微笑を浮かべて恵吾を見上げた。
……なるほど。
只者ではない、と了解した。
とはいっても、体調を見ながら限定的に、ではあるが。
それに伴い、瑞穂は営業本部長という正式役職名がついた。
「叔父さん、わざとですね」
不在の間の労をねぎらう叔父に、恵吾がさり気なく問い質した。
「わざと、瑞穂をひとりで放り出すようなことをしたでしょう」
貴穂は、さて何のことやら、と惚けたが、
「まぁ、どうにも立ち行かなくなったら出張るつもりでいたが、私の後を付いて回らせるより、遥かに効果的に顔と実力が売れただろう」
とニヤリとした。
――この狸め。
恵吾はピクリ、と口元を歪め尋ねた。
「……失敗するかもとは、思わなかったんですか」
「それなりに、奴の実力を買っているからね。まぁ、この程度で足を引っ張られてコケるようなら、器じゃないってことだ」
親というより、厳しい経営者の顔をちらりと見せて、貴穂は言い放った。
「それに、お前が付いていてくれるのがわかっていたからな」
「……」
「何だ。何か言いたそうだな」
お陰で、俺も瑞穂も えらい大変な目に遭いましたからね、と恵吾は思う。
が、言っても詮の無いことだ。
この叔父は、承知で負荷をかけたのだから。
しかし。
「このままなし崩しに瑞穂に権限委譲して、華絵叔母さんと楽隠居、なんて許しませんからね」
「……そんなことは、考えておらん」
いささか後ろめたそうな顔をして、貴穂は答えた。
「お前、可愛くないぞ。そういうことは、わかっていても口にしないでおくものだ」
「引退するなら、どうしようもない爺どもに、きちんと引導を渡してからにして下さいね。順調に片付けても十年くらいですかね? その間は前面で活躍していただきますから、体調には充分留意して下さいよ」
十年もか……と呟く貴穂に、恵吾は容赦なく追い打ちをかける。
「もっと早く引退したかったら、瑞穂をさっさと一人前に仕上げるんですね。能力的なものは、昨年の代理業務で瑕疵なしと証明できたはずです。内部の不穏分子もあぶり出せたようですし……」
叔父さん、この状況を利用したでしょう、と恵吾は、叔父を冷ややかに見つめた。
「その辺りをさっさと掃除して、瑞穂の環境を整えてやって下さい。……ついては、社長」
ここで、カチ、と公のスイッチが入った。
「瑞穂を、新年の挨拶がてら、こちらのリストの経営者と顔合わせさせてやって下さい」
「……復帰したばかりの社長に対して、容赦ない仕事の振り方だな」
貴穂は苦笑して、リストの一覧に目を通すと、
「私の秘書にスケジュール調整させなさい。その際は、お前も同席するように」
そう言って、社長の顔に戻り、行け、と手を振った。
* * *
『限定的ではあるが、親父が、無事復帰を果たした』
瑞穂からメールが届いた。
『おめでとう。良かったね。瑞穂も体に気をつけて』
と返す。
少しは時間が出来たのかしら?
相変わらずの、業務連絡ぶりなんですけど。
そう思う千速であったが、こちらも新年の挨拶に、父、兄と同席させられて多忙な休日を過ごしていた。
* * *
一方、瑞穂も父の側に控えて、新年の挨拶を受けることが続いていた。
似たような人脈に接するが、出会うことは無い。
しかし、お互いにお互いの、それとない噂を耳にするのであった。
「いや、復帰おめでとうございます」
で始まり、世間話のついでに
「加藤建設さんにもご挨拶にお伺いしましてね。例年社長とご子息のお二人でしたが、今年はご令嬢も同席されておられて。あんなに美しいお嬢さんがいらっしゃるとは、存じませんでしたよ」
などと耳にすること数回。
表情は変わらないものの、ピクリと反応する瑞穂に、父と恵吾は気付いているだろう。
何故、今、表に出始めた……
自分が身動きの取りにくいこんな時期に、と瑞穂は苦々しく思う。
『滝川重機の社長が、年明けの挨拶で千速に会ったと言っていた』
メールを送る。
『そう?面白い社長さんだった』
返信を見て、瑞穂は眉を顰める。
自分が聞きたいのは、そういうことではない。
『何故、同席をすることに?』
イライラしながら返信を待つ。
そしてまた、あっけない答えが。
『休日に秘書をわざわざ呼び出すのも可哀想だから、お前が代わりにどうだ、どうせ暇だろう、と父に言われたの。確かに暇だし(笑)』
千速の父の何らかの思惑もあるのだろうが――
頼むから、自分が迎えに行くと約束した時まで、大人しく、ひっそりと、過ごしていてくれないだろうか。
余計な心配をしないで済むように。
しかも、自分の身にも、予想はしていたことであるが、様々な、そして巧妙なトラップが用意されることが増えた。
「是非一度、ご子息も交えて会食を」
などという誘いに、仕方なく父に同行してみれば、先方には、社長令嬢が着飾って伴われていたりするのだ。
社長である父不在中も、滞りなく大企業の舵取りをこなした、
そんな実績が、将来有望な後継者、婿候補として瑞穂の名を高めた。
自分が、意図しない所で、憶測をたっぷり含んだ自分の噂が流れる。
恐らく、千速もそれを耳にしているだろうが、それを問い質すメールが送られてくることはない。
それは、ある意味千速らしくもあり……
業務連絡は続く。
* * *
「ところで、瑞穂が面白いことになっているのをご存知ですか?」
恵吾が、貴穂に探りを入れた。
貴穂はふっふっと笑った。
「お前も気付いたか」
「この所、表向き見せませんがイライラしています」
貴穂が、少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「私が倒れたせいで、瑞穂は獲物を狩り損ねているんだよ」
「……獲物、ですか」
恵吾は、終わったクリスマスパーティーの招待状を手にしていた瑞穂を思い出した。
パーティー前は、社内の重鎮達からも足を引っ張られることが多く、自分も瑞穂も、肉体的にも精神的にも追い詰められていたように思う。
思い通りに運ばない諸々に、イライラを募らせていた時だった。
夕飯をとる暇もなく、二人とも残業で遅くまで残っていたある日。
徐に引き出しを開けた瑞穂が、恵吾に向かって何かを放り投げた。
肩に当たったそれを拾い上げてみると、紙に包まれたチョコレートだった。
キオスクで売られているような、個包装されて紙箱に入っているようなもの。
「お前、酷い顔してる。しんどい時ほど、この程度のこと何てことないって顔をしていろ。俺たちには、これを乗り越える知恵も、力も、時間もある」
そう言って、自分でもひとつ口に入れた。
あの瑞穂が、安物のチョコレートをデスクに常備とか?
「……何でこんなもの」
「体が元気になると、気持ちも元気になるんだと」
恵吾も紙を剥き、口に放り込んだ。
じんわりと広がる甘みが心地よく、確かに、体が糖分を求めていた、と訴えているようだ。
「誰が、そんなことを?」
同じようなシチュエーションがあったかのような言い方だ。
「……俺の獲物」
「?」
少し淋しそうに口角を歪めた瑞穂だったが、次の瞬間には
「血糖値上げて、乗り切るぞ」
と、いつもの冷静な、表情に変わったのだった。
結局、パーティーの成功によって、瑞穂の力量が認められることになり、その他諸々のことも、嘘のようにスムーズに進むようになった。
そして今は、父が復帰したことで、後ろ盾を得て磐石の立場に立っている。
―――あの時、瑞穂は俺の獲物と言っていた。
あの招待状の宛名は。
「その獲物の仕業ですかね。年末には、あの瑞穂が、女に一方的に通話を切られてましたね」
貴穂は、ぶわっはっはっ、と大笑いしながら、
「そうか、そうか。そうだろうとも」
と頷いていた。
「ご存知なんですか?」
「ん? まあな。お前も、そのうちにお目にかかるだろう。瑞穂を面白いことにしているのは、間違いなくその獲物だろうな」
時々――そう、一日に一度、多くて二度。
着信したメールを眺めて、表情を緩める瑞穂がいる。
側にいるからこそ、わかる。
大した長さもない、メールだ。
そのメールが、瑞穂の緊張を解く。
そしてまた、このところのイライラ……
それをもたらしているのも、その獲物。
恐らく、その獲物に関する噂が、原因だ。
―――さて。どうしたものか。
が、バレンタインの翌日、それはあっさり解決された。
小さな紙バッグを下げて、迎えの車に乗り込んだ瑞穂は、非常に機嫌がよかった。
「何か、あったのか?」
「いや、何も」
……何かあったことは、悪いが丸わかりだ。
あのイライラはどこへ行った。
社に着き自分の部屋に入ると、瑞穂は真直ぐにデスクに向かい、紙バッグから、チョコレート――例の、キオスクで買えるタイプの安価なもの――を大量に取り出すと、大事そうに引き出しに納めた。
――!?
何でまた、そんな安物のチョコレート?
バレンタインなのに?
「どうしたんですか、それは?」
思わず口にした疑問に、
「陣中見舞い。獲物からの」
瑞穂が、甘やかな微笑を浮かべて恵吾を見上げた。
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只者ではない、と了解した。
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