恋をするなら――旧題:プラセボの恋――

清水春乃(水たまり)

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番外編

私のヒーロー

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通りすがりの王子番外編「実里と常務の はじめまして」を加筆修正しました。

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その人物は、先導もなく嵐のように部屋に入ってきて、実里の前に立った。
桜井誠、御年三十四歳、現社長の息子でアメリカ帰りの独身。
噂によれば、そこそこ遊んでいる一方で、見合いを重ねる現実派。
仕事に対しては超現実派、だとか。
何それ、現実には有り得ないくらいシビアってことなの?
という突っ込みはさておき。
噂の主は、がっしりした体を仕立ての良いグレーのスーツで包み、素晴らしくエネルギッシュな印象を(無駄に)撒き散らしている。
田村常務のジェントルな雰囲気が懐かしい……という思いを飲み込んで、実里は値踏みするような視線に敢えて身を晒し口上を申し述べた。

「本日より桜井常務付きの秘書を拝命致しました、谷口実里です。よろしくお願いします」

すると桜井は、挨拶もそこそこに傲然と言い放った。

「田村常務はどうだったか知らないが、俺の要求水準は高い。俺が働きやすく采配するのが君の役目だ。海外展開する商社常務の秘書としては……」

ここで、英語に切り替え斬り込んできた。

『ビジネス英語ぐらいは、完璧にこなせるんだろうな』
『もちろんです。会話も文書もお任せ下さい』

実里が答えると、次にドイツ語に切り替えて問う。

『欧州にもいくつか支社がある。そこからも連絡が入るだろう』
 
いきなり喧嘩腰の応酬に実里の闘争心に火が付いた。
舐めるな。

『ドイツ語はあまり得意ではありませんが、そこそここなせます』

そうドイツ語で答えた後、フランス語に切り替える。

『ですが、フランス語はかなり使えます』

桜井が少し鼻白む。

『フランス語はお使いにならないですか? まあ、現地で直接やり取りをしない限りは、ビジネスは殆ど英語で事足りるようですけれど』

実里は通じていないのを承知で、更に中国語に切り替えた。

『でも、今後のアジア戦略を考えれば、中国語は必要かもしれないと考えます。これはまだ勉強中ですが』

桜井の口許が、ぴくり、と引き攣ったのを確認して、実里はにっこり微笑み頭を下げる。

「常務の求める水準に追いつけるよう日々精進して参る所存ですので、ご指導のほどよろしくお願いします」

勝った――そう一瞬でも思ったのは間違いであった。
それから、怒涛の日々が始まる。
容赦なく降りてくる仕事は、その量も質も半端ないものだ。
試されているのだ、とわかっていたから、実里は期待されている以上のものを返すべく努めた。
にもかかわらず、桜井は例え些末な案件であったとしても、仕事の全権を実里に任せることはしない。
あからさまな不信感に、実里は今までどんな秘書が付いていたんだか、と呆れを通り越して憐れを催した。
しかし、そうはいっても実里とて入社二年目のひよっこだ。
ただ、降りてくる仕事を愚直にこなしていくしかない。

暫くすると、命じられた仕事の少し先が読めるようになってくる。
桜井にはそんなつもりは毛頭なかっただろうが、実里は秘書という仕事の面白さと奥深さに目覚めた。
ただ傍に控えて補助的な仕事をするにとどまらず、本人にその気さえあればもっと能動的に動くことが出来る。
三か月もすると、実里は桜井の秘書としての仕事を楽むようになり――……


――そして、三年後。


「そりゃ、あんな風に派手に社内を練り歩いたらねぇ」

社員食堂で、実里の向かいに座った島津が、面白そうに口にした。

「……練り歩いては、いませんから」

実里は眉間にシワを刻む。

「そうね、お姫様抱っこだったわ」

ぴくり、と実里の箸が止まった。

「僕も見たかった。僕はいつも、そういう肝心の所を見逃しちゃうんだよ。千速ちゃんの時もそうだったし」

斜め向かいの席で、焼き魚を口にしながら司が言う。
ぐさ。
実里は、豆腐ハンバーグに箸を突き刺さした。
瑞穂のデモンストレーションと同じレベルで語るな。
島津が楽しそうに口にした「秘書課情報」によれば、実里と常務が「どうやら収まるところに収まったようだ」という噂は、瞬く間に本社に広がったらしい。 
周囲からの好奇心に満ちた視線はどことなく生温かくもあり、実里を居たたまれない気分にさせる。

「『収まるところ』ってどういうことよ」

豆腐ハンバーグを頬張りながら、実里は唸った。
何、そんなに既定路線だったわけ?
すると、司がのんびりと口にした。

「今回のその『お姫様抱っこ』が初めてってわけじゃないしさー。ほら、少し前にも手を繋いで歩いてたって……」
「いや、手を繋いでいたわけじゃなくて、引っ張られていただけですから」
「ふぅん、そうなの? でも、似たようなもんじゃない?」
「全っ然、違いますから」
「まあ、いいや。それに、島津さん」

そう言って、にっこり島津に微笑んだ。

「千速ちゃんがいなくなった後、『常務のお姉さん』が番犬よろしく、べったり実里ちゃんに貼りついてた」
「君、ちょっと言葉を選んでみようか」

島津が、口許をひくり、とさせた。

「あ、ばっちりガードしていた、でした、スミマセン」

司は悪びれることなく、ふふ、と笑って言葉を継ぐ。

「そこに常務の思惑あり、って皆考えるじゃない。実里ちゃん、ずっと合コンに誘われてないでしょ。秘書と営業とか、企画とか、それなりに設定されてるけど」
「そういえば、とんと声が掛からなくなったような……」

誘われても、仕事が忙しくて断ることが多かったけれど。

「つまり、そういうことですよね、島津さん?」
「あら、私は同じ常務秘書として、谷口さんと行動を共にしていただけよ。ムシ除けの役回りを演じているように見えたなんて、心外だわ」

島津は、そう言って口角を上げると、チキンカツを頬張った。
    
「――楽しそうだな。ここの席は空いているのか」

聞き覚えのありすぎる声に振り返ると、桜井がトレイを持って立っている。

「げ」

実里は仰け反った。
いやもう、なし崩しに何でもアリにしないでほしいんですけど。
私の社会人生活は、まだまだ海外事業部で継続中なのだ。 
しかし、桜井の横に立った久世が、こめかみをピクピクさせながらそれを遮った。

「おいっ! こんな所で鼻の下を伸ばしているんじゃねぇ。今日は営業の若手と昼食を囲む会だろうっ!」
「そうだったか?」
「そうだったなっ!」

そのために忙しいさなか俺はここにいるんじゃないのか、とプリプリ怒る久世を、そんなに苛々しているとハゲるぞ、という余計なひとことで更にヒートアップさせた挙句、
「じゃあな、実里。またの機会に」
とかいう、実に不穏なひとことを残して、桜井は悠然と去って行った。
 
「またのって……絶対、無理……」

向かいの席で様子を伺っていた司が、クスクス笑いながら言った。

「そのうち、実里ちゃんと常務が社食で向かい合って食事している風景とか、見たりするのかな」
「ありませんからっ!」

即答した実里であったが。
そう遠くない未来、こんな一幕を社員食堂で演じることになる。

「……あの。何で、そこに座ってるんですか」
「食事をするためだろう」
「いや、そうじゃなくて、ですね」

目の前に座った桜井は、狼のような笑いを浮かべてこう言った。

「何だ、実里。照れているのか。あんなことや、こんなことをしているのに、今更食事ごときに、何を照れる必要がある」

が、っとテーブルに手を付いて文句を言おうと身を乗り出した実里に、桜井は顔を寄せて囁いた。

「昨夜は、淋しいって言っていただろう」

顔を赤面させ、口を何度かパクパクさせた挙句、実里は勢いよく身体を起こし、出し抜けに左手の薬指の、結構な大きさのエンゲージリングを引き抜こうとした。

「わかった、悪かった、よせ」

顔を強ばらせた桜井が、必死に実里を宥め止めようとする。
そんな様子を目撃した社員たちが、 こんな場所でいちゃいちゃしないでくれよ、と思っていたことを実里は知らない。

************************************************
翻弄しているようで、結構翻弄されている実里でありました。
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