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第6話
蜜に溺ゆ
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昨夜の記憶が纏わりついて離れない。
仁瑶は甘えるように喉をふるわせ「小玲」と呼んだ。不安そうに眉宇を寄せた様子が愛おしくてたまらなくて、思わずこめかみにくちづけてしまった翠玲に、仁瑶は縋りついたまま乞うてきた。
はなさないでくれ、と甘く紡いだ声がまだ脳裏に響いている。
されど、熱で朦朧としていたせいで、翠玲を誰かと間違えたのではないかという疑念がずっと残っていた。
今朝の態度から見ても、仁瑶が気まずそうにしていたのは明白である。
(わたしではなく、もっと仁瑶様と親しいかたで、あんなふうに振る舞うような相手……)
思いあたるのはひとりしかいない。仁瑶を哥哥と呼び、紫紺の瞳からやさしげな笑みを向けられる天陽種。
胸の奥で妬心が滾り、翠玲は矢をつがえかけていた手をとめた。その音に気づき、目の前の茂みから鶉が慌てて逃げていく。
「莫迦、なにをしている」
永宵が怪訝な顔で翠玲を見た。
「兄上に獲物を贈るのではなかったのか? よく肥えた鶉だったのに、逃げてしまったではないか」
柳眉をひそめた永宵に、翠玲は黙したまま視線を向ける。
――昨夜、仁瑶は翠玲を永宵と思い、あのように縋ってきたのだとしたら。
血族間の天陽種と下邪種は発情を鎮静し合う。仁瑶と永宵は腹違いとはいえ傍目にも仲の良い兄弟であり、ひどい発情に陥った際、永宵が仁瑶の熱を鎮めていたとしてもなんら不思議はない。
おまけに仁瑶の口調は舌足らずであったし、小永と紡いだのを小玲と勘違いした可能性は大いにある。
「……帝君」
心臓が引き攣れた音をたてる。
翠玲は苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべた。
「なんだ、不細工な顔をしおって。鶉が逃げたのは余のせいではないぞ」
「そんなことはどうでもよいのです」
遮るように返答し、翠玲は息を吐く。
「もしや、仁瑶様が発情期におなりの際、お傍で熱を鎮めておられましたか」
永宵は困惑したふうに首を傾げたものの、頷いた。
「あったらなんだ」
「では、……帝君は、仁瑶様から小永と呼ばれておいでですか」
「どうしてそんなことを訊く? 兄上から愛称で呼ばれなくて、可愛がられている余が羨ましくなりでもしたか」
「いいから答えてください」
「なんだその物言いは。呼ばれているに決まっているだろう。兄上はいつもふたりきりの時、余を小永とお呼びくださる。菓子も作ってくださるし、願えば髪も結ってくださる。兄上が一番可愛がっておられるのは余なのだから、当然だろう」
「……っ」
翠玲はくちびるを噛んだ。
こんなこと、疑問に思うまでもなかったのだ。勝手にぬか喜びして心をわきたたせていた翠玲が間抜けなのであって、永宵とて当然の事実を述べただけである。
だというのに、こんなにも悔しくてたまらない。仁瑶にとって発情時に縋る相手がおのれではないという事実が、翠玲の胸の奥でねばついた嫉妬を膨れあがらせる。
弓を握りしめて黙った翠玲に、永宵はなにか察するものがあったのだろう。呆れたように鼻を鳴らし、飛んできた雉を射落とした。
「そんなことでいちいち嫉妬をするな、鬱陶しい。おまえはまだ兄上と暮らして間もないのだから、余に及ぶはずがないだろうが。兄上から小玲と呼ばれたいのなら、もっと余を見習って可愛げを身につけろ」
清玄が運んできた雉を翠玲へ突き出し、永宵は続ける。
「もう陽が暮れる、そろそろ兄上と太子も帰ってくる頃だろう。そんな不細工な顔で出迎えたら、ますます嫌われるぞ」
「ッ――嫌われてなどおりませぬ!」
「ならば余に噛みついていないで、もっと余裕のあるふりでもしろ。おまえがそんなだから、他の天陽種がおのれにも機会があると思うのだ。しっかりつかまえていないと、太子に兄上を奪われるぞ」
ほれ、と雉を渡され、翠玲は「わかっていますよ」とうなる。
永宵に促されて馬首を返し、天幕へ戻る頃にはすっかり雀色時になってしまった。
もう仁瑶は帰ってきてしまったかもしれない。
急いた気持ちで下馬した時、門のほうから騒ぎが聞こえた。
仁瑶は甘えるように喉をふるわせ「小玲」と呼んだ。不安そうに眉宇を寄せた様子が愛おしくてたまらなくて、思わずこめかみにくちづけてしまった翠玲に、仁瑶は縋りついたまま乞うてきた。
はなさないでくれ、と甘く紡いだ声がまだ脳裏に響いている。
されど、熱で朦朧としていたせいで、翠玲を誰かと間違えたのではないかという疑念がずっと残っていた。
今朝の態度から見ても、仁瑶が気まずそうにしていたのは明白である。
(わたしではなく、もっと仁瑶様と親しいかたで、あんなふうに振る舞うような相手……)
思いあたるのはひとりしかいない。仁瑶を哥哥と呼び、紫紺の瞳からやさしげな笑みを向けられる天陽種。
胸の奥で妬心が滾り、翠玲は矢をつがえかけていた手をとめた。その音に気づき、目の前の茂みから鶉が慌てて逃げていく。
「莫迦、なにをしている」
永宵が怪訝な顔で翠玲を見た。
「兄上に獲物を贈るのではなかったのか? よく肥えた鶉だったのに、逃げてしまったではないか」
柳眉をひそめた永宵に、翠玲は黙したまま視線を向ける。
――昨夜、仁瑶は翠玲を永宵と思い、あのように縋ってきたのだとしたら。
血族間の天陽種と下邪種は発情を鎮静し合う。仁瑶と永宵は腹違いとはいえ傍目にも仲の良い兄弟であり、ひどい発情に陥った際、永宵が仁瑶の熱を鎮めていたとしてもなんら不思議はない。
おまけに仁瑶の口調は舌足らずであったし、小永と紡いだのを小玲と勘違いした可能性は大いにある。
「……帝君」
心臓が引き攣れた音をたてる。
翠玲は苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべた。
「なんだ、不細工な顔をしおって。鶉が逃げたのは余のせいではないぞ」
「そんなことはどうでもよいのです」
遮るように返答し、翠玲は息を吐く。
「もしや、仁瑶様が発情期におなりの際、お傍で熱を鎮めておられましたか」
永宵は困惑したふうに首を傾げたものの、頷いた。
「あったらなんだ」
「では、……帝君は、仁瑶様から小永と呼ばれておいでですか」
「どうしてそんなことを訊く? 兄上から愛称で呼ばれなくて、可愛がられている余が羨ましくなりでもしたか」
「いいから答えてください」
「なんだその物言いは。呼ばれているに決まっているだろう。兄上はいつもふたりきりの時、余を小永とお呼びくださる。菓子も作ってくださるし、願えば髪も結ってくださる。兄上が一番可愛がっておられるのは余なのだから、当然だろう」
「……っ」
翠玲はくちびるを噛んだ。
こんなこと、疑問に思うまでもなかったのだ。勝手にぬか喜びして心をわきたたせていた翠玲が間抜けなのであって、永宵とて当然の事実を述べただけである。
だというのに、こんなにも悔しくてたまらない。仁瑶にとって発情時に縋る相手がおのれではないという事実が、翠玲の胸の奥でねばついた嫉妬を膨れあがらせる。
弓を握りしめて黙った翠玲に、永宵はなにか察するものがあったのだろう。呆れたように鼻を鳴らし、飛んできた雉を射落とした。
「そんなことでいちいち嫉妬をするな、鬱陶しい。おまえはまだ兄上と暮らして間もないのだから、余に及ぶはずがないだろうが。兄上から小玲と呼ばれたいのなら、もっと余を見習って可愛げを身につけろ」
清玄が運んできた雉を翠玲へ突き出し、永宵は続ける。
「もう陽が暮れる、そろそろ兄上と太子も帰ってくる頃だろう。そんな不細工な顔で出迎えたら、ますます嫌われるぞ」
「ッ――嫌われてなどおりませぬ!」
「ならば余に噛みついていないで、もっと余裕のあるふりでもしろ。おまえがそんなだから、他の天陽種がおのれにも機会があると思うのだ。しっかりつかまえていないと、太子に兄上を奪われるぞ」
ほれ、と雉を渡され、翠玲は「わかっていますよ」とうなる。
永宵に促されて馬首を返し、天幕へ戻る頃にはすっかり雀色時になってしまった。
もう仁瑶は帰ってきてしまったかもしれない。
急いた気持ちで下馬した時、門のほうから騒ぎが聞こえた。
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