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第4話
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しおりを挟む「仁瑶様。王妃様は、先程龍宮殿を出、王府へお帰りになられたそうです」
空が雀色時に染まる頃、紅春がそう報告してきた。
仁瑶もちょうど孤児院の視察から揺籃殿へ戻ってきたところで、こんな時間まで永宵と過ごしていたのかとぼんやりと思いながら頷く。
「楽しく過ごせたようなら、なによりだ」
やはり、ふたりの間には慕情が残っているのだろう。
外套を脱いで榻に腰を下ろすと、なんとなく室内に檸檬の香りが残っているのを感じた。
(美味しいと言って、無理にでもぜんぶ食べてさしあげればよかったかな。……だけど、永宵のために作ってきたのなら、私が食べてしまうわけにはいかないか)
自分で永宵のもとへ送っておいて、今になって妬心がこみあげてくるなど愚かにもほどがある。翠玲だっていい迷惑だろう。
(……帰りたくない)
夫婦になってしまった以上、どうしたって翠玲は仁瑶に気を遣わなければならない。しなくてよい料理をし、菓子を作り、傍で仕えようとする。
互いに気詰まりな思いをするくらいなら、いっそ帰らないほうがよいのではないか。そこまで考えて、仁瑶は否と首を振った。
たとえ一晩だけだとしても、仁瑶が皇宮から帰らなければ、宮中の内外で噂が飛び交うはずだ。納得できる理由があればまだしも、そうでなければ琅寧からもどういうことかと問われてしまう。
翠玲と仁瑶の婚姻は、個人の問題ではないのだ。つらかろうが悲しかろうが、割り切ってしまうしかない。
胸が軋んで、苦しい。
仁瑶はそっと長息し、控えていた紅春の手を借りて立ち上がる。
報告をまとめ、書房の片づけを済ませてから、門が閉まる前に帰路についた。
***
番の契約を交わさぬまま、季節は新陽月に差しかかろうとしていた。
仁瑶はなにかと理由をつけては、翠玲と同じ褥で休むことを避け続けた。
あの日以来、届けられる差し入れに龍蓮糕が出ることはなくなった。そのかわり、仁瑶の好みの品ばかりが食盒に入れられている。
(私のもとを訪ねているのだから、せめて体裁を整えろとでも永宵から言われたのだろうか)
味つけも煮炊きの加減もちょうどよく、褒め言葉を告げるのは容易だったけれど、素直に喜ぶことはできなかった。
「哥哥、翠玲の料理はどう?」
御書房へ荒政に関する報告に向かった際、永宵からそんなふうに問われた。
仁瑶は寸の間息が詰まるような心地がした。すぐに答えられずにいると、永宵は邪気のない笑みを浮かべて続ける。
「俺が色々教えておいたから、もう二度と檸檬入りの龍蓮糕が哥哥の前に出ることはないよ。そうだ、翠玲に哥哥の作る杏の龍蓮糕を食べさせてやってほしいんだ。俺も食べたいし、作ったら持ってきてくれる?」
「……ああ、ええ。いいですよ。では今度、お持ちしましょうね」
頷けば、永宵も満足そうにしていた。
鼓動が引き攣れた音をたて、微笑すらままならない。どうにか平静を装って御書房を出たものの、その後どうやって朝堂へ戻ったか思い出すことはできなかった。
(やはり、永宵の進言だったか)
そんな考えばかりが脳裏に渦巻いて、自分を隠れ蓑にするのはやめてくれと苦い思いがこみあげてくるのを寸でのところでこらえる。
翌日の休みに、仁瑶は仕方なく翠玲を厨室へ呼び、龍蓮糕を作ってみせた。
材料の量から、焼き加減まで、永宵の好む味を教えてやった。
つぶした杏の蜜は檸檬よりも甘みが強く、どちらかといえば子供っぽい味だ。おまけに市に行けばどこでも買える、簡単な菓子。
けれど、翠玲は嬉しそうに目を輝かせ、できたてを美味しそうに頬張っていた。
「やわらかくて甘くて、……とても美味しいです、仁瑶様」
「それならよかった。余った分は食盒に入れておきましたから、この後帝君のところへ持っていってくれませんか。私は用があるのでご一緒できませんが、帝君には話を通してありますから」
「え、ですが……」
「お願いしますね」
「ぁ、あの、仁瑶様、っ」
戸惑う様子の翠玲にかまわず、仁瑶は厨室を出る。
永宵も人が悪いと思った。わざわざおのれに頼まずとも、翠玲を呼びたいのならそうすればよい。そもそも、ふたりの間に情があるのなら、性種が転化したからといって寧嬪の位を廃することはなかったはずだ。天陽となった翠玲が後宮にいられないというのなら、離宮でもどこでも居を移して、そこへ永宵が通えばよかったのだ。
「っ……」
苛立ちのままに、紅春に外套を用意させ、遠乗りへ出かける。
京師の喧騒から遠ざかり、汗だくになるまで花純と駆けてきたけれど、気分が晴れることはなかった。
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