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第2話
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足を踏み入れると、すぐに濃艶な甘い香りが纏わりついてくる。
帷帳をめくった華桜に下がっているよう目配せし、仁瑶は牀榻へ近づいていった。
床には茶壷や茶杯の欠片が散乱し、衾褥も落ちてしまっていた。翠玲はめちゃくちゃになった敷布の上で、苦しげにうずくまっている。
「……小玲」
牀榻脇の小卓に盆を置き、仁瑶はあえて愛称を口にした。それからゆっくりと手を伸ばし、翠玲の肩に触れる。
「っ――」
瞬間、翠玲は身を跳ねさせた。
乱れた寝衣から朱に染まった肌が覗く。華桜の言ったとおり、掻き毟ったうなじの皮膚には血がにじんでいた。
「っぁ、う……ッううぅ」
「小玲、大丈夫」
仁瑶の手を振り払い、逃げようとする翠玲の躰を無理やり抱きしめる。
「――ッああああ!」
「小玲」
喉を反らして叫んだ翠玲は、仁瑶の腕の中で必死にもがいていた。
桜貝の爪が頬を引っ掻き、蹴りあげた膝が腹部にあたる。鈍い痛みが走り、仁瑶はうめきそうになるのをどうにかこらえた。
「大丈夫だから、ゆっくり息をなさいませ。痛くないでしょう? 気持ち良いことしかしませんからね」
引き攣れた呼吸をくり返す翠玲に、やさしく囁く。
力を入れ過ぎないよう気をつけながら抱きすくめていると、暴れていた翠玲が徐々に大人しくなっていった。
発情期中、下邪種の躰は些細な刺激にも過敏に反応する。快感を得るだけならいいが、ひどい時はわずかな衣擦れにすら痛みを覚えてしまうため、翠玲もそれで苦しんでいたのだろう。
このような症状が出た場合、まずは触れ合いに慣れさせる必要がある。昂っている神経をなだめてやると、感じていた痛みも引いていくのだ。
かつて仁瑶も、同様の症状に悩まされたことがある。痛みと発熱とで苦しんでいた躰を抱きしめなだめてくれたのは、異母弟の永宵だった。
血族間の天陽と下邪は互いの発情を鎮静し合う。永宵の小さな躰に縋っていると、不思議と楽になったものだ。
仁瑶と翠玲は下邪種同士であり、血族というほど近しくもない。鎮静作用こそ望めないものの、翠玲の浅く速かった呼吸が次第に緩んでいくのを感じ、仁瑶はほっと息をついた。
「よく我慢していましたね、つらかったでしょう」
言いながら腰のあたりをそっと撫でてやると、翠玲がむずかるような声を漏らす。
「ん、ぅ……ぁ、あ」
「気を遣ってもよいですよ。もう少し落ち着いたら薬湯を飲みましょうか。躰が楽になりますからね」
「は、ッぁ、……っん、ン、うぅ」
太腿をこすりあわせ、甘い匂いをまき散らしてもどかしげに喘ぐ翠玲を、仁瑶は静かに慰め続けた。立場上直接的な刺激を与えることは憚られるので、腰や背、頭などをやさしく撫でて慾の発散を促す。
翠玲は仁瑶に縋りつき、幾度か下肢をふるわせて達した。
一炷香ほど経ってから薬湯を飲ませてやると、翠玲は仁瑶に身を預けたまま蛾眉を下げた。
「申し訳ありません……、仁瑶殿下に、お見苦しいところを……」
「かまいません。発情期が苦しいのは当然ですから、どうかお気になさらないでください」
笑み含んで、仁瑶は翠玲のうなじに膏薬を塗ってやる。薬が沁みるのか、翠玲は幾度か肩をふるわせていた。
「紀太監と燕児を呼んでまいりますから、お召し替えをなさいませ」
あやすように翠玲の頭を撫でてから、整えた牀榻に寝かせる。
仁瑶が臥室から出ると、燕児と華桜は扉のすぐ傍で待っていた。
「殿下、翠玲様は……っ」
「ひとまずは大丈夫だ。今は落ち着いているから、軽く沐浴させてあげなさい。それから、軽い食事も用意するように」
「ありがとうございます、殿下。なんとお礼を申しあげたらよいか」
「かまわない。今度また同じ症状が出たら、紀太監か燕児か、どちらでもよいから寧嬪を抱きしめてやるといい。そのまま暫くすれば痛みを感じなくなる」
「はい、心得ておきます」
「本当にありがとうございます、殿下」
「いいから、早く寧嬪のところへ行ってやりなさい」
拝礼しようとするふたりをやわらかく制し、仁瑶は微笑う。
燕児と華桜はもう一度礼を述べてから、臥室へ駆けていった。それを見届けて、仁瑶は控えていた紅春に尋ねる。
「永宵は?」
紅春は申し訳なさそうに首を横に振った。
「帝君は皇貴妃様の宮にお渡りで、目通りはかないませんでした。皇貴妃様も発情期でいらっしゃるとのことで、禁足中の身である寧嬪はわきまえるようにと」
「……それは清玄が言ったのか? それとも永宵が?」
眉をひそめた仁瑶に、紅春は困ったふうに「皇貴妃様の女官です」と返す。
仁瑶は溜息をついた。
「おまえに直接そう言ってきたのか」
「はい」
「なるほど。私を侮っているのか、寧嬪を軽視しているのか、……あるいはその両方か。皇貴妃の女官にそんな莫迦がいたとは」
番に抱いてもらえなければ、下邪種はひどい苦痛を味わうことになる。ゆえに皇帝は発情した妃嬪が複数いる場合、高位の者から順に渡るのが通例だ。
されど、此度は皇貴妃の発情が終わるまで、永宵は翠玲のもとへはやって来ないだろう。禁足中というのもあるが、皇貴妃は右丞相の娘である。仁瑶が琅寧を慮るように、永宵は国内の権門勢家に気を配る必要がある。――否、仁瑶が琅寧に気を遣っているから、朝廷を慰撫する必要があるとでも言おうか。
(父上には、後宮のことに関わるなと言われたが……)
来駕が期待できない以上、このまま翠玲を放っておくことはできない。
仁瑶は抑制薬の処方について太医と相談するため、紅春を伴い宝珠宮をあとにした。
帷帳をめくった華桜に下がっているよう目配せし、仁瑶は牀榻へ近づいていった。
床には茶壷や茶杯の欠片が散乱し、衾褥も落ちてしまっていた。翠玲はめちゃくちゃになった敷布の上で、苦しげにうずくまっている。
「……小玲」
牀榻脇の小卓に盆を置き、仁瑶はあえて愛称を口にした。それからゆっくりと手を伸ばし、翠玲の肩に触れる。
「っ――」
瞬間、翠玲は身を跳ねさせた。
乱れた寝衣から朱に染まった肌が覗く。華桜の言ったとおり、掻き毟ったうなじの皮膚には血がにじんでいた。
「っぁ、う……ッううぅ」
「小玲、大丈夫」
仁瑶の手を振り払い、逃げようとする翠玲の躰を無理やり抱きしめる。
「――ッああああ!」
「小玲」
喉を反らして叫んだ翠玲は、仁瑶の腕の中で必死にもがいていた。
桜貝の爪が頬を引っ掻き、蹴りあげた膝が腹部にあたる。鈍い痛みが走り、仁瑶はうめきそうになるのをどうにかこらえた。
「大丈夫だから、ゆっくり息をなさいませ。痛くないでしょう? 気持ち良いことしかしませんからね」
引き攣れた呼吸をくり返す翠玲に、やさしく囁く。
力を入れ過ぎないよう気をつけながら抱きすくめていると、暴れていた翠玲が徐々に大人しくなっていった。
発情期中、下邪種の躰は些細な刺激にも過敏に反応する。快感を得るだけならいいが、ひどい時はわずかな衣擦れにすら痛みを覚えてしまうため、翠玲もそれで苦しんでいたのだろう。
このような症状が出た場合、まずは触れ合いに慣れさせる必要がある。昂っている神経をなだめてやると、感じていた痛みも引いていくのだ。
かつて仁瑶も、同様の症状に悩まされたことがある。痛みと発熱とで苦しんでいた躰を抱きしめなだめてくれたのは、異母弟の永宵だった。
血族間の天陽と下邪は互いの発情を鎮静し合う。永宵の小さな躰に縋っていると、不思議と楽になったものだ。
仁瑶と翠玲は下邪種同士であり、血族というほど近しくもない。鎮静作用こそ望めないものの、翠玲の浅く速かった呼吸が次第に緩んでいくのを感じ、仁瑶はほっと息をついた。
「よく我慢していましたね、つらかったでしょう」
言いながら腰のあたりをそっと撫でてやると、翠玲がむずかるような声を漏らす。
「ん、ぅ……ぁ、あ」
「気を遣ってもよいですよ。もう少し落ち着いたら薬湯を飲みましょうか。躰が楽になりますからね」
「は、ッぁ、……っん、ン、うぅ」
太腿をこすりあわせ、甘い匂いをまき散らしてもどかしげに喘ぐ翠玲を、仁瑶は静かに慰め続けた。立場上直接的な刺激を与えることは憚られるので、腰や背、頭などをやさしく撫でて慾の発散を促す。
翠玲は仁瑶に縋りつき、幾度か下肢をふるわせて達した。
一炷香ほど経ってから薬湯を飲ませてやると、翠玲は仁瑶に身を預けたまま蛾眉を下げた。
「申し訳ありません……、仁瑶殿下に、お見苦しいところを……」
「かまいません。発情期が苦しいのは当然ですから、どうかお気になさらないでください」
笑み含んで、仁瑶は翠玲のうなじに膏薬を塗ってやる。薬が沁みるのか、翠玲は幾度か肩をふるわせていた。
「紀太監と燕児を呼んでまいりますから、お召し替えをなさいませ」
あやすように翠玲の頭を撫でてから、整えた牀榻に寝かせる。
仁瑶が臥室から出ると、燕児と華桜は扉のすぐ傍で待っていた。
「殿下、翠玲様は……っ」
「ひとまずは大丈夫だ。今は落ち着いているから、軽く沐浴させてあげなさい。それから、軽い食事も用意するように」
「ありがとうございます、殿下。なんとお礼を申しあげたらよいか」
「かまわない。今度また同じ症状が出たら、紀太監か燕児か、どちらでもよいから寧嬪を抱きしめてやるといい。そのまま暫くすれば痛みを感じなくなる」
「はい、心得ておきます」
「本当にありがとうございます、殿下」
「いいから、早く寧嬪のところへ行ってやりなさい」
拝礼しようとするふたりをやわらかく制し、仁瑶は微笑う。
燕児と華桜はもう一度礼を述べてから、臥室へ駆けていった。それを見届けて、仁瑶は控えていた紅春に尋ねる。
「永宵は?」
紅春は申し訳なさそうに首を横に振った。
「帝君は皇貴妃様の宮にお渡りで、目通りはかないませんでした。皇貴妃様も発情期でいらっしゃるとのことで、禁足中の身である寧嬪はわきまえるようにと」
「……それは清玄が言ったのか? それとも永宵が?」
眉をひそめた仁瑶に、紅春は困ったふうに「皇貴妃様の女官です」と返す。
仁瑶は溜息をついた。
「おまえに直接そう言ってきたのか」
「はい」
「なるほど。私を侮っているのか、寧嬪を軽視しているのか、……あるいはその両方か。皇貴妃の女官にそんな莫迦がいたとは」
番に抱いてもらえなければ、下邪種はひどい苦痛を味わうことになる。ゆえに皇帝は発情した妃嬪が複数いる場合、高位の者から順に渡るのが通例だ。
されど、此度は皇貴妃の発情が終わるまで、永宵は翠玲のもとへはやって来ないだろう。禁足中というのもあるが、皇貴妃は右丞相の娘である。仁瑶が琅寧を慮るように、永宵は国内の権門勢家に気を配る必要がある。――否、仁瑶が琅寧に気を遣っているから、朝廷を慰撫する必要があるとでも言おうか。
(父上には、後宮のことに関わるなと言われたが……)
来駕が期待できない以上、このまま翠玲を放っておくことはできない。
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