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10話
しおりを挟むどこか遠くで、何回か魚が跳ねる。
波の音は集中して聞くと緩急があり、一定のリズムとは限らない。
遠くで聞こえてきた宴の声は、少しずつ大人しくなっていく。
リベルタ号の甲板はとても広く、二人きりになるには持て余す広さだった。
時間が経っても同じ夜な限り、月は相変わらず丸かった。
そんな風に考えたところで、リュカがやっと口を開く。
「俺がセレナに優しくしていたのは、故郷にいる幼馴染に似ていたからだ」
出てきた言葉の意味を理解するのに、時間がかかった。
「黒くて真っすぐな髪、同じように真っすぐな性格で、純粋で、真面目で、すこし放っておけないような天然さがある。セレナはあいつによく似ている」
理解することを、セレナの脳が拒んでいた。
「幼馴染は生まれは俺の村けど、両親が遠方地域から来た人で、見た目が違うせいでよくからかわれてた。そんな事も気にせずに寧ろやり返してしまうくらいには強くて、俺はいつもあいつのカッコよさに憧れてた。あいつにとって俺は唯一の親友だったと思う」
過去形を含むその言葉の意味を、いいように捉えたかった。
「俺がこの船でたくさん稼いで、いつか故郷に帰ったら。一緒にあの村を出て、結婚するって決めているんだ」
しかし、現実はおとぎ話と同じように非情だった。
「だから、セレナの気持ちには答えられないよ」
リュカがセレナの先に見ていた、努力家で真っすぐで放っておけない幼馴染の姿はもう見えなくなっていた。セレナの表情があまりにも絶望に満ちていて、重ねることが怖くなってしまったからだろう。
「俺に逢いに来てくれてありがとう。もう海に戻れないとしたら、これからは同じ船の仲間として一緒に過ごそう。特別な・・・恋愛感情はないけど、俺はセレナの事を妹が出来たみたいに思っているし、船のやつらもセレナの事を気に入っている」
精一杯、相手を傷つけぬように配慮した言葉は、ひとつもセレナには届かなかった。
「・・・・・・私じゃ、だめなんですか」
リュカに恋人がいたら素直に祝福する。人魚だった頃、自分はそれが出来ると思っていた。
「似ているのでしょ?だったら私でもいいじゃないですか」
そんな冷静な自分が遠い昔に思えてしまうほどに、人間としてのセレナの中に宿った恋心は大きく色濃く、深海のように暗く濁ってしまった。
「約束します、その幼馴染の方よりもあなたに従順になると。あなたを尊重します、あなたが望むだけ傍にいます。私なら一緒に海に出られる、あなた以外の男を知らない、海を捨てるほどに一途な愛を持っている」
人魚の身体では溢れて爆発してしまいそうなほどの深くて重たくて甘い、どろどろとしたどす黒い身勝手な愛情が足の先まで流れていくのを感じた。
「私、あなたを手に入れられないと・・・」
泡になって消えてしまいたくなる、とは言えなかった。
「・・・消えてしまったら、私の存在はきっとあなたの中に残らない」
小さくつぶやく。それがどんな脅しになったのかはわからないが、リュカは申し訳なさそうに首を振った。
「ごめん。君の方がとか、そういうんじゃないんだ。あいつは俺にとって特別な存在で、代替えがきくようなものじゃない。セレナとは一緒になれないよ」
ぐつ、ぐつ、ぐつ、と何かが煮えたぎる。愛か嫉妬か憎悪か、それらすべてがごちゃ混ぜになったような複雑な感情が押し寄せる。リュカの罪悪感に塗れた不安気な表情は、彼が童話人魚姫の結末を知っているからだろう。
「人魚姫はこの気持ちに耐え切れずに泡になったのでしょうね・・・でも、私はそんなことはしません」
悲し気に微笑むと、甲板の手すりに足をかけて、一つ高いところに上った。すっかり慣れた両足はバランスよくセレナの身体を支えているが、強い風が吹いたら海に落ちてしまいそうだ。
「・・・セレナ?」
不安そうに両手を差し出すリュカを見て、くすくすと笑う。
「大丈夫ですよ、身を投げたりしません。そもそも人魚が海に身を投げて死ぬだなんておかしな話だと思います。私達にとって海は恐怖の象徴ではなく、あたたかくて平穏な場所、どうせなら空に墜ちて死んでしまいたいですね」
本当は人間の身体を得てから海に対する恐怖は持っていたが、セレナはそれでも海を愛している。あの場所に帰って、温かい海に包まれて両親やリーネの優しい言葉をかけてもらえたらどれだけ幸せな気持ちになるだろうか、海の中は自分の心を乱す存在も無く、雄大で、無限に広がっていて、ずたずたに引き裂かれた心を少しは癒してくれるかもしれない。
たとえそれが出来たとしても、セレナは海に帰らないだろう。自分の心も身体も形を保てなくなりそうな程の激しい痛みすらも愛してしまいたいと思っていた。
「わかりました、リュカさんの気持ち。私が出会う前からあなたの中には幼馴染さんがいたのですね。・・・・・・あぁ、本当はもっと早く知りたかったです」
人間になる前に、ではなく。こんなに好きになる前に。
「次は、私の愛を見ていてくださいね?」
穏やかに垂れた目には、慈悲深さが宿っていた。
すぅ、と人間の世界の空気を肺一杯にいれる。
人魚の下半身は無い筈なのに、海と陸が溶け合うような感覚が戻ってきた。身体の奥に眠る人魚としての記憶や情熱を燃やして人間の身体から奏でられたのは、美しい人魚の歌声だった。
『貴方に手が届かないと知った時、私は世界に絶望した』
その言葉から始まる『セレナーデ』の歌詞の意味を、彼女は知らない。
『この愛は深すぎて、簡単に海に沈んでしまうから、きっとあなたには届かない』
それは、副題も作曲者名もない、しがない詩人が作った陳腐な愛の歌。
『この広い海であなたを一番愛しているのは私なのに、あなたがこれほど愛おしいのに』
それは、船乗りを想う恋人の歌では無かった。
『荒れ狂う波のようなこの想い、伝える事すら神に拒まれるというのなら、いっそ』
それは、叶わぬ恋に身を焦がした女性の気持ちを歌った曲。
『全てを深い海に沈めて、私の元へ逢いに来てもらえばいい』
どうしようもない自身の深く重たい劣情と愛を深海に例えた、報われない恋と狂気のセレナーデだった。
その歌詞には愛する恋人も、報われた恋心も存在しなかった。作曲者が過大解釈したセレナーデは、偶然か必然か、まるでセレナの愛そのものを表現しているかのようだった。
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