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ある日、夕食の準備をしていた時だった。
私の鼓膜を震わせる凛然とした音が響いた。ぴくりと耳が震える。しゃがみこんで火の様子を見ていた私は慌てて立ち上がり、窓を開けて空を流れる旋律を追った。
「急にどうしたんですか」
私の突然の行動に人馬の子は驚いた様子だった。蹄を鳴らして私のそばにやってくる。
「同胞が近くにいるんだ」
「同胞……、貴方以外の森の隣人?」
「そう。同胞が竪琴を弾いている。私たちは竪琴の音色で、言葉のやりとりができるんだよ」
「僕には何も聞こえない」
「とても遠いところから弾いているからね」
人族と同じ、丸い耳を持つ人馬にはこの音は拾えない。それでも私の耳は確かに彼らの音が象る言葉を受け取っていた。
「嗚呼、同胞がこのあたりを通るなんで、何十年ぶりだろう」
この森に居を構えて百年近く。同胞が森の近くを通ることは無かった。長い長い孤独を味わっていたが、瑕疵となったその孤独を漂う音色が慰撫していく。
「旅をしている夫婦のようだ」
若い夫婦が自己紹介をしている。私も竪琴を持ってきて返事を返した。一人息子と共にこの森で生きていると、告げる。人馬の子とは言っていない。私の子だと言ってしまった。弓が上手く足の早い、立派な息子だと。
事情を知らぬ夫婦が手放しで褒めてくれる。素敵な息子さんですね、と。嬉しくて嬉しくて、堪らなかった。
「……とっても楽しそうですね」
「あぁ、楽しい」
他の誰にも言えないことを言った。最愛の息子であると。誰よりも愛おしくて大切な息子なのだと。この子本人に伝えることすらできないのに、私の子だと盛んに奏でた。
存分に竪琴での応酬を楽しんで、私は年若い夫婦に別れを告げた。人馬の子が退屈そうに私を眺め出したからだ。
「どうして貴方は一人なんですか? 群れはないですか?」
竪琴を片付ける私の背に、彼がそんな言葉を投げかけた。
「そもそも私たちは、大きな群れを作らないんだ。血の繋がった家族で数十年を過ごしたら、一人で旅をし、最愛の者を見つけて定住の場所を探す。群れという概念はあまり持っていない」
「群れを作らないんですね……僕達とは全然違うんだ」
群れ、という言葉を平気で使う人馬の子に、私がどきどきとしてしまう。敏感な話題だと思っていたのだ。この子は群れに見限られ、群を失ったのだから。敢えて使わないようにしてきた言葉だった。けれど、それであるのに、この子自身が平然とその言葉を口にする。群れというものに、本当に未練がないのだと改めて思い知った。
「私たちは、なんというか……他の種族から見ると見目麗しいように見えるらしく、連れ去られて嗜好品のように扱われてきた歴史があるんだ。群れていると一網打尽にされてしまうから、群れないようになっていったんだよ」
昔は里を作り、まとまって生活していたそうだが、そのせいで異種族に狩られ、絶滅寸前まで追いやられたことがあるらしい。遠い過去の話だが。
「確かに貴方は綺麗です。でも、嗜好品のように扱われるってなんですか?」
「えっと……そうだな、宝石のように扱われるというか……。私の髪はとても高値で売れるし、瞳も法外の値段でやりとりされているらしい。牝鹿を捌くのと同じで、私達は価値のある体をしているから捌かれてしまうんだ」
透き通る金色の髪は生まれ持ったものだが、これは異種族、特に人族から狙われている。髪を得るために飼い殺しにされた先祖の話を聞いたことがある。私も髪を伸ばしているが、それはいざと言う時の対価として使うためだった。ここ数ヶ月でいえば、人馬の子のために伸ばしている。なにか入用になれば、これを切り落として利用するのだ。
「そんな……っ、そんなのいやですっ! 捌かれるって、そんなの絶対許せません!」
「例え話だよ、大丈夫。そうならないように、私たちは野蛮な異種族……特に人族からは距離を置いてひっそりと生きているんだ」
「人族?」
「そう、貪欲なあの者達は我らだけでなく、森の賢者さえも狩ろうとするから気をつけて」
頬を撫でる。私の両腕で抱き上げることのできた小さな子の顔は、今や私の頭と同じ位置にあった。手を伸ばして、ふっくらとした頬を数度撫でた。
「僕が、僕が貴方を守ります」
この優しい子は、森の隣人が味わった最悪の出来事を聞いて泣いていた。己の境遇には嘆きも悲しみもしないのに。私の身を案じて怯えて、泣いていた。心の中にじわりじわりと愛おしさが増して、私はその額に口付けを落とす。
「ありがとう、とても心強いよ」
日が暮れ、食事を済ませてから二人で一つの寝台に潜り込む。
人馬の子と出会ってから、ずっと同じ寝台で眠っていた。もともと二人用の大きさであった寝台は、人馬の子の体が小さいうちは適した大きさだったのだが、それもたったの数ヶ月で窮屈になってきた。
「この寝台も随分と手狭になってきた。お前用の寝台を作ろうか」
「僕専用のはいらないので、二人で寝ても十分な大きさの寝台を作りたいです」
「二人でって……いつまでこうして寝るつもりなんだ」
「いつまでもです」
以前は抱きしめて眠っていたのに、今ではその逆。この子に抱きしめられながら私は眠っている。大きな温もりに包まれて、とても安心するのだ。養育者である私が安堵を覚えていてはいけないのだろうけれど。
「……困った子だ」
そう言いつつ、私の口元は緩む。それは仕方の無いことだった。
私の鼓膜を震わせる凛然とした音が響いた。ぴくりと耳が震える。しゃがみこんで火の様子を見ていた私は慌てて立ち上がり、窓を開けて空を流れる旋律を追った。
「急にどうしたんですか」
私の突然の行動に人馬の子は驚いた様子だった。蹄を鳴らして私のそばにやってくる。
「同胞が近くにいるんだ」
「同胞……、貴方以外の森の隣人?」
「そう。同胞が竪琴を弾いている。私たちは竪琴の音色で、言葉のやりとりができるんだよ」
「僕には何も聞こえない」
「とても遠いところから弾いているからね」
人族と同じ、丸い耳を持つ人馬にはこの音は拾えない。それでも私の耳は確かに彼らの音が象る言葉を受け取っていた。
「嗚呼、同胞がこのあたりを通るなんで、何十年ぶりだろう」
この森に居を構えて百年近く。同胞が森の近くを通ることは無かった。長い長い孤独を味わっていたが、瑕疵となったその孤独を漂う音色が慰撫していく。
「旅をしている夫婦のようだ」
若い夫婦が自己紹介をしている。私も竪琴を持ってきて返事を返した。一人息子と共にこの森で生きていると、告げる。人馬の子とは言っていない。私の子だと言ってしまった。弓が上手く足の早い、立派な息子だと。
事情を知らぬ夫婦が手放しで褒めてくれる。素敵な息子さんですね、と。嬉しくて嬉しくて、堪らなかった。
「……とっても楽しそうですね」
「あぁ、楽しい」
他の誰にも言えないことを言った。最愛の息子であると。誰よりも愛おしくて大切な息子なのだと。この子本人に伝えることすらできないのに、私の子だと盛んに奏でた。
存分に竪琴での応酬を楽しんで、私は年若い夫婦に別れを告げた。人馬の子が退屈そうに私を眺め出したからだ。
「どうして貴方は一人なんですか? 群れはないですか?」
竪琴を片付ける私の背に、彼がそんな言葉を投げかけた。
「そもそも私たちは、大きな群れを作らないんだ。血の繋がった家族で数十年を過ごしたら、一人で旅をし、最愛の者を見つけて定住の場所を探す。群れという概念はあまり持っていない」
「群れを作らないんですね……僕達とは全然違うんだ」
群れ、という言葉を平気で使う人馬の子に、私がどきどきとしてしまう。敏感な話題だと思っていたのだ。この子は群れに見限られ、群を失ったのだから。敢えて使わないようにしてきた言葉だった。けれど、それであるのに、この子自身が平然とその言葉を口にする。群れというものに、本当に未練がないのだと改めて思い知った。
「私たちは、なんというか……他の種族から見ると見目麗しいように見えるらしく、連れ去られて嗜好品のように扱われてきた歴史があるんだ。群れていると一網打尽にされてしまうから、群れないようになっていったんだよ」
昔は里を作り、まとまって生活していたそうだが、そのせいで異種族に狩られ、絶滅寸前まで追いやられたことがあるらしい。遠い過去の話だが。
「確かに貴方は綺麗です。でも、嗜好品のように扱われるってなんですか?」
「えっと……そうだな、宝石のように扱われるというか……。私の髪はとても高値で売れるし、瞳も法外の値段でやりとりされているらしい。牝鹿を捌くのと同じで、私達は価値のある体をしているから捌かれてしまうんだ」
透き通る金色の髪は生まれ持ったものだが、これは異種族、特に人族から狙われている。髪を得るために飼い殺しにされた先祖の話を聞いたことがある。私も髪を伸ばしているが、それはいざと言う時の対価として使うためだった。ここ数ヶ月でいえば、人馬の子のために伸ばしている。なにか入用になれば、これを切り落として利用するのだ。
「そんな……っ、そんなのいやですっ! 捌かれるって、そんなの絶対許せません!」
「例え話だよ、大丈夫。そうならないように、私たちは野蛮な異種族……特に人族からは距離を置いてひっそりと生きているんだ」
「人族?」
「そう、貪欲なあの者達は我らだけでなく、森の賢者さえも狩ろうとするから気をつけて」
頬を撫でる。私の両腕で抱き上げることのできた小さな子の顔は、今や私の頭と同じ位置にあった。手を伸ばして、ふっくらとした頬を数度撫でた。
「僕が、僕が貴方を守ります」
この優しい子は、森の隣人が味わった最悪の出来事を聞いて泣いていた。己の境遇には嘆きも悲しみもしないのに。私の身を案じて怯えて、泣いていた。心の中にじわりじわりと愛おしさが増して、私はその額に口付けを落とす。
「ありがとう、とても心強いよ」
日が暮れ、食事を済ませてから二人で一つの寝台に潜り込む。
人馬の子と出会ってから、ずっと同じ寝台で眠っていた。もともと二人用の大きさであった寝台は、人馬の子の体が小さいうちは適した大きさだったのだが、それもたったの数ヶ月で窮屈になってきた。
「この寝台も随分と手狭になってきた。お前用の寝台を作ろうか」
「僕専用のはいらないので、二人で寝ても十分な大きさの寝台を作りたいです」
「二人でって……いつまでこうして寝るつもりなんだ」
「いつまでもです」
以前は抱きしめて眠っていたのに、今ではその逆。この子に抱きしめられながら私は眠っている。大きな温もりに包まれて、とても安心するのだ。養育者である私が安堵を覚えていてはいけないのだろうけれど。
「……困った子だ」
そう言いつつ、私の口元は緩む。それは仕方の無いことだった。
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