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◆ 第二章 異邦への旅路
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「夫君殿は外へ」
部屋に戻って少し休息を取り、温かいお茶で冷えた体を溶かした。見慣れない着物を前にして吉乃は興味津々な目を向けている。この衣装を纏うことに、抵抗はないようだ。姫宮の装束を受け入れた吉乃からすれば、拒絶するような類のものではないのかもしれない。
そうしていざ、着替えるかという話になった時、俺は侍従長から退室を命じられたのだ。有無を言わせぬ物言いで、俺は一瞬言葉に詰まるが、何故出て行かなければならないのか納得がいかず、侍従長殿に反論する決意を固める。
「な、何故ですか」
「宮様の玉体をご覧になられて、邪まな情を抱かれても困りますので」
「……そこまで飢えていませんが」
着替えをする以上、吉乃は全裸に近い形になるのだろう。それを見て、俺が昂ぶり、無体を働くと侍従長殿は言うのだ。なんという物言いだろう。裸になった吉乃が俺を誘うのであれば勿論応えるが、ただ単に着替えをしている様子を見ただけで欲情するほど野蛮ではない。
「淡月、清玖がここにいては駄目なのか?」
「不慣れな衣装ゆえ、他にも侍従を室内へ招かなければなりません。手狭になりますので、夫君殿には別室にておくつろぎ頂いた方が宜しいかと」
「なるほど。淡月の言う通りだな」
先ほどの物言いは、俺にだけ届くような小声で早口だった。吉乃の耳には入らなかったのだろう。そうして、吉乃に下問された侍従長殿は、俺に向けたものとは異なるもっともらしいことを言うのだ。なんと卑怯な。
「ではどうぞ、外へ」
侍従長殿が自らの手で扉を開けた。俺が出て行くように、だ。詭弁であったとしても吉乃を納得させた侍従長殿に軍配が上がる。俺は溜息を吐きながら部屋を出た。とはいえ、行く場所もないので扉の前に佇む。葉桜ではない近衛が、一度だけこちらを見たが、すぐに視線は興味がなさそうに俺から離れていった。
「おや? 追い出されたのかい?」
靴音を響かせながらこちらへやってくる離宮の主。ユーリイ殿下は、愉快そうに笑顔を浮かべていた。反対に、俺は不愉快さを隠さずおもてに出す。問い質さねばならないことがあるのだ。
「ユーリイ殿下、一体どういうおつもりであの衣装を?」
「あぁ、ドレスが女性のものだってバレちゃった?」
「……どれす、ですか」
「そうそう。ドレス。綺麗だっただろう? 吉乃に似合うものを、と私が考えて誂えたんだ。胸が無くても着れるよう、少々手を加えたりしてね」
どれす。ドレスというらしいあの衣装は、やはり女性のものだった。そんなものを吉乃に着させて、何をどうしたいというのか。部屋の中での出来事を、ずば抜けた聴力で知り得ているであろう近衛たちも、容赦なくユーリイ殿下を睨んでいる。
「あれを着た吉乃を寝台に押し倒して、嫌がるところを無理に抱きたいな……なんて、妄想をしていたわけだよ」
「よくもそんな戯言を、畏くも吉乃の夫君の座を賜った俺に言えますね」
「言うだけで、実行しないのだから、許してほしいな」
そういう問題ではない。こめかみが、ぴくりと震えたのが自分でも分かった。不埒な思いを抱くまでならば、良いだろう。だが、その不純な願いを口に出して発するのは罪深い。変態としか評することの出来ないこの男を、俺が好ましいと思えるわけもなかった。
「人の妻に粉を掛けるのは、やめて頂きたい」
「粉を掛けるもなにも、君の奥方は姫宮だろう?」
癪に障る物言いだった。確かに俺の奥方は吉乃で、吉乃は姫宮だ。姫宮は多くのものに体を差し出さなければならない。そんなことは分かっている。けれど、それを第三者である殿下に言われるのは不愉快極まりないことだった。反射的に、腰に佩いたものの柄に手が伸びる。
「おっと、暴力はやめて欲しいな」
過剰なほどに怯えて見せる。だが口元は笑っていた。下手な芝居だ。勿論、本気で目の前のこの男を害するわけではない。
こんな変人であっても、オルドローズの王子なのだ。傷でもつけようものなら、確実に外交にひびが入る。吉乃が身を粉にして国と国の仲を親しいものに保とうとしてくれているのに、それを俺が壊すわけにはいかなかった。
深く溜息を吐き捨てる。落ち着け、と自分自身に言い聞かせた。明らかに、揶揄われている。感情を露わにする俺で遊んでいるのだ。殿下が繰り出す挑発に、俺はまんまと乗ってしまい、翻弄されているだけだった。
「……何故俺を挑発するのです」
「いやなに、私に分からせてくれたらいいのにと思ってね」
「分からせる?」
言葉の意味が分からず、眉を顰める。一体何が言いたいのか。悪人ではないのだろうが、善人でもない。そんな殿下に、俺は戸惑う。生粋の悪人であったなら、心の底から唾棄して憎み切れるのに。
「私の前で、夫婦の営みを見せつける気はないかな?」
「他人に見せつけるようなものではないでしょう」
「ごもっとも。でも、私は分からずやだからね。見せてくれないと、分からないんだよ。君たちが愛し合う夫婦で、私が入る余地などないということをね」
これも挑発だ。わざわざこの男に分からせる必要なんてない。所詮は、数日の再会。明後日にはオルドローズを発つのだ。そうすれば、もう暫くは吉乃と殿下が会うこともないだろう。この男の要望に沿って、わからせてやる必要などない。ほうっておけばいい。
「何なら、私は見なくてもいい。目隠しをしていよう」
「目隠しをして、私たち夫婦が睦み合う場にいると? それに一体何の意味があるというのです」
「音を聞くだけで十分ということだ。肌と肌が触れ合う音、荒い息遣い、吉乃の嬌声。それらを聞きながら、私は自慰にでも耽ろう」
殿下の言葉通りの状況を想像する。それは異常な光景だった。だが、その光景に覚えがあった。先代の姫宮であらせられる朝水様の指導の一環で、そのような状況に陥ったことがあったのだ。他人の目のある場所で睦合う。それを経験済みであることに俺自身、戸惑ってしまった。
「貴方は、自分ではない人を思う人間を無理に抱くのがお好きなんですよね? 提案されているその行為で貴方の欲が満たされるのですか?」
「確かにね。私の趣味のど真ん中ではないけれど、その状況に興奮するし、背徳的な感じが堪らない。軽蔑してくれていいよ。そういう歪な形でしか、喜びを見いだせないんだ」
正しくない。清らかではない。酷く歪で、不気味だ。だが、それでしか幸喜を得られないという。哀れだと思った。殿下は同情など望んでいないのだろうけれど、無意識下で憐憫を感じてしまう。
「私の願いを叶えてくれたら、今後は姫宮を抱かないと誓うよ」
思ってもいない言葉が聞こえた。それは、殿下からの申し出をありえないと一蹴していた俺の心を、考え直しても良いのかもしれない、と思わせるだけの力を持っていた。
「外交上の何かがあって、私に姫宮が下賜されたとしても、黒髪を貰うに留める」
天瀬の国内ではすでに吉乃の黒髪の下賜は始まっている。一晩の夢よりも、永劫残る黒を選ぶ者が予想以上に多くて俺は安堵を得ていたのだ。だが、国外の人間にはまだ黒髪の下賜はしていなかったはず。ユーリイ殿下は、髪で良いと言う。
「もう二度と吉乃に触れないと誓うから、私の昏い欲望を満たしてくれないかな」
ユーリイ殿下が吉乃に触れるわけではない。ただ、目隠しをしたユーリイ殿下の前で、俺と吉乃が深く愛し合うだけ。それだけで、ユーリイ殿下が吉乃を抱くことはなくなる。好条件に思えた。だが、俺一人では選べない。
「では、またあとで」
決断を下さないままにユーリイ殿下は去っていった。俺はどうすれば良いのか分からず亡羊と化す。扉を警護する近衛たちが、どうするつもりだ、と言外に俺を責め立てるような気がした。答えなど出ない。少なくとも、俺一人で結論を出して良い問題ではない。
「夫君殿、お待たせしました」
丁度その時、扉が開かれた。侍従長殿が開いたのだ。吉乃の着替えが終わったのだろう。俺は入室を許され、困惑した頭の中で侍従長殿のあとをついて歩いた。
「……吉乃」
あまりにも神々しい姿に、言葉を失う。目が潰れるかと思った。ドレスとやらの良し悪しは分からないが、見慣れない衣装を纏う吉乃の姿は黒闢天の存在を思わせるほどに高貴だった。
へそあたりから、足元にかけてふんわりとした布地が広がっている。下へ行けば行くほど裾が広くなり、いつものように身を寄せて立ち並ぶことが出来そうにない。普段吉乃が纏う衣服以上に腰元の細さが強調されていて、俺の両手でその腰を囲うことが出来そうだった。
「清玖、どうだろうか」
「とても……、美しい」
「清玖にそう言ってもらえて嬉しい」
美しいなんて、吉乃は聞き飽きている言葉だろう。黒髪黒目も美しいが、そもそもからして吉乃は容貌が飛び抜けて美しいのだ。男だとか、女だとか、そんな瑣末な問題を飛び越えて、黒闢天の寵児であることが真実であるかのように、美しさの塊そのものだった。
だが、そんな聞き飽きた陳腐な賛辞でも、吉乃は嬉しそうに笑ってくれる。烏滸がましいことだが、俺が言うから喜んでくれるのだと分かっている。そんな吉乃が愛おしくて愛おしくて、たまらない。
「でもこの服、とても苦しいんだ。こんなに締め付けられてしまっては、何も食べられそうにない」
「少し緩めるのは駄目なのか?」
「緩めると着崩れてしまうらしい。天瀬の服がいかに着易く、着心地がいいかを思い知っているところだよ」
背中が特に苦しい、と言って吉乃が背中を見せてくる。交差する紐が菱形を描きながら吉乃の体を縛り上げていた。苦しそうだな、と思う前にそのはだけた背中に目がいく。この白い肌に触れたいと誰もが思うだろう。だがこの奇跡のような人は、俺の妻なのだ。気安く触らせるつもりはない。
「肩が随分とはだけているが、寒くはないか?」
「寒さはあまり感じない。この離宮の中は、温かくて不思議だな。外は肌寒いくらいだったのに」
肩と鎖骨が大きく晒され、背後の方は肩甲骨まで見えてしまっている。華奢で、雪のように白い体躯だった。寒くないのかと心配するものの、寒くないと答えが返ってくる。確かに、この建物の中は不思議なことに温かい。熱が外に逃げにくい構造にでもなっているのだろうか。
「綺麗だ」
吉乃に見惚れたまま、俺はうわ言のように繰り返す。そんな俺を見て、吉乃は可笑しそうに笑う。笑った動きで、緩く結ばれた髪が肩から背中へ流れていった。黒髪が揺れるその様は、深く黒闢天を信奉する者が見たら失神するのではないか、というほどに美しかった。
「……もう十分、分かったから」
照れながら、もう何も言わなくて良いと言う吉乃。そんな吉乃を見て、ユーリイ殿下のことを思い出した。あの御仁が言い出した戯言を俺は吉乃に伝えるべきなのだろうか。吉乃の姿に見惚れながら、俺はそんな問題に頭を抱えてしまう。
部屋に戻って少し休息を取り、温かいお茶で冷えた体を溶かした。見慣れない着物を前にして吉乃は興味津々な目を向けている。この衣装を纏うことに、抵抗はないようだ。姫宮の装束を受け入れた吉乃からすれば、拒絶するような類のものではないのかもしれない。
そうしていざ、着替えるかという話になった時、俺は侍従長から退室を命じられたのだ。有無を言わせぬ物言いで、俺は一瞬言葉に詰まるが、何故出て行かなければならないのか納得がいかず、侍従長殿に反論する決意を固める。
「な、何故ですか」
「宮様の玉体をご覧になられて、邪まな情を抱かれても困りますので」
「……そこまで飢えていませんが」
着替えをする以上、吉乃は全裸に近い形になるのだろう。それを見て、俺が昂ぶり、無体を働くと侍従長殿は言うのだ。なんという物言いだろう。裸になった吉乃が俺を誘うのであれば勿論応えるが、ただ単に着替えをしている様子を見ただけで欲情するほど野蛮ではない。
「淡月、清玖がここにいては駄目なのか?」
「不慣れな衣装ゆえ、他にも侍従を室内へ招かなければなりません。手狭になりますので、夫君殿には別室にておくつろぎ頂いた方が宜しいかと」
「なるほど。淡月の言う通りだな」
先ほどの物言いは、俺にだけ届くような小声で早口だった。吉乃の耳には入らなかったのだろう。そうして、吉乃に下問された侍従長殿は、俺に向けたものとは異なるもっともらしいことを言うのだ。なんと卑怯な。
「ではどうぞ、外へ」
侍従長殿が自らの手で扉を開けた。俺が出て行くように、だ。詭弁であったとしても吉乃を納得させた侍従長殿に軍配が上がる。俺は溜息を吐きながら部屋を出た。とはいえ、行く場所もないので扉の前に佇む。葉桜ではない近衛が、一度だけこちらを見たが、すぐに視線は興味がなさそうに俺から離れていった。
「おや? 追い出されたのかい?」
靴音を響かせながらこちらへやってくる離宮の主。ユーリイ殿下は、愉快そうに笑顔を浮かべていた。反対に、俺は不愉快さを隠さずおもてに出す。問い質さねばならないことがあるのだ。
「ユーリイ殿下、一体どういうおつもりであの衣装を?」
「あぁ、ドレスが女性のものだってバレちゃった?」
「……どれす、ですか」
「そうそう。ドレス。綺麗だっただろう? 吉乃に似合うものを、と私が考えて誂えたんだ。胸が無くても着れるよう、少々手を加えたりしてね」
どれす。ドレスというらしいあの衣装は、やはり女性のものだった。そんなものを吉乃に着させて、何をどうしたいというのか。部屋の中での出来事を、ずば抜けた聴力で知り得ているであろう近衛たちも、容赦なくユーリイ殿下を睨んでいる。
「あれを着た吉乃を寝台に押し倒して、嫌がるところを無理に抱きたいな……なんて、妄想をしていたわけだよ」
「よくもそんな戯言を、畏くも吉乃の夫君の座を賜った俺に言えますね」
「言うだけで、実行しないのだから、許してほしいな」
そういう問題ではない。こめかみが、ぴくりと震えたのが自分でも分かった。不埒な思いを抱くまでならば、良いだろう。だが、その不純な願いを口に出して発するのは罪深い。変態としか評することの出来ないこの男を、俺が好ましいと思えるわけもなかった。
「人の妻に粉を掛けるのは、やめて頂きたい」
「粉を掛けるもなにも、君の奥方は姫宮だろう?」
癪に障る物言いだった。確かに俺の奥方は吉乃で、吉乃は姫宮だ。姫宮は多くのものに体を差し出さなければならない。そんなことは分かっている。けれど、それを第三者である殿下に言われるのは不愉快極まりないことだった。反射的に、腰に佩いたものの柄に手が伸びる。
「おっと、暴力はやめて欲しいな」
過剰なほどに怯えて見せる。だが口元は笑っていた。下手な芝居だ。勿論、本気で目の前のこの男を害するわけではない。
こんな変人であっても、オルドローズの王子なのだ。傷でもつけようものなら、確実に外交にひびが入る。吉乃が身を粉にして国と国の仲を親しいものに保とうとしてくれているのに、それを俺が壊すわけにはいかなかった。
深く溜息を吐き捨てる。落ち着け、と自分自身に言い聞かせた。明らかに、揶揄われている。感情を露わにする俺で遊んでいるのだ。殿下が繰り出す挑発に、俺はまんまと乗ってしまい、翻弄されているだけだった。
「……何故俺を挑発するのです」
「いやなに、私に分からせてくれたらいいのにと思ってね」
「分からせる?」
言葉の意味が分からず、眉を顰める。一体何が言いたいのか。悪人ではないのだろうが、善人でもない。そんな殿下に、俺は戸惑う。生粋の悪人であったなら、心の底から唾棄して憎み切れるのに。
「私の前で、夫婦の営みを見せつける気はないかな?」
「他人に見せつけるようなものではないでしょう」
「ごもっとも。でも、私は分からずやだからね。見せてくれないと、分からないんだよ。君たちが愛し合う夫婦で、私が入る余地などないということをね」
これも挑発だ。わざわざこの男に分からせる必要なんてない。所詮は、数日の再会。明後日にはオルドローズを発つのだ。そうすれば、もう暫くは吉乃と殿下が会うこともないだろう。この男の要望に沿って、わからせてやる必要などない。ほうっておけばいい。
「何なら、私は見なくてもいい。目隠しをしていよう」
「目隠しをして、私たち夫婦が睦み合う場にいると? それに一体何の意味があるというのです」
「音を聞くだけで十分ということだ。肌と肌が触れ合う音、荒い息遣い、吉乃の嬌声。それらを聞きながら、私は自慰にでも耽ろう」
殿下の言葉通りの状況を想像する。それは異常な光景だった。だが、その光景に覚えがあった。先代の姫宮であらせられる朝水様の指導の一環で、そのような状況に陥ったことがあったのだ。他人の目のある場所で睦合う。それを経験済みであることに俺自身、戸惑ってしまった。
「貴方は、自分ではない人を思う人間を無理に抱くのがお好きなんですよね? 提案されているその行為で貴方の欲が満たされるのですか?」
「確かにね。私の趣味のど真ん中ではないけれど、その状況に興奮するし、背徳的な感じが堪らない。軽蔑してくれていいよ。そういう歪な形でしか、喜びを見いだせないんだ」
正しくない。清らかではない。酷く歪で、不気味だ。だが、それでしか幸喜を得られないという。哀れだと思った。殿下は同情など望んでいないのだろうけれど、無意識下で憐憫を感じてしまう。
「私の願いを叶えてくれたら、今後は姫宮を抱かないと誓うよ」
思ってもいない言葉が聞こえた。それは、殿下からの申し出をありえないと一蹴していた俺の心を、考え直しても良いのかもしれない、と思わせるだけの力を持っていた。
「外交上の何かがあって、私に姫宮が下賜されたとしても、黒髪を貰うに留める」
天瀬の国内ではすでに吉乃の黒髪の下賜は始まっている。一晩の夢よりも、永劫残る黒を選ぶ者が予想以上に多くて俺は安堵を得ていたのだ。だが、国外の人間にはまだ黒髪の下賜はしていなかったはず。ユーリイ殿下は、髪で良いと言う。
「もう二度と吉乃に触れないと誓うから、私の昏い欲望を満たしてくれないかな」
ユーリイ殿下が吉乃に触れるわけではない。ただ、目隠しをしたユーリイ殿下の前で、俺と吉乃が深く愛し合うだけ。それだけで、ユーリイ殿下が吉乃を抱くことはなくなる。好条件に思えた。だが、俺一人では選べない。
「では、またあとで」
決断を下さないままにユーリイ殿下は去っていった。俺はどうすれば良いのか分からず亡羊と化す。扉を警護する近衛たちが、どうするつもりだ、と言外に俺を責め立てるような気がした。答えなど出ない。少なくとも、俺一人で結論を出して良い問題ではない。
「夫君殿、お待たせしました」
丁度その時、扉が開かれた。侍従長殿が開いたのだ。吉乃の着替えが終わったのだろう。俺は入室を許され、困惑した頭の中で侍従長殿のあとをついて歩いた。
「……吉乃」
あまりにも神々しい姿に、言葉を失う。目が潰れるかと思った。ドレスとやらの良し悪しは分からないが、見慣れない衣装を纏う吉乃の姿は黒闢天の存在を思わせるほどに高貴だった。
へそあたりから、足元にかけてふんわりとした布地が広がっている。下へ行けば行くほど裾が広くなり、いつものように身を寄せて立ち並ぶことが出来そうにない。普段吉乃が纏う衣服以上に腰元の細さが強調されていて、俺の両手でその腰を囲うことが出来そうだった。
「清玖、どうだろうか」
「とても……、美しい」
「清玖にそう言ってもらえて嬉しい」
美しいなんて、吉乃は聞き飽きている言葉だろう。黒髪黒目も美しいが、そもそもからして吉乃は容貌が飛び抜けて美しいのだ。男だとか、女だとか、そんな瑣末な問題を飛び越えて、黒闢天の寵児であることが真実であるかのように、美しさの塊そのものだった。
だが、そんな聞き飽きた陳腐な賛辞でも、吉乃は嬉しそうに笑ってくれる。烏滸がましいことだが、俺が言うから喜んでくれるのだと分かっている。そんな吉乃が愛おしくて愛おしくて、たまらない。
「でもこの服、とても苦しいんだ。こんなに締め付けられてしまっては、何も食べられそうにない」
「少し緩めるのは駄目なのか?」
「緩めると着崩れてしまうらしい。天瀬の服がいかに着易く、着心地がいいかを思い知っているところだよ」
背中が特に苦しい、と言って吉乃が背中を見せてくる。交差する紐が菱形を描きながら吉乃の体を縛り上げていた。苦しそうだな、と思う前にそのはだけた背中に目がいく。この白い肌に触れたいと誰もが思うだろう。だがこの奇跡のような人は、俺の妻なのだ。気安く触らせるつもりはない。
「肩が随分とはだけているが、寒くはないか?」
「寒さはあまり感じない。この離宮の中は、温かくて不思議だな。外は肌寒いくらいだったのに」
肩と鎖骨が大きく晒され、背後の方は肩甲骨まで見えてしまっている。華奢で、雪のように白い体躯だった。寒くないのかと心配するものの、寒くないと答えが返ってくる。確かに、この建物の中は不思議なことに温かい。熱が外に逃げにくい構造にでもなっているのだろうか。
「綺麗だ」
吉乃に見惚れたまま、俺はうわ言のように繰り返す。そんな俺を見て、吉乃は可笑しそうに笑う。笑った動きで、緩く結ばれた髪が肩から背中へ流れていった。黒髪が揺れるその様は、深く黒闢天を信奉する者が見たら失神するのではないか、というほどに美しかった。
「……もう十分、分かったから」
照れながら、もう何も言わなくて良いと言う吉乃。そんな吉乃を見て、ユーリイ殿下のことを思い出した。あの御仁が言い出した戯言を俺は吉乃に伝えるべきなのだろうか。吉乃の姿に見惚れながら、俺はそんな問題に頭を抱えてしまう。
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