下賜される王子

シオ

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◆ 第二章 異邦への旅路

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 目が覚めた時、体がふわふわと揺れていたので、夢の続きを見ているのだと思った。だが、それは夢などではなかった。現実の世界で、私の体は船の上にあったのだ。どうやら、船の揺れを誤解したようだ。

「起きたか、吉乃」

 声のした方を見れば、そこには清玖がいた。私は、布団を何枚も重ねて、ふかふかな状態にされた長椅子の上で眠っていたらしい。そのそばに一人掛けの椅子を置いて、清玖が座っている。

 視線を動かして周囲を伺えば、ここは大きな河を渡った時に乗った船の中だと気付いた。黒珠宮の中の私の部屋のような内装なので、一瞬、清玄にいるのかと思ってしまう。だが体を揺さぶるこのゆっくりとした揺れが、ここが清玄ではなく船の中だと如実に語った。

「……清玖、私はどれくらい寝てたんだ? いつ船に?」
「半日ほど寝ていた。ぐっすりと眠っていたから、俺が船へ運んでも起きなかったよ」
「そうだったのか……、手間を取らせてすまない」
「この俺が、手間だと思っているとでも? 妻君を抱き上げるのは、夫君の特権だ」

 身を起こす私を手伝いながら、清玖はそんなことを言う。私を嬉しがらせるためだけに発せられたものではないのだと分かっているが、それでも私は喜んでしまった。私たちが夫婦であることを噛みしめるたびに、喜びが湧いてくるのだ。

「宮様、おはようございます」
「おはよう、淡月。私は随分と眠ってしまったようだ」
「お疲れが溜まっていらっしゃったんでしょう」

 頃合いを見計らってやって来た淡月は、盆を携えていた。その盆の上には、小さな湯飲みがあり、その中には程よく湯気を立てた白湯が入っている。すっと差し出されたそれを受け取り、ゆっくりと飲み干す。乾いた喉を癒してくれた。

「翠玉を出たんだな」
「はい。宮様のお許しも得ず、出発致しましたこと、お詫び申し上げます」
「謝るようなことじゃない。眠りこけていた私が悪いんだ。旅程に影響が出ないよう差配してくれて、ありがとう。淡月」

 私たちの旅行は、気の向くままに、というものではないのだ。きっちりと旅程が立てられ、いついつにどこを経過、といった予定が事細かに定められている。国王陛下たる紫蘭兄上がお許しになったその旅程の通りに動かなければならない。

 眠り続けた私を気遣って、その旅程を乱すなどということを、私は望んでいない。それを淡月もよくよく理解しているのだろう。彼は律儀に旅程を守り、私たちは定刻通りに翠玉を出たのだ。

「今は鳳水へ向かっております」
「水の都、というやつだな」
「はい、仰る通りです、宮様。水の都、鳳水は細い水路が走る街となりますので、もう暫く進みますと、小さな船へとお移り頂くこととなります」

 白湯を飲み終えた私を見て、今度は熟れた果実が目の前に差し出された。香りだけでいかに甘いかが分かるほどに熟された桃が器の中に入っている。一口で納めやすい大きさに切り分けられ、楊枝が刺さっていた。

 口に入れれば、想像した以上の甘さが口内に広がった。数度咀嚼して、飲み込んでいく。胃の腑に落ちてなお甘味を発するようで、私の体の中は、桃が有する甘さで満ちて行った。桃を堪能しながら、頭では鳳水のことを考えた。

 鳳水は、人や馬車の歩く道よりも、小舟が通る水路の方が多いという。水先案内人たちが巧みに操縦する小舟が人々の足となっているのだ。書物で得た知識で、街のことをある程度は知っているけれど、想像することは難しかった。

「もう食べないのか? 気分でも悪い?」
「あ、いや……、そういうわけじゃないんだ。少しぼうっとしてしまって。鳳水は、どんなところだろうと思ったんだ」

 桃が刺さった楊枝を持ちながら、それを口に運ぶこともなく動きを止めた私を見て、清玖が心配そうに言葉をかけてくる。私は慌てて、具合が悪いわけではないと説明した。たっぷり寝たことで、疲れの類は一切合切、体外へと出て行ったようだ。

 鳳水の名を出した途端に、清玖のおもてに翳りが差した。一体どうしたのだろうと思って首を傾げると、困ったように笑いながら清玖が静かに口を開く。

「鳳水は清玄より遠く、オルドローズの方が近いような場所にある。清玄から離れれば離れるほど、天瀬王家への尊崇は薄くなっていく。……不敬と感じる輩が多いかもしれない」
「この旅の中で、私は誰かを不敬だと思ったことは無いよ。親しく声を掛けてくれて、嬉しく思ったほどだ」
「……そうか、それなら良いんだ」

 旅の中で多くの人々に出会った。花紋が見える場所に刻まれた身分の低い者たちから、県の政を執り行う者まで。彼らの中の一人として、不敬だと感じる振舞いをした者はいない。それは、過剰に尊ばれることに違和感を覚える私にしてみれば、居心地が良いと評しても良いものだった。

「鳳水は水の都であり、遊郭が多い場所でもある。……美しい街ではあるが、吉乃が滞在するのに相応しい場所なのかは、甚だ疑問だ」
「国境を目前としたこの地域に、他に宮様がお休み頂ける場所がないのです。勿論、遊郭が立ち並ぶ地区へ宮様をお連れすることはありませんし、お休み頂くのは県令の屋敷ですので、夫君殿の心配は無用かと」

 疑問を呈した清玖にすかさず返答したのは、淡月だった。遊郭というのは、天瀬が国として認めた娼館のある一画だ。言葉の意味も、そこがどういう場所なのかも分かる。私のように体で奉仕をする者たちが多くいるのだ。そこに、私が訪れるのは相応しくないと清玖は思っているようだった。

 私だって同じような存在なのだから、清玖は気にし過ぎだ。そう言ってしまおうかとも思ったが、やめた。きっと、そんなことを清玖に言ったら、清玖は私に怒るだろうから。

「……私は見てみたいのだが、駄目だろうか」
「それはつまり……、遊郭を見たいってことか?」
「あぁ。この国の姿を、私は余すところなく見てみたいんだ」

 遊郭という場所に興味があった。その場所に用事はないが、どんな風景なのだろうと思うのだ。書物からでは、光景を想像出来なかった。知らないものを、知りたい。そんな単純な願望が私の中に芽生える。

 私を連れて行きたくないと思っている清玖と淡月は互いに顔を見合わせて、戸惑いをおもてに浮かべる。我が儘を言ってしまったことは申し訳ないと思うが、それでも私の中に芽生えた興味を理解して欲しかった。

「……御心のままに」

 清玖と淡月、二人の声が重なる。水路で通りかかる程度なら、だとか、近衛の警護を厳重にして、などという二人の会議を聞きながら、私は許されたことに喜んでいた。

 船が動きを止めた瞬間に、私の体は大きく揺れた。長椅子の上で楽で寝ころんだままの私を、清玖が支えてくれる。どうやら船が岸辺へ接岸したらしい。衣類の乱れを淡月に直してもらったあとで、私は船から降りた。

「宮様、ここからはこの船にお乗りください」

 船から降り、久しぶりの地面を堪能したのも束の間。案内された先で私を待っていたのは小さな船だった。十人も乗れないことだろう。その船には私と清玖、そして淡月と葉桜が乗り、水先案内人が船を操舵するということだった。

 水先案内人の青年は、川底まで届く長い棒を手にして、船の先端に立っていた。緊張した面持ちでじいっとこちらを見ている。王族を乗せるということで、重責を感じているのだろうか。その緊張が解けるようにと思って、私は微笑んで見せた。

「……なんて綺麗な黒髪なんだ」

 操縦に使うのであろうその棒をぎゅっと抱きしめながら、青年は小さく呟いた。どうやら、私が天瀬王家の者であるということよりも、黒髪であることに感激しているようだった。どう反応して良いのか分からず、曖昧に微笑む。

 私の前には淡月が座り、私の横には清玖が座る。清玖は私の腰をしっかりと掴んでいてくれたので、小舟の上にあっても私の体は不安定に晒されることがなかった。私たちの後ろには葉桜が立っている。視線を常に周囲へやって、警戒を続けていた。

 船が進みだす。水路の幅は、二艘の小舟が行き来出来るほどだった。鳳水は土地が低く、年々水位が上昇しているのだという。小舟を移動手段とするのは昔からの風習らしく、馬車や徒歩で歩く人の姿が全くない。

「宮様、そろそろ遊郭を通るようです」

 前方に座っていた淡月がこちらを振り返りながら、そう言った。日が沈み、暗がりに包まれていく世界の中で、鳳水は賑やかさに満ちている。水路の両側には娼館が立ち並び、美しい衣装をまとった女たちが艶やかに客を誘っていた。

 提灯の灯りが水面に映り、水の中に太陽の欠片でも落ちているように見えてしまう。小舟たちが列を為して娼館の前を通っていた。誘われるままに、店の中に入っていく小舟もある。男たちは、妖艶な女たちに釘付けとなり、黒髪黒目の私に目もくれない。とても自由な気がして、心が軽くなった。

 進んでいくと、回れ右をして船たちが来た道を戻り始める。そうすることで、遊郭の中を延々と回り続けるのだろう。だが、私たちの船はそこで曲がらずに、真っすぐ進んでいった。どうやら、遊郭を突き抜けたらしい。

「随分と喧しいところだったな」
「そうか? 楽しい雰囲気で、私は嫌いじゃなかった。実際、音なんて何も聞こえなくなるほどに、景色に圧倒されていた」

 喧しいと清玖は言ったが、私の耳は喧噪を受け取ることも出来ずに、輝かしい風景に心を奪われていた。あんな景色、見たことがない。書物に書いてあった通りではあったけれど、書を読んだだけではこの美しさを思い描けなかった。実際にこの目で見なければ、鳳水の美しさを私は理解出来なかったことだろう。

「吉乃が楽しめたのなら、それでいい」
「清玖は楽しくなかった?」
「楽しくないというよりも……、天瀬の姫宮がここにいることが知られて、大騒動になったらどうしようと警戒していた」
「誰も私のことなんて見ていなかった」
「暗くて、黒髪が目立たなかったのかもしれないな」

 闇に紛れやすいこの色は、夜において存在感を無くすのだ。先ほどの遊郭の水路で一番目を惹いたのは、眩しい提灯の灯りと、男を誘う女たちの姿。誰も、黒髪黒目などに注目しなかった。私はそれを面白く思う。

 遊郭を抜けると、少しずつひっそりとした空気になっていく。灯りも減り、建物の密集度も下がる。すれ違う小舟も少なく、私たちは黒々とした水の上を滑るように進んでいった。もうすぐで県令の屋敷です、と淡月が告げる。


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