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スイ編
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そこは、美しい場所だった。
広がる草原の上に幕で出来た家々があり、そんな集落を囲むように背の高い木々がある。頭上に広がる空は青く、天空遥か遠くまで見渡せるほどに澄み切っていた。地に広がる緑も、空に広がる青も、全てが一望できる場所に私は立っている。
私が見ているのは、ランファンの景色なのだと感じる心があった。薄桃の髪を持つ人間が生まれる特異な一族。母が生まれた場所。それがランファン。私は一度も見たことがない。それでも、この光景がランファンのものだと言えるのは、母の日記で読んで頭の中に描いたランファンとここの景色が一致しているからだ。
不意に、己の隣に人がいることに気付く。その人は、私と同じようにランファンの景色を小高い丘に立って見下ろしていた。長い薄桃の髪が風に揺れて、美しく踊っている。綺麗な女性だ。随分と華奢で、私より背が低い。それでも、その存在をとても大きく感じる。私はゆっくりと、その女性を見た。
「……母さん?」
母の姿を、私はもう覚えていない。写真という、姿をそっくりそのまま映し出す機械が作る絵で見たことはあるが、私の記憶の中の母の姿はもう朧げになってしまった。けれど、それは仕方のないことだ。母と死別したのは、私が二歳の頃。もうあれから、二十年以上が経っている。記憶は情け容赦なく風化するもので、二十年も前の記憶など、頭のどこにも残ってはいないのだ。
それでも、隣に立つその人を母だと思えたのは、私にとてもよく似ていたからだろうか。それともこれが、私自身が見せる都合の良い夢だと分かっているからだろうか。喜びと、悲しさと、切なさ。それらが私の胸の中でせめぎ合う。そんな私の胸中を知ってか知らずか、母はそっと微笑んだ。
「母さんは、ずっと帰りたかったんだよね。自分の故郷に。……その気持ちは、最後まで変わらなかった?」
最終的には、私や父のそばにいることを受け入れた母。けれど、故郷に帰りたいという気持ちはずっと残っていたように思う。その気持ちは、私たち家族を捨ててでも故郷に戻りたいというものではなかったはずだ。帰れなくなった故郷に、里帰りしたい。そういった程度の想いだったはずだと、今の私は考える。
母は私の問いに答えない。その代わり、そっと私に向かって手を伸ばした。優しく私の頬を撫でる母は、ずっと微笑んでいる。求め続けた母の温もりと、美しいランファンの姿。ここはまるで、桃源郷のようだ。ずっとここにいたいと思わせるものが、この風景の中にはある。
「大きくなったね、トーカ」
本当に、母はこんな声だっただろうか。あたたかな日差しのような、甘く漂う秋風のような。そんな声で、私の名を呼ぶ。母の手が頬に添えられたまま、私は目を閉じた。閉じた瞼から、涙が溢れる。この声と手は、私を慈しむ気持に満ちていた。都合の良い夢でしかないのかもしれない。それでも母は確かにこう触れて、こう私の名を呼ぶのだと、強く信じる心があった。
私を捨て置いて故郷へ帰ることなど、母は絶対にしなかっただろう。母にとって、帰るべき場所はランファンではなくなったのだ。父がいて、私がいる場所。そこが母にとっての帰るべき場所となった。今の私には、それが分かる。
「……母さん、……私も、帰りたい」
この美しい場所に留まりたいという気持ちは、もう失せてしまった。母のぬくもりは恋しいが、それよりももっと欲しい体温が私にはある。寂しい。ここは、とても寂しい。母がいても、この寂しさを埋めることは出来ない。
私はずっと、無明を漂うように生きていた。明確な意志はなく、目指すものもない。どんな大地にも根を張ることなく、不確かなままで生きてきたのだ。けれど、私は碇を下ろした。漂い続けた私の小舟が、やっと帰るべき港を見つけたのだ。
「私は……、スイのところに帰りたい」
寂しくて寂しくて、たまらない。私は今、どこにいるのだろう。現実ではない夢の中。もしかすると、もう私の魂は現世から離れてしまったのかもしれない。そうなれば、もう二度とスイには会えないのだろうか。
悲しくて、堪らなくなる。スイの腕の中が恋しかった。抱きしめられて、唇で触れられたい。想われていることを味わって、そして私も同じようにスイを想いたい。いつの間に、こんなにも深く弟のことを愛してしまっていたのだろうか。
「愛してる」
微笑みながら、母が言った。その目には、うっすらと涙が浮いている。優しい声だ。ずっとずっと、私はこの言葉が欲しかった。母に愛されているという実感が欲しかった。幼い頃に満たされなかった欲をいつまでも抱え続けて、愛を求める子供のままに、私は惨めな大人になってしまったのだ。
今の私は、もう分かっている。愛されたいと思い続けた私を、愛してくれた人が昔からいたことを。レンも、母も、父も。そしてスイも、ずっと私を愛してくれていた。あんなにも愛してくれていたのに、どうして私は分からなかったのだろう。私なんかが愛されるわけがないと、そう思う気持ちが目を曇らせていたのかもしれない。
「行っておいで」
ぎゅっと、抱きしめられる。そして母は私の耳元でそう囁いた。これは夢だ。私が自分自身に見せている都合の良い夢。けれど実際に、私の目の前に母がいて、こうして私の背中を押してくれているような気がしてならない。ここに留まっていては駄目だと、言外に語りかけられる。私はそっと、母から離れた。
「行ってきます」
互いに微笑んでいた。微笑みながら、別れを告げる。もう二度と、こんな夢は見られないかもしれない。それでも私は現実の世界に戻りたかった。そこにしかスイがいないのなら、私はそこに帰りたい。
現実の世界は、苦難の連続だ。憤ることもあるし、悲しいこともある。辛いことも、挫けそうになることだってたくさんある。それでも、私は現実の世界に戻りたいのだ。きっと、こんな私のことをスイが待っていてくれているから。だから私は、戻りたい。スイに、会いたい。
「……、…………」
目覚めは、苦痛と共にあった。全員を痛みが抱擁している。喉は乾き切っていて、意識は朦朧としていた。体が重い。美しかったランファンの景色はそこにはなく、見慣れた天井が私の視界に映っていた。体が言うことを聞かないために、目だけを動かして辺りを伺う。窓からは、眩しい光が差し込んでいた。その角度からして、朝陽だろう。
私はスイの部屋の寝台に、横になっていた。そして、寝台のそばに椅子に、会いたいと望み続けた人の姿を見つける。喜びが胸に湧き上がった。嗚呼、スイだ。あの火事に巻き込まれながらも、スイは生きていた。腕を組み、目を瞑ったまま椅子に座っているスイは、おそらく眠っているのだろう。
「……ス、ィ」
声が出ない。酷く掠れた声だ。しっかりと名を呼ぶことが出来なかったが、それで良いと思った。眠っているスイをわざわざ起こす必要などないのだ。そう思った矢先、スイの体がぴくりと震え、唐突に目が開く。そして私を見た。寝起きだと言うのに、スイはすぐさま感情の昂りをおもてに出して、目を潤ませながら寝台の上に身を乗り出した。
「兄さん……! あぁ、本当に、兄さん……!」
文章になりきらない細切れの単語を、スイが次々に口にする。いつも理路整然と言葉を並べるスイらしからぬ行動だ。けれど、スイが感激していることは分かる。瞳の端に涙を浮かべながら喜ぶスイを見て、私は幸せな気持ちになった。そしてスイの体を隈なく見つめようと、視線を動かす。
「スイ、怪我は……ない?」
私の一番の関心はそれだった。スイは無事なのか。命を脅かされてはいないか。そう問いながら、スイが両足を銃で撃たれていたことを思い出す。怪我がないわけがない。私の問いはあまりにも愚かだった。だが、そんな私の愚かさなど気にする素振りもなく、スイが私の顔を覗き込む。
「どうして兄さんはいつも、人のことばかり……。怪我をしたのは、兄さんなんだよ」
泣き出しそうな顔のスイを見て、私は手を伸ばそうと腕を伸ばした。けれど、私の腕は、私の思い通りに動いてくれない。体を動かすたびに、痛みが走るのだ。何故こんなにも痛いのだろう。私は今、どういう状態なのだろう。疑問が、次から次へと湧いてくる。
「ねぇ、スイ。どうして……私たちは、助かってるの」
あの燃え盛る小屋の中で、私は死を確信した。この身を捧げることでスイを救えるのなら、喜んで自分の命を投げ捨てる。そう覚悟して、私はスイの上に覆い被さっていたのだ。だと言うのに、私は生きている。スイの部屋の寝台の上に横になって、眠っていた。
「兄さんの犬が、燃える小屋の中に飛び込んできたんだ」
「レンが……?」
「そう。あいつが俺と兄さんを小屋の外へと運び出した。だから、俺も兄さんも生きてる」
「レンは? レンも無事なの?」
私の頭の中は、ずっとスイのことでいっぱいになっていた。けれど、私にはもう一人、大切な弟がいるのだ。レンとは、川岸で別れたきりになっていた。てっきり、この屋敷で私の帰りを待っていてくれているものだと思っていたのだ。だが実際には、レンは危険を冒し、私とスイを救ってくれていた。
「安心して。大丈夫だよ」
戸惑いで興奮する私を落ち着かせるように、スイは穏やかな言葉で私にレンのことを説明した。レンは、私が愚かにも足を滑らせて川へ落ちたあと、私を追いかけて川に飛び込んだのだそうだ。信じられない。そう思いながらも、レンならば私を追いかけてきてしまうかもしれないとも思った。私は小さく悲鳴を上げながら、レンの行動について知っていく。
濁流の中を泳いでも、私の姿を見つけられなかったレンは一度、バイユエの屋敷へ戻った。そしてスイに事態を伝え、それから暫くしてスイのもとへヘイグァンからの手紙が届いたということだ。手紙に従い、スイは私を救うために一人で小屋へとやってきた。そしてあの火事に繋がる。
レンは、一人でこっそりと小屋に近づいていた。スイと時間を置いて、ヘイグァンに気取られぬよう密かに。小屋の周囲で身を潜め、動向を探っていたその最中、小屋から逃げ出すヘイグァンの残党に遭遇し、その者たちを叩きのめした。その直後に小屋の中から銃声が響き、それとほぼ同時に炎が勢いよく小屋を包み始めたのだそうだ。
迷うことなく、レンは小屋の中に飛び込んだ。黒煙に包まれる視界の悪い小屋の中で、必死に私とスイを探してくれた。レンが見つけたのは、燃え落ちた天井に押しつぶされた私だったと言う。その瞬間のレンの気持ちを思うと、胸が苦しくなった。レンが来てくれなければ、私もスイも死んでいたことだろう。私一人の力では、スイを守ることが出来なかった。
「スイの足は?」
「問題ない……とは言えないけど、大丈夫。いずれ歩けるようになる」
浮かせていた腰を落ち着かせ、スイは椅子の上に座り直す。その両足にはたくさんの包帯が巻かれており、そばには杖も置かれていた。無傷ではない。それでも、生きていてくれることに私は深い安堵を抱き、胸を撫で下ろす。そんな私を見て、スイは小さく溜息を吐く。それは呆れが混じる溜息だった。
「兄さんは、もっと自分を大切にした方がいい。……兄さんだって、大怪我をしてるんだよ」
そう言って、スイは棚の上に置かれていた鏡を手に取る。そして私にそれを差し出したのだ。一体何を見ろと言うのか、と鏡の中を覗き込んで私は言葉を失った。どうして自分のことだと言うのに、気付かなかったのだろう。私の顔に、大きな火傷があることに。
「顔だけじゃない。背中にも酷い火傷がある」
「……全然、感じなかった」
「痛み止めが効いてるのかもね」
顔の半分の皮膚が爛れ、赤らんでいる。もう二度と、元通りになることはないだろう。顔の右側、額から瞼、右頬にかけて大きな火傷を負っていた。よく見れば、髪も短くなっている。背中を越すほどに伸ばしていた髪だが、今は肩に触れるか触れないかという長さになっていた。おそらく、髪も焼けてしまったのだろう。整えるために、切り揃えてもらったのかもしれない。私の今の姿に、私よりもスイの方が落ち込んでいるように見えた。
「……守れなくて、ごめん」
「そんなことない。スイはちゃんと、私を守ってくれたよ」
「守れなかったから、兄さんはそんな火傷をしてるんだよ」
悔しそうにスイは唇を噛み締めるが、私は命を落とすことまで覚悟していたのだ。それを思えば、火傷など大したことはない。身体中にも火傷があるそうだが、それでも私は生きている。額の火傷に向かって手を伸ばす。腕にも火傷があることに、その時気付いた。額に触れ、痛みを味わう。薬が効いていようとも、触れれば流石に痛かった。
「私は、この火傷を誇りに思う。……これは、私がスイを守れた勲章だから」
何一つ自分のことを誇れない私だったけれど、大切な人たちに愛されていることと、最愛のスイを守れたこの傷跡が、私の誇りとなることだろう。悲しそうな顔をしているスイに向かって、微笑みを向ける。それは、スイに悲しまないで欲しかったからだ。
「スイは私の顔が好きだったでしょう? だから、こんな顔になって愛想が尽きたかな」
「そんなわけない」
否定の言葉は早かった。その早さが、私を安心させる。整った容姿を持っていたわけではないが、それでも以前よりは私の顔は崩れてしまった。そのことをスイがどう思っているかが、私にとっての気がかりだったのだ。
「俺はどんな兄さんだって、愛してる。俺を守ってくれた兄さんは、こんなにも素敵で美しい」
まっすぐな言葉を向けてくれることが、とても嬉しい。涙が瞳に浮かんだのは、傷が痛んだからではない。スイの言葉が、私に過ぎるほどの多幸感を与えたからだ。手で体を支え、上体を起こす。スイがすぐさま私を支えようと椅子から立ち上がるが、その瞬間に苦悶の表情を浮かべた。当然のことだが、やはり足が痛むのだろう。
「愛している、スイ」
互いに傷だらけだ。ぼろぼろの酷い有様。それでも、これだけ傷つかなければ私たちはここに至ることがなかったのだろう。痛みに耐えながら、互いに求める。手を伸ばして触れ合って、そして抱きしめ合った。
「私を守ってくれて、ありがとう」
一度、触れるような口付けを。近い距離で見つめ合って、少し恥ずかしさもあって。それでも幸せで。二度目は、深く求める口付けだった。舌と舌が絡み合い、喰むように口の角度を変えていく。これ以上口付けを続けていたら、きっと私はこれ以上にスイを求めてしまうことだろう。傷だらけの私たちにとって、それは過酷なことだった。
そっとスイの胸を押して距離を置く。愛しいという気持ちは収まらず、スイを求める欲望は増すばかりだ。それでも、ぐっと堪えて私はスイの体を抱きしめた。スイの首筋に頭を埋めて、弟を離すまいと強く抱く。生きていてくれて、本当に良かった。こうして抱きしめ合える喜びを、私は深く噛み締める。泣きたくなるくらいに、幸せだった。
「私に守らせてくれて、ありがとう」
広がる草原の上に幕で出来た家々があり、そんな集落を囲むように背の高い木々がある。頭上に広がる空は青く、天空遥か遠くまで見渡せるほどに澄み切っていた。地に広がる緑も、空に広がる青も、全てが一望できる場所に私は立っている。
私が見ているのは、ランファンの景色なのだと感じる心があった。薄桃の髪を持つ人間が生まれる特異な一族。母が生まれた場所。それがランファン。私は一度も見たことがない。それでも、この光景がランファンのものだと言えるのは、母の日記で読んで頭の中に描いたランファンとここの景色が一致しているからだ。
不意に、己の隣に人がいることに気付く。その人は、私と同じようにランファンの景色を小高い丘に立って見下ろしていた。長い薄桃の髪が風に揺れて、美しく踊っている。綺麗な女性だ。随分と華奢で、私より背が低い。それでも、その存在をとても大きく感じる。私はゆっくりと、その女性を見た。
「……母さん?」
母の姿を、私はもう覚えていない。写真という、姿をそっくりそのまま映し出す機械が作る絵で見たことはあるが、私の記憶の中の母の姿はもう朧げになってしまった。けれど、それは仕方のないことだ。母と死別したのは、私が二歳の頃。もうあれから、二十年以上が経っている。記憶は情け容赦なく風化するもので、二十年も前の記憶など、頭のどこにも残ってはいないのだ。
それでも、隣に立つその人を母だと思えたのは、私にとてもよく似ていたからだろうか。それともこれが、私自身が見せる都合の良い夢だと分かっているからだろうか。喜びと、悲しさと、切なさ。それらが私の胸の中でせめぎ合う。そんな私の胸中を知ってか知らずか、母はそっと微笑んだ。
「母さんは、ずっと帰りたかったんだよね。自分の故郷に。……その気持ちは、最後まで変わらなかった?」
最終的には、私や父のそばにいることを受け入れた母。けれど、故郷に帰りたいという気持ちはずっと残っていたように思う。その気持ちは、私たち家族を捨ててでも故郷に戻りたいというものではなかったはずだ。帰れなくなった故郷に、里帰りしたい。そういった程度の想いだったはずだと、今の私は考える。
母は私の問いに答えない。その代わり、そっと私に向かって手を伸ばした。優しく私の頬を撫でる母は、ずっと微笑んでいる。求め続けた母の温もりと、美しいランファンの姿。ここはまるで、桃源郷のようだ。ずっとここにいたいと思わせるものが、この風景の中にはある。
「大きくなったね、トーカ」
本当に、母はこんな声だっただろうか。あたたかな日差しのような、甘く漂う秋風のような。そんな声で、私の名を呼ぶ。母の手が頬に添えられたまま、私は目を閉じた。閉じた瞼から、涙が溢れる。この声と手は、私を慈しむ気持に満ちていた。都合の良い夢でしかないのかもしれない。それでも母は確かにこう触れて、こう私の名を呼ぶのだと、強く信じる心があった。
私を捨て置いて故郷へ帰ることなど、母は絶対にしなかっただろう。母にとって、帰るべき場所はランファンではなくなったのだ。父がいて、私がいる場所。そこが母にとっての帰るべき場所となった。今の私には、それが分かる。
「……母さん、……私も、帰りたい」
この美しい場所に留まりたいという気持ちは、もう失せてしまった。母のぬくもりは恋しいが、それよりももっと欲しい体温が私にはある。寂しい。ここは、とても寂しい。母がいても、この寂しさを埋めることは出来ない。
私はずっと、無明を漂うように生きていた。明確な意志はなく、目指すものもない。どんな大地にも根を張ることなく、不確かなままで生きてきたのだ。けれど、私は碇を下ろした。漂い続けた私の小舟が、やっと帰るべき港を見つけたのだ。
「私は……、スイのところに帰りたい」
寂しくて寂しくて、たまらない。私は今、どこにいるのだろう。現実ではない夢の中。もしかすると、もう私の魂は現世から離れてしまったのかもしれない。そうなれば、もう二度とスイには会えないのだろうか。
悲しくて、堪らなくなる。スイの腕の中が恋しかった。抱きしめられて、唇で触れられたい。想われていることを味わって、そして私も同じようにスイを想いたい。いつの間に、こんなにも深く弟のことを愛してしまっていたのだろうか。
「愛してる」
微笑みながら、母が言った。その目には、うっすらと涙が浮いている。優しい声だ。ずっとずっと、私はこの言葉が欲しかった。母に愛されているという実感が欲しかった。幼い頃に満たされなかった欲をいつまでも抱え続けて、愛を求める子供のままに、私は惨めな大人になってしまったのだ。
今の私は、もう分かっている。愛されたいと思い続けた私を、愛してくれた人が昔からいたことを。レンも、母も、父も。そしてスイも、ずっと私を愛してくれていた。あんなにも愛してくれていたのに、どうして私は分からなかったのだろう。私なんかが愛されるわけがないと、そう思う気持ちが目を曇らせていたのかもしれない。
「行っておいで」
ぎゅっと、抱きしめられる。そして母は私の耳元でそう囁いた。これは夢だ。私が自分自身に見せている都合の良い夢。けれど実際に、私の目の前に母がいて、こうして私の背中を押してくれているような気がしてならない。ここに留まっていては駄目だと、言外に語りかけられる。私はそっと、母から離れた。
「行ってきます」
互いに微笑んでいた。微笑みながら、別れを告げる。もう二度と、こんな夢は見られないかもしれない。それでも私は現実の世界に戻りたかった。そこにしかスイがいないのなら、私はそこに帰りたい。
現実の世界は、苦難の連続だ。憤ることもあるし、悲しいこともある。辛いことも、挫けそうになることだってたくさんある。それでも、私は現実の世界に戻りたいのだ。きっと、こんな私のことをスイが待っていてくれているから。だから私は、戻りたい。スイに、会いたい。
「……、…………」
目覚めは、苦痛と共にあった。全員を痛みが抱擁している。喉は乾き切っていて、意識は朦朧としていた。体が重い。美しかったランファンの景色はそこにはなく、見慣れた天井が私の視界に映っていた。体が言うことを聞かないために、目だけを動かして辺りを伺う。窓からは、眩しい光が差し込んでいた。その角度からして、朝陽だろう。
私はスイの部屋の寝台に、横になっていた。そして、寝台のそばに椅子に、会いたいと望み続けた人の姿を見つける。喜びが胸に湧き上がった。嗚呼、スイだ。あの火事に巻き込まれながらも、スイは生きていた。腕を組み、目を瞑ったまま椅子に座っているスイは、おそらく眠っているのだろう。
「……ス、ィ」
声が出ない。酷く掠れた声だ。しっかりと名を呼ぶことが出来なかったが、それで良いと思った。眠っているスイをわざわざ起こす必要などないのだ。そう思った矢先、スイの体がぴくりと震え、唐突に目が開く。そして私を見た。寝起きだと言うのに、スイはすぐさま感情の昂りをおもてに出して、目を潤ませながら寝台の上に身を乗り出した。
「兄さん……! あぁ、本当に、兄さん……!」
文章になりきらない細切れの単語を、スイが次々に口にする。いつも理路整然と言葉を並べるスイらしからぬ行動だ。けれど、スイが感激していることは分かる。瞳の端に涙を浮かべながら喜ぶスイを見て、私は幸せな気持ちになった。そしてスイの体を隈なく見つめようと、視線を動かす。
「スイ、怪我は……ない?」
私の一番の関心はそれだった。スイは無事なのか。命を脅かされてはいないか。そう問いながら、スイが両足を銃で撃たれていたことを思い出す。怪我がないわけがない。私の問いはあまりにも愚かだった。だが、そんな私の愚かさなど気にする素振りもなく、スイが私の顔を覗き込む。
「どうして兄さんはいつも、人のことばかり……。怪我をしたのは、兄さんなんだよ」
泣き出しそうな顔のスイを見て、私は手を伸ばそうと腕を伸ばした。けれど、私の腕は、私の思い通りに動いてくれない。体を動かすたびに、痛みが走るのだ。何故こんなにも痛いのだろう。私は今、どういう状態なのだろう。疑問が、次から次へと湧いてくる。
「ねぇ、スイ。どうして……私たちは、助かってるの」
あの燃え盛る小屋の中で、私は死を確信した。この身を捧げることでスイを救えるのなら、喜んで自分の命を投げ捨てる。そう覚悟して、私はスイの上に覆い被さっていたのだ。だと言うのに、私は生きている。スイの部屋の寝台の上に横になって、眠っていた。
「兄さんの犬が、燃える小屋の中に飛び込んできたんだ」
「レンが……?」
「そう。あいつが俺と兄さんを小屋の外へと運び出した。だから、俺も兄さんも生きてる」
「レンは? レンも無事なの?」
私の頭の中は、ずっとスイのことでいっぱいになっていた。けれど、私にはもう一人、大切な弟がいるのだ。レンとは、川岸で別れたきりになっていた。てっきり、この屋敷で私の帰りを待っていてくれているものだと思っていたのだ。だが実際には、レンは危険を冒し、私とスイを救ってくれていた。
「安心して。大丈夫だよ」
戸惑いで興奮する私を落ち着かせるように、スイは穏やかな言葉で私にレンのことを説明した。レンは、私が愚かにも足を滑らせて川へ落ちたあと、私を追いかけて川に飛び込んだのだそうだ。信じられない。そう思いながらも、レンならば私を追いかけてきてしまうかもしれないとも思った。私は小さく悲鳴を上げながら、レンの行動について知っていく。
濁流の中を泳いでも、私の姿を見つけられなかったレンは一度、バイユエの屋敷へ戻った。そしてスイに事態を伝え、それから暫くしてスイのもとへヘイグァンからの手紙が届いたということだ。手紙に従い、スイは私を救うために一人で小屋へとやってきた。そしてあの火事に繋がる。
レンは、一人でこっそりと小屋に近づいていた。スイと時間を置いて、ヘイグァンに気取られぬよう密かに。小屋の周囲で身を潜め、動向を探っていたその最中、小屋から逃げ出すヘイグァンの残党に遭遇し、その者たちを叩きのめした。その直後に小屋の中から銃声が響き、それとほぼ同時に炎が勢いよく小屋を包み始めたのだそうだ。
迷うことなく、レンは小屋の中に飛び込んだ。黒煙に包まれる視界の悪い小屋の中で、必死に私とスイを探してくれた。レンが見つけたのは、燃え落ちた天井に押しつぶされた私だったと言う。その瞬間のレンの気持ちを思うと、胸が苦しくなった。レンが来てくれなければ、私もスイも死んでいたことだろう。私一人の力では、スイを守ることが出来なかった。
「スイの足は?」
「問題ない……とは言えないけど、大丈夫。いずれ歩けるようになる」
浮かせていた腰を落ち着かせ、スイは椅子の上に座り直す。その両足にはたくさんの包帯が巻かれており、そばには杖も置かれていた。無傷ではない。それでも、生きていてくれることに私は深い安堵を抱き、胸を撫で下ろす。そんな私を見て、スイは小さく溜息を吐く。それは呆れが混じる溜息だった。
「兄さんは、もっと自分を大切にした方がいい。……兄さんだって、大怪我をしてるんだよ」
そう言って、スイは棚の上に置かれていた鏡を手に取る。そして私にそれを差し出したのだ。一体何を見ろと言うのか、と鏡の中を覗き込んで私は言葉を失った。どうして自分のことだと言うのに、気付かなかったのだろう。私の顔に、大きな火傷があることに。
「顔だけじゃない。背中にも酷い火傷がある」
「……全然、感じなかった」
「痛み止めが効いてるのかもね」
顔の半分の皮膚が爛れ、赤らんでいる。もう二度と、元通りになることはないだろう。顔の右側、額から瞼、右頬にかけて大きな火傷を負っていた。よく見れば、髪も短くなっている。背中を越すほどに伸ばしていた髪だが、今は肩に触れるか触れないかという長さになっていた。おそらく、髪も焼けてしまったのだろう。整えるために、切り揃えてもらったのかもしれない。私の今の姿に、私よりもスイの方が落ち込んでいるように見えた。
「……守れなくて、ごめん」
「そんなことない。スイはちゃんと、私を守ってくれたよ」
「守れなかったから、兄さんはそんな火傷をしてるんだよ」
悔しそうにスイは唇を噛み締めるが、私は命を落とすことまで覚悟していたのだ。それを思えば、火傷など大したことはない。身体中にも火傷があるそうだが、それでも私は生きている。額の火傷に向かって手を伸ばす。腕にも火傷があることに、その時気付いた。額に触れ、痛みを味わう。薬が効いていようとも、触れれば流石に痛かった。
「私は、この火傷を誇りに思う。……これは、私がスイを守れた勲章だから」
何一つ自分のことを誇れない私だったけれど、大切な人たちに愛されていることと、最愛のスイを守れたこの傷跡が、私の誇りとなることだろう。悲しそうな顔をしているスイに向かって、微笑みを向ける。それは、スイに悲しまないで欲しかったからだ。
「スイは私の顔が好きだったでしょう? だから、こんな顔になって愛想が尽きたかな」
「そんなわけない」
否定の言葉は早かった。その早さが、私を安心させる。整った容姿を持っていたわけではないが、それでも以前よりは私の顔は崩れてしまった。そのことをスイがどう思っているかが、私にとっての気がかりだったのだ。
「俺はどんな兄さんだって、愛してる。俺を守ってくれた兄さんは、こんなにも素敵で美しい」
まっすぐな言葉を向けてくれることが、とても嬉しい。涙が瞳に浮かんだのは、傷が痛んだからではない。スイの言葉が、私に過ぎるほどの多幸感を与えたからだ。手で体を支え、上体を起こす。スイがすぐさま私を支えようと椅子から立ち上がるが、その瞬間に苦悶の表情を浮かべた。当然のことだが、やはり足が痛むのだろう。
「愛している、スイ」
互いに傷だらけだ。ぼろぼろの酷い有様。それでも、これだけ傷つかなければ私たちはここに至ることがなかったのだろう。痛みに耐えながら、互いに求める。手を伸ばして触れ合って、そして抱きしめ合った。
「私を守ってくれて、ありがとう」
一度、触れるような口付けを。近い距離で見つめ合って、少し恥ずかしさもあって。それでも幸せで。二度目は、深く求める口付けだった。舌と舌が絡み合い、喰むように口の角度を変えていく。これ以上口付けを続けていたら、きっと私はこれ以上にスイを求めてしまうことだろう。傷だらけの私たちにとって、それは過酷なことだった。
そっとスイの胸を押して距離を置く。愛しいという気持ちは収まらず、スイを求める欲望は増すばかりだ。それでも、ぐっと堪えて私はスイの体を抱きしめた。スイの首筋に頭を埋めて、弟を離すまいと強く抱く。生きていてくれて、本当に良かった。こうして抱きしめ合える喜びを、私は深く噛み締める。泣きたくなるくらいに、幸せだった。
「私に守らせてくれて、ありがとう」
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愛が重すぎて俺どうすればいい??
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少しおばかな主人公とそれを溺愛する家族にお付き合い頂けたらと思います。
説明は初めの方に詰め込んでます。
えろは作者の気分…多分おいおい入ってきます。
初投稿ですので矛盾や誤字脱字見逃している所があると思いますが暖かい目で見守って頂けたら幸いです。
※(ある日)が付いている話はサイドストーリーのようなもので作者がただ書いてみたかった話を書いていますので飛ばして頂いても大丈夫だと……思います(?)
※度々言い回しや誤字の修正などが入りますが内容に影響はないです。
もし内容に影響を及ぼす場合はその都度報告致します。
なるべく全ての感想に返信させていただいてます。
感想とてもとても嬉しいです、いつもありがとうございます!
5/25
お久しぶりです。
書ける環境になりそうなので少しずつ更新していきます。
主人公の兄になったなんて知らない
さつき
BL
レインは知らない弟があるゲームの主人公だったという事を
レインは知らないゲームでは自分が登場しなかった事を
レインは知らない自分が神に愛されている事を
表紙イラストは マサキさんの「キミの世界メーカー」で作成してお借りしています⬇ https://picrew.me/image_maker/54346
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