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スイ編
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言わなければ。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。その度に、涙が溢れた。泣いている理由をレンに問われても、私には答えられない。無駄に心配させてしまっていることを申し訳ないと思ったが、それでも私の口は縫い付けられたかのように固く閉ざされ、言葉を紡ぎ出すことがなかった。
レンに抱きしめられながら眠る。スイに、もう来なくていいと言われた夜から、私とレンは再びそうして眠り始めた。レンの腕の中はとても居心地がよく、何よりも安心出来る。だというのに体は残酷なほどに正直で、私はスイの温もりを恋しく思ってしまっていたのだ。
言わなければ。
夢の中でも、その言葉を呟いていたように思う。全ての花を散らした桃花の木のそばに蹲って、レンとスイの足元に積もった花びらたちを見ていた。たった一枚だけ、スイの足元にある花びらが多いことに私は気付いている。ぱっと見ただけでは、そんな些細な差異には気付かない。それでもその花びらたちは、私の心だから。だからこそ、分かる。スイの方にだけ、一枚分多いことが。
「おはよう、トーカ」
目を開いて、窓から差し込む陽光を浴びていた時に、レンも目覚めた。起き抜けの寝ぼけ顔なレンの頭を抱きしめて、胸に引き寄せる。されるがままのレンは、幸せそうに微笑んでいた。その頭をそっと撫でる。言わなければ、という呪詛になりつつあるその言葉が、私の頭の中で繰り返し響いているが、それでも私の唇は何も語らなかった。
いつも通りに過ごす。寝台から出て顔を洗って口を濯ぐ。レンに手伝ってもらいながら身支度を整えれば、レンが朝食を持ってきてくれた。その頃になってやっと、私の固い唇は開き始めたが、それでも肝心なことは何も語れないままだ。部屋の掃除をしてくれるレンを眺めながら、そんな彼を素描する。恥ずかしがるレンを追いかけ回して絵筆を動かすのは、楽しかった。他愛もないことを語り、ふざけ合っていると、一日などというのはあっという間に過ぎ去ってしまうのだ。気付いた時にはもう、空は茜色に染まっていた。
「……レン」
言おう。不意に、そう決意した。いつまでも、このままではだめだと、自分自身を叱責する。私は寝台のふちに座っていて、レンは私のそばに立っていた。すらりとした体躯。少年を終え、大人の男へと変わっていくその過程。程よく筋肉のついた見事な体が、そこにある。あんなに小さくて、痩せぎすだった体が、よくここまで成長したものだ。一瞬で過ぎていった出会ってからの日々が、走馬灯のように私の中に蘇ってきた。
「あの……、私」
うまく口が動かせない。唾を飲み込むばかりで、ちっとも胸の中にある想いが言葉になってくれないのだ。レンが私を見下ろして、私の言葉を待っている。言わなければ、言わなければ。焦れば焦るほど、喉がきゅっと狭まって、呼吸すら上手く出来なくなった。
「……その、……私はスイの、ことが」
花びら一枚。たったそれだけの違い。それでも、選ぶことが出来るのは一人だけ。悩みながら、苦しみながら、私はその答えを下した。ならばもう、くよくよとするな。そう怒鳴りつけてやりたいのだが、いつまでも私は情けないままだった。手が震え、喉が閉まり、目は涙で滲む。
「トーカ」
私の言葉を遮るように、レンが私の名を呼んだ。スイよりも声が低く、深く響くレンの声。私はこの声で名を呼ばれることが好きだった。スイは私を兄さんと呼ぶ。日常的に私のことをトーカと呼ぶのは、もうレンしかいないのだ。顔を上げて、レンを見た。
「全部、分かっている」
そう言ったレンの表情は、あまりにも切なくて、苦しくて、見ているこちらを傷つけるようだった。否、違う。私がレンを傷つけているのだ。レンは、私の選択に気付いている。だからこそ、私の言葉を遮って、そう言った。泣き出してしまいそうな顔で、必死にそれを堪えているレンの手が、自身の懐に伸びる。そこから出てきたのは、小さな紙。
「これを読んでほしい。……俺からは、それだけ」
紙を私に手渡すと、レンは部屋から出て行った。残された私は、呆然としたまま夕日に染まる部屋の中でその紙に視線を落とす。それは手紙だった。レンはずっと、字の練習をしていたのだ。ラオウェイからの手紙を喜ぶ私を見て、いつか私に手紙を出すためにと字の練習をしていた。半分に折り畳まれた紙には、大きな文字が記されている。
――――あなたがだれを 愛していても
――――わたしは あなただけを 愛している
文字を習い始めた者特有の、妙に硬い言い回しだ。小さく書くことも出来ず、勢いの良い筆使いで言葉は綴られていた。体が震える。口を手で覆っても、隠せないほどの嗚咽が溢れた。瞳からは涙が次から次へと流れ出て、私は床の上に泣き崩れる。言葉にならない呻き声が、部屋の中に響き渡る。
レンは、私の心がスイを選んだことを感じ取っていたのだ。だからこそ、前もってこんな手紙を書いていた。いつから、私の心を見抜いていたのだろう。私の心がスイに向かっていることに気付きながらも私のそばにいてくれた彼の心は、どのような有様だったのだろうか。
「……ごめんなさい、レン」
口から出て行ったのは、詫びる言葉。けれど、レンはそんな言葉を欲しがったりはしない。それくらいは、私でも分かるのだ。今、私がレンに向けられる言葉は何もなかった。だからこそ、レンは部屋から出ていったのだろう。何もかもが、優しかった。レンの全てが、優しさで出来ていた。
私は手紙を抱きしめたまま、泣き続ける。選んだことに後悔はないのに、それでも私の選択がレンを悲しい気持ちにさせたことは確かで、だからこそ私は泣いているのだ。だが、悲しませたくないからと言って、レンを選ぶことも出来なかった。たった花びら一枚分の差異がそこにはあった。胸を引き裂かれるような思いを味わいながら、私はスイを選んだ。
気付いた時には、私の体は寝台の上にあった。泣き疲れて、気を失うように眠りへ落ちていったのだろうか。だが、私は床の上で寝ていたのではなく、寝台の上にいて、さらに布団まで掛けられている。そんなことをしてくれるのは、レンだけだ。いつの間にか部屋に戻っていたレンが、床で蹲っていた私を見つけて寝台へ運んでくれたのだろう。そして再び、レンは部屋を出ていった。
部屋の中は薄暗い。夕暮れからさらに時が進み、夜の世界が始まっていた。一体、レンはどこに行ってしまったのだろう。追いかけたとして、彼に何を言うべきかも笑かないままに、私は部屋を出てレンを探す。階段を降りたところで、私はもう一人の弟に出会った。
「……兄さん、泣いたの?」
スイは、私の顔を見ておもてに驚愕を浮かべる。おそらく、私の目元は涙のせいで赤くなっていたのだろう。きっと酷い顔をしているはずだ。目元を擦って見るが、状態が改善されたとは思えない。スイの傍に立っていたヤザが、頭を下げて去っていく。私とスイだけの環境にするためだ。そして、スイが私に手を差し出した。その手に、私も己の手を重ねる。
「あいつが兄さんを泣かせた?」
そう言いながら、スイは瞳に怒りを灯らせた。すぐさま私は首を振って否定する。重ねたスイの手を、私はぎゅっと握った。縋りたい気持ちだったのだ。縋って、そして全てを打ち明けたかった。
「……スイと、部屋で話したい」
「もちろん良いよ。行こう」
手を繋いで、二人で歩く。屋敷の中の、スイの部屋へ続く廊下を使用人たちは通らない。だからこそ、誰にも見つからずに私たちはスイの部屋に辿り着くことが出来た。スイの執務室に置かれている大きな椅子。そこに座るようスイに勧められるが、私の足は少しも動かず立ち尽くすままだった。
「目元が赤いね。腫れる前に冷やした方がいい」
きっと冷やすための用意をしようとしてくれたのだろう。それは有難いことではあるが、今はどこにも行かずに私のそばにいて欲しかった。部屋から出て行ってしまいそうだったスイの裾をぎゅっと掴む。私が指先に込めた力は微かなものだったが、それでもスイは足を止めてくれた。
「私、選んだんだよ」
声が震える。今にも泣き出してしまいそうな、情けない声だった。スイがゆっくりと私を見る。その目は大きく見開かれ、信じられないと言いたげだった。私はスイの裾を握りしめたまま、言い募る。
「……スイを、選んだ」
瞳が熱を持ち、再び涙が溢れ出した。私の眼窩は、壊れてしまったのだろう。涙を押し留めておくことが出来ない。感情を制御出来ないまま、唇を噛み締める。下顎が震えていた。心はスイを選んだのに、何故かそれが恐ろしくてたまらない。何かが大きく変わってしまいそうで。大切に守り続けたものが、崩れてしまいそうで。
「兄さん……っ」
その声は感極まっていた。喜びが感じられるその言葉と同等の勢いでスイは私に手を伸ばす。大きな腕で私は抱きしめられた。震えを感じなくなるほどに強い力でスイは私を包み込む。スイは耳元で私の名を何度も囁いた。
「ありがとう、兄さん。選ぶことが、兄さんにとってとても辛いことだって分かってた。それでも、選ばなくて良いって言ってあげられなくて、ごめん。……でも、本当に、嬉しい。ありがとう、兄さん」
心の底からの喜びが、スイの声には込められていた。感謝を伝えられたが、それは間違っている。私はスイに感謝されるようなことはしていない。ただ心に従ったまでのこと。けれど、それらを上手く言葉にすることが出来ないまま、私はスイにしがみ付く。
「レンは……私を嫌いになるかな」
「そんなことは絶対にない。あの犬のことは嫌いだけど、その点だけは信じられる。しばらくは、気持ちの整理のために時間が必要だとは思う。それでも、あいつは必ず兄さんのもとに戻ってくるよ」
二人の弟たちは、良くも悪くもとても似ている。だからこそ互いが嫌いで、反目し合っていた。そんなスイには、レンの心の中が見えているようだ。レンは私を嫌いにならないと、強い語気で言ってくれた。私には、その言葉を信じることしか出来ない。
私を抱きしめていた腕から少し力を抜いて、スイが私との間に距離を生む。互いの顔を見つめ合った。スイのおもてにはどこか緊張が走っていて、こんな表情を見たことがないな、と私はぼんやりと考える。神妙な面持ちのスイは、微かに首を傾けながら私に問いを投げかけた。
「兄さんも、俺のことが好きだって……そう思って良いんだよね?」
「もともと好きだったよ」
「誰よりも好きってこと。兄さんは、この世で一番俺が好き。そうだよね?」
「……そうだよ」
改めて問われると、恥ずかしくなる。顔が熱い。私は俯きながら答えた。だが、下を向き続けることをスイは許さなかった。指先が伸ばされ、その指が私の顎に触れる。そのまま顔を持ち上げられ、私の視線はスイのそれと交わった。
「口付けをしたい。……いい?」
一度として、唇と唇を触れ合わせたことがない。口付け自体はしたことがあるし、されたこともあるけれど、それは額へのものであったり、頬へのものだったのだ。唇と唇で行う口付けに、大きな意味があることを私は感じ取っていた。だからこそ、今まで誰の唇にも触れなかったし、触れてくることを許さずにいた。だが今は、触れて欲しい。唇と、唇を、合わせてみたい。
「したこと……ないから、うまく出来るか分からないけど」
言い終わるや否や、スイが私の唇に噛み付いた。頭の後ろに手が添えられていて、首の角度をスイの思うままにされている。私の口は少し開いたままで、その隙間にスイの舌先が入り込んだ。ぬるぬるとしたものが、私の口内に忍び込む。戸惑いよりも驚きが、羞恥よりも息苦しさが私を包み込んだ。
「んっ……、ぅ……!」
上手く呼吸が出来なくて、私は慌てる。スイの胸を軽く握った拳で叩いた。すると、ゆっくりとスイが私から離れていく。私たちの間を、唾液で出来た糸が繋いだ。けれど、距離が離れるとその糸はぷつりと切れる。初めての口付けのあとに、どんな顔をすれば良いのか分からず、私はスイを見つめた。
「兄さんの初めてをもらえて、すごく嬉しい」
幸せそうに、そして嬉しそうに、スイが微笑んでいる。私はきっと、この笑みが見たかったのだ。心の中の桃花の木がスイを選び、私はスイの手を握った。それは全て、スイの笑顔を見るためだったのだと今更ながらに気付く。スイという一人の人間が喜ぶ姿を見るのが、私は好きなのだ。弟を喜ばせたいという単純な気持ちではなく、スイという人が幸せであることが、私の喜びだった。
「もう一つの初めても、欲しい。急すぎるって、怒る?」
その言葉の意味が分からないほど、私は晩生ではない。もっと触れたいのだと、言外にスイは伝えてくる。もちろん、私はそこまでの覚悟を持ってスイを選んだのだ。一度スイから離した手を、再びスイへと伸ばす。私は、スイの手首をぎゅっと掴んだ。
「……怒らないよ。……私もずっと、スイに触って欲しかった」
最初は、罰だった。振り返れば、あれのどこか罰だったのかと疑問に思えてしまうが、スイ曰く、あれは罰だった。罰としてスイに触れられ、私は触れられることの心地よさを知ってしまったのだ。それから、何かしらの理由をつけて、スイは私に触れてきた。それを私が受け入れ続けていたのは、スイに触れられるのが好きだったからなのだろう。
スイに触れてもらえなかった間、私の体は確かに疼いていた。触れられることを期待して、頭の中で淫蕩なことを考えた夜もあった。ずっと、ずっと触れて欲しかったのだ。触れて欲しいと、懇願するようにスイに願う。すると、スイの下半身に変化が現れた。抱きしめ合うことで、互いの体を密着していたために私はすぐに気付く。
「ごめん、兄さんが可愛すぎて……、落ち着かせるから、ちょっと待って」
硬くなったスイのものが、私の腹部に当たっている。私の存在が、スイに熱をもたらしたのだと思うと、喜びを感じた。私のどんな言動がスイに刺さったのかは分からないが、それでもスイは何かしらの興奮を得て、体内の血液が下半身に集まっている状況にあるのだ。普段は柔らかいそれを、とても硬くさせる程度には興奮してくれている。それを落ち着かせようと、スイは目を閉じて深呼吸をした。
「別に、落ち着かせなくても……」
「いいの?」
問われ、頷く。スイのものに触れたいという欲望が、私の中にも渦巻いていた。ごくり、と音を立てて唾を飲んだのはどちらだったのか。静まり返る部屋の中で、私たちは見つめ合った。互いの瞳には欲望が映り込んでいる。触れたい。触れて欲しい。私たちの間を、渇望が行き交っていた。
「一緒に風呂に入って、それで兄さんの手でこれを鎮めて欲しいな」
スイが私の手を握り、導く。硬くなり、衣服を押し上げるそれへ。怒張したそれに触れて、私の体は切なさを覚える。頭がぼうっとしていた。スイを愛していると認めてしまえば、あとは転がり落ちるだけ。私たちは、愛欲の沼へと落ちていく。スイのものに触れながら、ゆっくりと頷いた。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。その度に、涙が溢れた。泣いている理由をレンに問われても、私には答えられない。無駄に心配させてしまっていることを申し訳ないと思ったが、それでも私の口は縫い付けられたかのように固く閉ざされ、言葉を紡ぎ出すことがなかった。
レンに抱きしめられながら眠る。スイに、もう来なくていいと言われた夜から、私とレンは再びそうして眠り始めた。レンの腕の中はとても居心地がよく、何よりも安心出来る。だというのに体は残酷なほどに正直で、私はスイの温もりを恋しく思ってしまっていたのだ。
言わなければ。
夢の中でも、その言葉を呟いていたように思う。全ての花を散らした桃花の木のそばに蹲って、レンとスイの足元に積もった花びらたちを見ていた。たった一枚だけ、スイの足元にある花びらが多いことに私は気付いている。ぱっと見ただけでは、そんな些細な差異には気付かない。それでもその花びらたちは、私の心だから。だからこそ、分かる。スイの方にだけ、一枚分多いことが。
「おはよう、トーカ」
目を開いて、窓から差し込む陽光を浴びていた時に、レンも目覚めた。起き抜けの寝ぼけ顔なレンの頭を抱きしめて、胸に引き寄せる。されるがままのレンは、幸せそうに微笑んでいた。その頭をそっと撫でる。言わなければ、という呪詛になりつつあるその言葉が、私の頭の中で繰り返し響いているが、それでも私の唇は何も語らなかった。
いつも通りに過ごす。寝台から出て顔を洗って口を濯ぐ。レンに手伝ってもらいながら身支度を整えれば、レンが朝食を持ってきてくれた。その頃になってやっと、私の固い唇は開き始めたが、それでも肝心なことは何も語れないままだ。部屋の掃除をしてくれるレンを眺めながら、そんな彼を素描する。恥ずかしがるレンを追いかけ回して絵筆を動かすのは、楽しかった。他愛もないことを語り、ふざけ合っていると、一日などというのはあっという間に過ぎ去ってしまうのだ。気付いた時にはもう、空は茜色に染まっていた。
「……レン」
言おう。不意に、そう決意した。いつまでも、このままではだめだと、自分自身を叱責する。私は寝台のふちに座っていて、レンは私のそばに立っていた。すらりとした体躯。少年を終え、大人の男へと変わっていくその過程。程よく筋肉のついた見事な体が、そこにある。あんなに小さくて、痩せぎすだった体が、よくここまで成長したものだ。一瞬で過ぎていった出会ってからの日々が、走馬灯のように私の中に蘇ってきた。
「あの……、私」
うまく口が動かせない。唾を飲み込むばかりで、ちっとも胸の中にある想いが言葉になってくれないのだ。レンが私を見下ろして、私の言葉を待っている。言わなければ、言わなければ。焦れば焦るほど、喉がきゅっと狭まって、呼吸すら上手く出来なくなった。
「……その、……私はスイの、ことが」
花びら一枚。たったそれだけの違い。それでも、選ぶことが出来るのは一人だけ。悩みながら、苦しみながら、私はその答えを下した。ならばもう、くよくよとするな。そう怒鳴りつけてやりたいのだが、いつまでも私は情けないままだった。手が震え、喉が閉まり、目は涙で滲む。
「トーカ」
私の言葉を遮るように、レンが私の名を呼んだ。スイよりも声が低く、深く響くレンの声。私はこの声で名を呼ばれることが好きだった。スイは私を兄さんと呼ぶ。日常的に私のことをトーカと呼ぶのは、もうレンしかいないのだ。顔を上げて、レンを見た。
「全部、分かっている」
そう言ったレンの表情は、あまりにも切なくて、苦しくて、見ているこちらを傷つけるようだった。否、違う。私がレンを傷つけているのだ。レンは、私の選択に気付いている。だからこそ、私の言葉を遮って、そう言った。泣き出してしまいそうな顔で、必死にそれを堪えているレンの手が、自身の懐に伸びる。そこから出てきたのは、小さな紙。
「これを読んでほしい。……俺からは、それだけ」
紙を私に手渡すと、レンは部屋から出て行った。残された私は、呆然としたまま夕日に染まる部屋の中でその紙に視線を落とす。それは手紙だった。レンはずっと、字の練習をしていたのだ。ラオウェイからの手紙を喜ぶ私を見て、いつか私に手紙を出すためにと字の練習をしていた。半分に折り畳まれた紙には、大きな文字が記されている。
――――あなたがだれを 愛していても
――――わたしは あなただけを 愛している
文字を習い始めた者特有の、妙に硬い言い回しだ。小さく書くことも出来ず、勢いの良い筆使いで言葉は綴られていた。体が震える。口を手で覆っても、隠せないほどの嗚咽が溢れた。瞳からは涙が次から次へと流れ出て、私は床の上に泣き崩れる。言葉にならない呻き声が、部屋の中に響き渡る。
レンは、私の心がスイを選んだことを感じ取っていたのだ。だからこそ、前もってこんな手紙を書いていた。いつから、私の心を見抜いていたのだろう。私の心がスイに向かっていることに気付きながらも私のそばにいてくれた彼の心は、どのような有様だったのだろうか。
「……ごめんなさい、レン」
口から出て行ったのは、詫びる言葉。けれど、レンはそんな言葉を欲しがったりはしない。それくらいは、私でも分かるのだ。今、私がレンに向けられる言葉は何もなかった。だからこそ、レンは部屋から出ていったのだろう。何もかもが、優しかった。レンの全てが、優しさで出来ていた。
私は手紙を抱きしめたまま、泣き続ける。選んだことに後悔はないのに、それでも私の選択がレンを悲しい気持ちにさせたことは確かで、だからこそ私は泣いているのだ。だが、悲しませたくないからと言って、レンを選ぶことも出来なかった。たった花びら一枚分の差異がそこにはあった。胸を引き裂かれるような思いを味わいながら、私はスイを選んだ。
気付いた時には、私の体は寝台の上にあった。泣き疲れて、気を失うように眠りへ落ちていったのだろうか。だが、私は床の上で寝ていたのではなく、寝台の上にいて、さらに布団まで掛けられている。そんなことをしてくれるのは、レンだけだ。いつの間にか部屋に戻っていたレンが、床で蹲っていた私を見つけて寝台へ運んでくれたのだろう。そして再び、レンは部屋を出ていった。
部屋の中は薄暗い。夕暮れからさらに時が進み、夜の世界が始まっていた。一体、レンはどこに行ってしまったのだろう。追いかけたとして、彼に何を言うべきかも笑かないままに、私は部屋を出てレンを探す。階段を降りたところで、私はもう一人の弟に出会った。
「……兄さん、泣いたの?」
スイは、私の顔を見ておもてに驚愕を浮かべる。おそらく、私の目元は涙のせいで赤くなっていたのだろう。きっと酷い顔をしているはずだ。目元を擦って見るが、状態が改善されたとは思えない。スイの傍に立っていたヤザが、頭を下げて去っていく。私とスイだけの環境にするためだ。そして、スイが私に手を差し出した。その手に、私も己の手を重ねる。
「あいつが兄さんを泣かせた?」
そう言いながら、スイは瞳に怒りを灯らせた。すぐさま私は首を振って否定する。重ねたスイの手を、私はぎゅっと握った。縋りたい気持ちだったのだ。縋って、そして全てを打ち明けたかった。
「……スイと、部屋で話したい」
「もちろん良いよ。行こう」
手を繋いで、二人で歩く。屋敷の中の、スイの部屋へ続く廊下を使用人たちは通らない。だからこそ、誰にも見つからずに私たちはスイの部屋に辿り着くことが出来た。スイの執務室に置かれている大きな椅子。そこに座るようスイに勧められるが、私の足は少しも動かず立ち尽くすままだった。
「目元が赤いね。腫れる前に冷やした方がいい」
きっと冷やすための用意をしようとしてくれたのだろう。それは有難いことではあるが、今はどこにも行かずに私のそばにいて欲しかった。部屋から出て行ってしまいそうだったスイの裾をぎゅっと掴む。私が指先に込めた力は微かなものだったが、それでもスイは足を止めてくれた。
「私、選んだんだよ」
声が震える。今にも泣き出してしまいそうな、情けない声だった。スイがゆっくりと私を見る。その目は大きく見開かれ、信じられないと言いたげだった。私はスイの裾を握りしめたまま、言い募る。
「……スイを、選んだ」
瞳が熱を持ち、再び涙が溢れ出した。私の眼窩は、壊れてしまったのだろう。涙を押し留めておくことが出来ない。感情を制御出来ないまま、唇を噛み締める。下顎が震えていた。心はスイを選んだのに、何故かそれが恐ろしくてたまらない。何かが大きく変わってしまいそうで。大切に守り続けたものが、崩れてしまいそうで。
「兄さん……っ」
その声は感極まっていた。喜びが感じられるその言葉と同等の勢いでスイは私に手を伸ばす。大きな腕で私は抱きしめられた。震えを感じなくなるほどに強い力でスイは私を包み込む。スイは耳元で私の名を何度も囁いた。
「ありがとう、兄さん。選ぶことが、兄さんにとってとても辛いことだって分かってた。それでも、選ばなくて良いって言ってあげられなくて、ごめん。……でも、本当に、嬉しい。ありがとう、兄さん」
心の底からの喜びが、スイの声には込められていた。感謝を伝えられたが、それは間違っている。私はスイに感謝されるようなことはしていない。ただ心に従ったまでのこと。けれど、それらを上手く言葉にすることが出来ないまま、私はスイにしがみ付く。
「レンは……私を嫌いになるかな」
「そんなことは絶対にない。あの犬のことは嫌いだけど、その点だけは信じられる。しばらくは、気持ちの整理のために時間が必要だとは思う。それでも、あいつは必ず兄さんのもとに戻ってくるよ」
二人の弟たちは、良くも悪くもとても似ている。だからこそ互いが嫌いで、反目し合っていた。そんなスイには、レンの心の中が見えているようだ。レンは私を嫌いにならないと、強い語気で言ってくれた。私には、その言葉を信じることしか出来ない。
私を抱きしめていた腕から少し力を抜いて、スイが私との間に距離を生む。互いの顔を見つめ合った。スイのおもてにはどこか緊張が走っていて、こんな表情を見たことがないな、と私はぼんやりと考える。神妙な面持ちのスイは、微かに首を傾けながら私に問いを投げかけた。
「兄さんも、俺のことが好きだって……そう思って良いんだよね?」
「もともと好きだったよ」
「誰よりも好きってこと。兄さんは、この世で一番俺が好き。そうだよね?」
「……そうだよ」
改めて問われると、恥ずかしくなる。顔が熱い。私は俯きながら答えた。だが、下を向き続けることをスイは許さなかった。指先が伸ばされ、その指が私の顎に触れる。そのまま顔を持ち上げられ、私の視線はスイのそれと交わった。
「口付けをしたい。……いい?」
一度として、唇と唇を触れ合わせたことがない。口付け自体はしたことがあるし、されたこともあるけれど、それは額へのものであったり、頬へのものだったのだ。唇と唇で行う口付けに、大きな意味があることを私は感じ取っていた。だからこそ、今まで誰の唇にも触れなかったし、触れてくることを許さずにいた。だが今は、触れて欲しい。唇と、唇を、合わせてみたい。
「したこと……ないから、うまく出来るか分からないけど」
言い終わるや否や、スイが私の唇に噛み付いた。頭の後ろに手が添えられていて、首の角度をスイの思うままにされている。私の口は少し開いたままで、その隙間にスイの舌先が入り込んだ。ぬるぬるとしたものが、私の口内に忍び込む。戸惑いよりも驚きが、羞恥よりも息苦しさが私を包み込んだ。
「んっ……、ぅ……!」
上手く呼吸が出来なくて、私は慌てる。スイの胸を軽く握った拳で叩いた。すると、ゆっくりとスイが私から離れていく。私たちの間を、唾液で出来た糸が繋いだ。けれど、距離が離れるとその糸はぷつりと切れる。初めての口付けのあとに、どんな顔をすれば良いのか分からず、私はスイを見つめた。
「兄さんの初めてをもらえて、すごく嬉しい」
幸せそうに、そして嬉しそうに、スイが微笑んでいる。私はきっと、この笑みが見たかったのだ。心の中の桃花の木がスイを選び、私はスイの手を握った。それは全て、スイの笑顔を見るためだったのだと今更ながらに気付く。スイという一人の人間が喜ぶ姿を見るのが、私は好きなのだ。弟を喜ばせたいという単純な気持ちではなく、スイという人が幸せであることが、私の喜びだった。
「もう一つの初めても、欲しい。急すぎるって、怒る?」
その言葉の意味が分からないほど、私は晩生ではない。もっと触れたいのだと、言外にスイは伝えてくる。もちろん、私はそこまでの覚悟を持ってスイを選んだのだ。一度スイから離した手を、再びスイへと伸ばす。私は、スイの手首をぎゅっと掴んだ。
「……怒らないよ。……私もずっと、スイに触って欲しかった」
最初は、罰だった。振り返れば、あれのどこか罰だったのかと疑問に思えてしまうが、スイ曰く、あれは罰だった。罰としてスイに触れられ、私は触れられることの心地よさを知ってしまったのだ。それから、何かしらの理由をつけて、スイは私に触れてきた。それを私が受け入れ続けていたのは、スイに触れられるのが好きだったからなのだろう。
スイに触れてもらえなかった間、私の体は確かに疼いていた。触れられることを期待して、頭の中で淫蕩なことを考えた夜もあった。ずっと、ずっと触れて欲しかったのだ。触れて欲しいと、懇願するようにスイに願う。すると、スイの下半身に変化が現れた。抱きしめ合うことで、互いの体を密着していたために私はすぐに気付く。
「ごめん、兄さんが可愛すぎて……、落ち着かせるから、ちょっと待って」
硬くなったスイのものが、私の腹部に当たっている。私の存在が、スイに熱をもたらしたのだと思うと、喜びを感じた。私のどんな言動がスイに刺さったのかは分からないが、それでもスイは何かしらの興奮を得て、体内の血液が下半身に集まっている状況にあるのだ。普段は柔らかいそれを、とても硬くさせる程度には興奮してくれている。それを落ち着かせようと、スイは目を閉じて深呼吸をした。
「別に、落ち着かせなくても……」
「いいの?」
問われ、頷く。スイのものに触れたいという欲望が、私の中にも渦巻いていた。ごくり、と音を立てて唾を飲んだのはどちらだったのか。静まり返る部屋の中で、私たちは見つめ合った。互いの瞳には欲望が映り込んでいる。触れたい。触れて欲しい。私たちの間を、渇望が行き交っていた。
「一緒に風呂に入って、それで兄さんの手でこれを鎮めて欲しいな」
スイが私の手を握り、導く。硬くなり、衣服を押し上げるそれへ。怒張したそれに触れて、私の体は切なさを覚える。頭がぼうっとしていた。スイを愛していると認めてしまえば、あとは転がり落ちるだけ。私たちは、愛欲の沼へと落ちていく。スイのものに触れながら、ゆっくりと頷いた。
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