すべては花の積もる先

シオ

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「良い絵だな」

 私が手渡したものを確かめながら、シェンルーが言う。ここ数日、私は部屋に閉じこもって絵の作成に没頭していた。寝食を忘れ、絵を描くことに集中していたのだ。そうしていれば、ほかごとを考えずに済む。私の心を曇らせる色々なことから逃げて、私は絵を描き続けたのだ。

 そんな私に、時折声をかけては食事をとるように促したり、眠る時間だと寝台へ連れていったりと、レンはいつも通り甲斐甲斐しく寄り添ってくれていた。レンはレンで、絵を描く私の横で字を書く練習をしていた。私に手紙を書いてくれると言っていたあの言葉は、どうやら本気であるらしい。そのために字の練習をしているのだろう。

「絵のこと、全然詳しくないけどさ。俺はトーカさんの絵、好きだよ」
「ありがとう」

 微笑みながら、感謝を伝える。もちろん、賞賛は嬉しい。けれど、その言葉を心底信じることが出来ずにいる猜疑心の強い私がいた。適当にそう言っているわけではないのか。私はシェンルーにとっては客だから、客を喜ばせるためだけにそう言っているだけなのでは。そんなことをいちいち考えてしまう己が、何よりも嫌いだった。

「丁度シンリンに行く用事があるから、いつも通りラオウェイさんに渡しておくよ」
「よろしくね」

 シンリンは、このフェイラン国の王都だ。政の場であり、ルーフェイに比べると落ち着いた場所ではあるが、それでもこの国でもっとも進んだ場所でもある。文化においては、あの場所がもっとも洗練されていた。優れた絵画も、シンリンに集まる。私もその仲間入りがしたいと願って、筆をとり続けているのだ。

 私の上客であるラオウェイも、シンリンに住んでいる。彼のお眼鏡にかなえば、私の絵はそれなりの値段で買い取られることになるのだ。いつか、私の絵を吟味するラオウェイの姿を見てみたいと思う。ルーフェイからシンリンは、それほど遠くはないのだから、馬車に一日揺られさえすれば、私は実際にその場に居合わせることが出来る。

 けれど、私がそうしたことは一度もない。それはつまり、本当は己の絵を査定されている光景を見ることを恐れているということなのだろう。見てみたいけれど、本当に見るのは怖い。そんな臆病な心が私の胸に埋まっている。自分自身を嫌いになるばかりで、全く好きになることが出来ない。そのようなことを考えていた私の目の前に、シェンルーの手が差し出される。その意味が分からない。

「……この手は?」
「あるんだろ? トーカさんからの手紙」

 そこまで言われて、私はシェンルーの言わんとすることを理解した。そして私は、とてもとても小さな声で、ある、と返す。直後に聞こえたのは、シェンルーの大きな溜め息。わざとらしいほどに大きいそれは、明らかに演技じみている。

「あのさ。このやりとりも面倒臭いからさ、手紙は絵と一緒に渡してくれない?」
「だって……、いつも悩んでしまうから……」
「手紙を渡すことを?」

 頷く。私はいつも、絵をシェンルーに渡すときに合わせて、ラオウェイに宛てて手紙を書いている。けれど、なかなかシェンルーに渡すことが出来ないのだ。とはいえ、結局は手紙を渡すことになり、ラオウェイとの手紙のやり取りが続いているわけなのだが。どうせ手紙をシェンルーに差し出すことになるのに、もじもじとして手間取らせてしまうこの瞬間を、シェンルーは面倒臭いと称した。その通りだと私も思う。

 それでも、いつも考えてしまうのだ。私からの手紙など、迷惑ではないだろうか、と。私には、手紙のやり取りをしてくれる人などラオウェイ一人しかいない。けれど、彼には文通相手がたくさんいるのかもしれない。私になど時間を割かせてしまって良いのだろうか。そう思うと、せっかくしたためた手紙をシェンルーに渡せなくなってしまうのだ。そこで再び、シェンルーの盛大な溜め息。

「どうして、トーカさんみたいな恵まれた人が、そんなに自分の価値を信じられないんだよ」
「シェンルー」

 嗜める声が飛んだ。リャン爺がシェンルーを咎めたのだ。だが、シェンルーの言葉だと思う。明らかに、私は恵まれている。毎日食べること困らず、温かい場所で眠ることが出来ている。母との別離は早かったが、それでも周りには家族もいる。普通、そういう人間は自信に満ちて、己の価値を信じられるものなのだろう。だが私には、それが圧倒的に欠落していた。

「大丈夫。あの人は、トーカさんからの手紙を楽しみにしてるよ」

 屈託のない表情で、シェンルーが笑ってそう言った。一体、ラオウェイはどんな顔で私の手紙を読むのだろう。こっそりと、私の絵や手紙を見るところを眺めてみたい。恐ろしいと感じる気持ちはあるけれど、それでも私はいつか、会いに行きたいと確かに思うのだ。いつか、きっと。私はそうして、未来の自分へ期待をかける。

 シェンルーに絵と手紙を託し、私はレンと共に店を出た。シャンガン地区の空気はとても穏やかで、心地よい。程々の喧騒と、それに釣り合う静寂に満ちているのだ。空を見上げる。落陽のさなかで、天上は茜に染まっていた。そして私は視線を落とし、足元を眺めた。

「トーカ、本当に行くの?」

 背後からレンが問う。今日は、ズーユンと約束をした日だった。今日という日の夕暮れ時に、ハンファに来て欲しいと言われていたのだ。今もまだ迷いが体の中で渦巻いている。それでも私はゆっくりと頷いた。

「……うん」
「わかった」

 些か不服そうではあったけれど、レンはそれ以上何も言わなかった。本当は引きずってでも私を屋敷へ連れ戻したいことだろう。それでもレンは、私の意に反することはしない。私は一歩を踏み出した。それは、娼館ハンファのあるハイリ地区へ向けての一歩だ。

 シャンガンからハイリへと入ると、すぐさま強い酒気を感じた。日が暮れたばかりだというのに、ハイリはルーフェイのどこよりも先に夜の街に変貌している。大きな声で下品な話をする酔っぱらい。白粉の匂いを巻きながら、男を誘う女。この街はいつ来ても、同じ風景を再演している。

 咽せ返るような熱気の中を、私は進んで行った。そんな私の歩みをレンが支えてくれる。輝かしいハイリ地区の中でも、一等明るい店がハンファだった。強烈な光に誘われる蛾のように、男たちがふらふらとした足取りで吸い込まれていく。そんな光景を横目に、私はハンファの裏口を目指す。

 表の明るさが嘘のように、裏は暗い。荷物を運び入れる男や、娼婦たちの髪結いを務める女が出入りしている。裏口を見張るように番をする男は、長い棒を片手に握りながら行き交う者たちをしっかりと目で追っていた。私は無意識のうちに、ごくりと生唾を嚥下する。あの人だ。ズーユンが指定したこの時刻、その時に裏口の警備をする男。あの男に私は声をかけなければならない。きっと、頼めばレンが言ってくれるのだろうけれど、こればかりは自分で為さなければならないことであると感じていた。ゆっくりと男に近づき、恐る恐る声をかける。

「……あ、あの、すみません」
「ん? なんだ。なんか用か。……って。もしかして、あんたが姐さんの客か?」

 暗がりの中で大きな笠を被る私を訝しそうに見た男は、すぐに合点がいったようで何かしらの納得をしてくれた。姐さんの客。きっと私がそれ。うんうん、と大きく頷くと男が面倒臭そうな顔をして、舌打ちをする。こんな態度を取られることが滅多にないせいで、私は少しばかり驚いてしまった。

「そんなところに突っ立ってたら悪目立ちするだろ、こっちに来い!」

 乱暴に伸ばされた手が、私の手首を目掛けて動く。男の手が私に触れ、その手に私が引かれそうになる寸前に、レンが男の手首を掴んだ。強い力で掴まれたのか、男は痛みに呻き、慌ててレンの手を振り払う。自分の手で掴まれた部分を撫でながら、レンから逃げるように後ずさる。

「な、なんだよ……怖い顔すんじゃねぇよ……。笠、邪魔だからさっさと脱げよ。……ったく。なんだよ、あんたらは」

 ずっと被っていた笠を、私はゆっくりと外す。ここが暗いとはいえ、私の奇妙な髪色には灯りが乏しくとも気付くはずだ。体に緊張が走る私を前にしても、男のぼやきは止まらない。薄桃の髪色を、私は確かに晒している。けれども、この男は私がバイユエに連なる者であることに、気付いていないようだ。

 ハンファを所持するのはバイユエであり、バイユエとの繋がりは当然強い。そんな娼館の門番を勤める者が、バイユエの人間の容貌を覚えていないと言うのは問題ではないだろうか。もしかすると、この男は門番をするようになって日が浅いのかもしれない。だからこそ、ズーユンはこの男が番をする時間帯を指定した可能性がある。そう考えると、辻褄が合った。

「姐さんが俺に大金握らせてよ、妙に神妙な顔してあんたらのこと通してくれって言うから、ついつい頷いちまったけどよ。……姐さんの親戚か何かか?」
「えっと……、そんなところです」
「なら、さっさと用を済ませてくれよ。そこの階段。それ、下男しか使わねぇ階段なんだけど、この時間帯は誰も上り下りしねぇから。そこから一番上まで上がってすぐの部屋。灯りのついてない部屋に入るんだぞ。そこで姐さんを待ってろってさ」

 小さな声で耳打ちするように、ぼそぼそと早口で捲し立てる。男としても、得体の知れない人間をハンファの裏口から通すと言うのは危険な行為であるらしかった。指し示された階段を見る。それは暗がりの中でもより一層暗く見える階段だった。幅が狭く、とても歩きづらそうに見える。かなり急な階段であり、恐怖を感じた。それでも、行くしかない。

「ほら、さっさと行けよ。絶対に、誰にも見つかるなよ」

 しっし、と犬を追い払うような仕草で先を促される。私は覚悟を決めて、歩き出した。階段の踏み板も小さく、とても十分な面積とは言えない。体重をかければ、木で出来た踏み板が嫌な音を立てて軋んだ。手すりをぎゅっと握ってはいるが、それでも足元の不安定さに臆してしまう。

「トーカ、足を滑らせても俺が受け止めるから。怖がらずに上がって」
「うん……、ありがとう。レン」

 私の背後には寄り添うようにレンが立っていた。その距離のままで階段を共に上がってくれるのだろう。私よりも体の大きなレンには、この階段はとても窮屈に感じるはずだ。それでも恐怖を感じることなく、私を励ましてくれている。このままここで立ち往生していては何も始まらないのだ。己を叱咤して、足を動かす。

 足元を見てしまうと恐怖が増してしまうような気がして、私は上だけを見た。夜空に向かって進んでいるような気持ちになる。このまま進んで行けば、月にでも辿り着いてしまいそうだ。そんな馬鹿げたことを考えながら、私は階段を登っていく。後ろでは私の背中に手を添えて体を支えてくれるレンがいる。少しずつ恐怖は消えていった。

 そして登り切った階段の上で、私は一呼吸置く。振り返ったことを後悔するほどに、私は高いところまでやって来ていた。階段に背中を向ければ、視界には一枚の扉が映る。向こう側の様子を窺うため、まずは少しだけ開いた。見えた範囲に人の気配はない。そこは、ぼんやりとした橙の灯りに照らされた廊下だった。私と共に扉の向こう側を覗いたレンと、視線を合わせて頷く。今なら、中に入れると互いに判断し合ったのだ。

 音を立てないようにそっと扉を開き、私とレンは静かにハンファの中へ足を踏み入れる。廊下に面する形で、いくつかの部屋が並んでいた。それぞれの扉には小さな硝子窓が設けられており、中の様子が微かに分かるようになっている。門番の男は、灯りのついていない部屋と言っていた。見える範囲の中で灯りのない部屋は、一部屋しかない。私とレンは足早に、それでいて足音を立てないように、その部屋へ入り込んだ。

 そこは、物置部屋のようだった。いくつもの布団が折り畳まれて重ねられており、他にも火の点けられていない燭台や鏡台が置かれていた。窓から差し込む月光だけが、この部屋の中を照らしている。心落ち着かせてここまでやってきたつもりだが、今になって身体中を駆け巡る脈の速さに気付いた。早鐘を打つ胸に手を置きながら、レンを見る。

「ここで良いんだよね……?」
「灯りのついてない部屋はここだけだった。ここで大丈夫」

 私を安心させるため、レンは断定的な言葉を使った。それを聞いて、一気に体が安堵に包まれる。そして私の足からは力が抜けていき、その場にへなへなと座り込んでしまった。すぐさまレンも腰を下ろし私の顔を覗き込んで、大丈夫かと問う。頷くことで返答とし、私はふぅと息を吐いて、それから大きく吸った。直後、音を立てて扉が開く。驚きで私の肩は大きく、びくりと震えた。

「トーカさん?」

 そこには、望んだ人の姿があった。彼女が崖から飛び降りようとしていたあの日に一度、顔を合わせただけの間柄だ。だと言うのに、ズーユンの顔を見た瞬間に、泣きたくなるほどの懐かしさに襲われた。彼女はさっと部屋の中に入り、座り込んだ私の前へやってきて視線を合わせる。そして私の手をぎゅっと握った。

「あぁ、良かった。本当に来てくれたのね。大丈夫だった? 誰にも見られてない?」
「見られてないと思います。下で案内をしてくれた人以外は、特にこちらを気にもしていない感じでした」
「そう、ならきっと大丈夫ね」

 ほっと胸を撫で下ろしたズーユンの胸元がわずかに緩む。肌が少しばかり露わになり、慌てて私は視線を逸らした。女性というものに普段あまり接しないせいで、こういった時にどのように反応すれば良いのかが分からない。そんな私を見て、ズーユンが服の乱れに気付き、胸元を直す。

「仕事を終えたばかりで、湯上がりなの。ごめんなさいね」

 確かに、髪先が濡れており、化粧をしている様子もない。つい先ほどまで仕事をしていたということは、この体に誰かが触れることを許していたということだ。己の体を明け渡す。それが娼婦たちの仕事。それがどのようなことであるのかを、私は想像することすら出来ない。

「そうだ、トーカさんはこれを羽織って」

 私の視界が暗くなる。もとより、月明かりしか光源のなかった暗い空間だったというのに、さらなる闇が私を覆った。一体何事かと思えば、ズーユンがそのあたりに置いてあった羽織を私に掛けたのだ。色柄からして、それは女性のものだった。一体なんのためにこんなものを掛けられたのだろうと戸惑っていると、ズーユンはレンと向き合い、彼に言葉を向ける。

「トーカさんを私の部屋に連れて行くから、あなたはここで待ってて」
「俺も行く」
「流石に、自分の部屋によく知らない男を入れるのは嫌なの。……あ、トーカさんは別。シアさんの息子さんなわけだし」

 どうやら、ズーユンが私をここへ呼んだ用事というのは、この物置部屋では果たせないらしい。ここからさらに、ズーユンの部屋へ行くという。見知らぬこの場所でレンと離れ離れになるということは、私にとって不安を駆り立てることではあった。それを感じ取ってくれているのか、レンはさらに食い下がる。

「俺はトーカから離れない」
「あなたみたいな人と移動して、誰かに見られたらどうするの? 呼びつけておいて自分勝手なことを言うなと思うでしょうけど、私は今、結構危ない橋を渡ってるの」

 ズーユンの言葉は何もかも正しい。彼女はとても自分勝手なことを言っている。そして、危険を犯してもいる。けれど、ここまでやって来たのは私自身の足であり、私の意思だ。被せられた羽織をぎゅっと握り、私は再びレンを見る。

「レン、ここで待ってて。大丈夫だから」
「そうよ、大丈夫よ。そもそも、このハンファはバイユエのものでしょう? バイユエの人間であるトーカさんに危害を加えようとする人間なんていないわよ」

 確かに、ハンファはバイユエのものだ。この場所は、私にとって安全地帯であるはず。けれど、少しもそのように思うことは出来なかった。いつまでも心は落ち着かず、心臓は早鐘を打ち続けている。どうしてこんな所に私はやって来たのだろう。不意に、根本的な疑問を抱いてしまった。だがすぐに答えを見出す。ここに来た理由は一つ。母にまつわるものを、受け取るためだ。

「さあ、行きましょう。トーカさん」

 私は立ち上がる。
 そしてレンから離れ、ズーユンに握られた手をそっと握り返した。
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