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シャンガン地区は、ルーフェイの中でも古くから存在する場所だ。
長い歴史を遡れば、ルーフェイが商いの街として歩み出した時の起点が、このシャンガンであったらしい。そして、シャンガンは遥か昔から姿を変えることなく、商人の集う場所であり続けた。食材、道具、娯楽の品に、豪奢な宝飾品。シャンガンで買えないものはないと謳われるほどに、ここにはありとあらゆるものが揃えられている。王都で取り扱われているものや、全く文化の異なる西方から届くもの、遠く海を経た場所からやってきた舶来品さえ、シャンガンの店先には並ぶのだ。
区画整理が徹底されたハイリ地区とは対照的に、シャンガン地区の道は、歪んでいたり、突然途絶えたりと、自由気ままである。シャンガンの主な活動時間が陽の出ている間ということもあり、道を照らす提灯や灯篭の数はとても少ない。もし今夜が月のない夜であれば、前へ進むのにも困難したことだろう。半歩、レンが先に進む形で、彼が私を導いていた。繋いだ手はそのままだ。慣れた道に、見慣れた景色だというのに、夜というだけで随分いつもと様相が異なっている。まるで、始めて通る道であるかのようだった。
それでも、その店先に辿り着けば、そこが目的地であったことにはすぐに気付く。ずっしりとした重みのある扉を、レンの手が押して開いた。幸いなことに、遅い時刻であっても、まだこの店は閉じていないようだ。一歩進む。店の中に入ってまず最初に嗅覚を刺激するのは、紙の匂いだった。書架の中に所狭しと押し込まれている書物から香るものであったり、これから何事かを書き記される真っ白で真新しい帳面たちの匂いであったり。
その後に鼻腔を擽るのは、墨の匂い。文字を書くためであったり、絵を描くためであったり。高価な墨は、香木として使われることもあるらしい。値が張るものでも、安価なものであっても、私にとって墨の香りは心地の良いものだった。鼻から息をめいっぱいに吸って、胸をそれらで満たす。そうして、私はゆっくりと口を開いた。
「こんばんは」
声をかければ、店の奥から小柄な老人がひょっこりと現れる。私の姿を認めると、目尻を下げて穏やかに笑った。一つに束ねられた長い白髪を、獣の尾のようにゆらゆらと揺らしながら好々爺然とした老人がこちらへ歩いてくる。街の人々に親しみを込めてリャン爺と呼ばれているこの人こそが、この店の店主だった。
「おや、こんばんは。いつもに比べると、遅い時間のご来店ですな」
「すみません、もうお店を閉めるところでしたか?」
「いやなに、開店も閉店も、気ままにやっております。刻限など、お気になさらず」
閉店間際に飛び込んでくる客など、迷惑に違いない。この店にとっての迷惑な客にはなりたくないと思い、尋ねてみたのだが、リャン爺は優しく、そう言って緩く頷くのみだった。いつもよりは薄暗い店内だが、至る所に燭台が置かれ、温かな火の光があたりを照らしているため、商品を物色するのには困らない。新しい絵筆を買おうとしていたことを思い出し、竹で作られた筒の中に収められている筆の方へと歩いた。
「新たに仕入れた品々を見ていただきたいところですが、真っ暗闇になる前にお帰りになった方が宜しい。夜道は危険ですぞ」
「大丈夫ですよ、レンもいてくれますし」
先ほどだって、レンは泥酔客が私に激突するのを防いでくれた。確かに、一人きりで夜道を歩くのはとても恐ろしいことだが、レンがいてくれるのであれば、私は真夜中でも歩くことが出来るだろう。勿論、それは気持ちの問題であって、現実的に実行しようというわけではない。そのようなことをして、レンに危険が及ぶのは本意ではないのだ。とはいえ、今はまだリャン爺に案じられるほどに深い夜、というわけではない。幼い子供でも、このぐらいの時間帯ならば出歩いていることだろう。
「分かってないなぁ、トーカさん」
姿が見えないのに、声がした。そう思った瞬間、視界の端にすっと何者かが立ち上がる。そちらに視線を向ければ、見知った人影がそこあった。書架に遮られ、私からは見えない場所で、どうやら店員であるシェンルーが仕事をしていたらしい。こちらへやって来るシェンルーは、にやにやとした顔をしている。彼はレンやスイと同じ年頃のはずだが、私よりも少しばかり小柄であるため、随分と幼い印象を抱かせる。悪童のように笑いながら、シェンルーは私の眼前へやって来た。
「トーカさんの弟は、背の国の王だ。そしてトーカさんは、そんな王が唯一、大切にする人物。だからトーカさんは、昼だろうが夜だろうが、いつだって危険の中にいるんだよ」
背の国と呼ばれるルーフェイには、大小様々な背の者の組織が存在する。遥か昔からこの土地に根を張るものや、他の街からこの街へ流れ込んで来たもの。玉石混交な破落戸たちが集うルーフェイにおいて、バイユエの頭目であるスイが王だというシェンルーの言葉は、正しい。そして、私がスイに大切にされているというのも、あながち間違いではないのだろう。過ぎるほど過保護に、私はスイに守られている。
「王に対して弑逆の意思を持つ奴とか、積年の憎悪を滾らせる連中なんてのは、間違いなくトーカさんを利用して王を苦しめる」
すっと伸ばされたシェンルーの指先が、真っ直ぐに私を指した。彼が放った言葉は、私が常々念頭に置いていることだ。改めて言われるまでもない。だが、ここまではっきりとした物言いで告げられると、妙な緊張が体を縛る。心臓に刃物でも突き立てられているかのような感じがした。ぱん、と乾いた音がする。それは、リャン爺の手がシェンルーの頭を叩いた音だった。
「やめんか、シェンルー。……トーカさん、孫が失礼な物言いを致しまして、申し訳ありません」
「あ、いえ……私は別に」
突然の謝罪に慌てて、私はまともな言葉が返せなくなる。別に、とは一体何なのか。咄嗟であったとはいえ、己の発した言葉の情けなさに呆れ果て、心の中で盛大なため息を吐き捨てた。
この店は、リャン爺とその孫であるシェンルーの二人で切り盛りされている。シェンルーの両親は、王都の方で商売をしているらしく、滅多にルーフェイに戻ってくることがない。祖父に叩かれた頭を己の手で撫でて癒していたシェンルーが、何かを思い出したようにはっとし、懐に手を入れ、そこにしまってあったものを私に差し出す。それは、小さな布袋だった。
「そうだ、トーカさん。これ、この前の絵の売り上げ」
手渡されたそれを受け取れば、袋の中でチャリン、と硬質な音が聞こえる。紐で固く閉じられた袋の口をそっと開くと、眩しい光を放つ金貨の姿が見えた。ずっしりとした重みからも感じ取れていたことではあるが、袋の中の金貨の枚数が想定よりも多い。驚きと同時に胸に湧いたのは喜びだった。私は視線を袋から外し、シェンルーを見る。
「ありがとう。……すごい、今までで一番の売り上げだ」
「今回の絵はいつもより大きかったですもんね」
私が描いた絵は、シェンルーを通して王都へと運ばれ、そこで売られるのだ。無名の画家である私が描いたものに大きな価値がつくことはそうそうなく、売れない時期が長く続いた。けれど、数ヶ月前に私の絵がとある富豪の目に留まり、いたく気に入られて買われるようになったのだ。手のひらで金貨の重みを感じていた私の顔を、レンが覗き込む。
「トーカ、嬉しい?」
「もちろん、嬉しいよ。私の絵を買ってくれるだけでも嬉しいのに、こんなにも値をつけてくれて……きっと、高く評価してくれてるってことだ」
有名で、人気のある画家であれば、一枚の絵だけで悠々と生活が出来るほど稼ぐのだろう。だが、当然私はそのような栄誉ある存在ではない。私の絵につけられた値段では、せいぜい数日の間、豪勢な食事をとることが出来る、といった程度だ。だがそれでも、この袋の中の金貨たちは私にとっては破格の金額だった。認めてもらえることが、とても嬉しい。何も生み出せない無価値な自分に、いつだって存在の意味を求めていた。その求め続けたものが、与えられているようで嬉しいのだ。
「俺も嬉しい」
レンがそっと、小さく笑う。それは微かで、ささやかな笑みだけれど、とても可愛い。自分よりも背の高い男を可愛いと思うなんて可笑しいのかもしれないけれど、レンはいつまでも私にとっては可愛い弟なのだ。反射的にレンの頭を撫でてしまい、レンも嬉しそうにそれを受け止める。だがすぐに、ここが私たちの部屋ではないことを思い出して、レンの頭から慌てて手を離す。シェンルーが相変わらず、にやにやとした顔でこちらを見ていた。
「そんで、これも。いつもの」
「ありがとう」
そう言ってシェンルーが私に小さく折り畳まれた紙を差し出す。それが手紙であるということには、すぐに気付いた。ある意味、その手紙の方が金貨よりも私を喜ばせる。金貨の入った袋を急いで懐にしまい、私は手紙を受け取った。真っ白で美しい紙の表には、私の名が丁寧な字で書いてある。間違いなく、私宛ての手紙だ。それを開いて読むこともなく、じっと宛名を眺めるだけに終始する私を見て、シェンルーがじれったそうに肩を竦めた。
「それ、どんなことが書いてあるんですか?」
「どんなことって……普通の手紙だよ」
「普通って?」
「えっと……、お互いの世間話とか……あとは、絵のどんなところが良かった、とか」
「ふーん」
ぽつりぽつりと手紙の内容について話していると、だんだん恥ずかしい気持ちが湧いてきた。シェンルーが私の前でにやにやと意地の悪そうな笑みを浮かべているのは、いつものことだ。だというのに、今この瞬間の彼のにやにや顔からは逃げたくて仕方がない。目を逸らした先のリャン爺も、微笑ましいものを見るような瞳でこちらを見ている。私は妙な居心地の悪さを味わった。
手紙の差出人は、私の絵を買ってくれたラオウェイという名の富豪。王都に住む名士なのだそうだ。名しか知らず、素性についても詳しくないが、その人はいつも私の絵を買ってくれる。そして、購入と同時に手紙をシェンルーに託していた。私はそんな、ラオウェイからの手紙をとても楽しみにしているのだ。
そんな私の姿が、シェンルーやリャン爺には、恋文の到来を待つ少女のようにでも見えているのだろう。彼らが私に向ける眼差しからは、そういった気配を感じる。込み上げる羞恥を掻き消すためにも、無意味な咳払いをしつつ、手紙を懐にしまった。
「シェンルーはラオウェイさんに会ったことあるの?」
「ありませんよ。向こうは王都でも有数の金持ちで、俺はしがない商売人。対面の機会なんて、全然ないです。いつも使用人みたいな人を介して絵を渡したり、金を受け取ったりです」
「……そっか、シェンルーでも会ったことがないのか。……一体、どんな人なんだろう」
さぁね、と言ってシェンルーは身を翻す。会話に興味を失ったようで、仕事に戻って行った。私も窓の外の暗さに気付いて、そろそろ帰らねばと慌て出す。絵を描くために必要な墨と、新商品だという筆を一本だけ購入する。大した買い物もせず、世間話ばかりで終わった金払いの悪い客相手にも、リャン爺は、お気をつけてお帰りください、と優しい言葉をかけてくれた。店を出る際には、書架の影に隠れてしまったシェンルーも、手を振って見送ってくれる。ここはとても居心地の良い店で、だからこそ私は何年も通い詰めているのだ。
「俺も、トーカに手紙、書こうかな」
夜が深くなり、少し先すら見通せないシャンガン地区の道をレンと進む。私の手をレンの大きな手が握り、私も彼の手を握り返した。そんなとき、レンがぽつりと言葉を漏らしたのだ。それは私にとって、驚きをもたらす言葉だった。レンは普段からあまり文字を書かないし、書物も読まない。ある程度の読み書きは出来るが、それでも積極的に文字に触れることをしないのだ。驚きながら私は、隣に並ぶレンの顔を見た。
「レンが私に書いてくれるの?」
「……手紙受け取るとき、いつも、トーカは嬉しそうだから」
私に届く手紙など、ずっと存在しなかった。ラオウェイとの接点が生まれてから、私宛ての手紙というものが生まれたのだ。だからこそ嬉しかった。この世のどこかには、私に宛てる手紙を書いてくれる人がいるのだと、そう思えたことが、とても私を幸せな気持ちにさせたのだ。そんな私を、レンはいつもそばで見ていた。手紙が私を喜ばせるものだということを、肌で感じ取っていたのだろう。
「でも……レンは、字を書くの、嫌いじゃなかった?」
「上手くないから、恥ずかしいだけ」
確かに、レンの字はお世辞にも綺麗とは言い難い。それが、レンに文字を書くことへの苦手意識を植え付けていたらしい。けれど、そんな苦手を押し殺してでも、私を喜ばせるために手紙を書いてやろうという気持ちになってくれているのだ。どうしてここは、私たちの部屋ではないのだろう。もしここが、私たちだけの空間であったなら、思いっきりレンの頭を抱きしめて、その髪がぐしゃぐしゃに乱れるまで頭を撫でていたことだろう。それが出来ない代わりに、私はレンの手をぎゅっと握った。
「どんな字でも、レンが書いてくれるのなら、私は嬉しいよ」
「……じゃあ、書く」
ぼそり、と小さく呟かれた言葉。それがどれほど私を喜ばせるかを、この弟は理解しているのだろうか。にやけてしまう頬を歯を食いしばることで引き締め、歓喜に震える体を抑え込みながら、私は足を動かした。月明かりを頼りに、私たちは闇の中を進む。ハイリ地区とシャンガン地区の間を縫うように足早に歩き、バイユエの屋敷を目指した。
長い歴史を遡れば、ルーフェイが商いの街として歩み出した時の起点が、このシャンガンであったらしい。そして、シャンガンは遥か昔から姿を変えることなく、商人の集う場所であり続けた。食材、道具、娯楽の品に、豪奢な宝飾品。シャンガンで買えないものはないと謳われるほどに、ここにはありとあらゆるものが揃えられている。王都で取り扱われているものや、全く文化の異なる西方から届くもの、遠く海を経た場所からやってきた舶来品さえ、シャンガンの店先には並ぶのだ。
区画整理が徹底されたハイリ地区とは対照的に、シャンガン地区の道は、歪んでいたり、突然途絶えたりと、自由気ままである。シャンガンの主な活動時間が陽の出ている間ということもあり、道を照らす提灯や灯篭の数はとても少ない。もし今夜が月のない夜であれば、前へ進むのにも困難したことだろう。半歩、レンが先に進む形で、彼が私を導いていた。繋いだ手はそのままだ。慣れた道に、見慣れた景色だというのに、夜というだけで随分いつもと様相が異なっている。まるで、始めて通る道であるかのようだった。
それでも、その店先に辿り着けば、そこが目的地であったことにはすぐに気付く。ずっしりとした重みのある扉を、レンの手が押して開いた。幸いなことに、遅い時刻であっても、まだこの店は閉じていないようだ。一歩進む。店の中に入ってまず最初に嗅覚を刺激するのは、紙の匂いだった。書架の中に所狭しと押し込まれている書物から香るものであったり、これから何事かを書き記される真っ白で真新しい帳面たちの匂いであったり。
その後に鼻腔を擽るのは、墨の匂い。文字を書くためであったり、絵を描くためであったり。高価な墨は、香木として使われることもあるらしい。値が張るものでも、安価なものであっても、私にとって墨の香りは心地の良いものだった。鼻から息をめいっぱいに吸って、胸をそれらで満たす。そうして、私はゆっくりと口を開いた。
「こんばんは」
声をかければ、店の奥から小柄な老人がひょっこりと現れる。私の姿を認めると、目尻を下げて穏やかに笑った。一つに束ねられた長い白髪を、獣の尾のようにゆらゆらと揺らしながら好々爺然とした老人がこちらへ歩いてくる。街の人々に親しみを込めてリャン爺と呼ばれているこの人こそが、この店の店主だった。
「おや、こんばんは。いつもに比べると、遅い時間のご来店ですな」
「すみません、もうお店を閉めるところでしたか?」
「いやなに、開店も閉店も、気ままにやっております。刻限など、お気になさらず」
閉店間際に飛び込んでくる客など、迷惑に違いない。この店にとっての迷惑な客にはなりたくないと思い、尋ねてみたのだが、リャン爺は優しく、そう言って緩く頷くのみだった。いつもよりは薄暗い店内だが、至る所に燭台が置かれ、温かな火の光があたりを照らしているため、商品を物色するのには困らない。新しい絵筆を買おうとしていたことを思い出し、竹で作られた筒の中に収められている筆の方へと歩いた。
「新たに仕入れた品々を見ていただきたいところですが、真っ暗闇になる前にお帰りになった方が宜しい。夜道は危険ですぞ」
「大丈夫ですよ、レンもいてくれますし」
先ほどだって、レンは泥酔客が私に激突するのを防いでくれた。確かに、一人きりで夜道を歩くのはとても恐ろしいことだが、レンがいてくれるのであれば、私は真夜中でも歩くことが出来るだろう。勿論、それは気持ちの問題であって、現実的に実行しようというわけではない。そのようなことをして、レンに危険が及ぶのは本意ではないのだ。とはいえ、今はまだリャン爺に案じられるほどに深い夜、というわけではない。幼い子供でも、このぐらいの時間帯ならば出歩いていることだろう。
「分かってないなぁ、トーカさん」
姿が見えないのに、声がした。そう思った瞬間、視界の端にすっと何者かが立ち上がる。そちらに視線を向ければ、見知った人影がそこあった。書架に遮られ、私からは見えない場所で、どうやら店員であるシェンルーが仕事をしていたらしい。こちらへやって来るシェンルーは、にやにやとした顔をしている。彼はレンやスイと同じ年頃のはずだが、私よりも少しばかり小柄であるため、随分と幼い印象を抱かせる。悪童のように笑いながら、シェンルーは私の眼前へやって来た。
「トーカさんの弟は、背の国の王だ。そしてトーカさんは、そんな王が唯一、大切にする人物。だからトーカさんは、昼だろうが夜だろうが、いつだって危険の中にいるんだよ」
背の国と呼ばれるルーフェイには、大小様々な背の者の組織が存在する。遥か昔からこの土地に根を張るものや、他の街からこの街へ流れ込んで来たもの。玉石混交な破落戸たちが集うルーフェイにおいて、バイユエの頭目であるスイが王だというシェンルーの言葉は、正しい。そして、私がスイに大切にされているというのも、あながち間違いではないのだろう。過ぎるほど過保護に、私はスイに守られている。
「王に対して弑逆の意思を持つ奴とか、積年の憎悪を滾らせる連中なんてのは、間違いなくトーカさんを利用して王を苦しめる」
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この店は、リャン爺とその孫であるシェンルーの二人で切り盛りされている。シェンルーの両親は、王都の方で商売をしているらしく、滅多にルーフェイに戻ってくることがない。祖父に叩かれた頭を己の手で撫でて癒していたシェンルーが、何かを思い出したようにはっとし、懐に手を入れ、そこにしまってあったものを私に差し出す。それは、小さな布袋だった。
「そうだ、トーカさん。これ、この前の絵の売り上げ」
手渡されたそれを受け取れば、袋の中でチャリン、と硬質な音が聞こえる。紐で固く閉じられた袋の口をそっと開くと、眩しい光を放つ金貨の姿が見えた。ずっしりとした重みからも感じ取れていたことではあるが、袋の中の金貨の枚数が想定よりも多い。驚きと同時に胸に湧いたのは喜びだった。私は視線を袋から外し、シェンルーを見る。
「ありがとう。……すごい、今までで一番の売り上げだ」
「今回の絵はいつもより大きかったですもんね」
私が描いた絵は、シェンルーを通して王都へと運ばれ、そこで売られるのだ。無名の画家である私が描いたものに大きな価値がつくことはそうそうなく、売れない時期が長く続いた。けれど、数ヶ月前に私の絵がとある富豪の目に留まり、いたく気に入られて買われるようになったのだ。手のひらで金貨の重みを感じていた私の顔を、レンが覗き込む。
「トーカ、嬉しい?」
「もちろん、嬉しいよ。私の絵を買ってくれるだけでも嬉しいのに、こんなにも値をつけてくれて……きっと、高く評価してくれてるってことだ」
有名で、人気のある画家であれば、一枚の絵だけで悠々と生活が出来るほど稼ぐのだろう。だが、当然私はそのような栄誉ある存在ではない。私の絵につけられた値段では、せいぜい数日の間、豪勢な食事をとることが出来る、といった程度だ。だがそれでも、この袋の中の金貨たちは私にとっては破格の金額だった。認めてもらえることが、とても嬉しい。何も生み出せない無価値な自分に、いつだって存在の意味を求めていた。その求め続けたものが、与えられているようで嬉しいのだ。
「俺も嬉しい」
レンがそっと、小さく笑う。それは微かで、ささやかな笑みだけれど、とても可愛い。自分よりも背の高い男を可愛いと思うなんて可笑しいのかもしれないけれど、レンはいつまでも私にとっては可愛い弟なのだ。反射的にレンの頭を撫でてしまい、レンも嬉しそうにそれを受け止める。だがすぐに、ここが私たちの部屋ではないことを思い出して、レンの頭から慌てて手を離す。シェンルーが相変わらず、にやにやとした顔でこちらを見ていた。
「そんで、これも。いつもの」
「ありがとう」
そう言ってシェンルーが私に小さく折り畳まれた紙を差し出す。それが手紙であるということには、すぐに気付いた。ある意味、その手紙の方が金貨よりも私を喜ばせる。金貨の入った袋を急いで懐にしまい、私は手紙を受け取った。真っ白で美しい紙の表には、私の名が丁寧な字で書いてある。間違いなく、私宛ての手紙だ。それを開いて読むこともなく、じっと宛名を眺めるだけに終始する私を見て、シェンルーがじれったそうに肩を竦めた。
「それ、どんなことが書いてあるんですか?」
「どんなことって……普通の手紙だよ」
「普通って?」
「えっと……、お互いの世間話とか……あとは、絵のどんなところが良かった、とか」
「ふーん」
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手紙の差出人は、私の絵を買ってくれたラオウェイという名の富豪。王都に住む名士なのだそうだ。名しか知らず、素性についても詳しくないが、その人はいつも私の絵を買ってくれる。そして、購入と同時に手紙をシェンルーに託していた。私はそんな、ラオウェイからの手紙をとても楽しみにしているのだ。
そんな私の姿が、シェンルーやリャン爺には、恋文の到来を待つ少女のようにでも見えているのだろう。彼らが私に向ける眼差しからは、そういった気配を感じる。込み上げる羞恥を掻き消すためにも、無意味な咳払いをしつつ、手紙を懐にしまった。
「シェンルーはラオウェイさんに会ったことあるの?」
「ありませんよ。向こうは王都でも有数の金持ちで、俺はしがない商売人。対面の機会なんて、全然ないです。いつも使用人みたいな人を介して絵を渡したり、金を受け取ったりです」
「……そっか、シェンルーでも会ったことがないのか。……一体、どんな人なんだろう」
さぁね、と言ってシェンルーは身を翻す。会話に興味を失ったようで、仕事に戻って行った。私も窓の外の暗さに気付いて、そろそろ帰らねばと慌て出す。絵を描くために必要な墨と、新商品だという筆を一本だけ購入する。大した買い物もせず、世間話ばかりで終わった金払いの悪い客相手にも、リャン爺は、お気をつけてお帰りください、と優しい言葉をかけてくれた。店を出る際には、書架の影に隠れてしまったシェンルーも、手を振って見送ってくれる。ここはとても居心地の良い店で、だからこそ私は何年も通い詰めているのだ。
「俺も、トーカに手紙、書こうかな」
夜が深くなり、少し先すら見通せないシャンガン地区の道をレンと進む。私の手をレンの大きな手が握り、私も彼の手を握り返した。そんなとき、レンがぽつりと言葉を漏らしたのだ。それは私にとって、驚きをもたらす言葉だった。レンは普段からあまり文字を書かないし、書物も読まない。ある程度の読み書きは出来るが、それでも積極的に文字に触れることをしないのだ。驚きながら私は、隣に並ぶレンの顔を見た。
「レンが私に書いてくれるの?」
「……手紙受け取るとき、いつも、トーカは嬉しそうだから」
私に届く手紙など、ずっと存在しなかった。ラオウェイとの接点が生まれてから、私宛ての手紙というものが生まれたのだ。だからこそ嬉しかった。この世のどこかには、私に宛てる手紙を書いてくれる人がいるのだと、そう思えたことが、とても私を幸せな気持ちにさせたのだ。そんな私を、レンはいつもそばで見ていた。手紙が私を喜ばせるものだということを、肌で感じ取っていたのだろう。
「でも……レンは、字を書くの、嫌いじゃなかった?」
「上手くないから、恥ずかしいだけ」
確かに、レンの字はお世辞にも綺麗とは言い難い。それが、レンに文字を書くことへの苦手意識を植え付けていたらしい。けれど、そんな苦手を押し殺してでも、私を喜ばせるために手紙を書いてやろうという気持ちになってくれているのだ。どうしてここは、私たちの部屋ではないのだろう。もしここが、私たちだけの空間であったなら、思いっきりレンの頭を抱きしめて、その髪がぐしゃぐしゃに乱れるまで頭を撫でていたことだろう。それが出来ない代わりに、私はレンの手をぎゅっと握った。
「どんな字でも、レンが書いてくれるのなら、私は嬉しいよ」
「……じゃあ、書く」
ぼそり、と小さく呟かれた言葉。それがどれほど私を喜ばせるかを、この弟は理解しているのだろうか。にやけてしまう頬を歯を食いしばることで引き締め、歓喜に震える体を抑え込みながら、私は足を動かした。月明かりを頼りに、私たちは闇の中を進む。ハイリ地区とシャンガン地区の間を縫うように足早に歩き、バイユエの屋敷を目指した。
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