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「本当に明日は休めるのか?」
寝台の中でまどろみながら、隣で横になるヴィルヘルムに尋ねた。一度だけ愛し合って、体を手早く綺麗にして、そして寝台の中でうとうとしている。ぼうっとした頭で、俺は明日の予定を確認した。
「あぁ、休めるよ」
「そう言って、この前は途中で引き返すことになったじゃないか」
「……あれは、本当にすまなかった」
「謝って欲しい訳じゃない。ただ、忙しいのに無理して行くことないって言ってるんだ」
海へ行く約束をしてから、数日が経った。一度、計画を立てて実行しようとした日があり、馬車で移動を始めるところまでいったのだが、イーヴァンがヴィルを引き止めた。何か問題が起こったらしく、その日のお出かけは無しになったのだ。
ヴィルが忙しくて、外出の目処も立たないというのなら、それはそれで良いのだ。多忙であることは分かっているし、無理をして外出のための時間を作ってなど欲しくない。けれど、出かけようとしているところで、中止になるのは悲しかった。期待が膨らんだ分、悲しみがひとしおだったのだ。
「今回は絶対に大丈夫」
「絶対に?」
「あぁ、絶対に」
明日は大丈夫だという。その言葉を、俺は信じ切ることが出来ずにいた。途中で中止ということになっても耐えられるように、期待値は半分程度にしておく。期待しないように自分に言い聞かせながら、俺は目を瞑る。
起きて、朝食を食べて、身支度を整えている時もハラハラしていた。いつイーヴァンがやってきて、今日のお出かけも中止、と言い出すかと緊張していたのだ。あまりにも俺がそわそわするので、イェルマさえもが、今日は大丈夫だと思いますよ、と俺を落ち着かせたほどだ。
馬車に乗ってからも俺の緊張は解けなくて、イーヴァンの早馬がやってきて俺たちの馬車を止めるかもしれない、という不安を抱えていた。そんな俺に見かねたヴィルが、本当に大丈夫だよ、と何度も声をかけた。
「……本当に大丈夫だった」
無事に、馬車は海岸に到着した。港がある場所とは別の、広い浜辺が広がっている海辺。俺はずっと後ろを振り返って、イーヴァンの早馬が来ないかを確認していたが、もう安心して良いようだ。
「だから言っただろう?」
「ヴィルは信用できない」
「酷い言われようだ」
肩を竦めてヴィルは笑う。俺も笑った。一緒に海を見ることが出来て嬉しい。宮殿からは、遠い海を見ることが叶わないのだ。少しだけ見える部屋もあるらしいが、俺たちの寝室からは全く見えない。
「……綺麗だなぁ」
天気も良く、日差しも暖かい。きらきらとした陽光が海面へ降り注いで、まるで海が蠢いているように見える。大きな大きな湖。独特のしょっぱい匂いがする、大きな水溜り。何度見ても、不思議な景色だった。
「海って凄いよな。大きいし、魚いっぱいいるし」
「見慣れてしまっているから、ノウェのような感動はもう得られないな」
「そっか」
手を繋ぎながら歩く。砂浜は不安定で、足がもつれそうになる。そのたびに、しっかりとヴィルが支えてくれたので転ばずに済んだ。普通の砂とは何かが違う、粒の小さな砂浜の砂たち。
波打ち際までやってきて、しゃがみ込む。足元までやってきた波にそっと触れてみた。一瞬俺の指先を濡らして、そしてすっと引いていく。この波たちは一体どこからやってきて、どこへ行くのだろう。
「あんまり冷たくない」
もっと暖かくなったら、人々はここで海水浴というのをするらしい。濡れてもいい服を着て、男も女も関係なく海の中に身を浸すという。想像も出来ないのだけれど、楽しそうだ。俺もしてみたい。ヴィルは許してくれるだろうか。
「靴脱いで良い?」
「いいよ」
足を浸してみたいと、前々から言っていたのだ。海水浴をするにはまだ水温が冷たいそうだが、足ならばつけても問題ないと聞いている。ヴィルの許可を得て、イェルマに靴を脱がせてもらう。
「……砂がさらさらしてる」
素足で砂浜の上に立った時、妙な感動があった。今までに感じたことのない砂の感覚。俺が知っている砂とは、何もかもが異なっている。まるでお茶の中に入れられる砂糖のようだ。
ゆっくりと海の中に進んでいく。一瞬、ひやっとしたけれど、冷たいとは思わなかった。それよりも水が触れる感覚がくすぐったくて、笑ってしまう。歩を進めるたびに水が深くなっていった。
「波の感覚も、なんか面白い。引っ張られそう」
ぐぐぐ、と引っ張られたかと思うと、突き放されたかのように追いやられる。不思議な感触だった。水に翻弄されるのが面白くて、俺は進んでしまう。気付いた時には、膝下あたりまで濡れていた。
「ノウェ、あまり遠くに行かないでくれ」
「大丈夫だよ、遠くには行かない」
足を止める。水平線を見た。世界の果てがそこにはある。俺たちの大地が丸いことは知っている。原理はよく分からないけれど、とにかく丸いのだそうだ。そして世界の果てなどというものが、本当はないことも知っている。
「……本当に、綺麗」
故郷には、こんな風景はなかった。海はなくて、砂浜もなくて。空と太陽と海だけが見える景色は、どこにもなかった。クユセンを恋しいと思う心はもうない。けれど、故郷を憎み切ることも出来なかった。馬に乗って草原を駆け抜けるあの風景も、俺は愛し続けるのだろう。
「ヴィル、海って凄く綺麗だな」
水平線を見ていた体を反転させて、ヴィルと向き合う。ヴィルヘルムは海には入らず、浜辺で俺を見ていた。同意を求めて問いかけたのだけれど、ヴィルは反応してくれない。
「……どうしたんだよ?」
ずっと俺を見ている。海を見るでも、空を見るでもなく、ヴィルの双眸はぼうっと俺を眺めていた。その視線の意味が分からなくて、問いかける。
「いや、ノウェが凄く綺麗で……見惚れていた」
「綺麗なのは俺じゃなくて、海だろ」
「もちろん海も美しい。でも、美しい海の中にいるノウェは、とても綺麗だよ」
「……ヴィルって恥ずかしいことばっかり言うよな」
平然と恥ずかしいことをいうヴィル。何故か俺の顔が熱くなってしまう。ヴィルは俺のことを過剰に褒めるのだ。可愛いだとか、綺麗だとか。そんな言葉ばっかり。言われ慣れて、どうとも思わなくなってきたけれど、今の台詞は少し恥ずかしかった。
「ノウェ、いくら足だけだといってもずっと浸かっていたら足が冷えるよ。もう戻っておいで」
ヴィルが俺に向かって手を差し出す。そうされると、俺はヴィルのもとへ戻ってしまうのだ。まるで、餌付けされた獣のように。濡れた足をイェルマがしっかりと拭いてくれて、靴を履かせてくれる。そして俺は、ヴィルの手を握りしめた。
少しだけ散策をしようということになって、俺たちは城下の街を歩くことになった。警備兵たちが俺たちを囲んでいる。市井の人々は俺たちをジロジロと見つめてくるが、以前のように騒動が起こることはなかった。
港の近くを歩いて、海鳥の声を聞く。面白い鳴き声だ。鳥たちの声に耳を傾けていると、何やら盛り上がっている人々の歓声が聞こえた。一体なんだろう、と目についた人だかりを見つめる。
そこには、奇抜な衣装を着た人々がいた。そんな人々を囲うように群衆が円形になって集まっている。奇抜な衣装の人々は、円の中心でよく分からないことをしていた。火のついた松明のようなものを振り回したり、見たこともない獣を従えたりしている。
「ヴィル、あれなに?」
彼らがなんなのか。何をしているのか。全く見当がつかない。ヴィルの服をぐいぐいと引っ張りながら尋ねると、ああ彼らが来ていたのか、と何だか訳知りな返答が返ってくる。
「彼らは大道芸人だよ」
「だいどう……げいにん……?」
「ああいった見せ物を見せてお金を稼ぎながら、国中を回るんだ。なかなかに人気のある一座らしい」
「……へぇ、あんなの初めて見た」
異様な風貌で、よく分からないことを色々している。けれど、彼らが何かを披露するたびに、人々は拍手をしたりお金を箱の中に投げ入れたりしているのだ。俺にはよく分からないけれど、きっと凄いことをしているのだろう。
「もう少し近づいて、見てみるか?」
「え、いいの?」
「構わないよ」
きっと俺は釘付けになって動かなかったのだろう。そんな俺にヴィルが、小さく笑いながら少し近づくことを提案してくれた。あまり群衆に混じると、以前のような騒動が起こってしまうかもしれない。そう思って、俺は遠目に大道芸人たちを見ていたのだが、許可を貰って少しずつ近づく。
近づけば近くほど、彼らの奇抜さに驚いてしまう。一人の男などは、細長い剣を口に入れて飲み込んでいた。一体どうなっているのだ。あんなことをしては死んでしまうのではないか。だが、男は苦しそうな素振り一つ見せない。
「なぁ、ヴィルあれって……」
あれってどういうことなんだ、と問いかけようとした。けれど、ヴィルは全く俺に反応してくれない。いつもであれば、声を掛けただけでこちらを向いてくれるというのに。
「……ヴィル?」
見上げた先のヴィルは、熱心に何かを見ていた。俺が声を掛けたことにも気づかない。何を見ているのだろう、とヴィルの視線を追いかけた。すると、一人の女性に行き着く。
その女性は、大道芸人の一人のようだった。豊満な肉体を持ち、布面積の少ない服を着ている。リオライネンのものではないような、異国を感じさせる民族衣装だった。
俺が驚いたのは、その女性が真っ赤な髪を持っていたことだ。おそらくは自分の髪ではないのだと思う。鬘なのか染めているのかは分からない。ただ髪の質感から本物の髪でないことは見て取れる。
ヴィルヘルムは、その赤髪の女性に見惚れていた。信じられない。髪で言えば、俺の方が綺麗な髪だと思うのだ。毎日イェルマが丹念に手入れをしてくれるし、俺は地毛だ。あんな髪を見るくらいなら、俺の髪を見ればいいだろ。
だが、もしかすると俺が持ち得ないものにヴィルは目を引かれているのかもしれない。つまりは、その豊満な肉体に。当然、俺には豊かな胸などない。腰にくびれもないし、どうしたって俺の体は男のものだ。
それからのことは、あまり記憶に残っていない。多分、馬車で帰ったのだ。宮殿に着いた頃には、昼食の時間を少し過ぎていて、普段よりは遅い昼食を共に摂った。けれど、何を話したのか、俺はちゃんと返事をしたのか。何も思い出せない。
次に意識がはっきりとしたのは、寝台の中だった。シーツの下で俺はヴィルに抱きしめられている。背後から俺を抱きしめるヴィルは、俺の首筋に鼻先を押し付けていた。求められているのだということは分かっている。けれど、応じる気にはなれなかった。
「……やだ」
「ん?」
「……今日は、やだ」
ヴィルの誘いを断ったのは、これが初めてだった。疲れていても、眠くても、ヴィルが求めてくれる時は嬉しくて、俺は応じていたのだ。けれど今日は駄目だった。心がもやもやして、それどころではないのだ。
「疲れたか?」
俺の髪をよく褒めるけれど、ヴィルはもしかして赤髪が好きなだけではないのか。赤髪なら、誰でもいいのでは。昔、俺に一目惚れをしたと言っていた。
一目惚れなんて、と俺は思っていたけれど、父にも一目惚れから始まることは往々にしてあると言われ、そういうものなのかと思っていたのだ。ヴィルは俺の姿に一目惚れをして、そこから俺を深く愛してくれたのだと理解していた。
だが、同じ赤髪なら女の方がいいのではないだろうか。女を抱いたことがないから、俺にはよく分からないけれど、柔らかい胸の方が男は喜ぶものだと聞き及んでいる。ヴィルは、俺よりもあの大道芸の女の方が良いと思ったのではないか。
「おやすみ、ノウェ」
俺は返事もせず、目を瞑る。今は何も考えたくなかった。考えたくないのに、胸はもやもやとして、頭の中はぐちゃぐちゃだった。ヴィルヘルムが心変わりをしたらどうしよう、とそんな不安が全身を駆け巡る。
寝台の中でまどろみながら、隣で横になるヴィルヘルムに尋ねた。一度だけ愛し合って、体を手早く綺麗にして、そして寝台の中でうとうとしている。ぼうっとした頭で、俺は明日の予定を確認した。
「あぁ、休めるよ」
「そう言って、この前は途中で引き返すことになったじゃないか」
「……あれは、本当にすまなかった」
「謝って欲しい訳じゃない。ただ、忙しいのに無理して行くことないって言ってるんだ」
海へ行く約束をしてから、数日が経った。一度、計画を立てて実行しようとした日があり、馬車で移動を始めるところまでいったのだが、イーヴァンがヴィルを引き止めた。何か問題が起こったらしく、その日のお出かけは無しになったのだ。
ヴィルが忙しくて、外出の目処も立たないというのなら、それはそれで良いのだ。多忙であることは分かっているし、無理をして外出のための時間を作ってなど欲しくない。けれど、出かけようとしているところで、中止になるのは悲しかった。期待が膨らんだ分、悲しみがひとしおだったのだ。
「今回は絶対に大丈夫」
「絶対に?」
「あぁ、絶対に」
明日は大丈夫だという。その言葉を、俺は信じ切ることが出来ずにいた。途中で中止ということになっても耐えられるように、期待値は半分程度にしておく。期待しないように自分に言い聞かせながら、俺は目を瞑る。
起きて、朝食を食べて、身支度を整えている時もハラハラしていた。いつイーヴァンがやってきて、今日のお出かけも中止、と言い出すかと緊張していたのだ。あまりにも俺がそわそわするので、イェルマさえもが、今日は大丈夫だと思いますよ、と俺を落ち着かせたほどだ。
馬車に乗ってからも俺の緊張は解けなくて、イーヴァンの早馬がやってきて俺たちの馬車を止めるかもしれない、という不安を抱えていた。そんな俺に見かねたヴィルが、本当に大丈夫だよ、と何度も声をかけた。
「……本当に大丈夫だった」
無事に、馬車は海岸に到着した。港がある場所とは別の、広い浜辺が広がっている海辺。俺はずっと後ろを振り返って、イーヴァンの早馬が来ないかを確認していたが、もう安心して良いようだ。
「だから言っただろう?」
「ヴィルは信用できない」
「酷い言われようだ」
肩を竦めてヴィルは笑う。俺も笑った。一緒に海を見ることが出来て嬉しい。宮殿からは、遠い海を見ることが叶わないのだ。少しだけ見える部屋もあるらしいが、俺たちの寝室からは全く見えない。
「……綺麗だなぁ」
天気も良く、日差しも暖かい。きらきらとした陽光が海面へ降り注いで、まるで海が蠢いているように見える。大きな大きな湖。独特のしょっぱい匂いがする、大きな水溜り。何度見ても、不思議な景色だった。
「海って凄いよな。大きいし、魚いっぱいいるし」
「見慣れてしまっているから、ノウェのような感動はもう得られないな」
「そっか」
手を繋ぎながら歩く。砂浜は不安定で、足がもつれそうになる。そのたびに、しっかりとヴィルが支えてくれたので転ばずに済んだ。普通の砂とは何かが違う、粒の小さな砂浜の砂たち。
波打ち際までやってきて、しゃがみ込む。足元までやってきた波にそっと触れてみた。一瞬俺の指先を濡らして、そしてすっと引いていく。この波たちは一体どこからやってきて、どこへ行くのだろう。
「あんまり冷たくない」
もっと暖かくなったら、人々はここで海水浴というのをするらしい。濡れてもいい服を着て、男も女も関係なく海の中に身を浸すという。想像も出来ないのだけれど、楽しそうだ。俺もしてみたい。ヴィルは許してくれるだろうか。
「靴脱いで良い?」
「いいよ」
足を浸してみたいと、前々から言っていたのだ。海水浴をするにはまだ水温が冷たいそうだが、足ならばつけても問題ないと聞いている。ヴィルの許可を得て、イェルマに靴を脱がせてもらう。
「……砂がさらさらしてる」
素足で砂浜の上に立った時、妙な感動があった。今までに感じたことのない砂の感覚。俺が知っている砂とは、何もかもが異なっている。まるでお茶の中に入れられる砂糖のようだ。
ゆっくりと海の中に進んでいく。一瞬、ひやっとしたけれど、冷たいとは思わなかった。それよりも水が触れる感覚がくすぐったくて、笑ってしまう。歩を進めるたびに水が深くなっていった。
「波の感覚も、なんか面白い。引っ張られそう」
ぐぐぐ、と引っ張られたかと思うと、突き放されたかのように追いやられる。不思議な感触だった。水に翻弄されるのが面白くて、俺は進んでしまう。気付いた時には、膝下あたりまで濡れていた。
「ノウェ、あまり遠くに行かないでくれ」
「大丈夫だよ、遠くには行かない」
足を止める。水平線を見た。世界の果てがそこにはある。俺たちの大地が丸いことは知っている。原理はよく分からないけれど、とにかく丸いのだそうだ。そして世界の果てなどというものが、本当はないことも知っている。
「……本当に、綺麗」
故郷には、こんな風景はなかった。海はなくて、砂浜もなくて。空と太陽と海だけが見える景色は、どこにもなかった。クユセンを恋しいと思う心はもうない。けれど、故郷を憎み切ることも出来なかった。馬に乗って草原を駆け抜けるあの風景も、俺は愛し続けるのだろう。
「ヴィル、海って凄く綺麗だな」
水平線を見ていた体を反転させて、ヴィルと向き合う。ヴィルヘルムは海には入らず、浜辺で俺を見ていた。同意を求めて問いかけたのだけれど、ヴィルは反応してくれない。
「……どうしたんだよ?」
ずっと俺を見ている。海を見るでも、空を見るでもなく、ヴィルの双眸はぼうっと俺を眺めていた。その視線の意味が分からなくて、問いかける。
「いや、ノウェが凄く綺麗で……見惚れていた」
「綺麗なのは俺じゃなくて、海だろ」
「もちろん海も美しい。でも、美しい海の中にいるノウェは、とても綺麗だよ」
「……ヴィルって恥ずかしいことばっかり言うよな」
平然と恥ずかしいことをいうヴィル。何故か俺の顔が熱くなってしまう。ヴィルは俺のことを過剰に褒めるのだ。可愛いだとか、綺麗だとか。そんな言葉ばっかり。言われ慣れて、どうとも思わなくなってきたけれど、今の台詞は少し恥ずかしかった。
「ノウェ、いくら足だけだといってもずっと浸かっていたら足が冷えるよ。もう戻っておいで」
ヴィルが俺に向かって手を差し出す。そうされると、俺はヴィルのもとへ戻ってしまうのだ。まるで、餌付けされた獣のように。濡れた足をイェルマがしっかりと拭いてくれて、靴を履かせてくれる。そして俺は、ヴィルの手を握りしめた。
少しだけ散策をしようということになって、俺たちは城下の街を歩くことになった。警備兵たちが俺たちを囲んでいる。市井の人々は俺たちをジロジロと見つめてくるが、以前のように騒動が起こることはなかった。
港の近くを歩いて、海鳥の声を聞く。面白い鳴き声だ。鳥たちの声に耳を傾けていると、何やら盛り上がっている人々の歓声が聞こえた。一体なんだろう、と目についた人だかりを見つめる。
そこには、奇抜な衣装を着た人々がいた。そんな人々を囲うように群衆が円形になって集まっている。奇抜な衣装の人々は、円の中心でよく分からないことをしていた。火のついた松明のようなものを振り回したり、見たこともない獣を従えたりしている。
「ヴィル、あれなに?」
彼らがなんなのか。何をしているのか。全く見当がつかない。ヴィルの服をぐいぐいと引っ張りながら尋ねると、ああ彼らが来ていたのか、と何だか訳知りな返答が返ってくる。
「彼らは大道芸人だよ」
「だいどう……げいにん……?」
「ああいった見せ物を見せてお金を稼ぎながら、国中を回るんだ。なかなかに人気のある一座らしい」
「……へぇ、あんなの初めて見た」
異様な風貌で、よく分からないことを色々している。けれど、彼らが何かを披露するたびに、人々は拍手をしたりお金を箱の中に投げ入れたりしているのだ。俺にはよく分からないけれど、きっと凄いことをしているのだろう。
「もう少し近づいて、見てみるか?」
「え、いいの?」
「構わないよ」
きっと俺は釘付けになって動かなかったのだろう。そんな俺にヴィルが、小さく笑いながら少し近づくことを提案してくれた。あまり群衆に混じると、以前のような騒動が起こってしまうかもしれない。そう思って、俺は遠目に大道芸人たちを見ていたのだが、許可を貰って少しずつ近づく。
近づけば近くほど、彼らの奇抜さに驚いてしまう。一人の男などは、細長い剣を口に入れて飲み込んでいた。一体どうなっているのだ。あんなことをしては死んでしまうのではないか。だが、男は苦しそうな素振り一つ見せない。
「なぁ、ヴィルあれって……」
あれってどういうことなんだ、と問いかけようとした。けれど、ヴィルは全く俺に反応してくれない。いつもであれば、声を掛けただけでこちらを向いてくれるというのに。
「……ヴィル?」
見上げた先のヴィルは、熱心に何かを見ていた。俺が声を掛けたことにも気づかない。何を見ているのだろう、とヴィルの視線を追いかけた。すると、一人の女性に行き着く。
その女性は、大道芸人の一人のようだった。豊満な肉体を持ち、布面積の少ない服を着ている。リオライネンのものではないような、異国を感じさせる民族衣装だった。
俺が驚いたのは、その女性が真っ赤な髪を持っていたことだ。おそらくは自分の髪ではないのだと思う。鬘なのか染めているのかは分からない。ただ髪の質感から本物の髪でないことは見て取れる。
ヴィルヘルムは、その赤髪の女性に見惚れていた。信じられない。髪で言えば、俺の方が綺麗な髪だと思うのだ。毎日イェルマが丹念に手入れをしてくれるし、俺は地毛だ。あんな髪を見るくらいなら、俺の髪を見ればいいだろ。
だが、もしかすると俺が持ち得ないものにヴィルは目を引かれているのかもしれない。つまりは、その豊満な肉体に。当然、俺には豊かな胸などない。腰にくびれもないし、どうしたって俺の体は男のものだ。
それからのことは、あまり記憶に残っていない。多分、馬車で帰ったのだ。宮殿に着いた頃には、昼食の時間を少し過ぎていて、普段よりは遅い昼食を共に摂った。けれど、何を話したのか、俺はちゃんと返事をしたのか。何も思い出せない。
次に意識がはっきりとしたのは、寝台の中だった。シーツの下で俺はヴィルに抱きしめられている。背後から俺を抱きしめるヴィルは、俺の首筋に鼻先を押し付けていた。求められているのだということは分かっている。けれど、応じる気にはなれなかった。
「……やだ」
「ん?」
「……今日は、やだ」
ヴィルの誘いを断ったのは、これが初めてだった。疲れていても、眠くても、ヴィルが求めてくれる時は嬉しくて、俺は応じていたのだ。けれど今日は駄目だった。心がもやもやして、それどころではないのだ。
「疲れたか?」
俺の髪をよく褒めるけれど、ヴィルはもしかして赤髪が好きなだけではないのか。赤髪なら、誰でもいいのでは。昔、俺に一目惚れをしたと言っていた。
一目惚れなんて、と俺は思っていたけれど、父にも一目惚れから始まることは往々にしてあると言われ、そういうものなのかと思っていたのだ。ヴィルは俺の姿に一目惚れをして、そこから俺を深く愛してくれたのだと理解していた。
だが、同じ赤髪なら女の方がいいのではないだろうか。女を抱いたことがないから、俺にはよく分からないけれど、柔らかい胸の方が男は喜ぶものだと聞き及んでいる。ヴィルは、俺よりもあの大道芸の女の方が良いと思ったのではないか。
「おやすみ、ノウェ」
俺は返事もせず、目を瞑る。今は何も考えたくなかった。考えたくないのに、胸はもやもやとして、頭の中はぐちゃぐちゃだった。ヴィルヘルムが心変わりをしたらどうしよう、とそんな不安が全身を駆け巡る。
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