五番目の婚約者

シオ

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 ノウェ様のいない宮殿は、どこか沈んだような空気に包まれていた。たった一人がいなくなっただけで、大きく変わるものなど何もないと思うのだが、何かが大きく欠けてしまったような、そんな寂しさがある。

 世継ぎという概念が存在しないリオライネンに於いて、皇帝の配偶者に求められることなど何もなかった。他国のように、健康な男児を生まなければならないと圧力を掛けられるわけでもなく、共同統治者のような役割を求められるわけでもない。

 リオライネンの歴代皇帝の中には、面倒だからという理由で結婚しなかった人物もいる。だがやはり、色々な場で皇帝に配偶者がいることには良い面もあった。晩餐会などは基本、配偶者連れが当たり前だし、美しい妃などは帝国臣民が喜ぶ。

 とはいえ、国を導く英邁な皇帝がいてくれるのであれば、内務卿である俺はそれ以上を望まなかった。財政を傾かせるほどの浪費家であるとか、国の品格を落とすような礼儀知らずであるとか、そういった人物でなければヴィルヘルムの妻になる人物は、誰でも良かったのだ。

 ヴィルヘルムがどうしてもノウェ様が良いというので、その願いを叶えるべく動いてきたが、俺の気持ちとしては、ノウェ様でなければならないという考えは微塵も持ち合わせていなかった。

 だが今は、ノウェ様がヴィルヘルムの奥方となってくれて良かったと、心の底から思っている。ノウェ様と過ごすヴィルヘルムには、人としての温もりを感じるのだ。過ぎるほどの冷酷な人間であると、いう訳ではないけれど、ヴィルはいつも冷めていた。

 ミルティアディスとして共に過ごしていた頃、どれほど難しい課題を達成しても、ヴィルには大した喜びが生まれないようだった。美味い食事を口にしても、絶景を目にしても、ヴィルには喜ぶという感情が無かったのだ。

 だというのに、ノウェ様の前のヴィルヘルムは一体なんだ。頬は緩みっぱなしで、世界で一番幸せだと言わんばかりの笑みを見せる。この男はこんな顔も出来たのか、という感想を俺は何度抱けば良いのか分からない。

 長年の付き合いがある友として、純粋に嬉しかった。何もかも完璧にこなし、悩んだり、悔やんだりという人間らしい感情を見せてこなかった機械のような男が、やっと人になれたのだと思ったのだ。

 今では、ノウェがいない寝室には近寄りたくないなど子供のようなことを言って、執務室の長椅子で休んでいる。執務中も、時折、窓際に立ってはクユセンのある方を眺めていた。早く帰って来てほしいのだろう。その時のヴィルヘルムの背中は、とても物悲しいものだった。

 自分でもよく分からない感情なのだが、どうやら俺は、ノウェ様とヴィルヘルムが共に過ごしている風景が好きらしい。談話室の暖炉の前で読書をするノウェ様のもとへ、執務の休憩がてら向かうヴィルヘルム。そんな二人が、他愛もないことを語らう姿が好きだった。

「……早く帰って来てあげてくださいよ、ノウェ様」

 小さな声で漏らす。柄にもなく、窓の外を見上げて届くわけもない言葉をノウェ様に向けていた。ノウェ様の様子は、毎日届く日報が伝えてくれるのだが、現状の報告を即座に受けられるわけではない。数日のずれがどうしても生じてしまう。

 俺たちが知る最新の情報は、無事にクユセンへ到着して族長である父君と話されたということだけだ。ノウェ様は、何日滞在なさるのだろう。一日で飽きて、すでに帰路にあってくれたら良いのに。

 小さく溜息を吐き捨てながら、定期的に報告が上がってくる獅子の千眼からの情報に目を通す。千眼の情報は、千差万別。一読して用済みになるような、重要度の低い情報なども多く集まる。それでも全てに目を通す。そうすることで、俺は国内の全てに目を配ることが出来るのだ。

「……ん? 行方不明……?」

 侍従が用意してくれた温かいお茶で喉を潤しながら、一つの報告に目が留まる。とある村でひとりの女性が行方不明だという。村人総出で捜索したが、姿が見当たらない。女性の家族は、警備隊を用いての大規模な捜索を依頼したいという。

 女性の名前、容姿、体格が事細かに記されていた。その背丈、身幅、足の大きさなどに俺は見覚えがある。背筋に冷たいものが通り抜けた。この村は、あの焼け落ちたフェルカー邸の近くだ。そしてこの女性は、ルイーゼ・フェルカーとほぼ同一の背格好なのだ。

「まさか……、……身代わり?」

 大きな炭の塊になってしまった一つの肉体。あれが誰の体なのかが分かれば、事は容易く終わるというのに。だが、その技術は世界のどこを探しても存在しない。俺たちは、推測に推測を重ねることしか出来ないのだ。だが、あまりにも嫌な予感がする。

「内務卿閣下! 失礼します!」

 ノックもなく、勢いよく扉が開かれる。俺の執務室にいた書記官たちが、肩をびくりと震わせた。走り込んできたのは、警備隊の者。まだ肌寒い時期だというのに、大粒の汗を浮かべている。

 おそらく、警備隊の隊舎から全力疾走でここまでやって来たのだろう。つまりは、それほどの火急の件ということだ。俺の中に芽生えた嫌な予感が、ますます信憑性を増していく。

「ただいま、妃殿下付き警備隊から早馬が届き、緊急事態に陥っているとの報告が!」
「どういうことだ」
「何者かによって襲撃に遭い、妃殿下が連れ去られたと」

 警備隊員が口を開く前に、分かっていたような気がする。当然、事態の全貌を把握出来たわけではないけれど、ノウェ様に何か良くないことが起こったのだと、俺は分かっていた。それを虫の知らせとでも言うのだろうか。

「……ルイーゼ・フェルカーだ」

 俺の中では答えが出ていた。今までどこに隠れていたかは知らないが、あの女が動き始めた。クユセンへ向かう行列を見て、そこにノウェ様がいることを悟ったのだろう。市井の人々は贈り物を運ぶ一団だと信じてくれているのだろうが、一時でもミルティアディスであったルイーゼは勘付いたのだ。

「このこと、陛下には」
「今、別の者が報告に向かっております」
「陛下は自ら、妃殿下を捜索なさるだろう。馬の手配をしておけ」

 大きな声で返事をして警備隊員は去っていく。俺も立ち上がって、執務室を出た。侍従たちも緊急事態を察し、通常とは異なる動きをする。ヴィルヘルムのもとにも報せが行っているとすれば、あの男はすぐにでも執務室を出るだろう。そういった計算をしながら、廊下を選んで進めば、予想通りに廊下の曲がり角でヴィルヘルムに遭遇した。

「落ち着いてるか?」
「……なんとか、落ち着けようとしている」
「良い努力だ」
「俺を止めるなよ」
「止めたって行くっていうんだろ」
「当たり前だ」

 こうなってしまっては、どんな制止も振りほどいて行くのだろう。ヴィルヘルムのことはよく分かっている。この期に及んで止めたりはしない。強引に引き留めれば、今まで築き上げた関係性が崩壊する。それが分かるからこそ、俺は止めなかった。

 幸いなことに、ヴィルは前倒しで仕事を終わらせてくれている。暫く、その席を空けたとしても大きな問題にはならない。だが皇帝が行くのであれば、俺はここで留守番だ。両方が不在になってしまえば、政が動かなくなる。

「フェルカー邸近郊の村に、行方不明の女性がいた。おそらく、あの焼死体はルイーゼではなく、その行方不明の者だ」
「人目につくように敢えて堂々とフェルカー邸にルイーゼが入り、目撃者を作った。そして、屋敷の中に連れてきていた女性にルイーゼのドレスを着せ、その女性ごと屋敷を燃やした。……そういうことか」
「その可能性が現状では最も高い。ノウェ様を連れ去ったのは、ルイーゼだ」

 動く足を止めることなく、俺たちは言葉を交わす。侍従が差し出した外套を、ヴィルヘルムは歩きながら羽織る。車止めに馬を連れて来させているようで、足はそちらに向かっていた。

「フェルカーの血は、俺を激高させるためにあるらしい」

 怒りのためか、ヴィルヘルムの拳が小さく震えていた。その怒りは、理解することが出来る。姉や父だけでなく、妹まで。何故こうも、ヴィルヘルムを怒らせることばかりするのか。きっと妹も死を恐れない狂人なのだろう。今はただ、ノウェ様の安否だけが心配だった。

「ノウェ様の滞在日数、聞いたか」
「あぁ、一日だったそうだ」

 ヴィルヘルムのおもてから、怒りが一瞬、鳴りを潜めた。嬉しそうに口元を緩める。その情報を、俺も先ほど聞いたのだ。ノウェ様は、クユセンの地でたった一日しか過ごされなかった。退屈だったのか、気分を害することがあったのか、追い出されたのかは分からないが、間違いなくノウェ様はリオライネンへと向かっていた。

 その道中に襲撃されたというのは由々しき事態なのだが、それでもノウェ様が自らの意思でヴィルヘルムのもとへ帰ろうとしていたところに俺は価値があると思う。クユセンに居続けるわけでも、そこから、違う土地へと逃亡するわけでもなく、ヴィルヘルムのいるリオネルへ戻ろうとしていた。

「帰って来ようとしたんだよ、ノウェ様は。お前のもとへ、帰ろうと」

 ヴィルヘルムを憎悪して、嫌悪して、顔など見たくないと怒鳴っていた時もあった。同じベッドでの就寝を許さず、床で寝かせるような時期もあった。それらが嘘であったかのように、ノウェ様はまっすぐにヴィルヘルムのもとへ帰ろうとしたのだ。

 目頭が熱くなって、無性に泣きたくなった。涙など、絶対に流したくはない。俺は悲しくても、苦しくても、泣いたりはしない。だというのに、どうにも胸が高ぶっている。ノウェ様の無事が確認できない今、こんなことで感激している場合ではないのだが、どうにも体が熱いのだ。

「迎えに行ってくる」

 用意された馬に跨り、手綱を強く握り込む。ロア族ほどではないにしても、ヴィルヘルムも馬を巧みに扱うのだ。ヴィルヘルムの警護には、警備兵が五人ついた。それぞれが、替わりの馬を携えている。休憩など挟まずに、最速で向かうのだろう。

「あぁ、行ってこい」

 祈ることしか出来ないが、それでも不思議と不安はなかった。ヴィルヘルムなら、絶対にノウェ様を連れて帰ってくると、根拠もなく信じることが出来たのだ。俺は主の留守を守りながら、二人の帰還を待つ。


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