五番目の婚約者

シオ

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「働きすぎだぞ」

 皇帝が勤勉であることは褒められるべきことなのだろう。だが、ヴィルヘルムの労働時間は度を超えていた。執務室の椅子に一体何時間座っているのか。俺はヴィルの前に仁王立ちになって、働き者の皇帝陛下を見下ろした。

 ノウェ様がクユセンへ向かってからというもの、ヴィルヘルムは寝食を忘れて働き詰めている。見かねた侍従が、休まれるようご進言を、と俺に泣きついてきたのだ。皇帝の執務室と内務卿の執務室は少し離れた場所にあり、ヴィルの様子を俺がいつも監視しているわけではない。まさかそんなことになっているとは、俺も知らなかったのだ。

「休息は取ってる」
「あのな、休息っていうのは椅子で少しだけ目を瞑るっていう意味じゃないからな」
「それで充分休まる」
「大層なベッドがあるんだから、ちゃんと寝に行けよ」

 侍従の話によれば、長椅子に横になることもなく、時折椅子に座りながら目を瞑っているのだそうだ。それも、睡眠というよりは気絶に近いという。そんな有様で働かれても、周囲の者は健康を害してはいないだろうかと不安になるだけだった。

「……ノウェがいないベッドで眠るのは寂しい」

 朝はノウェ様と共に朝食を摂り、夜はベッドの中で眠るまで語り合う。ベッドの中では身を寄せあって、互いを温め合いながら眠る。そんな、ヴィルヘルムにとっては楽園のような毎日だったのだ。気落ちしてしまうのも、理解は出来る。

 だが、母親を失った幼子ではあるまいし、少々の外出くらいでこんなにも打ちのめされてしまうのでは困ってしまうのだ。働いてくれることは称賛するが、限度というものがある。寂しくて眠れないなどと、子供のようなことを宣う皇帝に、俺は溜息を漏らす。

「誰か共寝役でもつけようか?」
「いらない」
「だろうな」

 ノウェ様に似た背格好の男に、赤髪の鬘を被せてベッドの中へ潜り込ませたりしたら、ヴィルは怒りのあまりその人物を縊り殺してしまうかもしれない。そんな不毛な殺人事件を勃発させないためにも、ヴィルには一人で寝てもらわなければならないのだ。

 ヴィルヘルムが向き合う書類を眺める。俺も一度目を通しているものだった。早めに資料を作成して、ヴィルに渡していたものだが、こんなに早くから着手しているとは思わなかった。取り掛かりはもう少し先でも良かったのだが、もうすでにそんな時期の仕事にまで手を伸ばしているらしい。

「仕事を随分前倒しでやってるみたいだな?」
「ノウェが帰ってきたら、しばらくまとまった休暇をもらいたい」
「まぁ……それは調整出来ると思うけど。そのために働き詰めてるのか? ノウェ様が帰って来る前に倒れるぞ、お前」
「そんなに柔じゃない」

 ヴィルヘルムの体が脆弱だとは思っていないが、とはいえ、今の働き方は誰であろうとも体調を崩すものだ。せっかくノウェ様が帰って来ても、その時にヴィルが寝込んでしまっていたら意味がない。そう思っての忠言なのだが、あまりヴィルの胸には響かなかったらしい。

 実際、ミルティアディスであった頃も、徹夜をして作業をする訓練などがあった。睡眠を取らなかった場合、どれほど人の思考力というものが落ちるのかを体感する訓練だ。そしてそこから、眠れない状況下でも思考力を冴えさせる訓練が始まるのだ。人としての領域を超えている。今更だが、あの学園を、皇帝という治世を為す機械を作る場所のように思えた。

「故郷の居心地がよくて、帰りたくないって言いだしていたらどうしよう」
「大丈夫だろ」
「根拠もないのに、適当なことを言うな」

 冷酷な目でゾフィー・フェルカーを殺した男が、捨てられた子犬のような情けない声を出して項垂れる。ヴィルヘルムのその極端な二面性に、俺は翻弄されることがあった。ミルティアディスが作り出した超人ともいうべき完璧な皇帝を、ノウェ様だけが人に戻すことが出来るということなのだろうか。

「ノウェ様は必ず、お前のところに戻ってくる。根拠はないけど、確信してるんだ俺は」

 何故かは分からないけれど、強くそう信じる自分がいる。根拠のないことを漠然と信じるなんてこと、俺がもっとも嫌悪する行為なのだが、どうしても俺の心はノウェ様の帰還を信じてやまない。

「イーヴ、こんなところにいた」

 軽いノックの直後に扉が開く。こんな夜更けに一体誰だと、開いた扉の方を見ればそこには台車を押しながらこちらに向かってくるアナスタシアがいた。台車の上にはたくさんの本が乗っている。随分と重そうだ。

「アナ? どうしたんだ、こんなところまで」
「どうしたんだって、イーヴが言ったんじゃない。ノウェ様が、貸した本を全部読み終わりそうだって」
「いや、言ったけど……それ、まさか追加の本か?」
「え? そういう意味で言ったんじゃないの?」

 確かに俺は、貸してくれた本をノウェ様は行きの道だけで読み終えたらしい、という話をアナスタシアにしていた。だが、帰りの分の本を貸してくれという催促がしたくて告げた訳ではない。だが、彼女は催促であると受け取ったらしく、わざわざ重たい荷物を俺のもとまで運んでくれたのだそうだ。

「あれだけ貸しても、まだ貸してない本があるのか。……本当、お前の蔵書数は、国の図書館を超えてるよ」
「恋愛小説の分野においては、そうかも」

 本の厳選をしていたら夜も遅くなってしまい、明日以降は開発局に引きこもっての作業が何日か続くということで、こんな夜中に持ってきてくれたそうだ。今までにノウェ様は何十冊もアナから借りているが、それは彼女の蔵書の一部なのだ。古今東西の恋愛小説を片っ端から集めているアナの書庫は、国立の図書館に引けを取らない。

「ノウェ様、びっくりするような速度で読んじゃうから、古い本からも見繕ってきたんだよね。ちょっと文体とか、設定とかは古めかしいけど、それでも名作なことには違いないから楽しんで頂けるはず。……それで、古い本棚見てたら、懐かしい絵本を見つけて。ついつい持ってきちゃった。これ、覚えてない?」

 そう言って、アナスタシアは俺たちに一冊の絵本を見せてきた。随分と古めかしいその絵本の表紙には、みなしご姫と月の王子、と書かれている。それがこの絵本のタイトルなのだろう。

「なんだこれ。こんなの読んだことあるか?」
「……記憶にないな」

 俺には覚えがない。ヴィルに問いかけても、首を左右に振る。アナスタシアは、懐かしい一冊で俺たちと共に思い出に浸りたいようだったが、俺たちにはそもそもこの絵本に対する思い出がなかった。

「えっ、私たちが小さいときに凄く流行ってた絵本なのに……? 絶対読んでると思うけど……覚えてないだけじゃない?」

 俺とヴィルヘルムは揃って首を傾げる。読んだことがあるのかもしれないが、それでも全く記憶にない。そんな俺たちを見て、可笑しいなぁ、と言ってアナスタシアは訝しがる。結果的に、三人で首を傾げることになった。

 絶対読んでると思うけどなぁ、とぼやきつつ、彼女の手が絵本をめくる。表紙には、みなしご姫と思われる少女の絵が描いてあるだけだったのだが、その相手役である月の王子とやらが描かれたページをアナスタシアが開き、俺たちに見せてくる。

「この王子様がね、ヴィルにちょっと似てるの」

 写実的な絵柄ではない。現実離れした人形のような絵が描かれている。月のように輝く金色の髪に、美しい夜空のような藍色の瞳。それは確かに、ヴィルヘルムに酷似した姿だった。

「確かに」
「……似てるか? 金色の髪と青い目なんて、リオライネンでは定番の色味だろう」
「色味はもちろんだけど、顔の雰囲気とかそっくり。昔これ読んだとき、ヴィルをモデルにしたのかなって思ったくらいよ」

 似ている、という言葉に俺は同意を示すが、ヴィルヘルム本人は納得がいっていないようだった。今は首筋を隠すほどの長さを持つヴィルの髪だが、昔はもっと短くて、それがまた月の王子に似て見える。言われてみれば、幼少期のヴィルヘルムの姿は月の王子と全く一緒だった。

「父親から暴力を振るわれて、家から追い出された女の子が、格好いい王子様に見初められてお姫様になるっていう王道のストーリーなんだけど、昔はすごいときめいたのよね」

 陳腐な展開だ。絵本を抱きしめて、かつてのときめいていた頃を思い出しているアナを、俺は冷めた目で見てしまう。自分自身の恋愛にはとことん無頓着であるくせに、他人の色恋や、創作の恋愛劇には胸を高鳴らせる。そんなアナを理解することは、俺にとって少し困難だった。

「そんな絵本をノウェ様にお送りつける気か?」
「まさか。ちょっと思い出に浸ろうと思って持ってきただけよ。まさか二人とも覚えてないなんてね。……ノウェ様に届けて欲しいのは、こっち」
「随分あるな」
「でもきっと、ノウェ様なら復路だけで読み終えちゃうわよ」
「ノウェ様がこんなに読書家だとはなぁ」
「私も驚いちゃった。でも、楽しんで頂けているようで嬉しい」

 昔から読書の習慣はあったという。だが、これほどまでに読書好きではなかったらしい。イェルマ殿も、一日中、本を読み続けるノウェ様を見るのは初めてだと言っていた。読書好きになったおかげで、クユセンへの道中も退屈に悩まされずに済んだと報告を受けている。

「そもそも、なんでお前がノウェ様に本を貸すようになったんだ?」
「それはノウェ様が私に……っと、危ない。これ以上は言えないから」
「なんでだよ。俺たちの間に隠し事は無しだろ」
「これだけは駄目。ノウェ様の信頼をやっと勝ち得たのに、裏切れない」
「少しくらいいいだろ」

 ある日突然始まったのだ。ノウェ様が久々に乗馬をしに開発局へ行ったかと思えば、アナがノウェ様宛に本を送り始めた。俺たちは何がどうなっているのかを理解することも出来ないまま、読書感想会を開いては盛り上がる二人を見守り続けた。

「イーヴ、やめておけ」

 アナスタシアの口を割ろうとする俺を、ヴィルヘルムが止めた。今まで黙って俺たちの会話を聞きながら、こっそりと仕事に戻っていたくせに、肝心な所ではきちんと口を開くのだから抜け目がない。

「ノウェがアナにだけ伝えたんだ。無理に聞き出すべきじゃない」
「……さすが皇帝陛下。賢明でいらっしゃる」

 アナスタシアがノウェ様に本を貸し始めた理由については、凡そ見当がついている。ノウェ様が、アナに恋愛にまつわる何かしらの相談をしたのだろう。もしくは、助言を求めたか。その結果、恋愛経験のないアナは、ノウェ様に恋愛小説を読ませることで、恋愛がなんたるかを学ばせるに至った、といったところだ。

 恋愛の実体験を持っていないアナスタシアと、初恋に戸惑っているのであろうノウェ様。そんな二人が話し合いをしたところで、何かしらの答えを得るとは思えない。だがそれでも二人はいつも楽しそうに会話をしている。俺はそんな景色を見るのが嫌いではなかった。

「……私はね、嬉しいのよ。ヴィル」

 優しく笑いながら、アナスタシアがヴィルヘルムを見た。さすがのヴィルも手を止めて、真っすぐにアナを見つめ返していた。大好きな銃に囲まれたり、大好きな恋愛小説を読んでいる時のような、幸せそうな笑みを浮かべていた。

「ノウェ様とヴィルが、幸せそうにしている姿を見たり、話を聞いたりすると、とても嬉しくなる。ノウェ様の御心に添いながら、二人の幸福のためのお手伝いが出来たらなって思ってるの」

 最初は、どうなることかと思っていた。アナスタシア本人は、欠点のすくない真っ当な人間であるが、もとはヴィルヘルムの婚約者であった女だ。俺たちからの信頼は厚いが、ノウェ様は嫌がるだろうと予想していた。だが、実際にはどうだ。

 いつの間にか二人は打ち解け合い、今では親友のように振舞っている。性別も立場も越えて、二人は良い関係を築き上げていた。それは俺にとって、嬉しい誤算だった。

「ありがとう、アナ。ノウェはアナの存在に救われている。アナがいてくれて、良かった」

 心からの感謝をヴィルヘルムが口にする。俺やヴィルでは溶かせられない凍り付いた心が、ノウェ様の中にはあったはずだ。アナスタシアは意図してか、無意識かは分からないが、そんなノウェ様の心を溶かした。

「あーあ、ノウェ様に会いたくなっちゃったな」
「お前もか」
「だって、ノウェ様って凄く可愛いのよ。一生懸命に本の感想を話そうとしている姿とか見てると、思いっきり抱きしめたくなる。もちろん、ヴィルに怒られるからしないけど」

 ノウェ様に会いたいと願うのは、どうやらヴィルヘルムだけではないらしい。アナスタシアも、ノウェ様に骨抜きにされていた。アリウス様も、ノウェ様のことを可愛いと評するし、いずれノウェ様は国を動かす多くの人間の心を鷲掴みにするのではないだろうか。

「きっと、すぐ戻ってくるさ。ふかふかのベッドじゃなきゃ眠れない体になってるはずだ。ロアの幕屋じゃ痛くて寝れないって言って、戻ってくる」
「寝室のベッドを最高級の仕立てにしておいて、正解だったな」

 俺の冗談に、ヴィルヘルムが軽口で合わせてきた。ベッド如きが、帰還の理由になってくれるのなら、いくつでも上等なベッドを用意しておくのに。ノウェ様の気持ちがリオライネンに留まってくれることを、祈るしかなかった。

「一刻も早く、そして無事に戻って来てもらいたいもんだな」

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