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「ノウェ様、ここからは暫く馬での移動となります」
なんとか馬車で進める、という程度の悪路もついに途絶え、馬車で進むことが難しい草地へとやって来た。勿論、馬は進めるのだけれど、車輪が滑ったり、引っ掛かったりと草原を進むのに適さないのだそうだ。
ロア族が多く住む場所、クユセンへはもう目と鼻の先といったところだ。俺は馬車を降りて、用意されていた馬と対峙する。その瞬間に、全身から喜びが沸き上がった。走りながら、その馬に駆け寄る。
「ヘカンテ!」
最終的には、乗馬によってクユセンへ向かうということは承知していた。けれど、開発局の厩舎にいるはずのヘカンテがこんな場所にいるなんて想像もしなかった。だからこそ大喜びしてしまったのだが、どうやらそれは俺を驚かせるための作戦だったらしい。イェルマが考えたのだそうだ。
「ずっと会いたかった……、元気だったか?」
体を撫でれば、嬉しそうに尻尾を振る。毛艶はよく、体格も維持していた。たくさん食事を摂り、丁寧に世話をされていたことがヘカンテの姿から伺える。ずっと乗りたかったヘカンテが目の前にいて、俺は飛び跳ねてしまいそうなほど嬉しかった。
「雪が積もって、ノウェ様が乗馬出来ないでいた頃に、少しずつヘカンテをこちらへ移送していたのです。ノウェ様にお喜び頂けて、良かった」
「こっそりそんなことしてたなんて……本当に驚いたし、凄く嬉しいよ。有難う、イェルマ」
鞍がつけられたヘカンテに跨り、手綱を握る。そこから見えた景色は、俺の記憶の中にある故郷の姿と一致していた。どこまでも広がる薄青の空と、草原。開発局の草地のように、四方を囲む柵があるわけでもない。この景色だ。俺はずっと、この景色を求めていた。
ここから先の道は、少数精鋭の警備兵たちと数人の侍従、イェルマ、そして俺のみで行くのだ。荷馬車は全て引き返し、荷物などを補充しながら各地点にて俺が戻ってくるのを待つのだと言う。馬に乗って前へ進む。ゆっくり進んだとしても、一日ほどでロア族の居住地へ辿り着くだろう。
「もうこの辺りからクユセンって言って良いのかな」
「そうですね。リオライネンの人々が全く住んでいないので、クユセンと呼ばれる領域に入ったかと思われます」
「そっか……、俺、クユセンにいるんだな」
リオライネンやスラヴィアなどは、川や道などで国境を定めている。国によっては、国境沿いに壁を作る国もある。けれど、クユセンには国境と呼べる代物がない。ロア族は、自分たちが狩りを行う領域がクユセンの地だと認識しているので、その境界線は常に曖昧なのだ。
農耕に向かない草原がただ広がるだけの土地、クユセン。それが俺の故郷だった。今、故郷に立っているのだと思うと深い感慨に包まれる。勢いよく走り出して、すぐにでもヘカンテと共にロア族の皆のもとへ行きたいという衝動に駆られた。
だが、隊列を乱して一人で突っ走れば俺のためにこんなところまで来てくれた皆の努力を無駄にしてしまう。沸き上がる衝動をぐっと堪えて、周りと合わせた速度で進んだ。
俺の前方の左右、後方の左右に馬に乗った警備兵が控えている。俺の隣にはイェルマがいた。一群の後部には、侍従と、荷物を背負う馬がいる。皆、馬には乗っているがその速度は、歩くよりも少しばかり早いと言う程度のものだった。
馬車の中とは異なり、馬上では読書が出来ない。そのため、皆で雑談などをしながら進んだ。よく顔を見る侍従とも、こんな風に会話をしたことがなかった。拒んでいたわけではないのだけれど、積極的に会話をしようという気持ちになることが今までなかったのだ。
侍従たちからは、俺は手のかからない主人だと褒められ、彼らが苦労したかつての主人の話などで盛り上がった。警備兵たちも、俺の乗馬の技術を褒めてくれたり、ロア族の巧みな弓使いなどについて称賛してくれたりと、楽しい時間を過ごす。
気付いた頃には陽も落ちて、一度ここで天幕を張ることになった。火を起こし、焚火を皆で囲む。この旅行の途中で何度か食べた大鍋のスープが今夜の食事だった。少ない道具で器用に侍従たちが料理を用意していく。
吐く息は白く肌寒いが、もこもことした毛皮の外套を纏っているお陰で、寒さで震えるようなことはなかった。皆で焚火を囲っての食事はとても美味しく、幸せな気分になる。食事を終えた後は、使った食器を片付ける者たちと、張った天幕の中の寝心地をよくするために毛布を敷き詰めたりする者たちに分かれ、皆、忙しく動き回っていた。
イェルマも勿論、彼らに交じって片付けや寝床の準備をしている。手持ち無沙汰になった俺も何か手伝うと言ったのだけれど、ノウェ様は焚火の前で温まっていてください、と言われてしまった。皆が忙しくしているのに、自分だけのんびりとするのは気が引けてしまう。
「ちょっと散歩してもいいかな」
天幕に入れるための毛布を運んでいたイェルマに、俺はそう尋ねる。手伝うことを許されないのなら、気分転換に散歩をしたいと思ったのだ。遠くへ行くつもりはない。本当に、見える範囲の距離をぶらぶらと歩くだけ。
「お供します」
「大丈夫だよ、この近くをぐるっと回ってくるだけだから」
「……しかし」
「何かあったら大声で叫ぶから」
毛布を持ったまま手を止めさせてしまったイェルマに対して、申し訳なく思う。仕事を放棄させてまで、散歩をしたいわけではないのだ。本当にただちょっと、暇だからうろうろしたいだけ。守られている身分だということは分かっているので、警備兵たちの目が届かない遠くへ行くつもりは毛頭ない。
「少しの間だけ、一人になりたい」
それは狡い言葉だと分かっていた。けれど、こうでも言わなければイェルマは寝床の準備を放り出して俺の散歩について来てしまうだろうから。俺のそんな気持ちを汲んでくれたのだろう。イェルマは、長い逡巡の後に頷いた。
「……分かりました」
絶対に遠くへ行かない事、何かあればすぐに大きな声を出すこと。それを条件に、俺は散歩を許された。守ってもらっている身分で言ってはいけない言葉なのかもしれないが、イェルマはとても心配性だと思う。
焚火から離れ、散歩を始めるとすぐに闇に包まれた。明かりといえるものは、月しかない。新月の夜はきっと、何も見えずに本当の暗闇になることだろう。頭上を見上げる。ライネルでは見ることが出来ないほどの、強い星々がそこにはあった。
「……凄い星」
見上げながら、思わず声が出る。ヴィルヘルムは、こんな星空を見たことがあるのだろうか。そういえば、クユセンに来たことがあると言っていたから、一度くらいは見たことがあるかもしれない。それでも俺は、ヴィルとこの星空を一緒に眺めたいと思ってしまっていた。
「ヴィルは……、どうしてるだろう」
きっと、政務に励んでいることだろう。休息はしっかり取れているだろうか。イーヴァンはヴィルヘルムの体調もしっかり管理してくれているけれど、それでも働かせすぎなところがある。もう少し労わってやっても良いと思うのだ。
「……痛い……、痛い」
星明かりに照らされながら散歩をしていると、そんな声が聞こえた。一瞬、空耳かとも思ったのだが、やはり、痛い痛い、という声が聞こえる。その声はどうやら、少し先にある大きな木の方から聞こえてきているらしい。木の根元は、低木が生い茂っていて、こちらからでは見えない。
おそらく、その低木の茂みの中に誰かがいて、痛がっているのだ。怪我人だろうか、と思って俺は慌ててしまう。焚火のもとへ戻って、誰かの手を借りるべきか、それともすぐさま茂みの方へ向かって、怪我人の様子を伺うべきか。混乱した俺の耳に、怪我人の声が届く。
「痛い……いたい、もう、やめてくれ……っ」
その声は、悲痛に満ちて何かを懇願している。やめてくれ、と誰かに願っていた。ヴィルヘルムとの痛ましい初夜を思い起こさせるような声で、俺は足が竦んでしまう。誰かに助けを求めに行くことも出来ず、怪我人のもとへも駆けつけられない。俺はその場で立ち止まってしまった。
「うるせぇ、役立たずは黙ってろ」
「何も出来ねぇんだからせめて、その体で俺たちを満足させろよ」
怪我人のものとは異なる男の声が二つ聞こえた。続いて、怪我人の声。嬌声のような悲鳴が小さく響く。黙ってろ、という粗暴な声と共にその悲鳴は更に小さくなった。どうやら口を何かで塞がれたらしい。くぐもった声がする。
「出来損ないのお前に役目を与えてやってんだから、感謝して欲しいくらいだ」
光景は見えなくとも、理解出来てしまった。怪我人だと思っていた男は、怪我などしていない。男に犯されているのだ。強い抵抗の出来ないその男を、二人の男が襲っている。そういうことなのだろう。
なんだこれは。一体何なんだ。俺は逃げるように来た道を引き返し、焚火のそばに座り込んだ。ぱちぱちと爆ぜる火が俺の体を温めてくれているのに、その熱は俺の芯には届かなかった。理解の及ばない事態に遭遇し、胃の腑が冷えている。
あんなに暗くて、寒い場所で誰かが犯されていた。望んでいる行為ではなかったと思う。抱かれていた人は痛いと何度も言っていたし、声は泣いているようだった。悲痛な叫びは、暴漢たちには届いていない。黙れ、と口を塞がれていた。人として扱われていない。あれではまるで、道具だ。
「ノウェ様、どうかされましたか?」
焚火のそばで蹲る俺に、イェルマが声を掛けてくる。天幕の準備が終わったのだろうか。すとん、と俺の隣に腰を下ろす。人目がなければ、今すぐにでもイェルマに抱き着きたいと願うほど俺は怯えていた。
「……なんでもない。ちょっと、体が冷えただけ」
「顔が青くなってしまっていますね。これも羽織ってください」
イェルマは自分が羽織っていた外套を俺に掛け、優しく微笑んでいる。顔が青いのはきっと、寒いからではないのだ。けれど今は、イェルマが貸してくれた外套を手放したくなかった。彼の匂いがついたその外套で包まれて、安堵を得たかったのだ。
さっきのことは、忘れてしまおう。きっと何かの間違いだ。それか、歩きながら悪夢を見たのだろう。そうに決まっている。そうでなければおかしい。あんな非道を為す彼らが、誇り高い戦士であるロアの言葉を話しているわけがない。あれはきっと、何かの間違いなのだ。
なんとか馬車で進める、という程度の悪路もついに途絶え、馬車で進むことが難しい草地へとやって来た。勿論、馬は進めるのだけれど、車輪が滑ったり、引っ掛かったりと草原を進むのに適さないのだそうだ。
ロア族が多く住む場所、クユセンへはもう目と鼻の先といったところだ。俺は馬車を降りて、用意されていた馬と対峙する。その瞬間に、全身から喜びが沸き上がった。走りながら、その馬に駆け寄る。
「ヘカンテ!」
最終的には、乗馬によってクユセンへ向かうということは承知していた。けれど、開発局の厩舎にいるはずのヘカンテがこんな場所にいるなんて想像もしなかった。だからこそ大喜びしてしまったのだが、どうやらそれは俺を驚かせるための作戦だったらしい。イェルマが考えたのだそうだ。
「ずっと会いたかった……、元気だったか?」
体を撫でれば、嬉しそうに尻尾を振る。毛艶はよく、体格も維持していた。たくさん食事を摂り、丁寧に世話をされていたことがヘカンテの姿から伺える。ずっと乗りたかったヘカンテが目の前にいて、俺は飛び跳ねてしまいそうなほど嬉しかった。
「雪が積もって、ノウェ様が乗馬出来ないでいた頃に、少しずつヘカンテをこちらへ移送していたのです。ノウェ様にお喜び頂けて、良かった」
「こっそりそんなことしてたなんて……本当に驚いたし、凄く嬉しいよ。有難う、イェルマ」
鞍がつけられたヘカンテに跨り、手綱を握る。そこから見えた景色は、俺の記憶の中にある故郷の姿と一致していた。どこまでも広がる薄青の空と、草原。開発局の草地のように、四方を囲む柵があるわけでもない。この景色だ。俺はずっと、この景色を求めていた。
ここから先の道は、少数精鋭の警備兵たちと数人の侍従、イェルマ、そして俺のみで行くのだ。荷馬車は全て引き返し、荷物などを補充しながら各地点にて俺が戻ってくるのを待つのだと言う。馬に乗って前へ進む。ゆっくり進んだとしても、一日ほどでロア族の居住地へ辿り着くだろう。
「もうこの辺りからクユセンって言って良いのかな」
「そうですね。リオライネンの人々が全く住んでいないので、クユセンと呼ばれる領域に入ったかと思われます」
「そっか……、俺、クユセンにいるんだな」
リオライネンやスラヴィアなどは、川や道などで国境を定めている。国によっては、国境沿いに壁を作る国もある。けれど、クユセンには国境と呼べる代物がない。ロア族は、自分たちが狩りを行う領域がクユセンの地だと認識しているので、その境界線は常に曖昧なのだ。
農耕に向かない草原がただ広がるだけの土地、クユセン。それが俺の故郷だった。今、故郷に立っているのだと思うと深い感慨に包まれる。勢いよく走り出して、すぐにでもヘカンテと共にロア族の皆のもとへ行きたいという衝動に駆られた。
だが、隊列を乱して一人で突っ走れば俺のためにこんなところまで来てくれた皆の努力を無駄にしてしまう。沸き上がる衝動をぐっと堪えて、周りと合わせた速度で進んだ。
俺の前方の左右、後方の左右に馬に乗った警備兵が控えている。俺の隣にはイェルマがいた。一群の後部には、侍従と、荷物を背負う馬がいる。皆、馬には乗っているがその速度は、歩くよりも少しばかり早いと言う程度のものだった。
馬車の中とは異なり、馬上では読書が出来ない。そのため、皆で雑談などをしながら進んだ。よく顔を見る侍従とも、こんな風に会話をしたことがなかった。拒んでいたわけではないのだけれど、積極的に会話をしようという気持ちになることが今までなかったのだ。
侍従たちからは、俺は手のかからない主人だと褒められ、彼らが苦労したかつての主人の話などで盛り上がった。警備兵たちも、俺の乗馬の技術を褒めてくれたり、ロア族の巧みな弓使いなどについて称賛してくれたりと、楽しい時間を過ごす。
気付いた頃には陽も落ちて、一度ここで天幕を張ることになった。火を起こし、焚火を皆で囲む。この旅行の途中で何度か食べた大鍋のスープが今夜の食事だった。少ない道具で器用に侍従たちが料理を用意していく。
吐く息は白く肌寒いが、もこもことした毛皮の外套を纏っているお陰で、寒さで震えるようなことはなかった。皆で焚火を囲っての食事はとても美味しく、幸せな気分になる。食事を終えた後は、使った食器を片付ける者たちと、張った天幕の中の寝心地をよくするために毛布を敷き詰めたりする者たちに分かれ、皆、忙しく動き回っていた。
イェルマも勿論、彼らに交じって片付けや寝床の準備をしている。手持ち無沙汰になった俺も何か手伝うと言ったのだけれど、ノウェ様は焚火の前で温まっていてください、と言われてしまった。皆が忙しくしているのに、自分だけのんびりとするのは気が引けてしまう。
「ちょっと散歩してもいいかな」
天幕に入れるための毛布を運んでいたイェルマに、俺はそう尋ねる。手伝うことを許されないのなら、気分転換に散歩をしたいと思ったのだ。遠くへ行くつもりはない。本当に、見える範囲の距離をぶらぶらと歩くだけ。
「お供します」
「大丈夫だよ、この近くをぐるっと回ってくるだけだから」
「……しかし」
「何かあったら大声で叫ぶから」
毛布を持ったまま手を止めさせてしまったイェルマに対して、申し訳なく思う。仕事を放棄させてまで、散歩をしたいわけではないのだ。本当にただちょっと、暇だからうろうろしたいだけ。守られている身分だということは分かっているので、警備兵たちの目が届かない遠くへ行くつもりは毛頭ない。
「少しの間だけ、一人になりたい」
それは狡い言葉だと分かっていた。けれど、こうでも言わなければイェルマは寝床の準備を放り出して俺の散歩について来てしまうだろうから。俺のそんな気持ちを汲んでくれたのだろう。イェルマは、長い逡巡の後に頷いた。
「……分かりました」
絶対に遠くへ行かない事、何かあればすぐに大きな声を出すこと。それを条件に、俺は散歩を許された。守ってもらっている身分で言ってはいけない言葉なのかもしれないが、イェルマはとても心配性だと思う。
焚火から離れ、散歩を始めるとすぐに闇に包まれた。明かりといえるものは、月しかない。新月の夜はきっと、何も見えずに本当の暗闇になることだろう。頭上を見上げる。ライネルでは見ることが出来ないほどの、強い星々がそこにはあった。
「……凄い星」
見上げながら、思わず声が出る。ヴィルヘルムは、こんな星空を見たことがあるのだろうか。そういえば、クユセンに来たことがあると言っていたから、一度くらいは見たことがあるかもしれない。それでも俺は、ヴィルとこの星空を一緒に眺めたいと思ってしまっていた。
「ヴィルは……、どうしてるだろう」
きっと、政務に励んでいることだろう。休息はしっかり取れているだろうか。イーヴァンはヴィルヘルムの体調もしっかり管理してくれているけれど、それでも働かせすぎなところがある。もう少し労わってやっても良いと思うのだ。
「……痛い……、痛い」
星明かりに照らされながら散歩をしていると、そんな声が聞こえた。一瞬、空耳かとも思ったのだが、やはり、痛い痛い、という声が聞こえる。その声はどうやら、少し先にある大きな木の方から聞こえてきているらしい。木の根元は、低木が生い茂っていて、こちらからでは見えない。
おそらく、その低木の茂みの中に誰かがいて、痛がっているのだ。怪我人だろうか、と思って俺は慌ててしまう。焚火のもとへ戻って、誰かの手を借りるべきか、それともすぐさま茂みの方へ向かって、怪我人の様子を伺うべきか。混乱した俺の耳に、怪我人の声が届く。
「痛い……いたい、もう、やめてくれ……っ」
その声は、悲痛に満ちて何かを懇願している。やめてくれ、と誰かに願っていた。ヴィルヘルムとの痛ましい初夜を思い起こさせるような声で、俺は足が竦んでしまう。誰かに助けを求めに行くことも出来ず、怪我人のもとへも駆けつけられない。俺はその場で立ち止まってしまった。
「うるせぇ、役立たずは黙ってろ」
「何も出来ねぇんだからせめて、その体で俺たちを満足させろよ」
怪我人のものとは異なる男の声が二つ聞こえた。続いて、怪我人の声。嬌声のような悲鳴が小さく響く。黙ってろ、という粗暴な声と共にその悲鳴は更に小さくなった。どうやら口を何かで塞がれたらしい。くぐもった声がする。
「出来損ないのお前に役目を与えてやってんだから、感謝して欲しいくらいだ」
光景は見えなくとも、理解出来てしまった。怪我人だと思っていた男は、怪我などしていない。男に犯されているのだ。強い抵抗の出来ないその男を、二人の男が襲っている。そういうことなのだろう。
なんだこれは。一体何なんだ。俺は逃げるように来た道を引き返し、焚火のそばに座り込んだ。ぱちぱちと爆ぜる火が俺の体を温めてくれているのに、その熱は俺の芯には届かなかった。理解の及ばない事態に遭遇し、胃の腑が冷えている。
あんなに暗くて、寒い場所で誰かが犯されていた。望んでいる行為ではなかったと思う。抱かれていた人は痛いと何度も言っていたし、声は泣いているようだった。悲痛な叫びは、暴漢たちには届いていない。黙れ、と口を塞がれていた。人として扱われていない。あれではまるで、道具だ。
「ノウェ様、どうかされましたか?」
焚火のそばで蹲る俺に、イェルマが声を掛けてくる。天幕の準備が終わったのだろうか。すとん、と俺の隣に腰を下ろす。人目がなければ、今すぐにでもイェルマに抱き着きたいと願うほど俺は怯えていた。
「……なんでもない。ちょっと、体が冷えただけ」
「顔が青くなってしまっていますね。これも羽織ってください」
イェルマは自分が羽織っていた外套を俺に掛け、優しく微笑んでいる。顔が青いのはきっと、寒いからではないのだ。けれど今は、イェルマが貸してくれた外套を手放したくなかった。彼の匂いがついたその外套で包まれて、安堵を得たかったのだ。
さっきのことは、忘れてしまおう。きっと何かの間違いだ。それか、歩きながら悪夢を見たのだろう。そうに決まっている。そうでなければおかしい。あんな非道を為す彼らが、誇り高い戦士であるロアの言葉を話しているわけがない。あれはきっと、何かの間違いなのだ。
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