五番目の婚約者

シオ

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「ゾフィー・フェルカーが死んだよ」

 俺がそう伝えた時、ヴィルヘルムの表情に大きな変化はなかった。淡々と政務をこなしながら、淡々と俺の言葉を受け止めた。あの女が死ねば、少しは喜ぶのかとも思ったが、歓喜すら湧いて来ないらしい。

「二日、かかったか」
「あぁ。二日だ。最後の方は発狂して、自分がいつ死んだかも分かっていないことだろう」
「ある意味、幸せな死だな」

 小さく鼻で笑うヴィルヘルムを、俺は複雑な気持ちを抱えながら見てしまう。優秀な統治者であれば、善人や聖人でなくても構わない。印象の操作などは、容易く思い通りに出来る。
 ヴィルヘルムは慈愛に満ちた君主ではないが、勤勉で英邁だった。だからこそ、ヴィルヘルムは俺にとって完璧な皇帝だ。だが、少しばかり酷薄な部分もあると思う。殊に、ノウェ様に関わることが。

 その点を除けば、俺にとって最良の皇帝であることは疑う余地が無かった。であるならば、少々の欠点くらいは目を瞑るべきなのだろうか。そう考えながらも、俺の耳には毒の効力で体中が酷く疼くのに、触れることさえ出来ず発狂するゾフィー・フェルカーの絶叫が残っていた。

「ただ苦しむだけの毒より、何倍もあれはきつい」
「それをノウェは口にする羽目になった。……あの女を、数度殺せたら俺の怒りも収まったんだがな」
「少し冷静になれ」
「お前が思っている以上に、俺は冷静だ」

 ノウェ様を苦しめた者には容赦しない。そういうヴィルヘルムの性格を分かっていたつもりだったのだが、ここまでだったとは。実際に、死者が蘇るのであれば、ヴィルヘルムは何度でもゾフィー・フェルカーを惨殺していたことだろう。

「あとは父親と妹だな」
「父親の方は、確実にスラヴィアに逃げ込んでるな」

 ヴィルヘルムの矛先は、次の獲物に狙いを定めている。獅子の千眼が齎した情報と、スラヴィアに送り込んでいる密偵が伝えてくれる情報を突き合わせた結果、フェルカー侯爵がスラヴィアへの亡命を図っていたことが判明した。

「いつでもあの国に攻め込めるようにしておけ」
「ちょっと待て、ヴィル。早計だ」
「皇妃暗殺の企てを起こした人物を匿っている。これは十分に宣戦布告の理由になると思うが?」
「いいかヴィルヘルムよく聞け」

 ノウェ様に毒を盛られたことに対する憎しみを晴らしたいのは分かるが、あまりにも極端だった。ノウェ様が命を落としていたのであれば話は別だが、ノウェ様は生きている。今ではもう健康そのものなのだ。宣戦布告などして、国を巻き込むのはやりすぎだ。

「失礼しますっ!」

 俺が渾身の説教を食らわせてやろうと意気込んだ瞬間に、短いノックと、勢いよく扉を開ける音がした。皇帝の執務室に駆け込んできた警備兵は、随分と憔悴した顔をしている。全力疾走してきたのか、肩で息をしていた。

「今は取り込み中だ、あとにしろ」
「そ、それが……急ぎ陛下並びに閣下に報告すべきことが」

 どんな要件かは知らないが、やりすぎなこの皇帝に説教をする方が先だ。そう思っていたのだが、どうにも急ぎの報告というのが気になる。俺は一度、猛った心を抑え込んで、警備兵に視線を向けた。

「……急ぎの報告とはなんだ」
「スラヴィア国から皇帝陛下、皇妃殿下への祝いの品が届いていたのですが」
「祝いの品だと? 白々しい」

 俺の問いに応えて、報告内容を口にした警備兵。だが、その内容を聞いていちいちヴィルヘルムが話の腰を折る。少し黙っていろ、と目配せをしてヴィルヘルムの口を噤ませると、警備兵が続きを述べた。

「その祝いの品を収めた箱の中に、衰弱した男が入っておりまして」
「……男?」
「はい。しかも、その者、フェルカー侯爵であると自称しているのですが」

 警備兵の多くは、この毒殺未遂事件の詳細を把握している。ゾフィー・フェルカーが警備隊の隊舎で絶叫していた声を、何度かは耳にしていることだろう。それらの事情を知っているからこそ、その警備兵は青ざめた顔でそう告げた。

「どこにいる」
「い、今は警備隊の隊舎に。我が部隊にて保護しております」

 椅子を弾き飛ばす勢いで立ち上がったヴィルヘルムが、その男の居場所を問う。そして、政務を投げ出して部屋を出た。俺もそのあとに続く。早歩きで廊下を進み、宮殿の外へ。宵に向かう藍の空。星々が輝き始める天空の下を、俺たちは進み、隊舎へと向かった。

「祝いの品……ねぇ。なるほどな」
「フェルカーは暗殺を仕損じた。ならば、蜥蜴の尾は切り落とすだろうな」
「あぁ、間違いない。俺でもそうする。でもまさか、祝いの品として送ってくるとは。殺して、遺体だけ届けてくるって線は予想してたけど、俺の読みも甘かったか」

 生きたまま送ってくるということは、如何様にでもしてください、ということだ。生かすも殺すも、ヴィルヘルムの胸三寸次第となる。当然、スラヴィアはそうなることが分かって、祝いの品などとふざけた名目をつけたのだろう。

 隊舎に付き、その地下へと案内される。薄暗く、月の光が微塵も届かない。ランプの灯りはゆらゆらと辺りを照らすけれど、陽光には遠く及ばなかった。黴臭い廊下を歩きながら、ここへ訪れる頻度の高さに笑えて来る。思わず軽口を叩いた。

「最近の隊舎は、フェルカー家の御用達になったのかもな」

 ゾフィー・フェルカーの取り調べと、彼女の死の過程を観察するために何度もここへやって来た。それで終わりだと思っていたのだけれど、こんなに早く再びこの場所に足を踏み入れることになるとは。

 鉄の扉の前に、一人の警備兵が立っていた。こちらに気付くと、敬礼をする。どうやら、その扉の向こう側にフェルカー侯爵がいるようだ。その部屋は、彼女が取り調べを受け、死を迎えた部屋だった。

「陛下」
「どういう状況だ」
「港に届いた積み荷を検めていたところ、中から人が現れたと騒ぎになっておりまして。それを確認しに行き、本人が自分の名を名乗りました。二日ほど飲まず食わずだったらしく、ひとまず水だけ与えております」
「正しい判断だ。食事を与える必要はない。すぐに無駄になる」

 ヴィルヘルムの言葉が、冷たく場に響く。食事を与えても無駄になる。つまりは、すぐに殺すという意思の表れだった。流石の警備兵も、戦慄したようで、戸惑いがちに俯いた。周囲の人間に恐れられている自覚があるのかないのか、ヴィルヘルムはそのままの流れで扉を押し開く。

 その椅子に座らされていた男は、随分とみすぼらしい姿をしていた。上等なシャツを着ながらも、それは煤に塗れ、破れた部分もあり、ボタンもいくつか弾け飛んでいる。でっぷりと出た腹が、ボタンが無くなったせいでシャツの隙間から見えてしまっていた。乱れた髪は侯爵らしからぬ様相を呈している。

「フェルカー侯爵。まさか、このような所でお会いするとは」

 俺が発した声は、沈黙に満ちてた空間の中で幾重にも反響した。侯爵の肩がびくりと震え、小さくした体がぶるぶると震えだす。凛然としていた娘とは、あまりにも対照的だった。

 自ら名乗ったのは恐らく、逃げられないからと観念したからだろう。だが、それでもなお命乞いの余地を計算している姑息な瞳をしていた。この男の娘は、命乞いなどしなかった。狂人ではあったが、高潔な女だった。

「な、内務卿閣下……、皇帝陛下……これは、これは誤解なのです。スラヴィアの者共に、我々は利用されていたのです……っ」

 こちらは何も言っていないが、弁明が始まる。俺は小さく溜息を漏らした。この部屋に入る前に、警備兵から渡されていたものがあった。何枚かの手紙。その一つを見せつけるように、侯爵の目の前に掲げた。

「これは積み荷に入っていた手紙ですが、この手紙の中には貴方が陛下に不満を持っていたこと、己の娘が皇妃に選ばれなかったことを不服に思っていることが記されています。そして、邪魔な皇妃を亡き者にし、娘が皇妃に選ばれるよう画策していたことも書かれていました。皇妃暗殺などという恐ろしいことを画策する不届き者がスラヴィアに逃亡して来たので捕え、リオライネンに送り届ける、とも」
「そんな! そんなことはでたらめです! そのようなこと、思ってもおりません……っ! 陛下、これはスラヴィアの謀略です! 私は無実なのですっ」

 スラヴィアと侯爵がどこまで手を組んでいたのかは分からない。とはいえ、毒を侯爵や娘に与えたのは、間違いなくスラヴィアだ。だが、彼らは失敗した。使えない駒に落胆したスラヴィアが、これで手打ちにして欲しいと侯爵を送り込んできたのだろう。

 無実だなどと恥ずかしげもなく嘯く男を、どうやって追い詰めて行こうかと頭の中で算段を立てていた俺の横で、ヴィルヘルムが一歩踏み出した。そして、胃の腑が冷えるような冷酷な視線を侯爵に向けながら、口を開く。

「フェルカー侯爵。数日前、そこに座っていたご息女は、全てを詳らかにした。貴方の関与も認めている」
「違いますっ、私は、私は何も……! 娘が勝手なことを言っているのです!」
「そうか……だが、残念なことにご息女が偽りを述べていたかどうかは、もう確かめようがない」
「え……?」
「彼女はこの部屋で、私が殺した」
「……っ! ど、どうか……っ、どうか、お許しください……っ!」

 壮絶な二日間を経て、ゾフィー・フェルカーは死んだ。この部屋で、だ。それを知り、娘の無念を思う前に、侯爵は命乞いを始める。彼女が才媛であったことは、間違いがない。だが、どうにも育った環境が悪かったように思う。この男の下では、如何な才能も開花させることは難しいだろう。

「死んだのは、ゾフィーでしょう!? もう一人おります、ルイーゼをどうか! あの娘で、怒りを鎮めてくださいませっ! 娘はきっと、陛下によくよくお仕え致します! どのように扱っていただいても構いませんっ、性技においても、幼少期より私が直に仕込んでございますっ、きっと陛下もお楽しみ頂けるかと……!」

 不愉快な言葉だった。この男は、娘たちを慈しんだことがあるのだろうか。きっと、そんなことは一度としてなかったのだ。自らの所有物としてのみ接していたのだろう。虐待の気配も感じることが出来る。耳に入れることすら嫌悪する男の言葉は、ヴィルヘルムが男の目の前に置かれた机を強く殴りつけたことで止まった。

「何故、俺の怒りをそんなことで鎮めなければならない」
「で、ですが、男である皇妃様ではご満足されていないのではないか、」

 侯爵の言葉は、最後まで述べられなかった。机を殴りつけたヴィルヘルムの手が、今度は侯爵の頬を殴り飛ばした。後ろ手を結ばれてはいたが、椅子に腰を下ろしていただけの男の体は、いとも容易く横へ吹き飛ぶ。

 壁に打ち付けられて、床に伏した侯爵は恐怖で委縮した瞳をヴィルヘルムに向けていた。一番踏み入ってはいけない場所に、この男は土足で踏み込み、踏みにじった。俺にはもう、ヴィルヘルムの怒りを収める手段が浮かんでこない。思わず溜息を漏らす。

「よくも我が妻を愚弄したな」

 怒りで我を忘れたヴィルヘルムが、伏した侯爵のそばに屈みこみ、その胸倉を掴む。掴み上げて、そしてそのまま壁にぶつけた。鈍い音が響く。側頭部が、何度も何度も壁に打ち付けられている。

「俺の怒りは、お前の死でしか鎮められない」
「ヴィルヘルム!」

 その言葉からは、本気の殺意を感じた。全身が粟立ち、俺は慌ててヴィルヘルムに駆け寄る。深い青色の瞳が、剣呑な光を孕んで俺を見た。こんなにも冷たい表情のヴィルヘルムを見るのは初めてだった。ヴィルは今、生きてきた二十四年の人生の中で、最も強い怒りを感じているのだろう。

「待て。やり過ぎだ」
「どうせ殺すなら、今でもいいだろう」
「ご令嬢は私刑でも許容出来たが、侯爵は駄目だ。罪を明らかにして、世間に知らしめてから、法に則った上での斬首だ」

 地位のある人間が、闇の中で葬られれば、妙な憶測が飛び交ってしまう。この男は罪人なのだ。であれば、正しく罰する方が良い。それが分からないヴィルヘルムではないだろう。だが、侯爵の首元を掴んだ手は、なかなか離れなかった。

「最後の一発くらいなら許す」

 俺のその言葉を聞いた直後、ヴィルヘルムは硬く握りしめた右手の拳を、侯爵の顔に叩き込んだ。その拳には、血が付着していた。殴った力で、侯爵の皮膚が裂けたのだろう。左手で掴んでいた侯爵の胸元を手放し、重たい体が床に落ちた。

「汚れた。身を清めてくる」
「……そうしてくれ」

 立ち上がったヴィルヘルムは、そそくさと部屋から出ていく。俺は、警備兵たちに侯爵の手当てを命じ、暫くの間は牢へつないでおくようにと伝えた。そして、ヴィルヘルムのあとを追いかける。

 だが、ヴィルヘルムの姿はもうなかった。一体どちらへ行ったのか。身を清めるというからには、入浴しに行ったのだろうが、宮殿内には皇帝が使える浴室がいくつもあるのだ。向かった方向が分からない以上、追跡は不可能だ。

 大きなため息を吐き捨てる。なんだか、気苦労が絶えない。頼むから、もう少しだけ冷静になってくれ、と心の中で大きく叫ぶ。そんな俺の目に、ひとつの馬車が見えた。車寄せに到着した、アリウス様の馬車だ。

 丁度、ノウェ様が帰って来たのかもしれないと思い、小走りで宮殿へと向かう。そして幸運なことに、俺はノウェ様と出会うことが出来た。その後ろには、イェルマ殿も当然いる。

「ノウェ様、おかえりなさいませ」
「イーヴァン、どうしたんだこんなところで」
「ノウェ様のお帰りが見えましたので、お迎えに」
「お迎え? なんだそれ」

 今までそんなこと一度もしたことないじゃないか、とノウェ様が小さく笑った。ヴィルヘルムの冷酷な姿を見たあとだと、ノウェ様に興味のない俺ですら、ノウェ様の柔らかい空気に癒される。

「アリウス様とのお出かけはいかがでしたか」

 寝室へと向かわれるノウェ様の歩みに合わせて、俺も動く。今日一日、ノウェ様はアリウス様と城下へ出掛けておられた。アリウス様が、ノウェ様のことをよく知りたいとおっしゃられたからだ。一日をじっくり過ごして、アリウス様はノウェ様のことをどう思われたのだろう。

「……楽しかった」

 少し間をおいて、そう呟いたノウェ様は、目元を優しく緩ませながら笑っていた。今日のことを思い出しているのだろうか。本当に楽しかったと、そう思っているのが手に取るように分かる表情だった。

「それは良かった」

 俺も思わず安堵してしまう。もし今日が最悪な一日で、アリウス様が後見人などしない、と言われたどうしようと少しばかり気を揉んでいたのだ。だが、今のところアリウス様からそのような報せは来ていない。きっと、何もかもが上手くいった一日だったのだ。

「アリウス様や、ヴィルヘルムが守っているものを見たんだ。……皇帝って、大変だな」

 皇帝という存在をノウェ様が慮る発言を、初めて聞いたように思う。これは好機なのでは、と思った。すかさず、俺は口を動かす。

「実は、陛下は今とても疲れ果てていて。心が荒んでしまっているんです」
「イーヴァンが働かせすぎなんじゃないのか」
「そうかもしれません。しかし、必要なことなのです」

 荒れているヴィルヘルムには、ノウェ様を与えるのが一番だ。帰城直後のノウェ様を追いかけたのも、そんな下心があったからに他ならない。

「ですので、少し……ほんの少しだけで構いませんから、陛下に優しくして頂けないでしょうか」
「俺は別に、優しくしてない訳じゃない」
「もちろん、それは承知しています。ただ……今の陛下には、ノウェ様の癒しが必要なのです」
「……それってつまり、ヴィルを支えるっていうことか?」
「そうですね。ノウェ様に、陛下を支えて頂ければと思っております」

 伺うように、俺を見上げてくるノウェ様。支える、という言葉も初めて聞いた。今までには見られなかった反応が多い。もしや、アリウス様に何か言われたのだろうか。ノウェ様が小さく頷く。これできっと、明日のヴィルヘルムは上機嫌なことだろう。

「……分かった。少しだけ、やってみる」


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