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大きく重たい溜息が、己の口から出て行った。ここ数日の疲労を考えれば、この溜息ですら軽く感じる。内務卿に宛がわれた執務室の中の、広い机。その机の上には所狭しと巻き紙や、小さなメモ書きが置かれている。
整理をしなければと思いつつも、次から次へとやってくる千眼たちからの情報に整理整頓が追い付いていない。侍従が片付けようとしてくれたのだが、侍従の不注意で情報が紛失してしまうことを危険視した俺は、侍従に机に触れないようにと命じてしまう。
晩餐会を終えたら、ノウェ様の帰郷の調整が始まるはずだった。だというのに、まさか暗殺未遂事件などというものが勃発するとは。これは事態が収束するまで、帰郷の件は凍結せざるを得ない。ノウェ様も、流石に理解してくれることだろう。
「はぁ……疲れる」
椅子の背もたれに体を預け、天を仰ぐ。眼を瞑り、目頭を指で押さえた。昨夜もこの部屋で夜を明かしている。寝台でぐっすり眠ったのは、何日前のことだっただろうか。疲労も限界に来ていたが、それでもやるべきことは山積しているのだ。
「私も疲れてるんだけど?」
「お前は好きなことして疲れてるだけだろ」
「イーヴだってそうでしょ」
埃っぽい部屋ね、と言いながら窓を開けたのはアナスタシアだった。陽光が眩しくて、厚いカーテンでずっと光を遮っていたのだが、彼女の手によって燦々とした光が部屋に入り込んでくる。
「……まぁ、そうだな」
疲労は募り、体は限界に近づいている。昔は、何日でも徹夜が出来たのだが、ここ数年はそんな無茶が出来なくなっていた。それでも、苦痛ではなかった。疲労の根底には、楽しいという感情がある。楽しさを感じられなければ、一体誰がこんな仕事をするというのか。
「私を雑談相手にするために呼び寄せたの?」
「あぁ、そうだよ」
「酷い。こっちにだって都合っていうものがあるんですけど」
「知るか」
いつも通り、開発局へ仕事に出かけたアナスタシアを俺が呼びつけたのだ。侍従を使って迎えに行かせ、俺の執務室へとお招きした。当然、彼女にも彼女の仕事があるのだろうが、今は俺との雑談に付き合ってもらっている。
「頭を整理するには、誰かに話した方がまとまるんだ」
「なるほど。政には関わりがなくて、それでいて長年信頼しあったミルティアディスな私が、その整理のための聴衆にはうってつけってことね」
「その通り」
肩を竦めて、やれやれ、と言いたげな顔を見せるアナスタシア。多くを語らずとも察してくれる彼女との雑談は、とても気楽で有意義なものになる。彼女は俺の相談役に適任だった。
「議会には説明したの?」
「俺は首相に説明するだけでいい。議会への説明は彼がする」
「皇妃が暗殺されかかったって、素直に伝えたわけ?」
「あぁ。誤魔化す意味はない。あの晩餐会には首相も臨席していたし、議員の多くもあの場にいた。ノウェ様が苦しみながら走り出す姿は見ている」
ノウェ様の耳には入らないよう配慮はしているが、世の中は今、皇妃の暗殺未遂事件で騒然としていた。議会を構成する議員たちも、ことの真相を知りたがり、犯人は一体誰なのかと勝手に探偵の真似事をしている。
それは市民も同様で、貴族たちから漏れ聞こえてくる事件の内容を聞きかじり、想像力を大いに働かせて面白おかしく噂話を広めていた。彼らの間では、首魁は皇妃の座を奪われたアナスタシアということになっているらしいが、きっと彼女自身がそれを聞いたら酷く憤慨することだろう。
「あとは、親皇帝派の新聞社に情報を流して、ノウェ様を悲劇に苛まれた憐れな皇妃として扱ってもらい、市民の憐憫を誘う」
「実際問題、ノウェ様は可愛そうよ。何も悪くないのに酷い毒を飲まされた」
「あぁ、これでますます故郷に帰りたいって言いだしたら困るな……。まったく、余計なことをしてくれる」
何度目かの溜息と共に頭を抱える。ノウェ様の心をリオライネンとヴィルヘルムのもとに留めておくことのほうが、犯人捜しをするよりも困難だ。ヴィルヘルムが献身的にノウェ様を介抱したおかげか、ここ数日、二人の関係性に変化が訪れたように見えるが、実際にはどうなのだろう。二人の色恋事情を伺う余裕が今の俺にはなかった。
「フェルカー姉妹が犯人だと睨んでいるんでしょう?」
「というよりも、フェルカー侯爵家だな。娘たちと父親がどうにも怪しい」
市民の間で黒幕としてアナスタシアの名が上がるのは、彼らが開発局で嬉々として働くアナスタシアの姿を見ていないからだ。事実、そんな彼女の様子を把握している議員の間ではアナスタシアの名などあがらない。
けれど、フェルカー姉妹の名も全く上がらないというのは、何かしらの作為を感じる。第一婚約者であったアナスタシアがノウェ様を恨む可能性がないことが明らかであれば、次に怪しむべきは第二婚約者と第三婚約者ではないだろうか。
その推理に多くの人間が至らないのだとしても誰か一人は、フェルカー姉妹が怪しい気がする、と漏らしても良いはずだ。だが、そんな声は俺の情報網をもってしてでも聞こえてこない。
フェルカー侯爵がその疑念を握りつぶしているのだろうか。財力で、あるいは何かしらの脅しをかけて。それは大いにあり得ることだった。その可能性を頭の片隅に置きながら俺は、千眼から集めた情報たちに目を通し思案をしているアナスタシアを見た。彼女の唇が開く。
「暗殺は成功していないし、痕跡も多く残している。随分と杜撰なやり口だと思う」
「確かにな。だが、多くの人間は獅子の千眼の存在を知らない。フェルカー家もここまで筒抜けになるとは思っていなかったんだろう」
「それにしても……、なんというか違和感があるような」
「違和感?」
俺とアナスタシアは、フェルカー家が黒幕であると断定して話を進めた。父親の指示か、姉妹たちの願いか、もしくはスラヴィア国の傀儡となったか。まだ可能性の枝葉は広がるが、それでもあの一家が全くの無関係だとはすでに思っていなかった。
「自分たちが犯人だって、気付いて欲しいのかも」
「なんでそんなことをするんだ。殺人未遂は法で裁かれる罪だぞ。それどころか、怒り狂ったヴィルヘルムが超法規的措置として、犯人を惨殺する可能性だってある」
「……命が惜しくない、とか?」
「破滅的だな」
あまりにも突拍子の無い話だった。だが、笑い飛ばすことは出来ない。アナスタシアの明晰な頭脳がはじき出した一つの案として、俺の頭の中にしまっておく。考えなければならないことや、決めなければならないものが頭の中を満たしていた。
「ヴィルヘルムの庇護下に入ったことで、ノウェ様の安全は盤石のものになったと思ったんだがな」
「あの姉妹にとっては、そんなこと関係なかったのかも」
「有り得るな」
ノウェ様の身を案じるのは、ヴィルヘルムの皇妃になるまでだと思っていた。だからこそ、五番目の婚約者であったノウェ様とヴィルヘルムの接触を制限したり、素性の知れない人物が近付かないように警護の指示をしたりと徹底していた。それらは、皇妃になれば不要なものだと思っていたのだ。
だが実際には、皇妃となりヴィルヘルムがノウェ様を全力で守るという姿勢を見せた後に事件は起こった。フェルカー姉妹が特殊な狂人なのかもしれないが、そんな狂人に狙われてもなお、ノウェ様を守る体制が必要なのだ。
「……とはいえ、もともとノウェ様を快く思わない連中は多い。隷属すらしていない辺境の異民族の男が、いきなり皇妃になるなんて、誰も予想しなかっただろうし」
「でも、ノウェ様だってヴィルの婚約者だったじゃない」
「アナスタシア・ブルクハルトという大本命がいれば、五番目の婚約者なんて霞む。ノウェ様の存在すらも知らなかったって奴は少なくないはずだ。……ノウェ様に誰も手出しが出来ないような、強力な後ろ盾が必要だな」
「ヴィルだけでは駄目なの? フェルカー姉妹、もしくはフェルカー侯爵家はイレギュラーだったとして、その他の脅威からならヴィルだってノウェ様を守れると思うけど」
アナスタシアの言葉も一理ある。フェルカー家以外で、ノウェ様を暗殺しようなどと企てる者たちはどこにもいないのかもしれない。だが、一度起こったことが、二度と起こらないなどとは断言できなかった。そんな可能性が存在することを、ヴィルヘルムは絶対に許さないだろう。
「ヴィルヘルムは皇帝だ。いくら最愛のノウェ様の為でも、国内の調和を考えれば自由にふるまえない時がある。内乱に繋がるような事態になる気配があれば、俺が全力でヴィルを止める」
ノウェ様の安全が揺るがない環境を俺が作れば、ヴィルヘルムは俺の理想通りの皇帝でいてくれる。逆に、俺がそんな環境を用意出来なければ、ヴィルヘルムはノウェ様を害された怒りのままに疑わしい者たちを粛正し始めるだろう。俺たちは、そういった契約を結んでいる。
リオライネン帝国は、強力な力を有する皇帝を戴くが、独裁者が支配しているわけではない。民の声を聴く議員がおり、彼らで形成される議会があり、議会から選出された首相がいる。内務卿と皇帝はもう何十年もミルティアディスから選出しているが、それでも周辺の絶対王政国家を見れば、リオライネンは民主的に見えることだろう。
何もかもがヴィルヘルムの望む通りにはならない。確固たる証拠もないままにフェルカー侯爵を弾劾すれば、フェルカーに従う議員たちは皇帝を公然と批判するだろう。そんな面倒な騒動にまでは発展したくない。
ヴィルヘルムの我慢が利いている間に、今回の騒動を収める。そして、二度とこのようなことが起こらないようにノウェ様の安全性を高める。俺にとっての急務はこの二つだった。
「議会や世論のしがらみがなく、それでいて強大な力を持つ。くわえていえば、ノウェ様に好意的な人物。そんな人がノウェ様の後見人でいてくれたら良いんだけどなぁ」
「そんな都合の良い人いる?」
「いない。いるわけがない。……ん? ……いや、待てよ」
自分の発言を自身で否定しながら、それでも頭に引っ掛かるものがあった。その引っ掛かりの全貌が見えないが、光明であったように思う。一体なんだ、と疑問を突き詰めていこうとしたその瞬間。
「内務卿閣下」
部屋に入ってきた侍従が俺に声を掛ける。随分と焦った様子だが、俺も今なにか妙案が掴めそうで焦っていた。慌てた足取りが俺の癪に障る。
「なんだ。俺の思考を邪魔するな」
「申し訳ありません。……しかし、急ぎお伝えしたいことが」
「なんだ」
険を纏う声が口から出て行った。苛立っている証拠である。俺の身の回りの世話から、資料まとめまで手伝ってくれる優秀な侍従だったが、今の俺に話しかけるのは悪手だった。これで大したことのない話だったら、怒鳴ってしまいそうだ。
「その……、フェルカー侯爵家ご令嬢のゾフィー様が、宮殿の門前にお越しで」
この侍従には、千眼の情報をまとめる作業を手伝わせている。もちろん、情報の出どころである千眼の存在については教えていないが、それでも俺が今、誰を疑い、どのような情報を欲しているかは分かっているのだ。だからこそ、その侍従は青ざめた顔でその言葉を述べたのだろう。
「……はぁ?」
たっぷりと間をおいてから、俺はそんな情けない声を漏らした。ゾフィー・フェルカーが、来ている。予想しえなかった事態に頭が混乱して、何も考えられなくなった。だが、次の瞬間に俺は走り出す。
執務室を出て、廊下を駆け抜ける。全力疾走する内務卿に、警備兵や通りすがりの者たちが目を丸くしていたが、今はそれどころではない。どういうことだ。一体何をしに来た。そもそも、なんのつもりだ。
膨らむ疑問に対する答えはどこにもなく、俺は息を切らしたままにゾフィー・フェルカーと対峙した。白髪にも見える銀色の長い髪。薄青の瞳には、ぬくもりが一切感じられない。纏ったドレスは、誂えたばかりだという代物だろうか。彼女は、小さな微笑みをたたえながら、そこに立っていた。
「御無沙汰しております。ダレル様。今はダレル内務卿閣下とお呼びした方が正しいのでしょうね」
鈴が微かに鳴ったような華奢な声。だが、意志薄弱な印象は受けない。揺るぎない信念を持って俺の前に立っているというのは、火を見るよりも明らかだ。思わず、唾を嚥下する。目の前にいるのは丸腰の女だ。だというのに俺は、その得体の知れなさに畏怖を抱いていた。
「これはこれは、ゾフィー様。一体どうされたのです。すでに故郷へお帰りになられたと聞き及んでおりましたが」
「えぇ、一度戻りましたわ。一度戻って、色々と準備をして、再び戻って参ったのです」
「……ほう、準備ですか。どのような準備を?」
声が震えてしまわないように、腹に力を籠める。深窓の令嬢としか見えないこの女には、底知れない闇を感じた。浮かべていた笑みが、暗いものに変わる。
「御存じでしょうに」
その言葉が全てを語っていた。罪の告白に近い。ゾフィー・フェルカーは分かっているのだ。己が疑念の対象になっていることを。ではなぜ、こんな場所にいる。スラヴィアとの繋がりがあるのなら、国外逃亡でもすれば良いのだ。何故俺の目の前に、この女は立っている。
「……何をしに来た」
この場には、ゾフィー・フェルカーの姿しかない。父親の姿も、妹のルイーゼの姿もない。たったひとりで、この女は何をしに来たのか。問えば、彼女は暗くした笑みを消して、花が綻ぶように笑って見せた。至上の喜びがここにあるのだと、歓喜に打ち震える声で言う。
「ヴィルヘルム様に、殺して頂きに参りました」
整理をしなければと思いつつも、次から次へとやってくる千眼たちからの情報に整理整頓が追い付いていない。侍従が片付けようとしてくれたのだが、侍従の不注意で情報が紛失してしまうことを危険視した俺は、侍従に机に触れないようにと命じてしまう。
晩餐会を終えたら、ノウェ様の帰郷の調整が始まるはずだった。だというのに、まさか暗殺未遂事件などというものが勃発するとは。これは事態が収束するまで、帰郷の件は凍結せざるを得ない。ノウェ様も、流石に理解してくれることだろう。
「はぁ……疲れる」
椅子の背もたれに体を預け、天を仰ぐ。眼を瞑り、目頭を指で押さえた。昨夜もこの部屋で夜を明かしている。寝台でぐっすり眠ったのは、何日前のことだっただろうか。疲労も限界に来ていたが、それでもやるべきことは山積しているのだ。
「私も疲れてるんだけど?」
「お前は好きなことして疲れてるだけだろ」
「イーヴだってそうでしょ」
埃っぽい部屋ね、と言いながら窓を開けたのはアナスタシアだった。陽光が眩しくて、厚いカーテンでずっと光を遮っていたのだが、彼女の手によって燦々とした光が部屋に入り込んでくる。
「……まぁ、そうだな」
疲労は募り、体は限界に近づいている。昔は、何日でも徹夜が出来たのだが、ここ数年はそんな無茶が出来なくなっていた。それでも、苦痛ではなかった。疲労の根底には、楽しいという感情がある。楽しさを感じられなければ、一体誰がこんな仕事をするというのか。
「私を雑談相手にするために呼び寄せたの?」
「あぁ、そうだよ」
「酷い。こっちにだって都合っていうものがあるんですけど」
「知るか」
いつも通り、開発局へ仕事に出かけたアナスタシアを俺が呼びつけたのだ。侍従を使って迎えに行かせ、俺の執務室へとお招きした。当然、彼女にも彼女の仕事があるのだろうが、今は俺との雑談に付き合ってもらっている。
「頭を整理するには、誰かに話した方がまとまるんだ」
「なるほど。政には関わりがなくて、それでいて長年信頼しあったミルティアディスな私が、その整理のための聴衆にはうってつけってことね」
「その通り」
肩を竦めて、やれやれ、と言いたげな顔を見せるアナスタシア。多くを語らずとも察してくれる彼女との雑談は、とても気楽で有意義なものになる。彼女は俺の相談役に適任だった。
「議会には説明したの?」
「俺は首相に説明するだけでいい。議会への説明は彼がする」
「皇妃が暗殺されかかったって、素直に伝えたわけ?」
「あぁ。誤魔化す意味はない。あの晩餐会には首相も臨席していたし、議員の多くもあの場にいた。ノウェ様が苦しみながら走り出す姿は見ている」
ノウェ様の耳には入らないよう配慮はしているが、世の中は今、皇妃の暗殺未遂事件で騒然としていた。議会を構成する議員たちも、ことの真相を知りたがり、犯人は一体誰なのかと勝手に探偵の真似事をしている。
それは市民も同様で、貴族たちから漏れ聞こえてくる事件の内容を聞きかじり、想像力を大いに働かせて面白おかしく噂話を広めていた。彼らの間では、首魁は皇妃の座を奪われたアナスタシアということになっているらしいが、きっと彼女自身がそれを聞いたら酷く憤慨することだろう。
「あとは、親皇帝派の新聞社に情報を流して、ノウェ様を悲劇に苛まれた憐れな皇妃として扱ってもらい、市民の憐憫を誘う」
「実際問題、ノウェ様は可愛そうよ。何も悪くないのに酷い毒を飲まされた」
「あぁ、これでますます故郷に帰りたいって言いだしたら困るな……。まったく、余計なことをしてくれる」
何度目かの溜息と共に頭を抱える。ノウェ様の心をリオライネンとヴィルヘルムのもとに留めておくことのほうが、犯人捜しをするよりも困難だ。ヴィルヘルムが献身的にノウェ様を介抱したおかげか、ここ数日、二人の関係性に変化が訪れたように見えるが、実際にはどうなのだろう。二人の色恋事情を伺う余裕が今の俺にはなかった。
「フェルカー姉妹が犯人だと睨んでいるんでしょう?」
「というよりも、フェルカー侯爵家だな。娘たちと父親がどうにも怪しい」
市民の間で黒幕としてアナスタシアの名が上がるのは、彼らが開発局で嬉々として働くアナスタシアの姿を見ていないからだ。事実、そんな彼女の様子を把握している議員の間ではアナスタシアの名などあがらない。
けれど、フェルカー姉妹の名も全く上がらないというのは、何かしらの作為を感じる。第一婚約者であったアナスタシアがノウェ様を恨む可能性がないことが明らかであれば、次に怪しむべきは第二婚約者と第三婚約者ではないだろうか。
その推理に多くの人間が至らないのだとしても誰か一人は、フェルカー姉妹が怪しい気がする、と漏らしても良いはずだ。だが、そんな声は俺の情報網をもってしてでも聞こえてこない。
フェルカー侯爵がその疑念を握りつぶしているのだろうか。財力で、あるいは何かしらの脅しをかけて。それは大いにあり得ることだった。その可能性を頭の片隅に置きながら俺は、千眼から集めた情報たちに目を通し思案をしているアナスタシアを見た。彼女の唇が開く。
「暗殺は成功していないし、痕跡も多く残している。随分と杜撰なやり口だと思う」
「確かにな。だが、多くの人間は獅子の千眼の存在を知らない。フェルカー家もここまで筒抜けになるとは思っていなかったんだろう」
「それにしても……、なんというか違和感があるような」
「違和感?」
俺とアナスタシアは、フェルカー家が黒幕であると断定して話を進めた。父親の指示か、姉妹たちの願いか、もしくはスラヴィア国の傀儡となったか。まだ可能性の枝葉は広がるが、それでもあの一家が全くの無関係だとはすでに思っていなかった。
「自分たちが犯人だって、気付いて欲しいのかも」
「なんでそんなことをするんだ。殺人未遂は法で裁かれる罪だぞ。それどころか、怒り狂ったヴィルヘルムが超法規的措置として、犯人を惨殺する可能性だってある」
「……命が惜しくない、とか?」
「破滅的だな」
あまりにも突拍子の無い話だった。だが、笑い飛ばすことは出来ない。アナスタシアの明晰な頭脳がはじき出した一つの案として、俺の頭の中にしまっておく。考えなければならないことや、決めなければならないものが頭の中を満たしていた。
「ヴィルヘルムの庇護下に入ったことで、ノウェ様の安全は盤石のものになったと思ったんだがな」
「あの姉妹にとっては、そんなこと関係なかったのかも」
「有り得るな」
ノウェ様の身を案じるのは、ヴィルヘルムの皇妃になるまでだと思っていた。だからこそ、五番目の婚約者であったノウェ様とヴィルヘルムの接触を制限したり、素性の知れない人物が近付かないように警護の指示をしたりと徹底していた。それらは、皇妃になれば不要なものだと思っていたのだ。
だが実際には、皇妃となりヴィルヘルムがノウェ様を全力で守るという姿勢を見せた後に事件は起こった。フェルカー姉妹が特殊な狂人なのかもしれないが、そんな狂人に狙われてもなお、ノウェ様を守る体制が必要なのだ。
「……とはいえ、もともとノウェ様を快く思わない連中は多い。隷属すらしていない辺境の異民族の男が、いきなり皇妃になるなんて、誰も予想しなかっただろうし」
「でも、ノウェ様だってヴィルの婚約者だったじゃない」
「アナスタシア・ブルクハルトという大本命がいれば、五番目の婚約者なんて霞む。ノウェ様の存在すらも知らなかったって奴は少なくないはずだ。……ノウェ様に誰も手出しが出来ないような、強力な後ろ盾が必要だな」
「ヴィルだけでは駄目なの? フェルカー姉妹、もしくはフェルカー侯爵家はイレギュラーだったとして、その他の脅威からならヴィルだってノウェ様を守れると思うけど」
アナスタシアの言葉も一理ある。フェルカー家以外で、ノウェ様を暗殺しようなどと企てる者たちはどこにもいないのかもしれない。だが、一度起こったことが、二度と起こらないなどとは断言できなかった。そんな可能性が存在することを、ヴィルヘルムは絶対に許さないだろう。
「ヴィルヘルムは皇帝だ。いくら最愛のノウェ様の為でも、国内の調和を考えれば自由にふるまえない時がある。内乱に繋がるような事態になる気配があれば、俺が全力でヴィルを止める」
ノウェ様の安全が揺るがない環境を俺が作れば、ヴィルヘルムは俺の理想通りの皇帝でいてくれる。逆に、俺がそんな環境を用意出来なければ、ヴィルヘルムはノウェ様を害された怒りのままに疑わしい者たちを粛正し始めるだろう。俺たちは、そういった契約を結んでいる。
リオライネン帝国は、強力な力を有する皇帝を戴くが、独裁者が支配しているわけではない。民の声を聴く議員がおり、彼らで形成される議会があり、議会から選出された首相がいる。内務卿と皇帝はもう何十年もミルティアディスから選出しているが、それでも周辺の絶対王政国家を見れば、リオライネンは民主的に見えることだろう。
何もかもがヴィルヘルムの望む通りにはならない。確固たる証拠もないままにフェルカー侯爵を弾劾すれば、フェルカーに従う議員たちは皇帝を公然と批判するだろう。そんな面倒な騒動にまでは発展したくない。
ヴィルヘルムの我慢が利いている間に、今回の騒動を収める。そして、二度とこのようなことが起こらないようにノウェ様の安全性を高める。俺にとっての急務はこの二つだった。
「議会や世論のしがらみがなく、それでいて強大な力を持つ。くわえていえば、ノウェ様に好意的な人物。そんな人がノウェ様の後見人でいてくれたら良いんだけどなぁ」
「そんな都合の良い人いる?」
「いない。いるわけがない。……ん? ……いや、待てよ」
自分の発言を自身で否定しながら、それでも頭に引っ掛かるものがあった。その引っ掛かりの全貌が見えないが、光明であったように思う。一体なんだ、と疑問を突き詰めていこうとしたその瞬間。
「内務卿閣下」
部屋に入ってきた侍従が俺に声を掛ける。随分と焦った様子だが、俺も今なにか妙案が掴めそうで焦っていた。慌てた足取りが俺の癪に障る。
「なんだ。俺の思考を邪魔するな」
「申し訳ありません。……しかし、急ぎお伝えしたいことが」
「なんだ」
険を纏う声が口から出て行った。苛立っている証拠である。俺の身の回りの世話から、資料まとめまで手伝ってくれる優秀な侍従だったが、今の俺に話しかけるのは悪手だった。これで大したことのない話だったら、怒鳴ってしまいそうだ。
「その……、フェルカー侯爵家ご令嬢のゾフィー様が、宮殿の門前にお越しで」
この侍従には、千眼の情報をまとめる作業を手伝わせている。もちろん、情報の出どころである千眼の存在については教えていないが、それでも俺が今、誰を疑い、どのような情報を欲しているかは分かっているのだ。だからこそ、その侍従は青ざめた顔でその言葉を述べたのだろう。
「……はぁ?」
たっぷりと間をおいてから、俺はそんな情けない声を漏らした。ゾフィー・フェルカーが、来ている。予想しえなかった事態に頭が混乱して、何も考えられなくなった。だが、次の瞬間に俺は走り出す。
執務室を出て、廊下を駆け抜ける。全力疾走する内務卿に、警備兵や通りすがりの者たちが目を丸くしていたが、今はそれどころではない。どういうことだ。一体何をしに来た。そもそも、なんのつもりだ。
膨らむ疑問に対する答えはどこにもなく、俺は息を切らしたままにゾフィー・フェルカーと対峙した。白髪にも見える銀色の長い髪。薄青の瞳には、ぬくもりが一切感じられない。纏ったドレスは、誂えたばかりだという代物だろうか。彼女は、小さな微笑みをたたえながら、そこに立っていた。
「御無沙汰しております。ダレル様。今はダレル内務卿閣下とお呼びした方が正しいのでしょうね」
鈴が微かに鳴ったような華奢な声。だが、意志薄弱な印象は受けない。揺るぎない信念を持って俺の前に立っているというのは、火を見るよりも明らかだ。思わず、唾を嚥下する。目の前にいるのは丸腰の女だ。だというのに俺は、その得体の知れなさに畏怖を抱いていた。
「これはこれは、ゾフィー様。一体どうされたのです。すでに故郷へお帰りになられたと聞き及んでおりましたが」
「えぇ、一度戻りましたわ。一度戻って、色々と準備をして、再び戻って参ったのです」
「……ほう、準備ですか。どのような準備を?」
声が震えてしまわないように、腹に力を籠める。深窓の令嬢としか見えないこの女には、底知れない闇を感じた。浮かべていた笑みが、暗いものに変わる。
「御存じでしょうに」
その言葉が全てを語っていた。罪の告白に近い。ゾフィー・フェルカーは分かっているのだ。己が疑念の対象になっていることを。ではなぜ、こんな場所にいる。スラヴィアとの繋がりがあるのなら、国外逃亡でもすれば良いのだ。何故俺の目の前に、この女は立っている。
「……何をしに来た」
この場には、ゾフィー・フェルカーの姿しかない。父親の姿も、妹のルイーゼの姿もない。たったひとりで、この女は何をしに来たのか。問えば、彼女は暗くした笑みを消して、花が綻ぶように笑って見せた。至上の喜びがここにあるのだと、歓喜に打ち震える声で言う。
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