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荒い息遣いが聞こえていた。まどろみの中に落ちていた俺の耳にも届く、獣の唸り声のような低い音。覚めかけていた意識に、更なる目覚めを促す。俺は横になっていて、朧気な視界の向こう側にヴィルヘルムが見えていた。
「……っ、……はぁ……、」
息を深く吐き捨てている。ヴィルヘルムの手が上下に動いているのを見て、何をしているかを悟った。ゆっくりと状況を把握していく。俺は今、ヴィルヘルムの執務室にいた。自分でここに駆け込んできたのだ。はっきりと覚えている。そのあと、俺が何をしたのかも。
俺の体は、執務室に置かれた長椅子に横たえられている。眠ったのか、気絶したのかは分からないけれど、しばらくの間ここで横になっていたようだ。体が怠い。起き上がるのも億劫で、目を開いたままじっとしていた。
ヴィルヘルムは、自分自身を慰めている。太く、長いものを必死になって上下に扱いていた。俺がヴィルヘルムをそんな状態にしたのだという自覚はある。ヴィルヘルムは、俺が好きなのだ。
何度も言っていた。言葉でも、態度でも、俺にそう伝えてきていた。もう俺だって身に染みて分かっている。ヴィルヘルムは心底俺のことが好きで、だから俺の胸を舐めたり、後ろの孔に触れるだけで、自分のものを硬くさせてしまうのだ。
ヴィルヘルムは、誓いを破っていない。俺の頭が可笑しくなっている時に、一度も俺の中に自分のものを入れなかった。俺を、抱いていなかった。
俺が錯乱している時であれば、挿入されたとしても俺は気付かなかっただろう。むしろ、腰を振って喜んでいたかもしれない。何も分からなくなるほどに乱れ切った俺になら、何をしても誤魔化せたことだろう。
けれど、ヴィルヘルムはしなかった。
全て、俺が願ったことだ。胸に触れて欲しいと、後ろを弄って欲しいと、俺がそう強請った。俺が願ったことしか、ヴィルヘルムはしなかった。ヴィルヘルム自身の欲望のままに振舞うということを、一切しなかったのだ。
手淫によって、ヴィルヘルムは精を吐き出した。それをハンカチで受け止め、自身を濡らすものたちを拭っている。固かったものは、だらりと垂れ下がって、どうやら蟠りは全て体外へ出たようだった。
「……ごめん」
涙が溢れてくる。声を出したことで、ヴィルヘルムが俺が起きていることに気付いた。慌てて立ち上がり、寛げていたスラックスの前を閉める。そして背の低い机をひとつ挟んだ長椅子に横たわる俺のもとへとやってきた。
「起きていたんだな、ノウェ。すまない。嫌なものを見せた」
「……なんでだよ。ヴィルは何も悪くないだろ。謝るなよ」
「どうしたんだノウェ。泣いてばかりだと目が腫れるぞ」
「仕方ないだろ。勝手に出てくるんだから」
触るなと、あれだけ拒んでおきながらヴィルヘルムに助けて欲しいと縋る自分が情けなかった。縋った結果、ヴィルヘルムは俺を助け、昂ったものを自分で慰めている。そんなことをさせてしまってる罪悪感で、胸が苦しい。
自らの手で自慰をするような皇帝が、どこにいるというのだ。何もかもが手に入って、好きなことを好きなように出来る立場であるというのに。男でも女でも、自分が望む相手に突っ込んで発散すればいいのに。ヴィルヘルムはそれをしない。俺に一途な想いを向けるからだ。
「俺が、あ、あんな風になって……、あんなことを頼んだから、ヴィルはそうなったんだろ」
あんなこと、だとか。そうなった、だとか。直接言葉にすることが憚られるものばかりだった。そんな不明瞭な発言でもしっかりと把握してくれたようで、ヴィルヘルムは小さく笑う。優しいおもてで、困ったように笑うヴィルヘルムを見て俺は言葉を続けた。
「……ヴィルは、悪くない」
ヴィルヘルムのものを直視してしまったけれど、所詮は同じ男同士なのだ。俺の股間にだって同じものがぶらさがっている。見たからと言って、嫌悪感を抱くことは無い。ただ、あれが即位式の夜に俺の中に入ったのか、と妙な感慨を抱いたのは確かだった。
「ノウェは優しいな。お前のせいで毒を口にするはめになった、って責めてくれていいのに」
「ヴィルが俺に毒を盛ったなら責めるけど、そういうわけじゃないんだろ」
「あぁ、もちろんだ。……守りたかった。全ての悪意から、ノウェを守りたかったんだ」
ふいに、どうして俺はこんなにも思ってもらえているのだろうと思った。客観的に見て、ヴィルヘルムは美しい顔をしている。恵まれた体格で、外見においては非の打ち所がない。性格には少々難ありな部分もあるが、根本的に言えば、悪人ではないと思う。
そんな人物が、大国の皇帝になるような人物が、どうして俺なんかに惚れてしまったのだろう。何かの間違いではないのだろうか。物凄く頭を打ったりして、訳が分からなくなっているだとか。そんなことがあったりはしないのだろうか。
「……守れなかったのかもしれないけど、助けてくれただろ」
起こってしまった事実を見れば、確かに俺のことを毒から守ることは出来なかったのかもしれない。けれど、助けてくれた。頭が可笑しくなるような痒みと疼きから、俺を救ってくれた。それは確かなことだった。
「即位式の夜……ヴィルに襲われた時、あの香油に媚薬が入ってるって思ったし、ヴィルもそう言ってたけど……あれ、入ってなかっただろ」
「どうしてそう思うんだ?」
「だって、全然違う。俺が飲んだ毒が、媚薬として利用されることもあるって聞いた。これが媚薬の苦しさだって分かったから……あの夜、ヴィルは媚薬なんて使ってなかったんだ」
あの夜の記憶を思い出すことに、苦痛を感じなくなった。それはきっと、最悪な記憶が更新されたからだ。この毒によって晒す羽目になった己の痴態が、今はヴィルの暴行より上回っている。だからこそ、思い出した。あの夜、香油に媚薬が混じっていると思い込んだ俺の発言を、ヴィルヘルムは否定しなかった。
だが、それは嘘だったのだ。本当の媚薬に苦しめられた俺だからこそ分かる。あれは、媚薬などではなかった。その場の空気と状況に翻弄される肉体に合わせて、脳が必死に快楽を得ようとしていただけのこと。
長椅子に横になったままの俺のそばには、床に座り込んで俺の顔を眺めてくるヴィルヘルムがいる。顔の距離が近い。このまま触れてしまいそうだ。けれど、ヴィルヘルムは絶対に触れてこない。俺が触れて良いと言うまでは。
「媚薬なんていうものは、容易く使うものじゃないんだよ。体だけ気持ちが良くなるなんて、そんな都合の良いものはない。依存性が高いものが多いし、心や体を蝕むこともしばしばある。媚薬などと言って誤魔化しているが、それらは大抵、神経を侵す劇薬なんだ。限度を超えれば、命を奪う。……そんな危険なものをノウェに使うわけがない」
真っすぐに俺を見つめるヴィルヘルムが、触れても良いか、と言って手を伸ばしてきた。どうやら、頭を撫でたいらしい。小さく頷けば、ヴィルの手が俺の頭を撫でて、髪に触れ頬を包む。優しい手だった。
「でもあの夜は、そう伝えた方がノウェが気にしないで済むかなと思って」
「気にしないって、何が?」
「ほら、その……ノウェが、随分と感じていたようだから。薬のせいにした方が、気が楽かと」
もごもごと、口ごもりながらそんな言葉を口にした。一体こいつは何を言っているんだ、と僅かに逡巡する。そしてヴィルが何を言いたいのかを察した。つまり俺は、薬のせいと言った方が辻褄が合うほどに感じ、乱れていたと言うことだ。
「別に感じてなんかない!」
顔が熱くなって、体を勢いよく起こす。長椅子の上に両手をついて、両腕の力だけで上体を上げたのだ。直後、ずっと横になっていた俺の体は立ち眩みに襲われて崩れ落ちる。そんな俺を、ヴィルヘルムが抱きとめてくれた。
「すまない」
何についての謝罪だろうか。今、俺を抱きとめていることだろうか。それとも、即位式の夜の俺を感じていたと評したことだろうか。何の謝罪なのかは分からなかったけれど、ヴィルヘルムはいつも俺に謝ってばかりだなとぼんやり思った。
抱きしめられていても、以前のような嫌悪感は湧いて来ない。抱きしめられたままの状態を許してしまっている。それどころか、その背中に腕を回そうと、一瞬体が動いた。自分の心に訪れた変化に、驚いてしまう。
「ヴィルがして欲しいことがあったら、するから。言って」
少し緊張しながら、そんな言葉を口にした。そんなことを言えば、ヴィルヘルムはきっと抱きたいだの、口付けをしたいだのと言いだすだろう。そう予測を立てていながら、そんな台詞を言ってのけた自分自身が分からなくなる。
罪悪感で胸にぽっかりと開いた穴を、埋めたかったのかもしれない。一方的に救ってもらうばかりで、奉仕をさせておいて、ヴィルヘルムが抱いた熱には無視を決め込む。俺はそれに罪悪を感じていた。だからきっと、そんなことを言ったのだ。
「そばにいてくれるだけでいい」
肩透かしを食らう。微塵も予想していなかった言葉が返ってきた。そばにいてくれるだけでいい。それは言い換えれば、何もしなくて良いということだ。そんなはずはない。ヴィルヘルムは俺に望むことがあるはずなのだ。
「なんでだよ。俺のこと、抱きたいんだろ。口付けだって、したいくせに」
「もちろんしたい。……でも、ノウェが望まないならしなくていい」
初めての時は、俺の同意なんて取らなかったくせに。有無を言わせず、問答無用で押し倒してきたくせに。なんで俺が許すと言っている時には何も求めてこないんだ。悶々とした気持ちになる。どうして俺がこんな気分にならなければいけないのだろう。
「心から、俺に抱かれたいと思ったら、教えて」
俺の耳元でそっとヴィルヘルムが囁く。いつかそんな日が来ると確信しているような口ぶりだった。来るわけがないだろう。俺が抱かれたいなどと望むなんて。馬鹿馬鹿しいと思いながらも、俺は鼻で笑うことすら出来なかった。ただひたすらに、顔が熱い。
「……絶対に、そんなこと思わない」
「それならそれでいいよ。ノウェが俺のそばにいてくれるだけで十分だ」
望めば何だって手に入れられるリオライネン皇帝が願うものが、俺がそばにいること、だけだなんて。誰が一体信じるだろうか。滑稽に過ぎる。下らなくて馬鹿話にすらならない。それなのにヴィルヘルムは、真剣にそんなことを言うのだ。
「……っ、……はぁ……、」
息を深く吐き捨てている。ヴィルヘルムの手が上下に動いているのを見て、何をしているかを悟った。ゆっくりと状況を把握していく。俺は今、ヴィルヘルムの執務室にいた。自分でここに駆け込んできたのだ。はっきりと覚えている。そのあと、俺が何をしたのかも。
俺の体は、執務室に置かれた長椅子に横たえられている。眠ったのか、気絶したのかは分からないけれど、しばらくの間ここで横になっていたようだ。体が怠い。起き上がるのも億劫で、目を開いたままじっとしていた。
ヴィルヘルムは、自分自身を慰めている。太く、長いものを必死になって上下に扱いていた。俺がヴィルヘルムをそんな状態にしたのだという自覚はある。ヴィルヘルムは、俺が好きなのだ。
何度も言っていた。言葉でも、態度でも、俺にそう伝えてきていた。もう俺だって身に染みて分かっている。ヴィルヘルムは心底俺のことが好きで、だから俺の胸を舐めたり、後ろの孔に触れるだけで、自分のものを硬くさせてしまうのだ。
ヴィルヘルムは、誓いを破っていない。俺の頭が可笑しくなっている時に、一度も俺の中に自分のものを入れなかった。俺を、抱いていなかった。
俺が錯乱している時であれば、挿入されたとしても俺は気付かなかっただろう。むしろ、腰を振って喜んでいたかもしれない。何も分からなくなるほどに乱れ切った俺になら、何をしても誤魔化せたことだろう。
けれど、ヴィルヘルムはしなかった。
全て、俺が願ったことだ。胸に触れて欲しいと、後ろを弄って欲しいと、俺がそう強請った。俺が願ったことしか、ヴィルヘルムはしなかった。ヴィルヘルム自身の欲望のままに振舞うということを、一切しなかったのだ。
手淫によって、ヴィルヘルムは精を吐き出した。それをハンカチで受け止め、自身を濡らすものたちを拭っている。固かったものは、だらりと垂れ下がって、どうやら蟠りは全て体外へ出たようだった。
「……ごめん」
涙が溢れてくる。声を出したことで、ヴィルヘルムが俺が起きていることに気付いた。慌てて立ち上がり、寛げていたスラックスの前を閉める。そして背の低い机をひとつ挟んだ長椅子に横たわる俺のもとへとやってきた。
「起きていたんだな、ノウェ。すまない。嫌なものを見せた」
「……なんでだよ。ヴィルは何も悪くないだろ。謝るなよ」
「どうしたんだノウェ。泣いてばかりだと目が腫れるぞ」
「仕方ないだろ。勝手に出てくるんだから」
触るなと、あれだけ拒んでおきながらヴィルヘルムに助けて欲しいと縋る自分が情けなかった。縋った結果、ヴィルヘルムは俺を助け、昂ったものを自分で慰めている。そんなことをさせてしまってる罪悪感で、胸が苦しい。
自らの手で自慰をするような皇帝が、どこにいるというのだ。何もかもが手に入って、好きなことを好きなように出来る立場であるというのに。男でも女でも、自分が望む相手に突っ込んで発散すればいいのに。ヴィルヘルムはそれをしない。俺に一途な想いを向けるからだ。
「俺が、あ、あんな風になって……、あんなことを頼んだから、ヴィルはそうなったんだろ」
あんなこと、だとか。そうなった、だとか。直接言葉にすることが憚られるものばかりだった。そんな不明瞭な発言でもしっかりと把握してくれたようで、ヴィルヘルムは小さく笑う。優しいおもてで、困ったように笑うヴィルヘルムを見て俺は言葉を続けた。
「……ヴィルは、悪くない」
ヴィルヘルムのものを直視してしまったけれど、所詮は同じ男同士なのだ。俺の股間にだって同じものがぶらさがっている。見たからと言って、嫌悪感を抱くことは無い。ただ、あれが即位式の夜に俺の中に入ったのか、と妙な感慨を抱いたのは確かだった。
「ノウェは優しいな。お前のせいで毒を口にするはめになった、って責めてくれていいのに」
「ヴィルが俺に毒を盛ったなら責めるけど、そういうわけじゃないんだろ」
「あぁ、もちろんだ。……守りたかった。全ての悪意から、ノウェを守りたかったんだ」
ふいに、どうして俺はこんなにも思ってもらえているのだろうと思った。客観的に見て、ヴィルヘルムは美しい顔をしている。恵まれた体格で、外見においては非の打ち所がない。性格には少々難ありな部分もあるが、根本的に言えば、悪人ではないと思う。
そんな人物が、大国の皇帝になるような人物が、どうして俺なんかに惚れてしまったのだろう。何かの間違いではないのだろうか。物凄く頭を打ったりして、訳が分からなくなっているだとか。そんなことがあったりはしないのだろうか。
「……守れなかったのかもしれないけど、助けてくれただろ」
起こってしまった事実を見れば、確かに俺のことを毒から守ることは出来なかったのかもしれない。けれど、助けてくれた。頭が可笑しくなるような痒みと疼きから、俺を救ってくれた。それは確かなことだった。
「即位式の夜……ヴィルに襲われた時、あの香油に媚薬が入ってるって思ったし、ヴィルもそう言ってたけど……あれ、入ってなかっただろ」
「どうしてそう思うんだ?」
「だって、全然違う。俺が飲んだ毒が、媚薬として利用されることもあるって聞いた。これが媚薬の苦しさだって分かったから……あの夜、ヴィルは媚薬なんて使ってなかったんだ」
あの夜の記憶を思い出すことに、苦痛を感じなくなった。それはきっと、最悪な記憶が更新されたからだ。この毒によって晒す羽目になった己の痴態が、今はヴィルの暴行より上回っている。だからこそ、思い出した。あの夜、香油に媚薬が混じっていると思い込んだ俺の発言を、ヴィルヘルムは否定しなかった。
だが、それは嘘だったのだ。本当の媚薬に苦しめられた俺だからこそ分かる。あれは、媚薬などではなかった。その場の空気と状況に翻弄される肉体に合わせて、脳が必死に快楽を得ようとしていただけのこと。
長椅子に横になったままの俺のそばには、床に座り込んで俺の顔を眺めてくるヴィルヘルムがいる。顔の距離が近い。このまま触れてしまいそうだ。けれど、ヴィルヘルムは絶対に触れてこない。俺が触れて良いと言うまでは。
「媚薬なんていうものは、容易く使うものじゃないんだよ。体だけ気持ちが良くなるなんて、そんな都合の良いものはない。依存性が高いものが多いし、心や体を蝕むこともしばしばある。媚薬などと言って誤魔化しているが、それらは大抵、神経を侵す劇薬なんだ。限度を超えれば、命を奪う。……そんな危険なものをノウェに使うわけがない」
真っすぐに俺を見つめるヴィルヘルムが、触れても良いか、と言って手を伸ばしてきた。どうやら、頭を撫でたいらしい。小さく頷けば、ヴィルの手が俺の頭を撫でて、髪に触れ頬を包む。優しい手だった。
「でもあの夜は、そう伝えた方がノウェが気にしないで済むかなと思って」
「気にしないって、何が?」
「ほら、その……ノウェが、随分と感じていたようだから。薬のせいにした方が、気が楽かと」
もごもごと、口ごもりながらそんな言葉を口にした。一体こいつは何を言っているんだ、と僅かに逡巡する。そしてヴィルが何を言いたいのかを察した。つまり俺は、薬のせいと言った方が辻褄が合うほどに感じ、乱れていたと言うことだ。
「別に感じてなんかない!」
顔が熱くなって、体を勢いよく起こす。長椅子の上に両手をついて、両腕の力だけで上体を上げたのだ。直後、ずっと横になっていた俺の体は立ち眩みに襲われて崩れ落ちる。そんな俺を、ヴィルヘルムが抱きとめてくれた。
「すまない」
何についての謝罪だろうか。今、俺を抱きとめていることだろうか。それとも、即位式の夜の俺を感じていたと評したことだろうか。何の謝罪なのかは分からなかったけれど、ヴィルヘルムはいつも俺に謝ってばかりだなとぼんやり思った。
抱きしめられていても、以前のような嫌悪感は湧いて来ない。抱きしめられたままの状態を許してしまっている。それどころか、その背中に腕を回そうと、一瞬体が動いた。自分の心に訪れた変化に、驚いてしまう。
「ヴィルがして欲しいことがあったら、するから。言って」
少し緊張しながら、そんな言葉を口にした。そんなことを言えば、ヴィルヘルムはきっと抱きたいだの、口付けをしたいだのと言いだすだろう。そう予測を立てていながら、そんな台詞を言ってのけた自分自身が分からなくなる。
罪悪感で胸にぽっかりと開いた穴を、埋めたかったのかもしれない。一方的に救ってもらうばかりで、奉仕をさせておいて、ヴィルヘルムが抱いた熱には無視を決め込む。俺はそれに罪悪を感じていた。だからきっと、そんなことを言ったのだ。
「そばにいてくれるだけでいい」
肩透かしを食らう。微塵も予想していなかった言葉が返ってきた。そばにいてくれるだけでいい。それは言い換えれば、何もしなくて良いということだ。そんなはずはない。ヴィルヘルムは俺に望むことがあるはずなのだ。
「なんでだよ。俺のこと、抱きたいんだろ。口付けだって、したいくせに」
「もちろんしたい。……でも、ノウェが望まないならしなくていい」
初めての時は、俺の同意なんて取らなかったくせに。有無を言わせず、問答無用で押し倒してきたくせに。なんで俺が許すと言っている時には何も求めてこないんだ。悶々とした気持ちになる。どうして俺がこんな気分にならなければいけないのだろう。
「心から、俺に抱かれたいと思ったら、教えて」
俺の耳元でそっとヴィルヘルムが囁く。いつかそんな日が来ると確信しているような口ぶりだった。来るわけがないだろう。俺が抱かれたいなどと望むなんて。馬鹿馬鹿しいと思いながらも、俺は鼻で笑うことすら出来なかった。ただひたすらに、顔が熱い。
「……絶対に、そんなこと思わない」
「それならそれでいいよ。ノウェが俺のそばにいてくれるだけで十分だ」
望めば何だって手に入れられるリオライネン皇帝が願うものが、俺がそばにいること、だけだなんて。誰が一体信じるだろうか。滑稽に過ぎる。下らなくて馬鹿話にすらならない。それなのにヴィルヘルムは、真剣にそんなことを言うのだ。
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