五番目の婚約者

シオ

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「すまない、遅くなった」

 普段であれば、政務を始めている時間だった。少し慌てながら執務室の扉を抜けると、すでに仕事を始めていた書記官たちが立ち上がり、礼の姿勢を取る。俺の到来に気付き、立ちながら書類を読み込んでいたイーヴの視線がこちらを見る。

「お嬢さんはもう良いのか」
「あぁ、朝食を食べたら眠ってしまった。今のところ、後遺症のような症状はなさそうだ」
「そりゃ重畳だな」

 俺の手ずからポリッジを食べていたノウェを思い出す。頬が緩んでしまいそうになった。あの時のノウェの可愛さは異常だった。あんな風に身を委ねて、口を開いてくれるなんて。こんな僥倖にまみえて良いのだろうか。

「だが、食べた直後に眠ってしまったせいで薬湯を飲ませられなかった」
「それくらい、あの侍従が飲ませておいてくれるだろう」

 あの侍従。名を言わなくても分かる。イェルマ=ヴィラ・ロア。ノウェの信頼を欲しいままにする男だった。不愉快な気持ちになる。仕方のないこととはいえ、ノウェが俺よりもあの男を頼りにするのが何よりも嫌だった。怒りを感じながら、執務用の机に就く。

「いや、俺が飲ませに行く。ノウェが目を覚ます頃に一度、席を外させてもらう」

 俺が不在の間はどうせ、イェルマがノウェの面倒をみているのだろう。だが、薬を飲ませるのは俺がしたい。ノウェの体を支え、少しずつその口に薬湯を流し込む役目は、俺のものだ。

「中途半端なことをするなよ、ヴィルヘルム」

 イーヴが静かに声を発する。眼鏡の奥の瞳には、いつも浮かべている軽薄な笑みはなく、静かな怒りが浮いているようだった。

「お嬢さんの世話を焼くのが、お前ひとりしかいない訳でもないんだ。そこに座ったのなら、お前は帝国臣民全ての皇帝。妻ひとりのため、好き勝手に動ける夫の時間は終わりなんだよ」

 幼いころに俺たちは契約を交わした。俺は、ノウェと結婚出来るように。イーヴァンは、俺がイーヴの理想とする皇帝になるように。それぞれに願い、互いの願いを成就させるべく努力した。今の俺は、ノウェとの時間に浮かれて、その契約に反した振舞いをしている。

「……そうだな、すまなかった」

 この部屋は、皇帝の執務室だ。ここにいる以上、俺はイーヴが思い描く通りの皇帝でいなければならない。どうしてもノウェのそばを離れられない状況なのであれば、この部屋に来てはいけなかったのだ。イーヴの言は正しい。俺は中途半端なことをしていた。

「まずはこの新聞だ。野蛮なる皇妃が晩餐会で無礼千万、だそうだ。毒が回ってきたあとに、会場から走って出て行ったお嬢さんの姿が、滑稽に描写されている。随分と詳しく、な」

 俺の目の前に、安く肌触りの悪い紙が差し出された。目の粗い紙には、ノウェを嘲笑する見出しがつけられている。いつの時代にもゴシップ記事というものは存在する。こういった記事に民衆が煽られ、革命が起きたような国だってあった。

「情報の出所はフェルカー侯爵か」
「あぁ。この新聞社にも千眼がいた。実際に、フェルカー侯爵が記者と会話しているのを聞いていたらしい」

 獅子の千眼がそう証言しているのならば、それは真実なのだろう。俺のことを愚弄する記事であれば歯牙にもかけないのだが、ノウェの尊厳を踏みにじるようなものは許す気にならなかった。怒りのまま、記事を握りつぶす。

「この新聞社を潰すことも出来るが?」
「……ノウェが、この低俗な紙切れを目にするとは思えない。放っておけ。こういった記事に価値は無いが、市民の不満がどこに向いているかを知る良い材料になる。今回は、見逃すことにしておく」

 心のままに、新聞社を潰してしまいたいという気持ちはあった。だが、そんな自分自身を必死になだめて、心を鎮めた。この国の一部の民たちは、どうやらノウェの存在を歓迎していないらしい。だが、歓迎されていようがいまいが、俺にとってはどうでも良いことだった。

「それから、フェルカー姉妹お抱えの針子にも、千眼がいた。その針子の情報によれば、姉妹はこの晩餐会をとても楽しみにしていたらしい。招待状も来ていないのに、晩餐会用のドレスを注文していたそうだ」
「姉妹は会場にいたか?」
「いや、いなかった。招待状はフェルカー侯爵と侯爵夫人にしか送っていない。あの姉妹は、宮殿に入ることすら出来ない。だというのに、新しいドレスを誂えてしまうほど、彼女たちにとって喜ばしいことが起こる、……はずだったのかもな」
「なるほど。ノウェの死か」

 導き出せた答えは、それだった。もともと、黒幕の可能性が高かったフェルカー親子だが、獅子の千眼からの情報が集まるたびに、その色を濃くしていく。

「お嬢さんが死んだなら、皇妃の座はアナに移る。だが、開発局でうきうきと銃に触れているアナスタシアの姿を見れば、皇妃になる気など毛頭ないことを察するだろう。そうなれば、次に皇妃になるのは姉のゾフィー・フェルカーだ」

 考えたくもないことがだ、万が一にもノウェが命を落としたとして、そして俺がノウェのあとを追うこともなく生きながらえて皇帝でありつづけていたとしたら、順当に行けば次の皇妃にはアナスタシアがなるのだろう。

 だが、絵にかいたような貴婦人であったアナスタシアはもういない。自分の役目は俺がノウェと結婚するまでの間だ、と言い張ってアナは皇妃の座を拒む。そうなってしまえば、次に皇妃の席に座るのはゾフィー・フェルカーだった。

「ヴィルヘルムが、お嬢さんを守るために、長年お嬢さんに興味がないという姿勢を見せてきたことには効果があったと思う。もし、お嬢さんに惚れまくってるっていう姿を見せていたなら、あの姉妹は必ず五番目の婚約者であったお嬢さんを暗殺しただろう」

 書記官たちがペンを走らせる音しか聞こえないその部屋の中で、イーヴの声が静かに響く。そしてその言葉は、正しく聞こえた。おそらく、そうなっていただろうと俺も思う。

「だが一方で、お前の気持ちを知らないがゆえに、あの姉妹はヴィルがノウェ様に向ける強い執着心に気付いていない。だからこそ、毒を盛るなどという愚行が犯せる。辺境の地から来た異民族の男を殺したところで、皇帝が烈火の如く激怒するなど、予想もしていないんだ」

 慕情をひた隠しにしてきたことが、裏目に出てしまっている。だが、この気持ちを隠し続けなければいけなかったことも、また事実だった。

「ノウェに再び毒牙を向ける前に、殺しておくか」
「待て待て。手を下すにはまだ、決定的な証拠がない。限りなく黒だが、それでも決め手に欠ける。……焦らなくても、いずれ証拠は集まる。獅子の千眼に、死角はない」

 早々に片を付けたがる俺に制止を掛け、イーヴは懐から小さな紙を出す。それらは全て、獅子の千眼から帝都へ送られてきた密告書なのだという。

「フェルカー家の侍女の一人が千眼だった。姉妹にはスラヴィアに文通相手がおり、頻繁に手紙のやり取りをしていたそうだ」
「文通相手……、ね。一体どんな相手なんだろうな」
「今、スラヴィアに送り込んでいる密偵に情報の照会を掛けている。こっちは少し時間が掛かるかもしれないな」

 父親であるフェルカー侯爵は、貿易相手としてスラヴィアと親交を持っている。娘であるフェルカー姉妹は、スラヴィア人と頻繁に文を交わしていた。父が全ての筋書きを書いているのか、逆なのか。はたまた、三人での計略なのか。

「お嬢さんの皿に毒を盛った料理人の妻は、大金が入る予定だと夫が言っていたと証言している。だが、金は銅貨一枚も手に入らず、料理人は命を落とした」
「端金に目が眩んで、ノウェの命を脅かしたんだ。当然の報いだろう」

 死すらぬるい。自らの手で裁きたかった。ゆっくりと殺す。可能な限り、苦しみが続くように手を尽くす。ノウェを害したことが、どれほど罪深いことなのかを骨の髄まで分からせなければ気が済まなかった。

「料理人がその話を持ち掛けられた場所は酒場で、やはりその酒場にも千眼がいた」
「本当にこの国で悪いことは出来ないな」
「先人たちが築き上げてきたものは偉大だよ」

 身寄りのない子供たちを片っ端から育て、見込みのある子どもたちには専門的な知識とリオライネン皇帝への忠誠心を植え付けて世に放つ。そんなことを、もう何十年も繰り返していた。幅広い年代の千眼たちが国の各地に潜んでいる。皇帝からの下問がある日に備えながら、ただの市民として生きている。

「料理人に話しかけ、皇妃の暗殺を持ち掛けた男は、単なる小悪党で、帝都で軽犯罪を繰り返しているような男らしい。そんなやつが、リオライネンでは精製されていない毒を手に入れ、大金を支払って料理人をそそのかした……とは思えない。その小悪党も、フェルカーの指示で動いていたんだろう。そういった人間を間に何人も挟んでいるはずだ」
「……小賢しいことだ」

 小賢しいが、悪事においては常套手段だった。己の手が汚れないように、己の罪が明るみに出ないように。悪いことというのは、そのように慎重に慎重を重ねて行うものだ。

「やはり、スラヴィアが関わっているのか」
「あの毒がリャシュミナである可能性が高い以上、そうなんだろうな」
「単なる侵略行為程度であったら、まだ目を瞑ったものを」

 リオライネンとスラヴィアの国境沿いでは小さな小競り合いなど日常茶飯事だ。侵略を防ぐために軍があり、軍人がいる。その程度であれば俺が関知することもなく、対処されていたことだろう。だが、本当にスラヴィアも一枚噛んでいるのであれば、いきなり俺の喉元に噛みついてきたことになる。許せるわけがなかった。

「失礼」

 扉がノックされ、開かれた。執務室に前触れもなくやって来る人物は少ない。聞こえた声から予想が出来ていたが、入室して来たのはアナスタシアだった。

「こっちに用事があったから、お届け物を頼まれて来たよ」

 軍服姿を見るのにも随分と慣れた。美しく整えられていた髪は、かつてのように緩く巻かれることもなく、簡単に結ばれているだけだった。

「死んでしまった毒見役の人の解剖結果と、生きている方の毒見役の人の経過報告」
「わざわざ悪かったな」
「ついでだから」

 分厚い紙の束が机の上に置かれる。俺はすぐさま、それらに手を伸ばした。ノウェと同じ毒を摂取した者たちの記録に素早く目を通す。

「ノウェ様の様子は?」
「今は落ち着いてる」
「そっか……、良かった」

 小さく息を吐いて安堵したアナスタシアは、ノウェのことをよく気遣ってくれていた。己の願いの為にノウェを犠牲にした罪悪感からなのかは分からないが。ノウェもアナには心を許しているように見える。二人の関係が良好であれば嬉しい。

「フェルカー姉妹なの?」
「姉妹かその親か。もしくは、フェルカー家か。ってとこだな。とはいえまだ、限りなく疑わしい、という段階だ」

 アナの問いに、イーヴが応える。フェルカー家の者の疑いが強いということは、まだこの執務室の中の人間しか知らぬことだ。だというのに、アナがその名を出すということは、彼女にはそんな予感があったのだろう。

「ヴィルの婚約者だった者として、何かあの姉妹に思うことはないか?」
「思うことって言われても……。異常に、ヴィルに執着するなぁ、っていう印象くらいしか……。彼女たちは、皇妃になりたいんじゃなくて、ヴィルと結婚したいっていう感じだった」
「ったく。なんでそこまで惚れこませてるんだよ」

 あの姉妹は俺の妻になりたかったのだとアナは言う。イーヴァンに睨まれるが、俺としても納得がいかなかった。

「身に覚えがない。話したことだって、殆ど無かった」
「それでも好きになっちゃうことってあるんじゃないの。実際、ヴィルだってそうじゃない」

 そう言われてしまうと、俺は何の反論も出来なくなる。確かに、その通りだ。俺は、ろくに話したこともないノウェに一目惚れをして、なんとか結婚したいと今日まで走り続けていたのだ。願う内容は、彼女たちのそれと大差ない。

「……あ、でもなんか。私たちの王子様、とかなんとか、言ってたような」
「王子様? なんだそれは。演劇の見過ぎか?」
「ヴィルのどこか好きなのか、みたいなことを私が聞いたことが一回だけあって。その時、彼女たちはそんなようなことを言ってたの」

 頭の片隅にある記憶を引っ張り出そうと、アナがこめかみに指先を当てながら考える。そうして絞り出された言葉に対し、イーヴは鼻で笑う。リオライネン帝国には、国の制度上、王子というものは存在しない。皇帝の子が即位することなどありえないからだ。だからこそ、王子様などという言葉を口にした彼女たちを、イーヴは滑稽に思っているのだろう。

「ヴィルヘルム殿下は私たちを救ってくれる王子様なんだ、って」


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