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夢を見ていた。
俺の体は小さく、そこはクユセンだった。
俺はまだ一人で馬に乗ることも出来ない子供で、俺の手を乳母でありイェルマの母である女性が引いて歩いている。俺と乳母の視線の先には、蹲って泣いている少女がいた。今の俺より、少しばかり年下だ。十五歳くらいだろうか。
少女は、自分より一回りも年上の男に嫁ぐことが決まり、泣いていたのだ。ロア族間での婚姻だったが、少女は力の弱い家の娘で、力の強い家の男に嫁ぐことになったのだという。少女に拒む権利はなかった。
少女の親は、一人でも食い扶持を減らしたいと思っていた。少女の夫となる男は、子供をたくさん産むことが出来そうな年若い少女を探していた。それぞれの家の利害が一致し、その娘に白羽の矢が立ったのだ。
あんな男と結婚なんてしたくない、と少女は泣いていた。もっと素敵な人と出会うはずだったのだ、とそう嘆いていた。それでも、少女は嫁いで行った。それしか、選択肢がなかったのだ。
それぞれの家の意思が、婚姻の全てだった。当人同士の想いなど、どうでも良かった。今の俺にはそれが分かる。けれど、当時の俺には分からず、可哀想だと呟いた。泣いていた彼女を見て、そう思ったのだ。
「幸せな花嫁なんて、きっと多くはないんですよ」
イェルマの母は、そう言って小さく笑っていた。涙を堪えた笑みのように見えたことを覚えている。フィジェは幸せな花嫁ではなかったの、と尋ねようと思ってやめた。乳母のフィジェが、とても苦しそうにその少女を見ていたから。
なんとなく分かっていた。
フィジェはきっと、幸せな花嫁ではなかったのだ。
「……、……ぅ、ん」
陽光が瞼を貫く。
眩しさから逃れるようにベッドの上で体を動かす。そうして、俺はゆっくりと目を開いた。カーテンの間から差し込む光は、随分と強い。
「……あれ」
疑問を抱いた。いつもであれば、イェルマが俺を起こしに来る時間なのだが、イェルマの姿はどこにもない。あのイェルマに限って寝坊などということはないだろう。
ゆっくりと起き上がって、ベッドの上に座り込む。目を数度擦って、ベッドから降りようとした。直後、驚愕のあまり息を呑む。
ベッドの下で、あの男がまだ寝ていたのだ。クッションに囲まれて、シーツに包まりながら穏やかに寝息を立てている。どういうことだ。どうして、こいつはまだ寝ているんだ。まさか寝坊なのだろうか。
「お、おい! 起きろ!」
俺が起きる頃には、いつももう務めを果たしに行っているか、身支度を整え終えていると言うのに、ぐうすかと眠っている。俺は慌てて声を掛けてしまった。その声で、男の目がゆっくりと開く。
「……おはよう、ノウェ」
「おはようって……お前、いつもなら働きに行ってる時間だろ」
「あぁ、そうだね。でも今日は休みなんだ」
「休み?」
「そう。少し働き詰めだったから」
確かに、こいつは毎日毎日働いていた。皇帝には休日なんてものはないのだろうと思っていたけれど、どうやら今日は休日のようだ。よく寝たおかげなのか、普段よりは顔色がいい。
「心配してくれたんだな。起こしてくれてありがとう」
「……別に、心配とかじゃない」
驚いて焦り、思わず声を掛けてしまっただけだ。いちいち嬉しそうな顔をするこいつのせいで、毒気が抜かれてしまう。床の上に座り込んだ男が、俺を見る。
「今日は二人でゆっくり過ごさないか」
「……なんで俺がお前と過ごさなくちゃいけないんだ」
「ノウェと、親しくなりたいんだ。……こんなこと言える立場じゃないことは分かってる。それでも、俺はノウェを求める心を止められない」
夢の中で見た少女を思い出していた。彼女も、俺のように無理矢理抱かれたのだろうか。もしそうだとしたら、その憎悪をどのように処理したのだろう。諦めたのだろうか。自分は、幸せな花嫁ではないのだと。
「……また馬に乗って良いなら、一緒にいてもいい」
「じゃあ、今日は一緒に馬に乗りに行こう」
胸の中に溜まった空気を、一気に吐き出す。俺は、疲れていた。憎しみを抱き続けることに、俺は疲れていたのだ。憎悪のような重たい感情を体の中に入れておくと、胃の腑がひりついて苦しいのだ。誰も憎みたくなんかない。嫌な感情を抱えている時間は、少しでも少ない方がいい。
「本当に、無体を強いてしまって、すまない……。ありがとう」
目の前の男を見ても、以前のように恐怖で震えることがなくなった。それは、こいつがあれ以降、嫌な意味で触れてこなかったからだ。頭を撫でられたり、といったことは数度あるが、それ以外では徹底していた。
警戒心を抱いていない俺は、この男を許したのだろうか。分からない。自分の心が分からなくて、苦しい。許したくない気持ちと、憎み続けることに疲れ果てている自分がいた。
「まずは食事にしよう」
「……分かった」
空腹は感じていたので、その提案には賛同する。寝台から降りて歩く際に、少しよろめいた。すかさず男の腕が俺を支える。久しぶりに男の熱を感じた。けれど、その腕はすぐに離れた。この男の熱に触れても、俺は怖いとは思わなかった。その理由を、今は深く考えたくない。
「すまない。触れないという約束だったのに」
「別に、今のは……そういうのじゃないだろ。支えてくれただけだ」
そんなことを言うなんて、自分でもどうかしていると思う。けれど、その言葉は脳が思考する前に、反射的に出ていった言葉だった。動き出した俺たちの気配を察したのだろう。ノックをしてから、イェルマが入ってきた。
「おはようございます、ノウェ様」
「おはよう、イェルマ」
イェルマは目の前にいる皇帝のことを無視して、俺にだけ挨拶をした。身支度を整えるため、俺はイェルマに脱いだ寝着を手渡す。腰に巻いた褌と前掛けのような形の胸と腹を覆う下着のみの姿になった。
背中で結ばれた紐をイェルマが解き、寝ている間の汗を吸うための下着が落ちる。上半身が裸になった俺を、男が見ていた。
「こっち見るな」
「……すまない」
男同士だと言うのに、見られていると恥ずかしい。イェルマには全裸を見られても何とも思わないというのに。新しい下着をつけ、再びイェルマに紐を結んでもらう。
本当は全部一人で出来るのだけれど、この国では主人の身支度は侍従が整えるものだと教えられた。だが、それだと矛盾が生まれる。この国で最も地位の高い男は、全て自分で身支度を整えるのだ。
綺麗に洗濯されたデールを纏い、ズボンを履いた。俺がイェルマの手助けを受けながら着替えている間に、男も着替えを終えていた。
服装を整えたのなら、次は髪だ。いつものように部屋に置かれた椅子に俺は座る。そして、そんな俺の背後に立ったイェルマが髪を梳いてくれた。丁寧にそっと櫛を通され、撫でられているような心地になる。
梳かし終わり、赤い髪は高い位置で結い上げられた。不意に、強い視線を感じる。男がこちらに視線を向けており、イェルマを睨んでいたのだ。どうしてもイェルマを敵視しないと気が済まないらしい。
「ノウェ、食事にしよう」
男のそんな声を聞いて、扉がノックされ、侍従たちが入ってくる。彼らは静かに食事の準備を始めた。この国の朝食は、一杯の紅茶から始まる。目の前に置かれた杯に、茶色の液体が注がれた。
「こんなふうに二人で朝食を摂るのは初めてだな」
「お前がいつも朝早くから働いてるからだろ」
「それもそうだ。すまない」
「別に謝って欲しいとは言ってない」
一人で食べる方が気楽だった。どうして、見たくもない顔を見ながら食事をしなければならないのか。温かい紅茶で喉を潤しながら、対面に座る男を少しだけ見た。男は真っ直ぐに俺を見て、幸せそうな顔をしている。
紅茶を飲んだ後は、ポリッジという名の料理が目の前に置かれる。平な皿に盛られたそれは、穀類を牛乳で炊いた粥だ。この国に来るまで食べたことのないものだったが、今では好物になっている。
こちらの文化では、朝食にあれやこれやと少しずつ色々な種類を食べるのだが、正直なことを言えばこのポリッジだけを腹一杯に食べていたい。
「ノウェはポリッジが好きなんだな」
「……食べやすいから」
「それなら、俺の分も食べるといい」
「なんでだよ。お前の分はお前が食べろよ」
「実は俺、この料理が苦手なんだ。べたべたした食感が好かない。食べてもらえると助かる」
俺の様子を見て、好物と看破したのか、自分の分を勧めてきた。きっと俺は、分かりやすい顔でもしていたのだろう。思ったことが顔に出やすいことは自覚していた。少し恥ずかしくなる。
「代わりに、俺の好物のキッパーをもらってもいいか?」
それは、俺の苦手な食べ物だった。得体の知れない魚を燻製にしたもので、とても食べにくいし、全く美味しくない。そもそも俺は幼少期から魚をあまり食べてきていないので、魚料理は全般的に好きになれないのだ。
「お互いの好物を交換しよう」
「……いいけど」
それは、良い提案に思えた。お互いに苦手なものを相手に与え、好きなものをもらう。断る理由が見当たらなかった。
俺の目の前にある空になったポリッジの皿を男が拾い上げ、それと入れ替わりでポリッジが乗った皿が俺の前に置かれる。同様のことが、キッパーでも起こった。
「ノウェは、美味そうに食べるんだな」
男は、そう言って笑った。どうして俺は、こんな普通に食事をしているのだろう。許せなくて、憎いのに。手元にはナイフだって置かれている。食事用で殺傷能力は低いとはいえ、どうして俺はこれを握りしめ、こいつへ向けていないのだろう。
俺の胸を開いて、イェルマに俺の心を確かめて欲しい。俺の心は、正常に動いているのだろうか。憎むことに疲れたとはいえ、警戒心が薄れ過ぎている。憎悪の感情が壊れて、機能していないように思うのだ。
「ノウェと食事ができて、嬉しい」
俺は幸せになれない花嫁で、こいつは最低な花婿だ。でも、最低だったのはあの一晩だけだった。あの夜以外のこいつは、最低と評するほどの悪行を為していない。一度の過ちを、俺は生涯憎んでいくのだろうか。憎んで、いけるのだろうか。
分からない。
分からなくて、苦しかった。
誰か、教えてくれ。
俺はどうすれば、良いのだろう。
俺の体は小さく、そこはクユセンだった。
俺はまだ一人で馬に乗ることも出来ない子供で、俺の手を乳母でありイェルマの母である女性が引いて歩いている。俺と乳母の視線の先には、蹲って泣いている少女がいた。今の俺より、少しばかり年下だ。十五歳くらいだろうか。
少女は、自分より一回りも年上の男に嫁ぐことが決まり、泣いていたのだ。ロア族間での婚姻だったが、少女は力の弱い家の娘で、力の強い家の男に嫁ぐことになったのだという。少女に拒む権利はなかった。
少女の親は、一人でも食い扶持を減らしたいと思っていた。少女の夫となる男は、子供をたくさん産むことが出来そうな年若い少女を探していた。それぞれの家の利害が一致し、その娘に白羽の矢が立ったのだ。
あんな男と結婚なんてしたくない、と少女は泣いていた。もっと素敵な人と出会うはずだったのだ、とそう嘆いていた。それでも、少女は嫁いで行った。それしか、選択肢がなかったのだ。
それぞれの家の意思が、婚姻の全てだった。当人同士の想いなど、どうでも良かった。今の俺にはそれが分かる。けれど、当時の俺には分からず、可哀想だと呟いた。泣いていた彼女を見て、そう思ったのだ。
「幸せな花嫁なんて、きっと多くはないんですよ」
イェルマの母は、そう言って小さく笑っていた。涙を堪えた笑みのように見えたことを覚えている。フィジェは幸せな花嫁ではなかったの、と尋ねようと思ってやめた。乳母のフィジェが、とても苦しそうにその少女を見ていたから。
なんとなく分かっていた。
フィジェはきっと、幸せな花嫁ではなかったのだ。
「……、……ぅ、ん」
陽光が瞼を貫く。
眩しさから逃れるようにベッドの上で体を動かす。そうして、俺はゆっくりと目を開いた。カーテンの間から差し込む光は、随分と強い。
「……あれ」
疑問を抱いた。いつもであれば、イェルマが俺を起こしに来る時間なのだが、イェルマの姿はどこにもない。あのイェルマに限って寝坊などということはないだろう。
ゆっくりと起き上がって、ベッドの上に座り込む。目を数度擦って、ベッドから降りようとした。直後、驚愕のあまり息を呑む。
ベッドの下で、あの男がまだ寝ていたのだ。クッションに囲まれて、シーツに包まりながら穏やかに寝息を立てている。どういうことだ。どうして、こいつはまだ寝ているんだ。まさか寝坊なのだろうか。
「お、おい! 起きろ!」
俺が起きる頃には、いつももう務めを果たしに行っているか、身支度を整え終えていると言うのに、ぐうすかと眠っている。俺は慌てて声を掛けてしまった。その声で、男の目がゆっくりと開く。
「……おはよう、ノウェ」
「おはようって……お前、いつもなら働きに行ってる時間だろ」
「あぁ、そうだね。でも今日は休みなんだ」
「休み?」
「そう。少し働き詰めだったから」
確かに、こいつは毎日毎日働いていた。皇帝には休日なんてものはないのだろうと思っていたけれど、どうやら今日は休日のようだ。よく寝たおかげなのか、普段よりは顔色がいい。
「心配してくれたんだな。起こしてくれてありがとう」
「……別に、心配とかじゃない」
驚いて焦り、思わず声を掛けてしまっただけだ。いちいち嬉しそうな顔をするこいつのせいで、毒気が抜かれてしまう。床の上に座り込んだ男が、俺を見る。
「今日は二人でゆっくり過ごさないか」
「……なんで俺がお前と過ごさなくちゃいけないんだ」
「ノウェと、親しくなりたいんだ。……こんなこと言える立場じゃないことは分かってる。それでも、俺はノウェを求める心を止められない」
夢の中で見た少女を思い出していた。彼女も、俺のように無理矢理抱かれたのだろうか。もしそうだとしたら、その憎悪をどのように処理したのだろう。諦めたのだろうか。自分は、幸せな花嫁ではないのだと。
「……また馬に乗って良いなら、一緒にいてもいい」
「じゃあ、今日は一緒に馬に乗りに行こう」
胸の中に溜まった空気を、一気に吐き出す。俺は、疲れていた。憎しみを抱き続けることに、俺は疲れていたのだ。憎悪のような重たい感情を体の中に入れておくと、胃の腑がひりついて苦しいのだ。誰も憎みたくなんかない。嫌な感情を抱えている時間は、少しでも少ない方がいい。
「本当に、無体を強いてしまって、すまない……。ありがとう」
目の前の男を見ても、以前のように恐怖で震えることがなくなった。それは、こいつがあれ以降、嫌な意味で触れてこなかったからだ。頭を撫でられたり、といったことは数度あるが、それ以外では徹底していた。
警戒心を抱いていない俺は、この男を許したのだろうか。分からない。自分の心が分からなくて、苦しい。許したくない気持ちと、憎み続けることに疲れ果てている自分がいた。
「まずは食事にしよう」
「……分かった」
空腹は感じていたので、その提案には賛同する。寝台から降りて歩く際に、少しよろめいた。すかさず男の腕が俺を支える。久しぶりに男の熱を感じた。けれど、その腕はすぐに離れた。この男の熱に触れても、俺は怖いとは思わなかった。その理由を、今は深く考えたくない。
「すまない。触れないという約束だったのに」
「別に、今のは……そういうのじゃないだろ。支えてくれただけだ」
そんなことを言うなんて、自分でもどうかしていると思う。けれど、その言葉は脳が思考する前に、反射的に出ていった言葉だった。動き出した俺たちの気配を察したのだろう。ノックをしてから、イェルマが入ってきた。
「おはようございます、ノウェ様」
「おはよう、イェルマ」
イェルマは目の前にいる皇帝のことを無視して、俺にだけ挨拶をした。身支度を整えるため、俺はイェルマに脱いだ寝着を手渡す。腰に巻いた褌と前掛けのような形の胸と腹を覆う下着のみの姿になった。
背中で結ばれた紐をイェルマが解き、寝ている間の汗を吸うための下着が落ちる。上半身が裸になった俺を、男が見ていた。
「こっち見るな」
「……すまない」
男同士だと言うのに、見られていると恥ずかしい。イェルマには全裸を見られても何とも思わないというのに。新しい下着をつけ、再びイェルマに紐を結んでもらう。
本当は全部一人で出来るのだけれど、この国では主人の身支度は侍従が整えるものだと教えられた。だが、それだと矛盾が生まれる。この国で最も地位の高い男は、全て自分で身支度を整えるのだ。
綺麗に洗濯されたデールを纏い、ズボンを履いた。俺がイェルマの手助けを受けながら着替えている間に、男も着替えを終えていた。
服装を整えたのなら、次は髪だ。いつものように部屋に置かれた椅子に俺は座る。そして、そんな俺の背後に立ったイェルマが髪を梳いてくれた。丁寧にそっと櫛を通され、撫でられているような心地になる。
梳かし終わり、赤い髪は高い位置で結い上げられた。不意に、強い視線を感じる。男がこちらに視線を向けており、イェルマを睨んでいたのだ。どうしてもイェルマを敵視しないと気が済まないらしい。
「ノウェ、食事にしよう」
男のそんな声を聞いて、扉がノックされ、侍従たちが入ってくる。彼らは静かに食事の準備を始めた。この国の朝食は、一杯の紅茶から始まる。目の前に置かれた杯に、茶色の液体が注がれた。
「こんなふうに二人で朝食を摂るのは初めてだな」
「お前がいつも朝早くから働いてるからだろ」
「それもそうだ。すまない」
「別に謝って欲しいとは言ってない」
一人で食べる方が気楽だった。どうして、見たくもない顔を見ながら食事をしなければならないのか。温かい紅茶で喉を潤しながら、対面に座る男を少しだけ見た。男は真っ直ぐに俺を見て、幸せそうな顔をしている。
紅茶を飲んだ後は、ポリッジという名の料理が目の前に置かれる。平な皿に盛られたそれは、穀類を牛乳で炊いた粥だ。この国に来るまで食べたことのないものだったが、今では好物になっている。
こちらの文化では、朝食にあれやこれやと少しずつ色々な種類を食べるのだが、正直なことを言えばこのポリッジだけを腹一杯に食べていたい。
「ノウェはポリッジが好きなんだな」
「……食べやすいから」
「それなら、俺の分も食べるといい」
「なんでだよ。お前の分はお前が食べろよ」
「実は俺、この料理が苦手なんだ。べたべたした食感が好かない。食べてもらえると助かる」
俺の様子を見て、好物と看破したのか、自分の分を勧めてきた。きっと俺は、分かりやすい顔でもしていたのだろう。思ったことが顔に出やすいことは自覚していた。少し恥ずかしくなる。
「代わりに、俺の好物のキッパーをもらってもいいか?」
それは、俺の苦手な食べ物だった。得体の知れない魚を燻製にしたもので、とても食べにくいし、全く美味しくない。そもそも俺は幼少期から魚をあまり食べてきていないので、魚料理は全般的に好きになれないのだ。
「お互いの好物を交換しよう」
「……いいけど」
それは、良い提案に思えた。お互いに苦手なものを相手に与え、好きなものをもらう。断る理由が見当たらなかった。
俺の目の前にある空になったポリッジの皿を男が拾い上げ、それと入れ替わりでポリッジが乗った皿が俺の前に置かれる。同様のことが、キッパーでも起こった。
「ノウェは、美味そうに食べるんだな」
男は、そう言って笑った。どうして俺は、こんな普通に食事をしているのだろう。許せなくて、憎いのに。手元にはナイフだって置かれている。食事用で殺傷能力は低いとはいえ、どうして俺はこれを握りしめ、こいつへ向けていないのだろう。
俺の胸を開いて、イェルマに俺の心を確かめて欲しい。俺の心は、正常に動いているのだろうか。憎むことに疲れたとはいえ、警戒心が薄れ過ぎている。憎悪の感情が壊れて、機能していないように思うのだ。
「ノウェと食事ができて、嬉しい」
俺は幸せになれない花嫁で、こいつは最低な花婿だ。でも、最低だったのはあの一晩だけだった。あの夜以外のこいつは、最低と評するほどの悪行を為していない。一度の過ちを、俺は生涯憎んでいくのだろうか。憎んで、いけるのだろうか。
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分からなくて、苦しかった。
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