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ロア族の族長の承諾も得ずに、こんなことはしませんよ。
かつてあの男は、俺にそう言った。その言葉の真偽を確かめる手段を俺は持ち合わせていない。だが、信じたくないと思った。
けれど、ノウェ様はきっとあの男の言葉を信じてしまっている。ヌアド様が族長として、ノウェ様を皇妃にする選択をし、それをノウェ様に隠したままリオライネンへ送り出した。そう、信じているのだ。俺はそれが真実でないことを心の底から祈っている。
「……今日は久々に、女の人とたくさん話したな」
それはノウェ様の独り言。囁いた声は小さく、扉越しでくぐもって聞こえたけれど、俺の耳はしっかりとそれを拾い上げる。ノウェ様の声は、ひとつたりとも聞き逃したくはなかった。
ノウェ様は入浴をされており、俺はそれを湯殿の外から見守っているところだった。見守ると言っても、その姿が見えるわけではない。だが、聞こえる水音やノウェ様の声で大凡の様子は掴める。
「俺、この八年間ずっとイェルマとだけ話してた気がする」
「退屈でしたでしょう」
「そんなことない。イェルマと一緒にいる時が、一番落ち着くから好きだよ」
饒舌ではないことは理解している。愉快な話なんて出来ない。表情だって固く、無表情だと言われることが多い。だと言うのに、ノウェ様が俺と共に過ごす時を好いていると言ってくださった。
幸せだった。ノウェ様にそんな言葉を頂けるなんて、僥倖としか言いようがない。表情が乏しいという評を俺はよく受けるが、それでも今だけは口元が緩んでいるのを自分でも感じる。
「……俺さ、帰れないかもしれない」
あれだけ帰りたいと願い続けたノウェ様が漏らした弱音。そんな言葉がノウェ様の口から出たのは、イーヴァン・ダレルの話を聞いたせいだと言うのは明確だった。ノウェ様の胸に不安なお気持ちが湧いているのだ。
族長ご本人に尋ねられない以上、あの男の発言の真偽は不明のままだ。だが、口から生まれたような男の言を完全に信じる気には、やはりなれない。
「なぁ、イェルマだけでも帰る?」
どうすれば正しい情報を知ることが出来るだろう。そんなことを思案していた俺の耳に信じられない言葉が飛び込んできた。体が震える。言葉を受け取った己の耳を疑った。
「……俺はもう、不要でしょうか」
ノウェ様は皇帝に対し、俺を引き離したら舌を噛み切ると脅したことがある。俺はノウェ様に大切にして頂いてたのだ。だと言うのに、一人で帰ることを提案されるなんて。傷つかなかったと言えば、嘘になる。だが、俺がノウェ様にとって不要なら引き下がるべきなのだろう。
「そんなわけないだろ。一緒にいて欲しいよ。ずっと、一緒にいて欲しい。……でも俺、帰れないかもしれないんだぞ。イェルマだって、故郷に帰りたいだろ」
「俺はノウェ様のおそばを離れません」
「良いのか……? 二度と、帰れないかもしれないのに」
「構いません」
俺を思っての言葉だった。良かった、と心の底から安堵する。二度と故郷へ帰れないかもしれない己の身を思って、俺に気遣いの言葉を掛けて下さったのだ。
帰れなくてもいい。俺は、ノウェ様のそばにいたい。それ以外の望みは何も持っていないのだ。
「……ありがとう、イェルマ」
もしかしたら、ノウェ様は泣いていたかもしれない。耳に届いた音は涙声に聞こえた。俺の勘違いかもしれないが。
湯から上がる音が聞こえ、扉が開く。一糸纏わぬ姿のノウェ様に布を掛ける。そして、体を拭きながらその体の隅々まで確認していった。信じ難い暴力によってつけられた憎々しい傷や痣は全て消えている。
もともと、ロア族には入浴の文化がなかった。数日に一度、川で水浴びをして身を清めたり、濡れた布で体を拭いたりといった程度の行為は行うが、湯船に湯を張り、身を浸すようなことはしなかった。
だが、この国へ連れられてきた後にノウェ様に付けられた家庭教師によってノウェ様は入浴の文化を教え込まれた。この国の慣習に馴染むために宛てがわれた家庭教師で、入浴以外にも食事のマナーや言葉遣いなどの指導も受けている。
ロア族は、リオライネン帝国で使用されるリオネル語をある程度理解しており、会話も可能な者が多い。だが、それでは足りないと、より流暢になるように矯正された。今となっては、ノウェ様はリオネル語で寝言を言うほどだ。
濡れたまま立ち尽くしている主人を、従者が全身くまなく拭いていく。それもこの国で教えられたことだった。本当は、主人の体を従者が隅々まで洗うのだが、それだけは嫌だと言ってノウェ様はさせて下さらない。
ある程度拭き終えたところで、ノウェ様は寝着を着た。そして、浴室の扉を開けて続く寝室へ。ノウェ様は大きな椅子に腰を下ろし、俺が用意しておいた冷たい花茶で喉を潤す。そんなノウェ様の髪を、俺が入念に拭いて乾かしていく。
それはいつもの風景だった。俺とノウェ様の変わらない、穏やかな毎日。俺は、こんな日々が永遠に続いてくれるのなら、クユセンだろうとリオライネンであろうと、どちらでもいい。俺の願いは、変わらないこと。ノウェ様の一番が俺であること。
「さっき、サリのことを考えていたんだ」
「……サリ様のことを?」
「あぁ」
サリ=ジュ・ロア様。母親が異なるノウェ様の弟君だった。族長であるヌアド様の末子であり、次期族長とされている方。ノウェ様の言葉に耳を傾けながら、水を吸って重たくなった長い髪を布で包み、しっかりと拭いていく。
「俺が十八だから、サリは十三だろ。もしかしたら背とか抜かされてるかも」
「確かに、幼い頃よりサリ様は背が高くいらっしゃいましたね」
「っていうか、基本的に一族みんな男は背が高い奴の方が多いよな。……こんな身長低いの俺くらいだった」
確かに、ノウェ様はロア族の中では小柄な方だった。事実であるが故に、否定できない。きっとノウェ様も否定して欲しくてそんなことを言っているわけではないのだろう。
「俺が貧弱だったから、きっとこんなところにいるんだろうな」
「そんなことはありません」
「そんなことあるだろ。俺が強くて、立派な男なら、父さんだって俺を次期族長にしたはずだ。でもそうはならなかった。だから、……こんなところに捨てられたんだ」
小柄であることと、今、リオライネンの皇妃になっていることは全くの別問題だ。咄嗟に否定の言葉を口にするが、けれどノウェ様は諦念を孕んだ眼差しで首を緩く左右に振るだけだった。
「俺には、あの内務卿の話が信じられません」
「え……?」
「確かに族長は、ノウェ様のお体が小さいことなどに悩まれている節はあったように思います。けれど、それでもノウェ様を深く愛しておられました。ノウェ様が不要になったから異国の地に捨て置くなど、考えられません」
「……でも、実際にはそうなってるだろ」
「何かの間違いかもしれません」
他国に捨てるなどと、あのヌアド様がそんなことをする訳がない。承知していたとしても、それはヌアド様の本意ではなかったのかもしれない。族長が取りまとめている氏族長たちの意見が、多数決で通ってしまった可能性だってある。
「ありがとう、イェルマ」
俺は本気で言っているのに、どうやらノウェ様は俺の発言を慰めだと思っているようだった。俺の言葉には何の根拠もない。慰めで言われている言葉だと思われてしまっても、反論のしようがなかった。
「髪も切ろうかな、邪魔だし」
驚きのあまり、息を飲む。男の長髪は、ジュ・ロアの血を持つ者しか許されていない。長い髪は、彼らの誇りだった。ノウェ様だって、赤く長い髪をずっと大切にしてこられたのだ。
それを切り落とすと言うのは、諦め以外の何物でもない。決別とも言える。自分を捨てたロア族との別れを、ノウェ様は考えているのだ。それだけは、やめて欲しかった。
「俺は、ノウェ様の髪をこれからも乾かしたり、結ったりしたいです」
「……イェルマ」
「ノウェ様の髪が好きです」
俺が洗い、乾かし、梳かし、結ってきた。誰に咎められることなく、ノウェ様に触れることが出来る機会だったのだ。あの時間を、失いたくない。
「……じゃあ、もう少し……、このままでいる」
「ありがとうございます」
俺の願いを聞き入れてくれたノウェ様に、感謝を伝えた。すると、椅子に座っていたノウェ様が立ち上がり、椅子から一歩外れた場所で俺の方を向いて、そして抱きついてきた。
「……ごめん、少しだけこうしてていい?」
「えぇ、もちろん」
平静を装ってはいるが、心臓が止まりそうだ。鼓動が早くなってノウェ様に怪しまれないように、必死になって落ち着かせる。抱きついてきても、ノウェ様の頭は俺の胸元の下あたりにまでしか来ていない。本当に小さく、可愛らしい方だった。
気付いた時には、その頭をそっと撫でてしまっていた。しまった、と思った時にはもう遅い。手触りの良い赤髪に、形の良いその頭に、俺の手は張り付いて離すことが出来ない。撫でていると、ノウェ様が嬉しそうに微笑む。
「俺、イェルマにそうやってされるの好き」
屈託なく笑ってそう言うノウェ様は、年不相応な幼さがあった。十歳の時より、外部との接触が極端に少なかったため、精神的に未熟なところが多いのだ。だからこそ、愛らしいと思ってしまう。永遠に、俺だけのノウェ様であったら良いのに。
「ありがとう」
「……もう良いんですか?」
「あぁ。十分。こういうところをあいつに見られたら、また怒らせちゃうし」
あの男を気遣って、ノウェ様が俺から離れていく。気に食わない。俺の胸に沸いたのは、汚泥のような悋気と憎悪。
「怒らせておけば良いですよ」
離れていくノウェ様の腰に手を回し、強く引いた。片腕は腰に。もう片方の腕は背中に。引き寄せたノウェ様の体をしっかりと抱きしめる。小さな頭に己の鼻先をつけて、全身でノウェ様を感じた。
「貴方のことは、俺が必ず守ります。ずっと、おそばに置いてください」
「イェルマがもう嫌だって言わない限りは、ずっとそばにいて欲しいよ」
ノウェ様のそばを離れたいと願う日など、永遠に来ない。俺にはそれが分かっている。こんな場所から抜け出して、クユセンにも帰らず、二人だけでひっそりと暮らしたい。そんな愚かなことを、本気で願ってしまった。
俺の腕の中で小さくあくびをしたノウェ様を寝台に案内する。横になるノウェ様にシーツをかけた。辛うじて開いている両目は、数秒後には閉じてしまいそうで、夢の中に片足突っ込んでいることは明らかだ。
「……クッション、もう一個置いておこうかな」
「もう十分でしょう」
「そう……かな」
夢か現かも分からないような状況で、あの男のことを心配している。床で寝続ける奇妙な王のことを心配しているのだ。お優しいノウェ様。だが、これ以上あの男を気にかけるのはやめて頂きたい。
「今日は大変な一日でしたね。体も心も疲れ切っていると思います。もう、おやすみください」
「……うん……おやすみ、イェルマ」
穏やかな寝息が聞こえる。静かに上下する胸を確認して、俺はもう一度だけそっとノウェ様を頭を撫でた。大切な主人であり、最愛の弟。俺の全て。
「おやすみなさいませ、ノウェ様」
部屋の中に点在するランプの光を絞り、部屋全体を暗くする。このランプは、石油という特殊な油を使っているそうで、随分と長い間、火を灯し続けるのだ。ノウェ様が幸せな夢を見られることを祈って、部屋を出る。
「分不相応なのでは?」
扉の向こうには、イーヴァン・ダレルが立っていた。静かに後ろ手で扉を閉じ、俺はその男に対峙する。
「ただの従者でしかない者が己の主人を抱擁するなど、身を弁えぬ振る舞いだと思いますが」
「この部屋には覗き穴でもついているのか?」
「会話の流れと聞こえる音で、何が行われているかくらいは察することが出来ますよ」
確かに、それだけの情報があれば部屋の中で起こっていることを察することは可能だろう。だが、この男のことだ。実際に覗き穴が作られていたとしても、俺は驚かない。
「ノウェ様と俺は、乳兄弟だった。家族のようなものだ。家族との抱擁くらい、めくじらを立てるようなことではないと思うが?」
「ただの乳兄弟なら、その言い訳も通用したことでしょう。でもあの方はこのリオライネンの皇妃ですよ。無用に触れるのは感心しません。それも、特別な好意を持つ貴方が触れるというのは……、尚のこと、看過できませんね」
一歩一歩距離を詰めて、じわりじわりと粘性の高い言葉を吐き出す。この男は、毒蛇のような気配を持っていた。男が俺の耳元でそっと囁く。
「これからもノウェ様の侍従でいたいのであれば、その胸の中にある気持ちを殺すことです」
それだけを口にして、男は去っていった。静かな宮殿内に、男の靴音が響く。廊下には無数のランプが設置されているが、それでも昼ほどの明るさはない。男の姿はすぐに闇の中へ消えていった。
「……できるのなら、そうしてる」
かつてあの男は、俺にそう言った。その言葉の真偽を確かめる手段を俺は持ち合わせていない。だが、信じたくないと思った。
けれど、ノウェ様はきっとあの男の言葉を信じてしまっている。ヌアド様が族長として、ノウェ様を皇妃にする選択をし、それをノウェ様に隠したままリオライネンへ送り出した。そう、信じているのだ。俺はそれが真実でないことを心の底から祈っている。
「……今日は久々に、女の人とたくさん話したな」
それはノウェ様の独り言。囁いた声は小さく、扉越しでくぐもって聞こえたけれど、俺の耳はしっかりとそれを拾い上げる。ノウェ様の声は、ひとつたりとも聞き逃したくはなかった。
ノウェ様は入浴をされており、俺はそれを湯殿の外から見守っているところだった。見守ると言っても、その姿が見えるわけではない。だが、聞こえる水音やノウェ様の声で大凡の様子は掴める。
「俺、この八年間ずっとイェルマとだけ話してた気がする」
「退屈でしたでしょう」
「そんなことない。イェルマと一緒にいる時が、一番落ち着くから好きだよ」
饒舌ではないことは理解している。愉快な話なんて出来ない。表情だって固く、無表情だと言われることが多い。だと言うのに、ノウェ様が俺と共に過ごす時を好いていると言ってくださった。
幸せだった。ノウェ様にそんな言葉を頂けるなんて、僥倖としか言いようがない。表情が乏しいという評を俺はよく受けるが、それでも今だけは口元が緩んでいるのを自分でも感じる。
「……俺さ、帰れないかもしれない」
あれだけ帰りたいと願い続けたノウェ様が漏らした弱音。そんな言葉がノウェ様の口から出たのは、イーヴァン・ダレルの話を聞いたせいだと言うのは明確だった。ノウェ様の胸に不安なお気持ちが湧いているのだ。
族長ご本人に尋ねられない以上、あの男の発言の真偽は不明のままだ。だが、口から生まれたような男の言を完全に信じる気には、やはりなれない。
「なぁ、イェルマだけでも帰る?」
どうすれば正しい情報を知ることが出来るだろう。そんなことを思案していた俺の耳に信じられない言葉が飛び込んできた。体が震える。言葉を受け取った己の耳を疑った。
「……俺はもう、不要でしょうか」
ノウェ様は皇帝に対し、俺を引き離したら舌を噛み切ると脅したことがある。俺はノウェ様に大切にして頂いてたのだ。だと言うのに、一人で帰ることを提案されるなんて。傷つかなかったと言えば、嘘になる。だが、俺がノウェ様にとって不要なら引き下がるべきなのだろう。
「そんなわけないだろ。一緒にいて欲しいよ。ずっと、一緒にいて欲しい。……でも俺、帰れないかもしれないんだぞ。イェルマだって、故郷に帰りたいだろ」
「俺はノウェ様のおそばを離れません」
「良いのか……? 二度と、帰れないかもしれないのに」
「構いません」
俺を思っての言葉だった。良かった、と心の底から安堵する。二度と故郷へ帰れないかもしれない己の身を思って、俺に気遣いの言葉を掛けて下さったのだ。
帰れなくてもいい。俺は、ノウェ様のそばにいたい。それ以外の望みは何も持っていないのだ。
「……ありがとう、イェルマ」
もしかしたら、ノウェ様は泣いていたかもしれない。耳に届いた音は涙声に聞こえた。俺の勘違いかもしれないが。
湯から上がる音が聞こえ、扉が開く。一糸纏わぬ姿のノウェ様に布を掛ける。そして、体を拭きながらその体の隅々まで確認していった。信じ難い暴力によってつけられた憎々しい傷や痣は全て消えている。
もともと、ロア族には入浴の文化がなかった。数日に一度、川で水浴びをして身を清めたり、濡れた布で体を拭いたりといった程度の行為は行うが、湯船に湯を張り、身を浸すようなことはしなかった。
だが、この国へ連れられてきた後にノウェ様に付けられた家庭教師によってノウェ様は入浴の文化を教え込まれた。この国の慣習に馴染むために宛てがわれた家庭教師で、入浴以外にも食事のマナーや言葉遣いなどの指導も受けている。
ロア族は、リオライネン帝国で使用されるリオネル語をある程度理解しており、会話も可能な者が多い。だが、それでは足りないと、より流暢になるように矯正された。今となっては、ノウェ様はリオネル語で寝言を言うほどだ。
濡れたまま立ち尽くしている主人を、従者が全身くまなく拭いていく。それもこの国で教えられたことだった。本当は、主人の体を従者が隅々まで洗うのだが、それだけは嫌だと言ってノウェ様はさせて下さらない。
ある程度拭き終えたところで、ノウェ様は寝着を着た。そして、浴室の扉を開けて続く寝室へ。ノウェ様は大きな椅子に腰を下ろし、俺が用意しておいた冷たい花茶で喉を潤す。そんなノウェ様の髪を、俺が入念に拭いて乾かしていく。
それはいつもの風景だった。俺とノウェ様の変わらない、穏やかな毎日。俺は、こんな日々が永遠に続いてくれるのなら、クユセンだろうとリオライネンであろうと、どちらでもいい。俺の願いは、変わらないこと。ノウェ様の一番が俺であること。
「さっき、サリのことを考えていたんだ」
「……サリ様のことを?」
「あぁ」
サリ=ジュ・ロア様。母親が異なるノウェ様の弟君だった。族長であるヌアド様の末子であり、次期族長とされている方。ノウェ様の言葉に耳を傾けながら、水を吸って重たくなった長い髪を布で包み、しっかりと拭いていく。
「俺が十八だから、サリは十三だろ。もしかしたら背とか抜かされてるかも」
「確かに、幼い頃よりサリ様は背が高くいらっしゃいましたね」
「っていうか、基本的に一族みんな男は背が高い奴の方が多いよな。……こんな身長低いの俺くらいだった」
確かに、ノウェ様はロア族の中では小柄な方だった。事実であるが故に、否定できない。きっとノウェ様も否定して欲しくてそんなことを言っているわけではないのだろう。
「俺が貧弱だったから、きっとこんなところにいるんだろうな」
「そんなことはありません」
「そんなことあるだろ。俺が強くて、立派な男なら、父さんだって俺を次期族長にしたはずだ。でもそうはならなかった。だから、……こんなところに捨てられたんだ」
小柄であることと、今、リオライネンの皇妃になっていることは全くの別問題だ。咄嗟に否定の言葉を口にするが、けれどノウェ様は諦念を孕んだ眼差しで首を緩く左右に振るだけだった。
「俺には、あの内務卿の話が信じられません」
「え……?」
「確かに族長は、ノウェ様のお体が小さいことなどに悩まれている節はあったように思います。けれど、それでもノウェ様を深く愛しておられました。ノウェ様が不要になったから異国の地に捨て置くなど、考えられません」
「……でも、実際にはそうなってるだろ」
「何かの間違いかもしれません」
他国に捨てるなどと、あのヌアド様がそんなことをする訳がない。承知していたとしても、それはヌアド様の本意ではなかったのかもしれない。族長が取りまとめている氏族長たちの意見が、多数決で通ってしまった可能性だってある。
「ありがとう、イェルマ」
俺は本気で言っているのに、どうやらノウェ様は俺の発言を慰めだと思っているようだった。俺の言葉には何の根拠もない。慰めで言われている言葉だと思われてしまっても、反論のしようがなかった。
「髪も切ろうかな、邪魔だし」
驚きのあまり、息を飲む。男の長髪は、ジュ・ロアの血を持つ者しか許されていない。長い髪は、彼らの誇りだった。ノウェ様だって、赤く長い髪をずっと大切にしてこられたのだ。
それを切り落とすと言うのは、諦め以外の何物でもない。決別とも言える。自分を捨てたロア族との別れを、ノウェ様は考えているのだ。それだけは、やめて欲しかった。
「俺は、ノウェ様の髪をこれからも乾かしたり、結ったりしたいです」
「……イェルマ」
「ノウェ様の髪が好きです」
俺が洗い、乾かし、梳かし、結ってきた。誰に咎められることなく、ノウェ様に触れることが出来る機会だったのだ。あの時間を、失いたくない。
「……じゃあ、もう少し……、このままでいる」
「ありがとうございます」
俺の願いを聞き入れてくれたノウェ様に、感謝を伝えた。すると、椅子に座っていたノウェ様が立ち上がり、椅子から一歩外れた場所で俺の方を向いて、そして抱きついてきた。
「……ごめん、少しだけこうしてていい?」
「えぇ、もちろん」
平静を装ってはいるが、心臓が止まりそうだ。鼓動が早くなってノウェ様に怪しまれないように、必死になって落ち着かせる。抱きついてきても、ノウェ様の頭は俺の胸元の下あたりにまでしか来ていない。本当に小さく、可愛らしい方だった。
気付いた時には、その頭をそっと撫でてしまっていた。しまった、と思った時にはもう遅い。手触りの良い赤髪に、形の良いその頭に、俺の手は張り付いて離すことが出来ない。撫でていると、ノウェ様が嬉しそうに微笑む。
「俺、イェルマにそうやってされるの好き」
屈託なく笑ってそう言うノウェ様は、年不相応な幼さがあった。十歳の時より、外部との接触が極端に少なかったため、精神的に未熟なところが多いのだ。だからこそ、愛らしいと思ってしまう。永遠に、俺だけのノウェ様であったら良いのに。
「ありがとう」
「……もう良いんですか?」
「あぁ。十分。こういうところをあいつに見られたら、また怒らせちゃうし」
あの男を気遣って、ノウェ様が俺から離れていく。気に食わない。俺の胸に沸いたのは、汚泥のような悋気と憎悪。
「怒らせておけば良いですよ」
離れていくノウェ様の腰に手を回し、強く引いた。片腕は腰に。もう片方の腕は背中に。引き寄せたノウェ様の体をしっかりと抱きしめる。小さな頭に己の鼻先をつけて、全身でノウェ様を感じた。
「貴方のことは、俺が必ず守ります。ずっと、おそばに置いてください」
「イェルマがもう嫌だって言わない限りは、ずっとそばにいて欲しいよ」
ノウェ様のそばを離れたいと願う日など、永遠に来ない。俺にはそれが分かっている。こんな場所から抜け出して、クユセンにも帰らず、二人だけでひっそりと暮らしたい。そんな愚かなことを、本気で願ってしまった。
俺の腕の中で小さくあくびをしたノウェ様を寝台に案内する。横になるノウェ様にシーツをかけた。辛うじて開いている両目は、数秒後には閉じてしまいそうで、夢の中に片足突っ込んでいることは明らかだ。
「……クッション、もう一個置いておこうかな」
「もう十分でしょう」
「そう……かな」
夢か現かも分からないような状況で、あの男のことを心配している。床で寝続ける奇妙な王のことを心配しているのだ。お優しいノウェ様。だが、これ以上あの男を気にかけるのはやめて頂きたい。
「今日は大変な一日でしたね。体も心も疲れ切っていると思います。もう、おやすみください」
「……うん……おやすみ、イェルマ」
穏やかな寝息が聞こえる。静かに上下する胸を確認して、俺はもう一度だけそっとノウェ様を頭を撫でた。大切な主人であり、最愛の弟。俺の全て。
「おやすみなさいませ、ノウェ様」
部屋の中に点在するランプの光を絞り、部屋全体を暗くする。このランプは、石油という特殊な油を使っているそうで、随分と長い間、火を灯し続けるのだ。ノウェ様が幸せな夢を見られることを祈って、部屋を出る。
「分不相応なのでは?」
扉の向こうには、イーヴァン・ダレルが立っていた。静かに後ろ手で扉を閉じ、俺はその男に対峙する。
「ただの従者でしかない者が己の主人を抱擁するなど、身を弁えぬ振る舞いだと思いますが」
「この部屋には覗き穴でもついているのか?」
「会話の流れと聞こえる音で、何が行われているかくらいは察することが出来ますよ」
確かに、それだけの情報があれば部屋の中で起こっていることを察することは可能だろう。だが、この男のことだ。実際に覗き穴が作られていたとしても、俺は驚かない。
「ノウェ様と俺は、乳兄弟だった。家族のようなものだ。家族との抱擁くらい、めくじらを立てるようなことではないと思うが?」
「ただの乳兄弟なら、その言い訳も通用したことでしょう。でもあの方はこのリオライネンの皇妃ですよ。無用に触れるのは感心しません。それも、特別な好意を持つ貴方が触れるというのは……、尚のこと、看過できませんね」
一歩一歩距離を詰めて、じわりじわりと粘性の高い言葉を吐き出す。この男は、毒蛇のような気配を持っていた。男が俺の耳元でそっと囁く。
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