五番目の婚約者

シオ

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 朝も早い時間から男は執務室へと去っていった。俺が目を覚ました時には、もう部屋には誰もおらず、クッションとシーツは綺麗に片付けられていた。

 ゆっくりと起き出した俺は、のんびり身支度を整え、イェルマの手によって用意された食事を摂る。食後のお茶を差し出された時に、俺はぽつりと言葉を漏らした。

「……馬に乗って良いって言われたんだ」

 昨夜のことを思い出す。あの男はそう言っていた。俺はあの男に何も許していないのに、俺の願いは受け入れてくれた。そのことが俺の心にもやを掛ける。まるで、罪悪感でも抱いているようだ。

「はい。私も朝、内務卿からその報せを受けました」
「でも俺……、あいつをまだ床で寝かせてるのに」
「それが本人の意思なのでしょう」
「……良いのかな」

 本人の意思と言ってしまえば、そうなのかもしれない。俺は何度も他の場所で寝ることを勧めた。俺が別室へ行ってもいいし、あいつが別室で寝てもいい。どうしても同じ部屋が良いというのなら、もう一つ寝台を持って来て寝れば良い、と。それでもあいつは頑なだった。

「ノウェ様は、あの男のことをお許しになられたのですか?」
「許してない!」

 反射的に大きな声が出る。あまりの大きさに俺は驚いてしまった。イェルマはいつも通りの冷静な目で、じっと俺を見ている。

「……許せない。許すわけがない」
「では、床で寝かせておけば宜しいかと」
「そう……だよな」

 罪悪感を抱くのは、俺じゃない。酷いことをしたのはあいつなのだ。俺は許さない。まるで言い聞かせるように己の中で唱え続けた。そんな時、扉をノックして部屋に入って来たのはイーヴァンだった。おはようございます、と一言挨拶した後に、彼はすぐさま本題へと入る。

「陛下がお許しになりましたので、乗馬が可能な場所へとお連れします」

 本当に俺の願いを叶えてくれるのだ、と少し驚いた。そういえば、宮殿では馬を走らせているところを見たことがない。広い庭園があるが、あそこで馬が走り回ったら芝生を滅茶苦茶にしてしまうことだろう。一体どこで走れば良いのだろうか。

「どこに行くんだ?」
「軍の開発局です」
「開発局……?」

 それは、生きてきて一度も口にしたことのない言葉だった。そんな場所があることも知らなかったし、それがどんな場所なのかもよく分からない。けれど、イーヴァンが案内すると言って先導するので、俺は歩き出してその姿を追いかけた。

 あの最悪の夜から、俺は殆ど部屋から出ていなかった。部屋を出るのは、閑所に行く時くらいだったと思う。だからこそ、久々に宮殿の中を歩いて少しばかり新鮮な気持ちになった。

「宮殿の裏手にある車寄せに、馬車を呼びつけています。まずはそこへ」
「馬に乗る場所へ行くのに、わざわざ馬車で行くのか?」
「えぇ、少し距離がありますので」
「そこまで馬に乗っていけば良いのに」
「良いですか、ノウェ様。文明国家の宮殿内では馬を走らせたりしないんですよ」

 遠い所へ行くのなら、そこまで馬に乗っていけば良い。それは自然な考え方だと思ったのだが、随分と嫌味な言い方をされてしまった。なんなんだ文明国家って。

 見慣れない廊下を進み辿り着いたのは、多くの馬車が集まる車寄せ。こんな場所には用がないので、ずっと立ち寄ったことがなかった。広い敷地の中に、等間隔で車が用意されていた。車に繋がれた馬たちが大人しく並んでいる。ここにある馬車の多くは、宮殿に出仕する者達のものだとイーヴァンが教えてくれた。
 
「……馬車に乗るのは、クユセンからここへ来る時以来だ」

 戸惑いながら馬車に乗り、長い時間を掛けてクユセンからリオライネンへとやって来た。八年も前のことだけれど、当時の寂しさはよく覚えている。十歳の子供が、供として一人の同胞しか許されない中、故郷を旅立ったのだ。寂しくないわけがない。

「ご気分が優れませんか、ノウェ様」
「いや……、大丈夫」

 寂しさが蘇ってきて、胸が苦しくなる。そんな俺にすぐさま気付いたイェルマが声をかけてくれた。本当に、イェルマがいてくれて良かったと心の底からそう思う。

「馬車に黒い獅子が描かれている物にだけ、乗ってください」
「黒い獅子……?」
「はい。それが、陛下の所有物である証です。ご覧の通り、ここには何台もの馬車が集まりますので、間違えないための目印として覚えておいてくださいね」

 イーヴァンが足を止めたのは、黒色の獅子の側面全体を描いた紋章が付けられた馬車の前だった。周囲を窺ってみると、確かにそれぞれの馬車には、それぞれに異なった紋章がついている。

 だが、注意深く見なければその差に気づけないほどに、似たような紋章ばかりだった。黒獅子の紋章と見間違えて、別の馬車に乗ってしまうこともあるかもしれないが、その時はきっとイェルマが教えてくれることだろう。

「さぁ、どうぞ」

 馬車へ乗るよう促され、御者が置いてくれた台に足を乗せる。その瞬間に、イーヴァンが手を差し出してきた。それは馬車への乗車を手助けするため、女性に差し出すような手だった。確か、この国の言葉でエスコートとかなんとか言うやつだ。

 ふざけやがって。ふん、と顔を逸らした俺は一人で馬車に乗り込む。確かに、踏み台があっても乗り込む時には不安定さを感じたが、どうにもイーヴァンにエスコートの動きをされると、馬鹿にされているような感じがするのだ。眼鏡の奥に見える瞳は、嫌らしく笑っている。

 俺が乗り込み、次にイーヴァンが。そして、最後にイェルマも乗車した。三人が乗り込んだところで、御者が鞭を振るって馬へと指示を出す。ゆっくりと馬車は動き始めた。

「わざわざその……開発……なんとか、とか言うよく分からない所に行かなくても、厩にいる子たちに乗れば良いんじゃないのか」
「あの馬たちは、馬車で用いられる馬ばかりで、人に乗られる経験があまりありません。今向かっている軍の施設には、騎乗のための軍馬が何頭かいます」
「その子たちに乗って良いってことか」
「えぇ」

 勝手ながら俺が面倒を見ていた馬たちがこの宮殿の隅にいた。質素な作りの厩に、馬への恋しさを募らせた俺は何度通ったことだろう。あの子たちに乗れるのなら乗りたかったが、確かに人が乗ることに慣れていない子たちに乗るのは可哀想だ。

 外を覗けば、馬車はすでに宮殿の敷地から出ていた。そして、宮殿を取り囲む貴族街の街道を進んでいる。驚いてしまった。こんな簡単に宮殿を出ることになるとは。俺はもう八年も、この城の中に閉じこもっていたというのに。外へ出ることは、こんなにも簡単なことだったのかと驚いてしまった。

「ところで、貴方はどう言いくるめられてリオライネンへやってきたのですか?」

 八年ぶりに眺める宮殿以外の景色に釘付けになっていた俺に、イーヴァンが質問を投げかける。流れていく風景に高揚していた心が、冷水を浴びせられたかのように冷めていった。

「……別に、言いくるめられたわけじゃない」
「納得してここへ来た、と?」
「そうだ。……一族のために、リオライネンへ行って欲しいって父に言われた。帝国に恭順するわけではないけれど、敵意も無い。それを示すために、人質として行って欲しいって。でも、人質では外聞が悪いから、婚約者という形で。五番目の婚約者だから、結婚する可能性はないって……、そういう感じの説明だった」

 十歳の俺には、なかなか理解し難いことだった。けれど、言われた言葉は覚えている。その意味を、成長するにつれて噛み締めていったのだ。幼い俺の胸にあったのは、滅多に会えない大好きな父が俺に頼み事をしているのなら、それを果たさなければという使命感だけだった。

「なるほど。私が用意した言葉通りに伝えられたわけですね」
「用意……した?」
「えぇ、それは私が族長殿に伝えた方便です」

 方便。それは、嘘ということ。どういうことなのか、理解が追いつかない。俺は混乱したまま、俺の正面の席に座ったイーヴァンを凝視する。

「父を騙していたのか」
「あ、いえ。そういう意味での方便じゃありませんよ。私が族長殿を欺いていたのではなく、族長殿が貴方を欺いたのです。欺くための言葉を私が用意し、欺くためにその言葉を族長殿が貴方に伝えた。こういうことです」
「……それじゃあ、……父さんは、知ってたのか」
「えぇ、もちろん」
「知ってて……俺を、本当に……皇妃にするために?」
「別に族長殿は貴方を皇妃にしたかったわけではない。けれど、陛下の願いを叶えることに同意されたのです」

 父は、この事態を同意していないと思っていた。婚約者とは名ばかりで、人質のようなものだと父は言っていた。だからこそ男の俺が皇妃になるなんて馬鹿げたことを、父は許さないと思っていたのだ。

 だが、許す許さないなどという次元ではなかった。
 父は、全てを知っていて俺を送り出したのだ。

「十年前、陛下がノウェ様に一目惚れし、初恋を抱いた。それを陛下は正直に族長殿に伝えたのです。そして、族長殿は一族の安寧を条件に貴方を差し出した。……ロア族は末子相続でしたよね? ノウェ様は、族長殿の下から二番目の御子。本来は、ノウェ様が族長殿にとっての最後の御子となり、ロア族を継ぐ者になるはずだった。……けれど貴方は体が小さく、筋力も弱く、族長の器ではなかった。だからこそ、族長殿はもう一人子供を儲けることを決め、その方が立派にお育ちになり、今はロア族の次期族長となられている」

 よく回る舌が、随分と詳しくロア族のことを語った。次期族長は父の末の子である、弟のサリが指名されている。五歳年下の弟は、幼い頃から発育が良く、体つきも立派で族長に相応しい人物だった。

「相応しい末の子が生まれ、不要になった貴方を族長殿は有効に使った」
「黙れ」
「すみません、喋り過ぎるのが私の悪癖で」

 イェルマの低い声が俺の隣で響く。その声を聞いて、イーヴァンは口を閉ざした。だがそのおもては、何が楽しいのか愉快そうに笑っていた。

 思えば、サリが次期族長に指名された頃と、俺がリオライネンへと行くことになった時期が近いように思えた。サリがいるから、俺は要らなくなったのだろうか。だから、父は俺を外へやったのか。

「さぁ、つきましたよ」

 途中から、景色を見る余裕がなかった。父が全てを承知していたという事実があまりにも衝撃的で、俺の思考はそのことについてばかり考えてしまう。気付いた時には馬車から降り、見知らぬ場所にイェルマと二人で立っていた。

「私は忙しいので、このまま帰ります。この道をまっすぐ行くと、とある女性がノウェ様を待っていると思いますので、詳しくはその方に聞いてください。その女性の名前は、アナスタシア・ブルクハルト」
「……アナスタシア……、ブルクハルト?」

 混乱した頭でも理解出来るほどに、それは聞き覚えがある名前だった。一体誰だっただろうか、と少し考えて、即座にその答えに行き着く。そして、俺は一瞬にして胃の腑が冷えた。どうしてその女性と俺を引き合わせるのだ、という抗議を込めてイーヴァンを見た。

「それって……」
「えぇ。陛下の第一の婚約者であった女性ですよ」


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