月と裏切りの温度

シオ

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 雨が降っていた。

 客も取らず、一人与えられた部屋で静かに空を眺めている。月は隠れ、厚い雲からは涙に似た雫が絶え間なく垂れていた。僕は緊張している。これからのことを考えると、胃が捩じ切れそうだった。

「アサヒ」

 小さな声で、それでも確かに僕の耳に届く声で彼が名を呼んだ。開いた窓越しに、ヨルハが僕を手招いた。

「……行こう、アサヒ」

 ヨルハの双眸は希望に染まっていて、きっと僕の瞳はその正反対な色で濁っていることだろう。ヨルハの求めに応じ、僕は窓から抜け出してヨルハの隣に並ぶ。

「そんな薄着だと風邪ひくぞ」

 季節に応じた服装ではあったのだが、雨が世界の温度を引き下げているせいで、確かに少しばかり寒い。用意の良いヨルハが僕に外套を被せてくれた。温かい。ヨルハは、何もかもが温かい。

「震えてる。寒いのか?」
「……怖くて」
「大丈夫。俺に任せろ、絶対に守ってやるから」

 これから訪れる絶望に、僕はどう立ち向かえばいいのだろう。その瞬間のことを考えると、必然的に体が震える。寒さと、恐怖とでごちゃまぜになった体は、もはや他人のものであるかのように僕の制御下にいなかった。

「ヨルハ、ぼ……僕は」
「しっ、静かに」

 伝えようとしたのだ。伝えなければならないことを、伝えようと。けれど、その直後に影から現れた人影から逃れるため、ヨルハの大きな手で口を塞がれた。もう片方の手で体を引き寄せられて、ヨルハの体がとても近くなる。

 煩いほどに胸が高鳴って、僕はもう手遅れだと感じた。こんなにも、ヨルハの存在が己の中で高まっていたなんて。百人の客からの愛撫より、たった一人、ヨルハの抱擁の方が僕を喜ばせるのだ。

「危ね、見つかるところだった」

 人影が去り、ヨルハが僕から離れる。名残惜しかった。永遠に抱きしめていて欲しかった。彼の腕の中で、時が止まってしまえばいいのにと、本気でそんな愚かなことを願った。

「ぐずぐずしてる時間はない。行くぞ、アサヒ」

 ヨルハが僕の手を引いてずんずんと歩いていく。倉庫の間を抜けて馬小屋へ。ヨルハのような奴隷たちはこの馬に乗って色々な物資を調達する役目を負っている。馬に乗るのが好きなヨルハは、この仕事だけは悪くないと言っていた。

「普段はブランデンが管理してる鍵だ。こっそり拝借してきた」

 当然、馬は逃亡の道具にされる。そのため、常日頃から馬小屋の施錠は徹底されており、その鍵は世話役であるブランデンが所持している。

 ヨルハは、ブランデンからくすね取ったと思っているようだが、そうではないのだ。ブランデンは敢えて鍵を持ち出せるようにしていた。

「俺たち二人を乗せて、頑張って走ってくれよ」

 ヨルハは一頭の馬の背を撫でて、その馬を外に出す。僕はそのあとをとぼとぼと付いて行った。踏み出す一歩一歩が重たい。まるで足枷でも付けられているかのようだ。

「アサヒ、こっちだ。裏門から出るぞ」
「門番がいるんじゃないの」
「大丈夫。落としといたから」
「落とす?」
「気絶させたってこと」

 こうやって、とヨルハが腕で首を締め上げる動作を見せてくれた。もともとヨルハは戦いを好む部族の出身で、幼い頃から戦うための訓練を受けていたという。奴隷として生きている間も、よく暇な時間に体を鍛えたり、棒切れで剣術の鍛錬をしていたのだ。

「……ヨルハは強いんだね」
「まぁ、今夜の門番は最近雇われたやつで、いっつも酒ばっか飲んでてふらふらしてるようなやつだからさ、簡単だったよ。あいつ以外だったら脱走は無理だったかも。運が味方してるぞ、アサヒ」

 屈託のない笑顔でヨルハがそう言った。僕はどんな反応も返せなかった。唇を噛みしめて、僅かに俯く。裏門には、確かに誰も立っていなかった。

 ヨルハが落としたという門番が茂みの中に押し込まれている。こんな有様じゃ、すぐに脱走が発覚してしまう。確かに、ブランデンが言うようにヨルハの作戦は杜撰だ。

「くそ、雨脚が激しくなってきた。アサヒ、馬から落ちないように気をつけろよ」

 一人で馬に乗り上げたヨルハ。目頭が熱くて、雨の冷たさを痛いほどに感じる。打ち付ける雨が、僕の涙を誤魔化してくれた。

「さ、アサヒ。行こう」

 馬上のヨルハが僕に向かって手を伸ばす。引き上げてくれるということなのだろう。ヨルハの前に座って、馬に跨って、僕たちはここから立ち去る。新たな生活が苦しいものでも、ヨルハと一緒なら耐えられる。

 ヨルハがいてくれるから、僕は。
 ヨルハが生きていてくれるなら、僕は。

「僕は……、僕は行かない」

 言葉を伝えた瞬間、ヨルハはきょとんとした顔をした。何を言われたのか理解できなかったのだろう。そのおもてが、少しずつ歪んでいく。理解が出来ないと、戸惑うように。

「どうしたんだよ、アサヒ。急に何言ってんだよ」
「……僕は、ここに残る」
「はぁ? ふざけてる時間は無いんだって、早く乗れよ」
「ふざけてなんかない。い、行きたければ、ヨルハ一人で行けばいい」

 喉が震える。目の前にぶら下げられた幸福に飛びつきたくなる己を、何度も何度も殺す。拳を固く握る。手のひらに突き刺さる爪の感覚さえ遠く感じた。

「……本気で言ってるのかよ、アサヒ」
「そう、だよ……僕は、本気だ」

 行かないで。
 僕をおいて行かないで。
 一緒に連れて行って。

 早く行って。
 僕を置き去りにして。
 一刻も早く、遠くへ行って。

 相反する二つの感情が渦を巻いて僕を搔き乱す。僕は今、一体どんな顔をしているのだろう。泣いているのだろうか、笑っているのだろうか。

「お前が残るってんなら、俺も残る」

 それは、予想していた反応だった。予想していたけれど、その予想を裏切って欲しかった。ヨルハは困ったように笑う。お前がそう言うんなら仕方ないよな、なんて言って。

 そうじゃない。そうじゃないだろう。ヨルハは行かなくちゃいけないんだ。生きるために、ヨルハはこの行き止まりの底なし沼から抜け出すんだ。

「ヨルハは、自由になりたいんだろっ、ティラゾ族の仲間を見つけ出して、テシィダバルに復讐するんだろっ!」
「それはそうだけど、何よりも今の俺にとって大切なのはお前だ、アサヒ」

 やめて、やめて、やめて。
 そんなふうに優しく笑ったりしないで。
 
「アサヒがこんな地獄で生きていたいって言うんなら、俺も付き合う」

 地獄で生きるのは、僕ひとりでいい。
 ヨルハは行って。自由な世界へ。
 僕のことは、どうか忘れて。

「それは……だめだよ、ヨルハは行かなきゃだめだ」

 気付いた時には、口からこぼれ出ていた言葉。それは、心の中に留めておかなければならないものだった。けれど、幸いなことに、雨音が邪魔をしてヨルハの耳には届かなかったようだ。

「……ヨルハなんて嫌い」

 言葉にしただけで、胸を抉る酷い言葉。僕自身を殺すような、凶器に似た台詞だった。それでも僕は、言葉を続けるしかない。

「ヨルハなんて嫌いだ。顔だって見たくない」

 自分の心を殺してでも、彼を守る。そう決めたんだ。どれほど苦しくても、悲しくても、痛くても。僕は、この道を選んだんだ。

「嫌いって……嘘だろ、そんなこと」
「嘘じゃない。僕は脱走なんてしたくないって言ったのに、ヨルハが無理強いしてるだけじゃないかっ、自分がしたいことに僕を巻き込まないでよ!」

 叫ぶ。心が割れる音がした。でも気付かないふりをする。馬上から戸惑う視線が向けられていた。ごめんね、ヨルハ。何も伝えられなくて、ごめん。

「行ってってば!」
「おいっ、アサヒ!」

 僕は、ヨルハが跨る馬のお尻を思い切り叩いた。驚いて暴れた馬は駆けだす。それをヨルハは制御しながらも、前進していった。そう、それでいい。

「行って! 遠くへ行って! 二度と……二度とっ、僕の前に現われないで!」

 大きな声で叫ぶが、届いたかどうかは分からない。彼の姿は小さくなる。僕は身を翻して己の足で娼館へと戻る。全てを見届けていたブランデンが裏門を閉じ、錠を下す。

 僕はもう、二度と出られない。膝の力が一気に抜けて、僕はその場に跪く。濡れた地面を、拳で殴りつけた。

「……う……っ、ぅああぁ……、ヨルハ……っ、ヨルハ」

 ヨルハをこの娼館から解き放つ。それを僕はブランデンから提案されていた。どちらにせよ、僕とヨルハの関係は問題になっていたようで、彼を殺すか、逃がすかのどちらかしかなかったのだという。

 彼が殺されなければならないというのなら、僕は自ら命を絶つ。そう宣言したことによって、ブランデンからヨルハ一人を逃がすよう指示された。

 けれどきっと、優しいヨルハは僕だけを置いて行くようなことはしないだろうから。だから、彼の好意を裏切れと、そう命令されていた。彼が逃げたなら、追いかけて殺すようなことはしないと約束をした上で、ブランデンは僕に命じた。

「……逃げて……、遠くへ。……ずっと遠くへ、ヨルハが自由に生きられるところへ」

 君はどうか自由に。
 僕は、地獄で生きていく。

「だいすきだよ……ヨルハ」

 最初で最後の、僕の恋。
 もう二度と誰かを愛することはないだろう。

 さよなら、ヨルハ。
 僕のすべて。


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