月と裏切りの温度

シオ

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「遅いぞ、アサヒ」

 月が天上で輝く闇の中、倉庫の片隅でヨルハが僕を待っていた。お互いに仕事を終えてから、ここでこっそりと同じ時間を過ごす。それが習慣になって、どれほどの時が経ったのだろう。

 出会い頭のあの手当。あれからも、僕たちの交流は続いていた。そもそも、怪我が全快するまで面倒を見ろと世話役のブランデンに命じられていたのだ。そんな命令など無くても、僕は彼の面倒をみるつもりでいたけれど。

 彼の世話をやいているうちに色々なことを話した。彼がティラゾという戦うことが得意な一族の者であるということ。そんな彼らが強国テシィダバルに負け、奴隷の身に落とされたということ。いつかは必ず一族の者たちと再会を果たし、テシィダバルに復讐するということ。

 ヨルハは僕にたくさんのことを語りきかせてくれたけれど、僕には語るべきことがなかった。僕は、語るべき過去も、聞かせるべき展望も、何も持っていなかったのだ。

「ごめん、ちょっと片付けに手間取っちゃって」

 手招かれ、ヨルハの隣に座る。大きな毛布で二人の体を包んで、身を寄せ合った。ここは食料や、香油など雑多な道具が保管されている倉庫。

 用途がそれだけであるために、暖房の類は一切ない。夏でも少し肌寒く感じるほどで、秋も終盤に差し掛かったこの頃では毛布が無ければ凍死してしまいそうな寒さだった。

「何かあったのか?」
「えっと……、リューヒンさんが、ね」
「リューヒン? あぁ、お前が最近付いたっていうウェテか」

 荷物の運搬や、館の修繕など力仕事ばかりをさせられているヨルハはこの娼館にいる男娼たちの存在に疎かった。きっと、彼の頭にはリューヒンさんの顔すら浮かんでいないことだろう。

 僕のような見習いは、ウェテに付いて色々なことを教導されながら下働きをし、たくさんのことを覚えていくのだ。長い間僕が付いていたウェテが、つい最近客に身請けされてこの娼館を去っていった。それから僕は、リューヒンさんに付くことになったのだ。

「で? そいつがどうしたんだよ」
「うん……その、お客さんに酷い抱かれ方をしたみたいで。ベッドにはたくさん血がついてて……、何をされたのかははっきり分からなかったけど、リューヒンさん、泣いてたんだ。……あの人は、どれだけ辛くても泣かない人なんだよ。優しくて、僕たち見習いにも親切なんだ」

 少々の失敗は笑って許してくれる。俺も昔そういうやらかしがあったよ、なんて言って頭をわしわしと撫でながら見逃してくれる。優しくて、強くて。僕はあの人の姿に憧れていたのだ。

「……僕もいつか、酷いことをされて、泣いちゃうのかな、って考えてたら……仕事がなかなか片付かなくて」

 膝を抱いて、俯く。倉庫の天窓から差し込む月光以外に、灯はない。この暗さが、隣に感じるヨルハの体温だけが、今の僕を救っていた。

「アサヒは泣かない」
「え……?」
「そんなことは絶対にさせない」

 ゆっくりと顔を上げれば、意思の強い漆黒の瞳が僕を真っ直ぐに見つめていた。どれだけ暗くても、闇が深くても、ヨルハの姿ははっきりと見ることが出来る。彼はいつだって強く輝いていた。

「俺が、アサヒを守る」
「ヨルハが僕を守るの……?」
「そうだ。俺は、アサヒをウェテなんかにしない」
「どういうこと?」

 その続きの言葉を、僕はきっと分かっていた。でも、聞きたかった。彼の口からその言葉を聞きたかった。けれど、聞いてはいけないことだということも分かっていた。許されないことだと。

「一緒にここから逃げるんだ」

 抱いた感情をどう表現すればいいのか分からなかった。嬉しかったのだろうか。それは肯定だ。嬉しかった。けれど、喜んではいけなかった。

「……そんなの、絶対駄目だよ……見つかったら酷い折檻が待ってる」
「見つからなければいい。俺に任せとけ」
「だめ、だめだよ、ヨルハ。危険過ぎる。最悪、殺されちゃうかもしれない」
「大丈夫だって」

 過去に、脱走しようとした男娼がいた。それを手伝った奴隷がいた。結局彼らは見つかって、男娼の方は大勢の男に犯されて狂ってしまった。奴隷の方はその場で殺された。僕は、その奴隷の片付けをさせられたのだ。

 あの無残な姿と、ヨルハの姿が被ってしまう。絶対に、そんなことにはさせたくない。

 ヨルハの考えは甘過ぎる。十三歳を少し過ぎたとはいえ、僕たちはまだまだ子供で、頼る人もいない。お金だってろくに持っていない。どこに逃げるというのだ。誰に匿ってもらうつもりなのだ。ヨルハは明るく語るが、それと比例して僕は重い表情になっていく。

「駄目だよ……お願いだから、やめて」

 彼の胸元に手を置いて、縋るようにして言葉を伝えた。目の前が滲んでいるから、きっと僕の瞳は涙目に見えていることだろう。ヨルハは一瞬、息を詰まらせて少しだけ頰を赤く染めた。

「そうやって男に強請れって教えられてんの?」

 一瞬、何を言われているのかが全く理解できなかった。けれど、じわりじわりと頭が言葉の意味を咀嚼し始めた。つまり、男娼としての手練手管を行使したと思われたのだ。僕の必死の懇願を、ヨルハはそんな言葉で侮辱した。

「……最低だ」

 僕は本気でヨルハを心配しているというのに。何か間違いがあってはいけないと、釘を刺そうとしているというのに。もう知らない。ヨルハのことなんて、もう知らない。立ち上がって、立ち去ろうとした僕の手首を、ヨルハが握った。強い力だった。

「ごめん、アサヒ。ごめん、本気で言ったんじゃない。悪かった。だから行かないでくれ」

 毛布から抜け出した世界はあまりにも寒く、反対に、僕の手首を掴むヨルハの手はあまりにも温かかった。

 歯がゆくて、悔しくて、どうして僕には男娼になる未来しか残されていないのだろうと、当てもなく全てを呪った。

「……今度あんなこと言ったら絶交だから」
「わかった。もう言わない」

 ヨルハの言葉を受け入れて、僕は再び腰を下ろす。彼が再び僕の体に毛布を巻いてくれた。大きなひとつの毛布で、僕たちふたつの体はとても温かくなる。

「……本当に、脱走なんて駄目だからね。ヨルハを危険な目に遭わせたくないんだ」
「危険じゃ無ければいいんだろ?」
「だから、そういう甘く見てるところが駄目なんだってば。何をどうしたって脱走っていうのは危険なものなんだよ」

 どうしたらヨルハに分かってもらえるのだろうか。僕はどうなってもいい。ウェテになることも、完全に受け入れているわけではないけれど、諦めてはいる。もう仕方ないのだと、諦念を抱いている。

 だからせめて、せめてヨルハは元気で生きていて欲しい。脱走の咎で殺されるなんて、絶対にあってはならない結末だ。

「俺だって、お前を……嫌な目に遭わせたくない」
「嫌な目……?」

 苦々しくヨルハが言葉を吐き出す。僕が嫌な目に遭うとはどういうことなのだろうか。僕が嫌だと思うことは、ヨルハに危害が及ぶ状況だけだ。それ以外は、さほど重要なことではない。

「お前を、ウェテにしたくない」

 あまりにも、ヨルハの目が真剣で、僕はしばらく口を開いたままで間抜けな面を晒してしまった。はっとして、口を閉じる。わずかに乾燥した口内を唾液で湿らせ、唇を動かした。

「それは……それは、無理だよ。僕は、そういう目的でここに買われたんだから」
「それでも嫌だ。俺が、嫌なんだ」

 僕の肩を掴んで、近い距離でヨルハは言葉を吐き出した。苦しそうに、悲しそうに。僕が、ヨルハを苦しめている。僕の存在が、彼を悲しませている。

「……ごめんね、ヨルハ」
「なんでお前が謝るんだよ」
「だって、ヨルハを嫌な目に遭わせちゃうから」
「……そういうことじゃねぇだろ」
「うん……、でもさ、僕の初仕事は次の次の冬だけどさ。……もしかしたら、全然お客がつかないかも。人気なくて、誰にも買ってもらえなくて、ヨルハを嫌な目に遭わせなくて済むかも」

 ウェテの人たちは皆、見目麗しいけれど、稀にそうではない人もいる。やはりそういう手合いは客が取れず、質の悪い娼館に売り飛ばされて酷い結末を迎えるという。

 そういう最後はあまり好ましくはないが、それでも僕にお客が付かない可能性は大いにあるのだ。

「そんなわけねぇだろっ」

 ヨルハは声を荒げて、僕の言葉を否定した。僕の肩を掴んでいたヨルハの手が僕の頰に添えられる。優しい手だった。この手にずっと触れていて欲しいと願うほどに。

「お前、めちゃくちゃ綺麗だし、話してても楽しいし、絶対人気出るに決まってる」
「……あ、ありがとう」

 思いがけない賞賛を得て、戸惑う。褒めてくれているのに、ヨルハの表情は険しくて、素直に喜んでいいのか、いけないのかがよく分からなくなった。

 僕たちはまだまだ子供で、これから自分たちがどんな道を歩んでいくのかを思い描くことも出来ずに、倉庫の隅で小さくなっていた。

 思えば、無邪気に笑いあえたのは、この頃までだったのかもしれない。


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