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「イーヴ、今少し良い?」
ノックをした直後にドアを開けるような不調法をする者は、俺の部下にはいない。だからこそ、ドアが開いた瞬間に、そこに立っている人物におおよその目処が立っていた。予想通りの人物が、部屋に入ってくる。
「駄目だって言ったら、お引き取り願えるのか?」
「そういう意地悪ばかり言うから、人に好かれないのよ」
「放っておけ」
アナスタシアは失礼なことを言いながら足を進める。こつこつと靴音を響かせる彼女は、軍服のままだった。彼女の仕事が終わるのと同時に、ノウェ様と連れ立って城下へ行ったことは知っている。
「アリウス様のところへ行ったらしいな」
「情報が早くて、恐れ入るわ」
この国の中で、俺に隠し事をするのは難しいだろう。知りたいことは、なんでも知ることが出来る。皇妃の動向も全て監視していた。ノウェ様がアリウス様のもとへ行ったという情報は、つい先ほど俺へ齎されたのだ。
「今、ノウェ様はユノの日の準備をしているの」
「ユノの日? あんな浮かれた祭をご存知だったのか」
「物語の中でよく登場する祭日だからね。でも、架空のものだと思っていたみたい」
なるほど、と頷く。ロア族には馴染みのない文化だ。ノウェ様が知らなかったのだとしても、それは仕方のないことだろう。
「それで、ヴィルのために今、贈り物を作ろうとしてるの。イーヴには、ノウェ様が贈り物の準備をしているということを、ヴィルに黙っていて欲しいのよ」
「……なるほどね。サプライズってやつか。……くだらない」
「くだらないってねぇ。世の恋人たちが一生懸命になっている行事なんだか、もっと肯定的に受け止めたら?」
「経済効果は分かってる」
否定的に思っているわけではない。浮かれた文化で国内が潤うのだから、俺だって肯定的に受け止めている。ただ、そんな文化で一喜一憂する連中を理解出来ないだけで。そんなことを口にすれば、アナスタシアに殴られそうだ。黙っておこう。
「とりあえず私はノウェ様に、イーヴの口止めを頼まれてるの。ヴィルが何かに感づいたとしても、絶対に何も漏らさないでよ」
「……分かったよ」
ヴィルヘルムは、どちらかといえば俺と同じ分類だろう。つまりは、ユノの祭日になど興味がないということ。ノウェ様の動きを見て、何かに感づいたとしても、それをユノの日に結びつけることなど出来なさそうだ。俺はしつこく何度も言い聞かせてくるアナスタシアに辟易しながら、頷いた。
そして迎えた翌日。
俺は、皇帝陛下の執務室に入った瞬間に、その部屋に満ちる陰気な気配に気づいた。そんな湿っぽい空気にさせているのは、この部屋の主であるヴィルヘルムだ。
「……ノウェを怒らせた。もうやっていけない」
いつぞやも、こんな泣き言を漏らしていなかっただろうか。俺はため息を吐き捨てて、机に就きながら俯くヴィルヘルムを見る。そんな状態でも、とりあえず仕事は進めているようだ。
「……あのなぁ、俺はお前の補佐だけど、夫婦生活のことまでは面倒見きれないからな」
「別に、面倒を見て欲しいわけじゃない。愚痴を聞いて欲しいだけだ」
面倒臭いことを言いやがって。この場に書記官がいなければ、そう言ってこの腑抜けた皇帝の頭を叩いていたことだろう。だが、臣下の手前、そのような無礼を働くことは出来ない。
「昨夜、寝室に戻ったらノウェがあの男に抱きついていたんだ。その瞬間、あの男を殴りつけなかった俺を褒めて欲しいくらいなのに、ノウェは何故あの男に抱きついたのか尋ねてもはぐらかすんだ」
あの男とは、イェルマのことだ。名を口にすることすら忌々しいのだろう。ヴィルヘルムがイェルマの名を発することは殆どなかった。またイェルマ絡みの悋気か、と俺は何度目か分からない溜息を漏らす。
「でも、そのあとはたっぷりと愛し合うことが出来た」
「……その話、俺は聞いていなくちゃだめか?」
「もう少し聞いていてくれ」
長年の付き合いがある男と、その男が最も愛する男。そんな二人が愛し合っている話など、俺は別に聞きたくない。二人の性交の確認をしたことがあるけれど、見たくて見たわけではないのだ。
「それで、愛し終えた後に、うとうととしたノウェにもう一度聞いてみたんだ。意識が朦朧としていたら、素直に教えてくれるかと思って」
「先が読めた」
「聞いていてくれ。あの男と何を話していたのかを問いかけたら、怒られた。しかも今朝は、朝食も共にしたくないと言われてしまった」
一から十まで説明されなくても、くだらない話の顛末に予想がついていた。だというのにヴィルは懇切丁寧に述べてくれる。誰も頼んでいない。
「何度も問われて、鬱陶しいと思われたんだろうな」
「……気になってしまったんだ」
「どうせ、イェルマに妬いたんだろう」
「……あぁ」
普段は威厳に満ちた皇帝の振る舞いを完璧にこなすというのに、どうしてノウェ様が絡むとこんなにもポンコツになってしまうのだろう。人を愛すると人間は愚かになるというが、ここまで愚に落ちるのなら俺は誰も愛したくない。
「ノウェ様は、お前の妻だ。イェルマとは確かに距離が近すぎるところがあるが、それでもノウェ様はお前の奥方で、この国の皇妃だ。その気持ちも覚悟も、十分に今のノウェ様は持っている。それを疑われたようで、気分が悪かったんだろう」
「別に疑ってない」
「疑ってないとか、どの口が言うんだよ」
疑っていないが、悋気は芽生えるのだ。妙に自信満々にヴィルヘルムがそんなことを言ってのけるので、ついつい拳に力が入ってしまった。これを思うままに、ヴィルの頭の上に落としてやりたい。
「ノウェ様に愛されてる自覚はあるんだろ?」
「……ある」
「じゃあ、少々あの二人の距離が近くても我慢しろ。俺は今のお前とノウェ様の関係がこじれるのが嫌だ。これ以上面倒くさいことになるな」
「……分かった」
納得したのかしてないのか、よく分からない表情でヴィルヘルムが頷く。とりあえずこれでこの話は終わりだ、と告げて仕事に戻る。流石に仕事が始まってしまえば、ヴィルは完璧な皇帝となって執務をこなしていった。ヴィルヘルムの執務室から出て、俺は廊下を進む。
「ノウェ様は」
「厨房にいらっしゃるようです」
背後に控えていた部下に問えば、すぐに返答がくる。だが、その答えに俺は疑問符を掲げてしまう。ノウェ様が未だかつて、厨房になどいたことがあっただろうか。少し戸惑いながらも、俺はいつだって皇帝の心を乱す最愛の皇妃のもとへ向かった。
「な、内務卿閣下っ」
厨房にやってきた俺の姿を見て料理人たちが萎縮してしまう。それはそうだろう。厨房など、宮殿の中でも下働きの者たちが多く集う場所だ。内務卿が足を向けるには不似合いな場所だった。
「気にするな。……妃殿下はどこに?」
あちらにいらっしゃいます、という案内に従って俺は進んでいく。厨房の中の奥の奥。少し開けた場所に、ノウェ様とイェルマがいた。そのそばには、一人の料理人が佇んでいる。
「ノウェ様」
声を掛ければ、驚いたように肩を震わせてノウェ様がこちらを見る。イェルマは俺の存在に気づいていたのだろう、一度だけ視線をこちらに向けるだけで、驚いた様子はない。
「イーヴァン、どうしたんだ。こんなところで」
「ノウェ様こそ、どうされたんですか」
「俺はその……、ちょっと料理というものを経験させてもらってて……あ、でも邪魔にならない範囲でお願いしてるだけだから!」
「彼らが許しているのであれば、私から申し上げることは何もありませんよ」
俺が叱責するとでも思ったのだろう。ノウェ様は慌てて邪魔はしてない、とアピールする。少々であれば邪魔をしたところで、誰もノウェ様を責められない。そういう立場にいるということ、未だにこの人は理解していないのだ。
「俺、料理なんてしたことないから、少しだけでも練習しておこうかなと思って」
「陛下に、ユノの贈り物をなさるそうで」
「うん。……アナに聞いたんだよな?」
「はい。もちろん、陛下には口外しておりませんので、ご安心を」
「ありがとう」
「それはそうと、何やら陛下のことでお怒りだと伺ったのですが」
いつまでもしつこくイェルマとの関係を疑うヴィルに腹を立てるノウェ様の気持ちを、俺は理解できるし、尊重するつもりだ。だがそのことで、ヴィルが腑抜けになられては困ってしまう。心の中で溜息を吐きながら、俺はノウェ様の胸中を探る。
「……別に怒るってほどのことでもないんだけど。……いつまで経っても、ヴィルは俺のことを信じてくれないんだなって思ったら、なんか悲しいっていうか……、悔しいっていうか。そういう気持ちになっちゃってさ。朝もまともに顔が見られなくて。……でも、今夜はちゃんとヴィルと向き合うよ」
「ノウェ様は、陛下よりも余程大人ですね」
「え? なんだよ急に」
「いえ。ふと、そう思っただけですよ」
予想していたよりは、根の深い問題にはならなさそうだ。俺は少しばかり安堵する。料理の結果、手を白い粉だらけにしていたノウェ様は、その汚れを落として、小さく甘い匂いを放つものを一つ、手に取った。
「イーヴァン、これ一つ食べていかないか」
差し出されたのは、ビスケットのかけらだろうか。形は不出来だが、それでも香りは良い。それを受け取りながら、俺は迷う。今、ここで俺がこれを口にしても良いのだろうか。
「陛下もまだ食されていないのですよね? 私が先に食べてしまうと、怒られてしまいます」
「大丈夫。これ、俺はほとんど作ってないから。見学させてもらって、型抜きしたくらい。型抜きすら上手く出来なかったわけなんだけどさ……でも、味は問題ないから」
「なるほど。では、陛下に怒られることもなさそうですね」
「そういうこと」
「では、一つだけ」
形が不出来なのは、ノウェ様が型抜きに失敗したからだということだった。殆どノウェ様の手で作られていないのなら、これはノウェ様の手作りビスケットではないと定義して良いだろう。俺は安心して、口に放り込む。
「ユノの祭日が、上手く行くことを願っています」
俺を面倒に巻き込んでばかりの夫婦だけれど、俺はこの二人が上手くいくことを願っていた。勿論、ヴィルヘルムが立派な皇帝であってくれるために。そして、幼馴染の幸福が続くようにと祈る心があるからだった。
「ありがとう、イーヴァン」
可愛い可愛いと煩いほどにノウェ様を褒め立てるヴィルヘルムのせいで、俺も少しばかりノウェ様が可愛く見えてしまった。毒されているのかも、と小さく笑いながら俺は厨房を後にする。
ノックをした直後にドアを開けるような不調法をする者は、俺の部下にはいない。だからこそ、ドアが開いた瞬間に、そこに立っている人物におおよその目処が立っていた。予想通りの人物が、部屋に入ってくる。
「駄目だって言ったら、お引き取り願えるのか?」
「そういう意地悪ばかり言うから、人に好かれないのよ」
「放っておけ」
アナスタシアは失礼なことを言いながら足を進める。こつこつと靴音を響かせる彼女は、軍服のままだった。彼女の仕事が終わるのと同時に、ノウェ様と連れ立って城下へ行ったことは知っている。
「アリウス様のところへ行ったらしいな」
「情報が早くて、恐れ入るわ」
この国の中で、俺に隠し事をするのは難しいだろう。知りたいことは、なんでも知ることが出来る。皇妃の動向も全て監視していた。ノウェ様がアリウス様のもとへ行ったという情報は、つい先ほど俺へ齎されたのだ。
「今、ノウェ様はユノの日の準備をしているの」
「ユノの日? あんな浮かれた祭をご存知だったのか」
「物語の中でよく登場する祭日だからね。でも、架空のものだと思っていたみたい」
なるほど、と頷く。ロア族には馴染みのない文化だ。ノウェ様が知らなかったのだとしても、それは仕方のないことだろう。
「それで、ヴィルのために今、贈り物を作ろうとしてるの。イーヴには、ノウェ様が贈り物の準備をしているということを、ヴィルに黙っていて欲しいのよ」
「……なるほどね。サプライズってやつか。……くだらない」
「くだらないってねぇ。世の恋人たちが一生懸命になっている行事なんだか、もっと肯定的に受け止めたら?」
「経済効果は分かってる」
否定的に思っているわけではない。浮かれた文化で国内が潤うのだから、俺だって肯定的に受け止めている。ただ、そんな文化で一喜一憂する連中を理解出来ないだけで。そんなことを口にすれば、アナスタシアに殴られそうだ。黙っておこう。
「とりあえず私はノウェ様に、イーヴの口止めを頼まれてるの。ヴィルが何かに感づいたとしても、絶対に何も漏らさないでよ」
「……分かったよ」
ヴィルヘルムは、どちらかといえば俺と同じ分類だろう。つまりは、ユノの祭日になど興味がないということ。ノウェ様の動きを見て、何かに感づいたとしても、それをユノの日に結びつけることなど出来なさそうだ。俺はしつこく何度も言い聞かせてくるアナスタシアに辟易しながら、頷いた。
そして迎えた翌日。
俺は、皇帝陛下の執務室に入った瞬間に、その部屋に満ちる陰気な気配に気づいた。そんな湿っぽい空気にさせているのは、この部屋の主であるヴィルヘルムだ。
「……ノウェを怒らせた。もうやっていけない」
いつぞやも、こんな泣き言を漏らしていなかっただろうか。俺はため息を吐き捨てて、机に就きながら俯くヴィルヘルムを見る。そんな状態でも、とりあえず仕事は進めているようだ。
「……あのなぁ、俺はお前の補佐だけど、夫婦生活のことまでは面倒見きれないからな」
「別に、面倒を見て欲しいわけじゃない。愚痴を聞いて欲しいだけだ」
面倒臭いことを言いやがって。この場に書記官がいなければ、そう言ってこの腑抜けた皇帝の頭を叩いていたことだろう。だが、臣下の手前、そのような無礼を働くことは出来ない。
「昨夜、寝室に戻ったらノウェがあの男に抱きついていたんだ。その瞬間、あの男を殴りつけなかった俺を褒めて欲しいくらいなのに、ノウェは何故あの男に抱きついたのか尋ねてもはぐらかすんだ」
あの男とは、イェルマのことだ。名を口にすることすら忌々しいのだろう。ヴィルヘルムがイェルマの名を発することは殆どなかった。またイェルマ絡みの悋気か、と俺は何度目か分からない溜息を漏らす。
「でも、そのあとはたっぷりと愛し合うことが出来た」
「……その話、俺は聞いていなくちゃだめか?」
「もう少し聞いていてくれ」
長年の付き合いがある男と、その男が最も愛する男。そんな二人が愛し合っている話など、俺は別に聞きたくない。二人の性交の確認をしたことがあるけれど、見たくて見たわけではないのだ。
「それで、愛し終えた後に、うとうととしたノウェにもう一度聞いてみたんだ。意識が朦朧としていたら、素直に教えてくれるかと思って」
「先が読めた」
「聞いていてくれ。あの男と何を話していたのかを問いかけたら、怒られた。しかも今朝は、朝食も共にしたくないと言われてしまった」
一から十まで説明されなくても、くだらない話の顛末に予想がついていた。だというのにヴィルは懇切丁寧に述べてくれる。誰も頼んでいない。
「何度も問われて、鬱陶しいと思われたんだろうな」
「……気になってしまったんだ」
「どうせ、イェルマに妬いたんだろう」
「……あぁ」
普段は威厳に満ちた皇帝の振る舞いを完璧にこなすというのに、どうしてノウェ様が絡むとこんなにもポンコツになってしまうのだろう。人を愛すると人間は愚かになるというが、ここまで愚に落ちるのなら俺は誰も愛したくない。
「ノウェ様は、お前の妻だ。イェルマとは確かに距離が近すぎるところがあるが、それでもノウェ様はお前の奥方で、この国の皇妃だ。その気持ちも覚悟も、十分に今のノウェ様は持っている。それを疑われたようで、気分が悪かったんだろう」
「別に疑ってない」
「疑ってないとか、どの口が言うんだよ」
疑っていないが、悋気は芽生えるのだ。妙に自信満々にヴィルヘルムがそんなことを言ってのけるので、ついつい拳に力が入ってしまった。これを思うままに、ヴィルの頭の上に落としてやりたい。
「ノウェ様に愛されてる自覚はあるんだろ?」
「……ある」
「じゃあ、少々あの二人の距離が近くても我慢しろ。俺は今のお前とノウェ様の関係がこじれるのが嫌だ。これ以上面倒くさいことになるな」
「……分かった」
納得したのかしてないのか、よく分からない表情でヴィルヘルムが頷く。とりあえずこれでこの話は終わりだ、と告げて仕事に戻る。流石に仕事が始まってしまえば、ヴィルは完璧な皇帝となって執務をこなしていった。ヴィルヘルムの執務室から出て、俺は廊下を進む。
「ノウェ様は」
「厨房にいらっしゃるようです」
背後に控えていた部下に問えば、すぐに返答がくる。だが、その答えに俺は疑問符を掲げてしまう。ノウェ様が未だかつて、厨房になどいたことがあっただろうか。少し戸惑いながらも、俺はいつだって皇帝の心を乱す最愛の皇妃のもとへ向かった。
「な、内務卿閣下っ」
厨房にやってきた俺の姿を見て料理人たちが萎縮してしまう。それはそうだろう。厨房など、宮殿の中でも下働きの者たちが多く集う場所だ。内務卿が足を向けるには不似合いな場所だった。
「気にするな。……妃殿下はどこに?」
あちらにいらっしゃいます、という案内に従って俺は進んでいく。厨房の中の奥の奥。少し開けた場所に、ノウェ様とイェルマがいた。そのそばには、一人の料理人が佇んでいる。
「ノウェ様」
声を掛ければ、驚いたように肩を震わせてノウェ様がこちらを見る。イェルマは俺の存在に気づいていたのだろう、一度だけ視線をこちらに向けるだけで、驚いた様子はない。
「イーヴァン、どうしたんだ。こんなところで」
「ノウェ様こそ、どうされたんですか」
「俺はその……、ちょっと料理というものを経験させてもらってて……あ、でも邪魔にならない範囲でお願いしてるだけだから!」
「彼らが許しているのであれば、私から申し上げることは何もありませんよ」
俺が叱責するとでも思ったのだろう。ノウェ様は慌てて邪魔はしてない、とアピールする。少々であれば邪魔をしたところで、誰もノウェ様を責められない。そういう立場にいるということ、未だにこの人は理解していないのだ。
「俺、料理なんてしたことないから、少しだけでも練習しておこうかなと思って」
「陛下に、ユノの贈り物をなさるそうで」
「うん。……アナに聞いたんだよな?」
「はい。もちろん、陛下には口外しておりませんので、ご安心を」
「ありがとう」
「それはそうと、何やら陛下のことでお怒りだと伺ったのですが」
いつまでもしつこくイェルマとの関係を疑うヴィルに腹を立てるノウェ様の気持ちを、俺は理解できるし、尊重するつもりだ。だがそのことで、ヴィルが腑抜けになられては困ってしまう。心の中で溜息を吐きながら、俺はノウェ様の胸中を探る。
「……別に怒るってほどのことでもないんだけど。……いつまで経っても、ヴィルは俺のことを信じてくれないんだなって思ったら、なんか悲しいっていうか……、悔しいっていうか。そういう気持ちになっちゃってさ。朝もまともに顔が見られなくて。……でも、今夜はちゃんとヴィルと向き合うよ」
「ノウェ様は、陛下よりも余程大人ですね」
「え? なんだよ急に」
「いえ。ふと、そう思っただけですよ」
予想していたよりは、根の深い問題にはならなさそうだ。俺は少しばかり安堵する。料理の結果、手を白い粉だらけにしていたノウェ様は、その汚れを落として、小さく甘い匂いを放つものを一つ、手に取った。
「イーヴァン、これ一つ食べていかないか」
差し出されたのは、ビスケットのかけらだろうか。形は不出来だが、それでも香りは良い。それを受け取りながら、俺は迷う。今、ここで俺がこれを口にしても良いのだろうか。
「陛下もまだ食されていないのですよね? 私が先に食べてしまうと、怒られてしまいます」
「大丈夫。これ、俺はほとんど作ってないから。見学させてもらって、型抜きしたくらい。型抜きすら上手く出来なかったわけなんだけどさ……でも、味は問題ないから」
「なるほど。では、陛下に怒られることもなさそうですね」
「そういうこと」
「では、一つだけ」
形が不出来なのは、ノウェ様が型抜きに失敗したからだということだった。殆どノウェ様の手で作られていないのなら、これはノウェ様の手作りビスケットではないと定義して良いだろう。俺は安心して、口に放り込む。
「ユノの祭日が、上手く行くことを願っています」
俺を面倒に巻き込んでばかりの夫婦だけれど、俺はこの二人が上手くいくことを願っていた。勿論、ヴィルヘルムが立派な皇帝であってくれるために。そして、幼馴染の幸福が続くようにと祈る心があるからだった。
「ありがとう、イーヴァン」
可愛い可愛いと煩いほどにノウェ様を褒め立てるヴィルヘルムのせいで、俺も少しばかりノウェ様が可愛く見えてしまった。毒されているのかも、と小さく笑いながら俺は厨房を後にする。
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