オーリの純心

シオ

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「……オーリ様?」

 テオドールが私を呼ぶ声が聞こえる。近づいてくる靴音。テオドールがこちらへやって来た。立たなければ。こんな地面に伏したままではいけない。そう思い、立ち上がろうとするが、杖は私から遠い場所に放り投げられており、自力では立つことが出来なかった。

「オーリ様!」

 驚愕に満ちた声音だった。私の姿を認めた瞬間に、テオドールが私のもとへ駆け寄る。紅玉の双眸は見開かれ、私の全身にくまなく視線を送った。怪我が無いかを確認しているのだろう。

 テオドールの手が、私に触れる。その瞬間に、私の体は強く震えてしまった。触れて欲しくないと、心の底からそう思ってしまったのだ。それを察したのか、テオドールは触れる寸前でその手を戻す。

「おい、テオドール。何だそいつは。物乞いじゃないのか? みすぼらしい奴に様付けなどして、どういう」
「黙れ」

 男がテオドールに問う。男の立場としては、その疑問は当然のものだった。オリヴィエ・アインハルトを探しているらしいこの男には、私がその本人であることが分からないのだ。であれば、みすぼらしい物乞いに地位のあるテオドールが、オーリ様、などと呼びかけることに違和感を抱くだろう。

 ジグムントのもとにいた頃、やってきたテオドールは私を一見してオリヴィエであると看破していた。髪色が変わり、やつれ、痣だらけになっても、人相というものは大きく変わらないのだと、テオドールに見抜かれたことでそう思っていたのだ。

 だが、それは違った。テオドールだから、私だと分かってくれたのだ。私のことを深く想ってくれるテオドールだからこそ、私だと気付いてくれた。テオドール以外の者が見れば、私にオリヴィエ・アインハルトの面影は無いのだろう。

「なっ……! 何だ、テオドール! 何を怒っている。こいつは、お前の情婦か何かか」
「口を開くなと言っている」

 低く響く声と、剣呑な光を強く帯びた鋭い眼光。物乞いに対して、様をつけて呼ぶということは、テオドールにとって大切な存在だと思ったのだろう。

 だが、どう見ても物乞いにしか見えない汚い人物だ。テオドールに取っての大切な人物と、薄汚れた物乞い。その二つを無理やり引っ付けようとした結果が、情婦に類するような存在だという結論に至ったらしい。

 情婦であったなら、どれだけ幸せだっただろう。テオドールに愛され、その愛を返せたなら。私の体を使って、テオドールを気持ちよくすることが出来たなら。それが可能であったなら、私も幸せだったのに。現実はそうではない。

 私はテオドールにとって何なのだろう。かつての主。それくらいの役どころしか私には無い。彼が想ってくれるのと等しいものを返すことが出来ていないのに、彼の特別になりたいなどと願う私は酷く浅ましく、傲慢だった。

 そんなことをぼんやりと考えていた時、最近では聴き慣れなくなった鈍い音が鼓膜を強く揺らした。何の音だと思って眼前の光景を見てみれば、テオドールがその男を掴みかかり、殴っていた。

 素早く足払いを繰り出したテオドールによって、男は大柄な体を地面に倒れ込ませている。その上に乗り、左手で男の襟元を掴み、右手でその頬を何度も拳で殴り付けている。

 この音は、あの地獄の日々でよく耳にしていた。私を殴り付け、痛がり、泣き叫ぶ私を見て喜ぶ男たち。殴られた痕はいまだに色濃く私の体に残り続けている。蓋をしたはずの記憶が、じわりじわりと滲み出てきた。

 最初は抵抗の態度を見せていた男だったが、テオドールはそれを回避して暴力を振るい続けている。男は、鼻や口から血を流していた。襟元を掴んだ左手が、首を前後に揺らし、男の頭は地面に何度も打ち付けられている。

「……ォ、……テ、テオ……」

 震える声で、テオドールの名を呼んだ。情けなさを感じるほどにか細い声だった。それでもテオドールは、そんな私の細い声をしっかりと聞き届け、その手を止めてくれた。テオドールの手は男の血で赤く染まっている。
 
「もう、やめてくれ。その者が死んでしまう」

 私が願うと、テオドールはすっと馬乗りになっていた男の上から退き、ポケットの中にしまっていたハンカチで血に濡れた手を拭いて、こちらへやって来る。

 獰猛な双眸はなりを潜め、いつも私に向けてくれる穏やかで優しい瞳がこちらを見ていた。私の前で、土に汚れるのも厭わず片膝を地面につけてしゃがみ込む。

「オーリ様、とりあえず屋敷へ入りましょう」

 差し出された手に、少し前までの私だったら迷わず己の手を重ねていただろう。抱き起こしてもらって、そうして杖を使って立ち上がる。間違いなく、そうしていた。

 けれど、私は手を重ねるどころか、己の指先を彼に近づけることすら出来なくなっていた。体が全く動かない。頭の中で警鐘のように鳴り響く、汚い、という言葉。穢れたお前の体で、清らかなテオドールを汚すのか。

「……杖を、……杖を取ってくれ」

 杖があれば、時間は掛かるが、一人でも立ち上がることが出来る。わざわざテオドールに触れる必要はない。一人でだって、立てるのだ。私は、遠くへ放り投げられた杖を取って欲しいと、テオドールに頼んだ。テオドールは、目に見えて悲しげな表情へと変わる。

「私が触れることを、お許しくださらないのですか」
「……私は、汚れているから」
「どこも汚れてなどいません」
「テオ……今だけは、許してくれ……。……私に、触れないで」

 土で汚れているじゃないか。服だけじゃない。足だって、手だって、土埃で汚れてしまっている。それだけじゃない。私の体には、無数の痣がある。顔にだって、首筋にだって、足にだって。痣のない場所を探す方が難しい。ほら、こんなに汚れているじゃないか。

「……分かりました」

 頑なな私を見て、テオドールが静かに杖を拾い上げ、私に手渡す。私はその杖を地面に突き立て、自由の利かない右足に苦心しながら、何とか立ち上がった。その過程で、何度もテオドールが手助けを申し出てくれたけれど、私はそれらの全てを断った。分かってくれ、テオドール。こんな私には、触らない方がいいんだ。

「恐ろしい光景を見せてしまい、申し訳ありません。己を失っておりました」
「……いや、……私は大丈夫」
「しかし、私の恐ろしい姿を見たから、怯えていらっしゃるのでは?」

 私が震えているのは、テオドールが男に暴力を振るう姿を見たからだと、テオドールはそんな誤解をしているらしかった。そうではない、と首を左右に振るが、テオドールは信じてはくれなかった。

 自分が私を怯えさせていると、そう信じて疑っていないらしい。どんな姿を見たとしても、私がテオドールに対して怯えを抱くことなど無いというのに。

「貴方様が酷い暴力を振るわれてきたことを知っていながら……、あんなものを見せてしまった。どうか、私をお許し下さい」

 そうだ。テオドールは、分かっているのだ。私が暴力を振るわれてきたことを。殴られ、犯され、傷付けられてきた。それが分かっているのだから、私が汚れていることだって、よくよく理解しているはずだ。

「違う……テオは、何も悪くない。私のことを案じてくれたんだろう? ……ありがとう、テオが来てくれて助かった」

 テオドールは、見知らぬ男から乱暴にされていた私を救ってくれただけだ。対処の仕方が少し過激だったかもしれないけれど、それでもそのおかげで私は助かった。何も悪くない。

「先ほどの彼は……一体誰なんだ?」
「あれは、ブレンダン・ウィンパーという名の男です。以前、我が屋敷の前で喚きたて、オーリ様のお耳を汚した者ですよ」

 やはり、あの声の持ち主だったようだ。ブレンダン。聞き覚えのない名前だ。けれど、きっとテオドールと同じような経歴の人物なのだろうと察することが出来た。ゆっくりと歩く私に合わせた歩調で、テオドールも進んでいく。

「愚かにも、己が無礼を働いた方がオリヴィエ様本人だと気付かなかった。……もっと早く対処しておくべきでした」

 対処とは一体何なのだろう、と考えてみたが、答えは浮かばなかった。私の失態です、と憎々しく言葉を吐き出し、己自身を罰するかのようなおもてを浮かべるテオドールに、申し訳ない気持ちが湧いて来る。

「……やはり、普通は気付かないものなんだな」
「もともと、あの男はオリヴィエ様のご尊顔を拝する機会が少なかったですから」

 確かに、名前にも姿にも覚えがない。ということは、ブレンダンも私の姿を見たことがあまりないのかもしれない。加えて、今の私のみすぼらしい格好を見れば、かつて王子だった身分のものとは思いもしないのだろう。

「体の痣を、痘痕だと言っていた。……そう見えるんだな」
「全くそのようには見えません。あの男の目が狂っているのでしょう」

 どれだけの言葉を尽くしてテオドールが私を穢れてなどいない、と言ってくれても、私はそれを信じることが出来なかった。自分自身が一番分かっているからだ。何をされてきたか。その結果が、どのように己の体に刻みついているのか。

 加虐の日々は、記憶の奥底に封じて思い出さないようにしている。それでも溢れ出て来る記憶の残滓が、いつでも私を苛んだ。苦しい。苦しくて、泣いてしまいそうだ。いっそのこと、記憶喪失にでもなっていれば、こんな苦しみを抱かずに済んだのだろうか。

「汚い体だ。……醜くて、目も当てられない」
「そのようなことは、決して」

 強い否定の言葉。テオドールの優しさは温かくて、私を幸せな気持ちにしてくれる。けれど、その言葉を私の頑なな心は受け入れようとはしなかった。私が触れてしまえば、テオドールまで穢れてしまう。そんな恐怖が、私の全てを支配していた。

「……ありがとう、テオ」

 それは、テオドールの言葉を肯定する台詞ではなかった。彼の優しい言葉に対する感謝。ただ、それだけだった。私の心は、泥沼へと落ちていく。彼の差し出す手が届きそうもないほど、深く、暗い、汚泥の中へ沈んでいった。


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