オーリの純心

シオ

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 鼓膜を震わせるのは、鳥の囀りだった。何事かを語り合っているのか、とても盛んに声が響いている。彼らの言葉に耳を傾けているうちに、瞼が開いていった。

 強い陽光が私の目を刺して、開いた目を一度閉じた。そして、ゆっくりと光に慣らしながら瞼を持ち上げていく。世界は、真っ白で、とても綺麗だった。

「……テオ」

 私の頭の下にはテオドールの腕があった。近い距離で彼の顔を見つめ、愛しい人の名をそっと口にする。彼はまだ、しっかりと目を閉じて眠っていた。

 テオドールと共に生きるようになって随分と月日を経た。毎晩同じベッドで眠っているが、私の方が先に目覚めることは随分と珍しいことだった。滅多にお目にかかれないテオドールの寝顔を堪能する。

 視線を室内へと移す。彼が以前眠っていたソファが見えた。頑なに一緒に眠ってくれなかった日々が、懐かしく思える。今では体をぴったりと寄せ合って毎日眠っているのだ。離れて眠っていたなんて、考えられないほどに。

 随分と長く伸びてしまった白い髪を己の手で押し潰しながら、腕の力だけでぐっと体を上げる。ベッドの上に散乱している私の髪は、ジグムントが真っ白と形容したように、一切の色を持っていなかった。

 テオドールになら、鋏で髪を切られるのも恐ろしくはない。けれど、彼は私の白く長い髪を気に入っているようで、王子であった当時のような短髪には一度もしなかった。腰元まで伸びてしまったそれを、いつもテオドールは楽しそうに洗って、拭いて乾かして、梳かしている。

 ベッドの上に座り込んでみても、テオドールに起きる気配はなかった。昨晩も、当たり前のように私たちは愛し合っていた。深く交わり、互いの熱を存分に味わったのだ。

 そのあとの記憶は曖昧で、私はテオドールの手によって身を清められたのだと思う。何もかもを彼に任せてしまった。テオドールは疲れ果てて眠っているのだろうか。

 耳に掛けていた髪がさらりと落ちて視界を白が埋め尽くした。そんな邪魔な髪を再び耳に掛けながら、穏やかな寝息を立てるテオドールに近づいて、額に口付けを落とす。幸せな気持ちになって、思わず笑みが溢れた。

「おはようの挨拶は、唇へのキスでは?」

 テオドールが目を開いて、私を見ていた。赤い色彩を持つ双眸が、楽しそうにこちらを向いている。完璧な寝息、胸の上下、穏やかな寝顔。どうやら私はそれらに騙されていたらしい。

「……眠ったふりはやめてくれと言っただろう」
「すみません。貴方があまりにも可愛らしいことをなさるので」

 微笑みながらテオドールも起き上がり、私の体をぎゅうっと抱きしめた。私も両腕を彼の体を回す。こうして触れているだけで幸せだった。

「おはようございます、オーリ様」

 抱擁が一度解かれて、テオドールが私の頬に手を当てた。その動きで、私も察する。目を閉じて彼の到来を待った。ゆっくりと重なる唇。軽く啄み合う。それが朝の挨拶だった。 

「おはよう、テオ」

 唇を離し、額を突きつけ合って微笑む。どうしてだろう。テオドールの近くにいて、触れ合っているだけで頬が緩んでしまうのだ。これが幸せということなのだろう。こうして、私たちの一日が始まる。

 家令のモルガンが朝食の支度を整えてくれるまでの間に、身支度を済ませた。ベッドのそばに置かれた洗面器に注がれた水で顔を洗い、テオドールの手を借りて寝間着を脱ぎ、用意された衣服に着替える。

 私には女性が纏うような丈の長いスカートが用意されていた。以前も、スカートに似た構造のものを着ていたけれど、完全なスカートではなかった。だが、もうスカートを履くことへの抵抗も薄れ、スカートの方が都合が良いと感じ始め、今ではスカートを履いていた。

「おはようございます、テオドール様。オーリ様」

 モルガンが扉をノックしたのは、ちょうど私たちが身支度を整えた終えた頃だった。モルガンは家令としてとても優秀で、扉一枚向こう側の状況を察することに長けている。私はいつも、どうしてわかるのだろう、と疑問符を掲げてしまうのだ。

 朝食で出された食事の大半は、私とテオドールが庭で育てている野菜だった。庭園の一角を畑にしてもらい、二人で菜園を始めた。お互いに、仕事もなく時間を持て余していたので、私がやってみたいと言って始まったものだった。

「オーリ様、随分と食事の量が増えましたね」

 ナイフとフォークを使って、食事をしていた私を見て、テオドールがそんなことを口にした。思わず私は食器を持っていた手を止める。

「……太っただろうか?」
「いえ、そのようなことは。元々、ひどく痩せておられたので適正な体格に戻っただけだと思いますよ」

 食器をテーブルの上に置いて、自分の腹部に手を当てた。確かに、かつては肋骨や骨盤が浮き出ていたが、それらが肉の下へと隠れたような気がする。

 女性用のスカートを着用しているので、上も女性用のブラウスを纏っている。女性用なので、男物よりは細身ではあるが、まだ余裕をもって着ることが出来ていた。

「あまり、太らないように気をつけないと」
「そんなことを気になさらなくても大丈夫ですよ」
「でも……、服を着れなくなったら困るだろう」
「オーリ様の体格に合わせて、服を作らせれば良いだけです」

 私の懸念を、テオドールが軽い言葉で払拭してくれる。暴食などはしたことがないが、それでもテオドールと生活を始めてから食事が美味しく感じられて、ついついたくさん食べてしまうのだ。

「テオドールは、醜く太った私でも良いのか?」
「オーリ様が太られたとしても、醜いと思ったりしませんよ。私はオーリ様の容姿にではなく、その御心に恋をしているのですから」

 穏やかな顔でそんなことをさらりと言ってしまうテオドール。私は恥ずかしいやら、嬉しいやらで顔が熱くなってしまった。

「今日の散歩も、木靴を履かれますか?」
「あぁ、そうしようかな」

 食事を終えて、日課となっている散歩の準備を始める。それは私の足のための運動だった。私は自分の右足について諦めてきたのだが、テオドールは出来る限りのことをしようと手を尽くしてくれていた。

 最近では医者を屋敷に呼び寄せ、私の足の具合を診て貰っている。だが、医者に診て貰ったからと言って傷が無くなる訳ではなかった。傷を負った直後であれば、適切な治療を施して、再び歩行が可能になることもあっただろうが、今となっては困難だと説明される。

 それでも、火傷の痕が少しでも薄くなるように塗り薬を処方してくれている。テオドールが私の肌を医者に見せたくないというので、診察はして貰っていないのだが、身体中の傷に良い保湿性のある塗り薬を医者は持ってきてくれていた。

 それらの薬も、夜に愛し合って、湯浴みを終えた後にたっぷりとテオドールが私に塗り込んでくれているのだ。大抵、その頃の私は深い眠りに落ちていて全く覚えていないのだけれど、少しずつ浅くなる傷痕を見るに、そういうことなのだろう。

 医者が用意してくれたものの一つに、木靴があった。ブーツのような形をした木製の靴で、ふくらはぎから爪先までを包む形をしているものだった。

 椅子に座る私の足元に跪き、テオドールが私に木靴を履かせる。靴の中には布張りがされており、痛くはない。重量の軽い木材で作られているため、歩行を阻害することもない。かつての日々で足に付けられていた足枷の方が、何倍も重たかった。

 立ち上がったテオドールが私に手を差し出す。その手にしっかりと握り、支えられながら立ち上がる。木靴を履いたことで固定された右足と、左足で私は立っていた。

「お上手になられましたね」
「最初は、立っていることすら出来なかったからね」
「オーリ様はずっと努力なされている。ご立派です」
「……テオは私を褒めすぎだよ」

 長い間、右足を使わなかったことにより、私の右足は随分と脚力を失っていた。無くした筋力を取り戻すことにも苦労したけれど、やっとの思いで得た筋力を維持することも大変だった。手に入れたものを失わないためにも、散歩は重要な日課だったのだ。

「オーリ様、こちらをどうぞ」
「ありがとう。モルガン」

 有能な家令が差し出してくれたのは、ストールだった。首筋に見える痣を隠すためのそれを巻きつけ、私はテオの腕に手を組ませながら屋敷を出る。美しい庭園を抜けて、屋敷の前に通る石畳の道へ。

 小高い丘の上に建つヴィンツ邸のそばには、同程度の屋敷がいくつか並んでいる。その一帯から緩やかに下る坂道をおりていくと、賑やかな市場や店たちが建ち並んでいた。長閑でありながら、活気を孕む空気がこの街には満ちているのだ。

 屋敷の周りを一周、もう少し頑張れそうなら、さらにもう一周。そんな程度の散歩しかまだ出来ないけれど、私はそれを楽しんでいた。テオドールに支えられているとはいえ、自分の足で歩くというのがとても快感だったのだ。

「ヴィンツ様、ご婦人。こんにちは」

 他の家の使用人が私たちを認め、声を掛けてきた。小柄な老人が、被っていた帽子を手にとり、ぺこりと頭を下げる。隣の邸宅の庭師だったと記憶している。

「こんにちは」

 テオドールの声に合わせ、私も挨拶をした。ヴィンツ様、と言うのは私の隣に立つテオドール・ヴィンツのことだ。そして、ご婦人というのは私のことを指す。老人と逆方向に進み、少し歩いたところでテオドールが私を見た。

「……ご婦人、と呼ばれることに、やはり抵抗がありますか?」
「無い、といえば嘘になる」
「すみません。そのような身分に貶めてしまって」
「謝罪は不要だよ、テオ。抵抗はあっても、不満はない」

 オリヴィエ・アインハルトは、正式に死亡したことになった。国がそう発表したのだ。遺体は見つからないが、おそらく死んでいるだろうということだった。けれど、私はここにいる。テオの隣で生きている。

 そうして、私はオーリ・ヴィンツとして人生を始めたのだ。戸籍は、テオドールが役人に金を渡して作って貰ったという。金があれば、大抵のことはどうにでもなるらしい。

 オーリ・ヴィンツは女性であり、テオドールの配偶者ということになっていた。彼がそうして欲しいと私に願ったのだ。私は、なんでも良かった。テオがそうしたいのなら、それで良いと応えたのだ。

 ヴィンツ邸の近くに住む者たちは、私をヴィンツ夫人、だとか、ご婦人と言って呼びかけてくれる。そのたびに驚いてしまうけれど、それにもいずれ慣れていくのだろう。

「それにしても、本当に私は女だと思われているのだろうか」
「おそらくは。オーリ様の美しさは、性別を超えたものですから、周囲の者たちが誤解していても納得です」

 性別を超えた美しさ、などというものを私が持っているかどうかはよく分からないが、誤魔化すような格好をしている自覚はある。髪は女性のように長いし、肩幅を隠すようなストールを巻いて、スカートを履いている。

「というか。テオ、外で私に様を付けて呼ぶのはだめだと言っただろう」
「そうでした」
「何度言っても、その口調も改めてくれないし。私たちは、夫婦なんだ。夫であるテオがそんな口の利き方では不思議に思われてしまう」
「許してください……、オーリ」

 私たちは夫婦だというのに、妻である私に傅くようにテオドールが接していては周囲から不審に思われてしまう。せめて、外にいる時だけでも私を妻として扱わなければ、と私は注意しているのにテオドールはにこにこと微笑んでいた。

「どうして笑うんだ?」
「笑っていますか?」
「あぁ、笑っている」

 己の口元に手を当てて、テオドールは笑みの確認をしていた。間違い無く、笑っている。幸せそうに笑っている彼を見て、注意をしていたことなど忘れて私も笑ってしまった。

「オーリが、私との関係を夫婦だと言ってくれたことが……嬉しいのです」

 少しばかり顔を赤らめながらテオドールがそんなことを言うせいで、私の顔も熱くなってしまう。お互いに赤い顔をして、それがまた愉快で、私たちは声を漏らしながら笑ってしまった。

「夫婦、だろう。私たちは」
「えぇ、そうですね」

 笑い合って、心地よい風が吹き抜ける丘の上を並んで歩く。彼の手はいつだって私を強く支えて、その手に甘えることも私は覚えた。そんな私たちを世界は優しく包み込んでいた。

 あの地獄のただなかにいる私に伝えて、信じてくれるだろうか。私は愛する人と、幸せに生きていると。過去の辛苦全てを受け止めて、前に進む勇気を持つことが出来たのだと。支えられながらも、己の足で進むことを決めたのだと。

 思った通りには進めない。
 願った通りには生きられない。
 それでも私は、幸せだった。

「テオ、私の手をずっと握っていてね」
「もちろんです。……もう二度と、離しません」


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