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私は、テオドールに触れることに恐怖を抱くようになってしまった。触れられるのを恐れるのではなく、触れるのが怖いのだ。私が彼を汚してしまうという強烈な嫌悪感が、私の体を強く支配している。
日常の中での接触が、一切無くなった。彼の手がこちらへ伸びるたびに、私の体はびくりと震え、それを見たテオドールが手を引っ込める。そんなことの繰り返しで、私は彼の温もりに随分触れていない。
どうして簡単に割り切ることが出来ないのだろう。過去は過去なのだと、きっぱり忘れてしまえたらいいのに。酷いことをされた記憶に蓋をして、見ぬふりをすればいいのに。それが出来ない。
体と心に刻まれた恐怖は、今でも褪せることなく私に刻みついている。いつになったら、この恐怖は消えてくれるのか。いつになったら、私は怖がらずにテオドールに触れることが出来るのか。
私が怯え、触れることを拒み始めてから恐らくひと月ほどが過ぎている。こんな私に、テオドールはいつでも優しく接してくれた。嬉しくて、有り難くて、泣きたくなるのに。それでも彼に触れることを恐れ続けていた。
一日の殆どを庭で過ごしている。そこに本を持って行って、ベンチに腰掛けながら読書をしたり、用意してもらったお茶を飲みながら景色を眺めたり。静かに過ごす私を、少し離れたところからテオドールが見守ってくれているのだ。
今日も、そんな一日だった。時間を掛けて一人で着替えをし、テオドールと同じ机で朝食を摂った。会話はするけれど、お互いにぎこちない。そんな空気にさせているのは私だという自覚は、当然ある。
どうすればいいのだろう。このままでは良くないということくらい分かる。けれど、打開策は一切浮かんで来なかった。大きなため息を吐き捨てて、ベンチに腰掛けたまま地面を見つめる。
そんな時だった。真っ黒な姿が、私の足元に現れたのだ。わんっ、と大きく響く、低いひと鳴きが私の鼓膜を震わせる。
「え……?」
私は驚きながら顔を上げる。そこには、毛むくじゃらが座っていた。真っ黒な体。ピンと立った二つの耳。大きな尻尾が、バサバサと音を立てながら左右に揺れている。
「アルフレド……?」
それは、どこからどう見てもアルフレドだった。ジグムントの相棒。彼は犬だと言い張るが、私は狼だと信じている大きな獣。
「よう、まっしろ」
「ジグムント!」
声が聞こえた方に顔を向ければ、アルフレドの飼い主であるジグムントが軽く片手を上げて笑っていた。相変わらず汚れた服を着ている。洗濯をするから持ってきてと言ったのに、一度も持ってこなかった。口煩い私がいなくなったから、汚れた服を毎日着ているのだろう。
「どうしてここに?」
私の近くにやって来たジグムントに、即座にそう尋ねた。遠くで見守ってくれているテオドールが微笑んでいることから、彼はジグムントたちの来訪を知っていたのだろう。
「テオドールのやつが、まっしろが元気ないから遊びに来てくれって人を遣って俺に言いに来たんだよ」
「……テオが」
なんということだ。彼は、ジグムントたちの来訪を知っていたどころか、招いた本人だったのだ。私のために、彼らを呼び寄せてくれた。テオドールの気遣いに、胸が温かくなり、そして締め付けられた。
「なんだ? テオドールにいじめられたか?」
「そんなことないよ。すごく良くしてもらってる」
「そっか。そりゃ良かった。……じゃあ、俺はちょっとテオドールに挨拶してくるから。アルフレド、まっしろのこと頼んだぞ」
わふっ、と言ってアルフレドがジグムントに返事をする。以前から思っていたのだが、アルフレドは本当に人間の言葉を理解しているとしか思えない。
「アル……、久しぶりだね。私のことを覚えてる?」
ゆっくりとベンチから降り、芝生の上に腰を下ろす。私の足が不自由なことすら分かっているのか、アルフレドの方から私に近寄って来てくれた。大きな体に抱きつく。草の匂いがする硬い毛が、懐かしい。
「お前はお利口だね」
アルフレドの頭を撫でたり、顎の下を撫でたり。そうしながら、思いっきり抱きついたりして、優しいアルフレドの温もりを堪能する。こんな風に、誰かの熱を感じるのは随分と久しぶりのことだった。
どうして、アルフレドには触れられるのだろう。彼が人ではないからだろうか。理由は分からない。それでも、遠慮なしに私に体を擦り付けてくるアルフレドには、私も思い切り抱きつくことが出来た。
「ジグムントとは仲良くやってる?」
「俺とアルフレドは一番の相棒だぞ、仲良いに決まってるだろ」
アルフレドに問いかけたのだけれど、帰って来たジグムントが返答をした。それもそうだね、と私は返す。二人は、人と狼という異なる種族ではあるけれど、相棒であり、家族なのだ。
「テオドールのやつ、私には触れてくれないのにお前の犬はたくさん触れてもらってるぞ、とかってアルフレドに嫉妬してた」
勢いよく芝生の上に腰を下ろして、ジグムントはテオドールの真似をしながらそんなことを言った。その真似が随分と似ていて、私は思わず笑ってしまう。そんなことで嫉妬するなんて、と困りながら。
ジグムントは色々なことを話してくれた。村での出来事、私とも親交のあった村人の近況、そして森の様子。たくさんのことを話してくれたけれど、私のことは何も尋ねてこなかった。そんな彼に、私は救われる。私には、話したいと思える自分自身の出来事が何一つなかったのだ。
「……ねぇ、ジグムント。変なことを聞いてもいい?」
「何だよ。改まって」
楽しげに季節の移ろいを語るジグムントを見ていて、ふと胸に湧いた感情があった。少し躊躇しながら、その感情を言葉にし、ジグムントに問いかける。
「前に、ジグムントと弟さんのことを話してくれたことがあったよね。……口減らしにあって、弟さんが死んじゃったって」
「あぁ、話したな」
「ジグムントはあの村の人たちに助けてもらって生き延びたけど……、それを弟さんに申し訳なく思ったことはある? 一緒に死ぬべきだったって……そんな罪悪感に苦しんだりした?」
気軽に尋ねられる話題でないことは分かっていた。けれど、どうしても聞いてみたかったのだ。生き残ったことに、罪悪感はないのか、と。
私には、ある。共に死ぬべきだったという強い感情が、いつだって胸の中に存在している。胴体から切り離された首を思い出すたびに、吊るされて苦しげな顔のまま死んでいった姿を思い出すたびに。あの時、私も家族と共に死ぬべきだったのだと、そう思うのだ。
「そんなの、思うわけないだろ」
ジグムントの返答は、私の予想を覆した。自分勝手な考え方ではあるが、ジグムントも私と同じ気持ちだと思っていたのだ。そうして、お互い生き残った者同士として慰め合いたいと、きっと心のどこかで思っていた。
だが、返ってきた言葉は否定だった。強い否定の言葉だ。ジグムントは真っ直ぐに私を見て、迷うことなく私の甘えた感情全てを両断した。
「一緒に死ぬんだろうな、とは思ったよ。でも、死ぬべきだったなんて、一度も思ったことはない」
食糧も何もない森に置き去りにされ、飢えて死んだ弟を見ていたと言っていた。その姿に、己の未来を重ねたことだろう。自分もこうして死んでいくのだと感じたはずだ。だがそれでも、ジグムントは死ぬべきだったなどとは思わなかったという。
「俺は弟に、生きて苦しめって言われてるんだと思ってんだ」
「生きて……苦しめ?」
「そうだ。生きて、苦しんで、苦しんで。そんで楽しいこと、嬉しいこと、全部経験して、生き抜けって言われてんだよ。生きることは、誰にとっても苦しいことだ。楽しそうに生きてるように見える奴にだって、絶対に苦しい瞬間があるんだよ。……死んだ方が楽になることなんて、山ほどある」
死んだ方が楽になる。それは私自身何度も思ってきた。地獄に落とされたのだと思った。それなのにどうして生きているのか、と。早く死んで、楽になりたいと何度も何度も願っていた。
「俺が経験した全部を、あの世で弟に伝えなきゃなんねぇ。だから、苦しいことも耐える。辛いことからだって逃げねぇ。……それが、生き残っちまった俺の役目だ」
「……生き残った者の、役目」
饒舌に語るジグムントには、迷いがなかった。心の底からそう思って、その考えを支えに生きてきたのだということが良く分かる。とても、とても強い姿だった。
「アルフレドを見るたびに、弟のことを思い出す。……弟は、俺に一生消えない傷を残していった。大切で、大好きで、俺の半身だった。そんな弟を救えなかったし、死ぬ姿を眺めてることしか出来なかった。……そんな弟の姿を、アルフレドを見るたびに思い出してる」
狼のアルフレドに、弟の名を与えたのは、弟の存在を忘れないためだったのだろう。狼のアルフレドの名を呼ぶたびに、ジグムントは弟のことを想うのだ。ある種、狼のアルフレドは、ジグムンとにとって瑕疵だった。一番苦しいことを思い出させる、傷跡。
「辛くないのか……傷を直視するなんて」
「辛いに決まってんだろ。……弟の体から糞尿が出てきて、虫が湧くんだ。少しずつ肉が腐って、堪らない匂いがしてくる。動物たちは弟の肉を狙って、息を潜めてる。そうやって弟が消えていく姿を、俺はじっと眺めてた。その姿を思い出すんだから、めちゃくちゃ辛い」
ジグムントの言葉を聞きながら、私は泣いていた。何故涙が流れているのかは分からない。ただただ、強く生きるジグムントの姿に敬服する気持ちで胸がいっぱいになっていた。
「でも、それを乗り越えなきゃ生きていけない。俺は、辛くても生きなくちゃいけないんだ。……だから、乗り越えた。傷跡から目を逸らして逃げるんじゃなくて、直視して、受け止めて。この傷も俺の一部だって、受け入れるんだ。死んだアルフレドは、俺の半身だった。俺の一部なんだよ」
私には、その強さが無かった。受け入れられなかった。無きものにしたかった。辛い過去、痛ましい記憶に蓋をして、己の奥底へと封じ込んだ。その結果、いつまでも乗り越えられずに苦しんでいる。
「泣くなよ、まっしろ」
ジグムントは笑っていた。笑って私を見ている。彼だって、私の過去は知っているが、知った上で泣くなと言った。いつまで泣いているつもりだと、優しく私を叱咤する。
「泣いても、辛くても、死んでないなら生きなきゃいけない」
私の首は未だ、私の胴体の上にある。私の首には、太い荒縄が巻かれているわけでもない。生きている。私は、生き残っている。生きろと、言われている。
「生きろよ。頑張って乗り越えて、生きてみせろ」
「……私に、出来るかな」
「俺の知ってるまっしろは、結構根性あるやつだった」
お前なら出来るよ。ジグムントは、簡単にそんな言葉を口にした。無責任なことを言って、と拗ねたくなる気持ちもあったけれど、きっとジグムントは心の底からそう思ってくれているのだ。私になら、出来ると。
「ありがとう」
不思議な気持ちだった。何一つ、私が抱える問題は解決していないというのに、それでも万事問題なしと思えるような、妙な爽快感があった。今日、ジグムントとアルフレドに出会えて良かったと、心の底からそう思う。
私はアルフレドを再び抱きしめ、アルフレドも私の顔を舐めてくれた。励ましてくれているようだった。根拠のない勇気が湧いてくる。少し怖かったけれど、この機を逃せば、永遠にここで蹲ってしまうような予感があった。
家を空けるわけにはいかないというジグムントたちは、一泊することもなくあっさりと帰っていった。また来るから、と言い残して軽快に去っていく後ろ姿を私はテオドールと眺めた。
一人で入浴を済ませることにも慣れて、己で湯浴みを済ませ、ベッドへと入る。そんな私を、テオドールはいつも通りに見守ってくれていた。ベッドで眠る私と、ソファで横になるテオドール。
彼が寝入ったと信じて繰り返していた額への口付けは、彼が眠っていないと知った日からしていない。眠気の来ない頭のまま、燭台の光が照らす部屋の中を眺めていた。
真っ暗闇を怖がる私のために、多くの燭台が用意され、それらが一晩中、光を灯している。ソファで横になっているテオドールの顔も、良く見えた。目は閉じているが、眠っているのだろうか。
「……テオ」
小さな声で呼びかける。すると、彼の瞼がすっと上がり、流れるような所作で上体を起こす。ぼんやりとした暖色の光が照らす室内で、紅玉の双眸がこちらを見た。
「はい。オーリ様」
勇気を振り絞れ。己にそう言い聞かせながら、私も腕の力だけで体を起こし、右足を手で持ち上げてベッドの淵から落とす。右足が、ぺたりとベッドの下に敷かれた絨毯の上に降りた。そうして私はベッドの縁へ座る形となる。
「……私が、体に刻まれた傷を乗り越える様を、見守っていてくれる?」
テオドールがソファから立ち上がり、私のそばへとやって来て絨毯の上に片膝をつく。下からまっすぐ私を見上げ、彼の双眸は私だけを見ていた。
忘れたいと思った傷を、無かったことにしたいと願った過去を。それら全てを受け入れて、乗り越える。見てみぬふりをしていても、前には進めないとジグムントが言った。その通りだと思った。今、進まないといけないのだ。
「どうか、オーリ様。私に見守らせてください」
日常の中での接触が、一切無くなった。彼の手がこちらへ伸びるたびに、私の体はびくりと震え、それを見たテオドールが手を引っ込める。そんなことの繰り返しで、私は彼の温もりに随分触れていない。
どうして簡単に割り切ることが出来ないのだろう。過去は過去なのだと、きっぱり忘れてしまえたらいいのに。酷いことをされた記憶に蓋をして、見ぬふりをすればいいのに。それが出来ない。
体と心に刻まれた恐怖は、今でも褪せることなく私に刻みついている。いつになったら、この恐怖は消えてくれるのか。いつになったら、私は怖がらずにテオドールに触れることが出来るのか。
私が怯え、触れることを拒み始めてから恐らくひと月ほどが過ぎている。こんな私に、テオドールはいつでも優しく接してくれた。嬉しくて、有り難くて、泣きたくなるのに。それでも彼に触れることを恐れ続けていた。
一日の殆どを庭で過ごしている。そこに本を持って行って、ベンチに腰掛けながら読書をしたり、用意してもらったお茶を飲みながら景色を眺めたり。静かに過ごす私を、少し離れたところからテオドールが見守ってくれているのだ。
今日も、そんな一日だった。時間を掛けて一人で着替えをし、テオドールと同じ机で朝食を摂った。会話はするけれど、お互いにぎこちない。そんな空気にさせているのは私だという自覚は、当然ある。
どうすればいいのだろう。このままでは良くないということくらい分かる。けれど、打開策は一切浮かんで来なかった。大きなため息を吐き捨てて、ベンチに腰掛けたまま地面を見つめる。
そんな時だった。真っ黒な姿が、私の足元に現れたのだ。わんっ、と大きく響く、低いひと鳴きが私の鼓膜を震わせる。
「え……?」
私は驚きながら顔を上げる。そこには、毛むくじゃらが座っていた。真っ黒な体。ピンと立った二つの耳。大きな尻尾が、バサバサと音を立てながら左右に揺れている。
「アルフレド……?」
それは、どこからどう見てもアルフレドだった。ジグムントの相棒。彼は犬だと言い張るが、私は狼だと信じている大きな獣。
「よう、まっしろ」
「ジグムント!」
声が聞こえた方に顔を向ければ、アルフレドの飼い主であるジグムントが軽く片手を上げて笑っていた。相変わらず汚れた服を着ている。洗濯をするから持ってきてと言ったのに、一度も持ってこなかった。口煩い私がいなくなったから、汚れた服を毎日着ているのだろう。
「どうしてここに?」
私の近くにやって来たジグムントに、即座にそう尋ねた。遠くで見守ってくれているテオドールが微笑んでいることから、彼はジグムントたちの来訪を知っていたのだろう。
「テオドールのやつが、まっしろが元気ないから遊びに来てくれって人を遣って俺に言いに来たんだよ」
「……テオが」
なんということだ。彼は、ジグムントたちの来訪を知っていたどころか、招いた本人だったのだ。私のために、彼らを呼び寄せてくれた。テオドールの気遣いに、胸が温かくなり、そして締め付けられた。
「なんだ? テオドールにいじめられたか?」
「そんなことないよ。すごく良くしてもらってる」
「そっか。そりゃ良かった。……じゃあ、俺はちょっとテオドールに挨拶してくるから。アルフレド、まっしろのこと頼んだぞ」
わふっ、と言ってアルフレドがジグムントに返事をする。以前から思っていたのだが、アルフレドは本当に人間の言葉を理解しているとしか思えない。
「アル……、久しぶりだね。私のことを覚えてる?」
ゆっくりとベンチから降り、芝生の上に腰を下ろす。私の足が不自由なことすら分かっているのか、アルフレドの方から私に近寄って来てくれた。大きな体に抱きつく。草の匂いがする硬い毛が、懐かしい。
「お前はお利口だね」
アルフレドの頭を撫でたり、顎の下を撫でたり。そうしながら、思いっきり抱きついたりして、優しいアルフレドの温もりを堪能する。こんな風に、誰かの熱を感じるのは随分と久しぶりのことだった。
どうして、アルフレドには触れられるのだろう。彼が人ではないからだろうか。理由は分からない。それでも、遠慮なしに私に体を擦り付けてくるアルフレドには、私も思い切り抱きつくことが出来た。
「ジグムントとは仲良くやってる?」
「俺とアルフレドは一番の相棒だぞ、仲良いに決まってるだろ」
アルフレドに問いかけたのだけれど、帰って来たジグムントが返答をした。それもそうだね、と私は返す。二人は、人と狼という異なる種族ではあるけれど、相棒であり、家族なのだ。
「テオドールのやつ、私には触れてくれないのにお前の犬はたくさん触れてもらってるぞ、とかってアルフレドに嫉妬してた」
勢いよく芝生の上に腰を下ろして、ジグムントはテオドールの真似をしながらそんなことを言った。その真似が随分と似ていて、私は思わず笑ってしまう。そんなことで嫉妬するなんて、と困りながら。
ジグムントは色々なことを話してくれた。村での出来事、私とも親交のあった村人の近況、そして森の様子。たくさんのことを話してくれたけれど、私のことは何も尋ねてこなかった。そんな彼に、私は救われる。私には、話したいと思える自分自身の出来事が何一つなかったのだ。
「……ねぇ、ジグムント。変なことを聞いてもいい?」
「何だよ。改まって」
楽しげに季節の移ろいを語るジグムントを見ていて、ふと胸に湧いた感情があった。少し躊躇しながら、その感情を言葉にし、ジグムントに問いかける。
「前に、ジグムントと弟さんのことを話してくれたことがあったよね。……口減らしにあって、弟さんが死んじゃったって」
「あぁ、話したな」
「ジグムントはあの村の人たちに助けてもらって生き延びたけど……、それを弟さんに申し訳なく思ったことはある? 一緒に死ぬべきだったって……そんな罪悪感に苦しんだりした?」
気軽に尋ねられる話題でないことは分かっていた。けれど、どうしても聞いてみたかったのだ。生き残ったことに、罪悪感はないのか、と。
私には、ある。共に死ぬべきだったという強い感情が、いつだって胸の中に存在している。胴体から切り離された首を思い出すたびに、吊るされて苦しげな顔のまま死んでいった姿を思い出すたびに。あの時、私も家族と共に死ぬべきだったのだと、そう思うのだ。
「そんなの、思うわけないだろ」
ジグムントの返答は、私の予想を覆した。自分勝手な考え方ではあるが、ジグムントも私と同じ気持ちだと思っていたのだ。そうして、お互い生き残った者同士として慰め合いたいと、きっと心のどこかで思っていた。
だが、返ってきた言葉は否定だった。強い否定の言葉だ。ジグムントは真っ直ぐに私を見て、迷うことなく私の甘えた感情全てを両断した。
「一緒に死ぬんだろうな、とは思ったよ。でも、死ぬべきだったなんて、一度も思ったことはない」
食糧も何もない森に置き去りにされ、飢えて死んだ弟を見ていたと言っていた。その姿に、己の未来を重ねたことだろう。自分もこうして死んでいくのだと感じたはずだ。だがそれでも、ジグムントは死ぬべきだったなどとは思わなかったという。
「俺は弟に、生きて苦しめって言われてるんだと思ってんだ」
「生きて……苦しめ?」
「そうだ。生きて、苦しんで、苦しんで。そんで楽しいこと、嬉しいこと、全部経験して、生き抜けって言われてんだよ。生きることは、誰にとっても苦しいことだ。楽しそうに生きてるように見える奴にだって、絶対に苦しい瞬間があるんだよ。……死んだ方が楽になることなんて、山ほどある」
死んだ方が楽になる。それは私自身何度も思ってきた。地獄に落とされたのだと思った。それなのにどうして生きているのか、と。早く死んで、楽になりたいと何度も何度も願っていた。
「俺が経験した全部を、あの世で弟に伝えなきゃなんねぇ。だから、苦しいことも耐える。辛いことからだって逃げねぇ。……それが、生き残っちまった俺の役目だ」
「……生き残った者の、役目」
饒舌に語るジグムントには、迷いがなかった。心の底からそう思って、その考えを支えに生きてきたのだということが良く分かる。とても、とても強い姿だった。
「アルフレドを見るたびに、弟のことを思い出す。……弟は、俺に一生消えない傷を残していった。大切で、大好きで、俺の半身だった。そんな弟を救えなかったし、死ぬ姿を眺めてることしか出来なかった。……そんな弟の姿を、アルフレドを見るたびに思い出してる」
狼のアルフレドに、弟の名を与えたのは、弟の存在を忘れないためだったのだろう。狼のアルフレドの名を呼ぶたびに、ジグムントは弟のことを想うのだ。ある種、狼のアルフレドは、ジグムンとにとって瑕疵だった。一番苦しいことを思い出させる、傷跡。
「辛くないのか……傷を直視するなんて」
「辛いに決まってんだろ。……弟の体から糞尿が出てきて、虫が湧くんだ。少しずつ肉が腐って、堪らない匂いがしてくる。動物たちは弟の肉を狙って、息を潜めてる。そうやって弟が消えていく姿を、俺はじっと眺めてた。その姿を思い出すんだから、めちゃくちゃ辛い」
ジグムントの言葉を聞きながら、私は泣いていた。何故涙が流れているのかは分からない。ただただ、強く生きるジグムントの姿に敬服する気持ちで胸がいっぱいになっていた。
「でも、それを乗り越えなきゃ生きていけない。俺は、辛くても生きなくちゃいけないんだ。……だから、乗り越えた。傷跡から目を逸らして逃げるんじゃなくて、直視して、受け止めて。この傷も俺の一部だって、受け入れるんだ。死んだアルフレドは、俺の半身だった。俺の一部なんだよ」
私には、その強さが無かった。受け入れられなかった。無きものにしたかった。辛い過去、痛ましい記憶に蓋をして、己の奥底へと封じ込んだ。その結果、いつまでも乗り越えられずに苦しんでいる。
「泣くなよ、まっしろ」
ジグムントは笑っていた。笑って私を見ている。彼だって、私の過去は知っているが、知った上で泣くなと言った。いつまで泣いているつもりだと、優しく私を叱咤する。
「泣いても、辛くても、死んでないなら生きなきゃいけない」
私の首は未だ、私の胴体の上にある。私の首には、太い荒縄が巻かれているわけでもない。生きている。私は、生き残っている。生きろと、言われている。
「生きろよ。頑張って乗り越えて、生きてみせろ」
「……私に、出来るかな」
「俺の知ってるまっしろは、結構根性あるやつだった」
お前なら出来るよ。ジグムントは、簡単にそんな言葉を口にした。無責任なことを言って、と拗ねたくなる気持ちもあったけれど、きっとジグムントは心の底からそう思ってくれているのだ。私になら、出来ると。
「ありがとう」
不思議な気持ちだった。何一つ、私が抱える問題は解決していないというのに、それでも万事問題なしと思えるような、妙な爽快感があった。今日、ジグムントとアルフレドに出会えて良かったと、心の底からそう思う。
私はアルフレドを再び抱きしめ、アルフレドも私の顔を舐めてくれた。励ましてくれているようだった。根拠のない勇気が湧いてくる。少し怖かったけれど、この機を逃せば、永遠にここで蹲ってしまうような予感があった。
家を空けるわけにはいかないというジグムントたちは、一泊することもなくあっさりと帰っていった。また来るから、と言い残して軽快に去っていく後ろ姿を私はテオドールと眺めた。
一人で入浴を済ませることにも慣れて、己で湯浴みを済ませ、ベッドへと入る。そんな私を、テオドールはいつも通りに見守ってくれていた。ベッドで眠る私と、ソファで横になるテオドール。
彼が寝入ったと信じて繰り返していた額への口付けは、彼が眠っていないと知った日からしていない。眠気の来ない頭のまま、燭台の光が照らす部屋の中を眺めていた。
真っ暗闇を怖がる私のために、多くの燭台が用意され、それらが一晩中、光を灯している。ソファで横になっているテオドールの顔も、良く見えた。目は閉じているが、眠っているのだろうか。
「……テオ」
小さな声で呼びかける。すると、彼の瞼がすっと上がり、流れるような所作で上体を起こす。ぼんやりとした暖色の光が照らす室内で、紅玉の双眸がこちらを見た。
「はい。オーリ様」
勇気を振り絞れ。己にそう言い聞かせながら、私も腕の力だけで体を起こし、右足を手で持ち上げてベッドの淵から落とす。右足が、ぺたりとベッドの下に敷かれた絨毯の上に降りた。そうして私はベッドの縁へ座る形となる。
「……私が、体に刻まれた傷を乗り越える様を、見守っていてくれる?」
テオドールがソファから立ち上がり、私のそばへとやって来て絨毯の上に片膝をつく。下からまっすぐ私を見上げ、彼の双眸は私だけを見ていた。
忘れたいと思った傷を、無かったことにしたいと願った過去を。それら全てを受け入れて、乗り越える。見てみぬふりをしていても、前には進めないとジグムントが言った。その通りだと思った。今、進まないといけないのだ。
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