オーリの純心

シオ

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「テオ、隣に座って」

 頑なにベンチに座ろうとしないテオドールに、私はとうとう言葉にしてお願いすることにした。無言のまま待っていたとしても、彼が私の隣に座ることは永遠に無いだろうと察したのだ。

「……しかし」
「テオは私の従者じゃないんだ。そんな風に畏まって、距離を取らなくていい」

 そうやって距離を取られると寂しい、と小さく付け加えるとテオドールは素早い動きで私の隣へ腰を下ろした。

 膝の上に置かれたテオドールの手。私はそっと腕を伸ばし、彼の手に己の手を重ねた。大丈夫。震えていない。そう、何も恐ろしいことなどないのだから震える必要なんて微塵もないのだ。

 自分自身の体に語りかけながら、私は彼の手を撫でる。そんな私を、テオドールが微笑みながら見守った。

「オーリ様。私は、貴方様の従者になりたかったのですよ」
「……私の、従者に?」
「はい。畏れ多くも、親衛隊の隊長の座を狙っておりました」

 親衛隊。それは成人し、所領を与えられた王族につけられる兵団の名だった。親衛隊は、王族と常に行動を共にし、その身を守る。私にも親衛隊が与えられるはずだった。王子として、成人を迎えていたのなら。

「成人する前に王子ではなくなってしまった……、申し訳ない」

 成人として認められる日を、私はアントンの屋敷で迎えた。当時の私は王族としての地位も権力も剥奪され、奴隷のような身であった。詫びれば、テオドールが緩やかに首を振る。

「親衛隊の隊長にはなれませんでしたが、今こうしてオーリ様のおそばに侍ることを許されている。これ以上ないほどの幸福です」

 テオドールの微笑みは、私の心を容易く溶かす。幸福で幸福で堪らなくて、胸が苦しくなった。

「……ありがとう」
「礼には及びません」

 しばしの間、二人で景色を眺めながら言葉もなく時を過ごした。無言であっても全く苦痛ではない。むしろ、この静寂は心地よいものだった。

 風が強く吹くたびに乱れる髪が少し煩わしくて、乱暴に髪を抑えていると、テオドールが小さな声を出して笑った。笑われたことに羞恥を覚えるが、不快ではない。私も思わず笑い返す。

「そういえば、テオは今何をしているんだ?」
「特に何も。残された財産も、ゆっくりと食いつぶす毎日です」
「ということは……軍を辞めたのか?」

 私にとっては驚愕の事実だったのだが、彼は事も無げに笑って頷いた。軍人のテオドールは、私の憧れだった。彼のように強く逞しくあれたら、と羨望の眼差しで見つめていたのだ。

 そんな彼が軍人ではなくなったと聞いて、少しばかり残念に思う。けれど、彼には彼の意思があり、何らかの思いがあってその結論に至ったのだろう。私は彼の思いを尊重する。

「今、国王軍は国防軍と名を改めました。仕える相手が王から国へと変わった。そんなものに、私は興味が無い。私にとって、仕えるべき御方は王家の方のみ。そしてその最たる御方が貴方様なのです」
「……そう言ってもらえるのは嬉しい。父上や母上も天国でお喜びになっていると思う。……ただ、私はテオの軍服姿が好きだったんだ。あとは剣を振るう姿も」
「軍服姿はお見せできませんが、剣を振るう姿でしたらいつでもご覧に入れましょう」

 嬉しくなって体が跳ねそうになる。約束だ、と言ってテオドールの手を両手でぎゅっと握った。彼は相変わらず優しく微笑んでいる。

「オーリ様は、我ら軍人を憎んではおられませんか」
「え……?」
「革命を阻止できなかった我々を。……王家の皆様をお守り出来なかった我々を」

 そんなことを考えたことは一度もなかった。たくさんの者を憎み、恨んだが、テオドールたち軍人にその矛先を向けたことはない。

「……私は、家族皆の処刑を見届けた」

 あの日のことをテオドールに語るのは初めてだった。私は今でも鮮明に思い出せる。父の顔を、母の顔を。兄や姉、そして妹の無念を。人々の怒号と悪罵を。舞い上がった土埃と、人々の汗の臭いを。

「私を暴行していた男が、私に絶望を与えて楽しむために処刑場へ連れていかれたのだ」
「そんな……ことが」

 テオドールの目元が憤怒で歪む。彼の怒りは、私の心を慰めた。

「家族を苦しめ、死へ追いやった者たちには、素直に地獄へ落ちてほしいと思う。家族が味わった苦痛と悲痛、それら全てを味わって地獄で詫び続けろ、と」

 それは偽りのないもっとも素直な言葉だった。私は聖人ではない。憎悪を飲み下して、彼らの罪が許されるよう祈ることは出来ない。苦しんで苦しんで、果てのない後悔を味わえと常々思っていた。

「でも、テオドールを憎いなんて思ったことは無い」
「……御家族皆様をお救い出来ず、申し訳ありませんでした」
「謝らないで、テオ。貴方にそんな罪悪感を抱かせたくはない。……振り返れば、痛みと悲しみばかりで身動きが取れなくなってしまう。私は前を見て、前進することを決めたんだ」

 いずれ、体の震えも消えるだろう。テオドールの献身と真心、穏やかな生活と美しい景色。それらが私を芯から癒すと信じている。

「その道行きを守る誉れを、このテオドールにどうかお与え下さい」

 いつまでも、従者のような口振りで話すテオドールに、私は困りながら微笑んだ。彼に見守っていて欲しい。そうしていつか、彼の思いに報いたいのだ。






 テオドールの屋敷において、私にすべきことはない。掃除も洗濯も、使用人たちがやってしまう。役目を持たないというのは、なんとも落ち着かないものだった。無明を漂うように、亡羊と化した私をテオドールが書庫に誘う。

 蔵書は少ないなどとテオドールは評していたが、それが過小評価であったことを知った。歴史書や、恋愛小説、流行りの詩集などが揃えられており、私の目を飽きさせない。本を見ると、写本をしていた日々を思い出す。ジグムントは今、何をしているだろう。洗濯物は溜まっていないだろうか。

 書庫で軽い昼食を摂りながら、テオドールと書架を彷徨った。この本を読んだことがある、この作家は有名だ、などと色々話しながら楽しい時間を過ごした。気付いた時には、屋敷の外は暗くなり夜が訪れていた。私に宛がわれた部屋でテオドールと共に夕食を取る。とても穏やかな時が流れていた。

「オーリ様、湯浴みをされませんか?」

 夕食を終えて一息ついていた時、テオドールがそんな言葉をかけてきた。湯浴み、とはなんだっただろうか。思い出さなければならないほど、久方ぶりに聞く言葉だった。

「湯浴み……か」

 王城で生活していた時には、ほぼ毎日していたことだった。清潔さにこだわりを持っていた母の指導によって、私たち兄弟姉妹は湯あみを習慣として身に着けていた。ジグムントの庇護下にいた頃は、水浴びしか出来なかった。冷水であっても苦ではなかったが、それでも湯浴み程のんびりと出来るものではなかった。

「したい」

 その言葉は、驚くほどすんなりと口からこぼれ出ていた。それほど、心が渇望していたのだろう。では早速、といってテオドールに案内され浴室へ。

 私の部屋から然程遠くはない場所に浴室はあった。まずは脱衣場があり、その奥に湯殿がある。脱衣場は、じんわりと温かい。

「寒くはありませんか?」
「大丈夫、十分なほど暖かいよ」

 よくよく見てみると、部屋のいたるところに熱せられた温石が置かれている。それらが空間を暖めていたのだ。

「入浴のための手伝いをさせて頂いても宜しいですか?」

 入浴のための手伝いとはなんだろう、と少し考える。おそらくそれは、衣類を脱がすことや、体を拭くことを指しているのだろう。かつての私は、そういったこと全てを侍従に任せていた。服だって、彼らが脱がせ、そして濡れた体を拭いてくれていたのだ。それらは当然のことだった。

 当然のことであったのに、テオドールが真正面からそんなことを真面目に問いかけるものだがから、何だか恥ずかしくなる。手伝ってもらうことに、何か重大な意味が孕むような、そんな気恥ずかしさだ。

「……お願いします」

 俯きながら願い出る。そうして、テオドールが私の衣類をそっと脱がせていく。私は杖で己の体を支えて、彼の手を見ていた。少しずつ少しずつ晒されていく私の素肌。

「……私の肌、汚いだろう」
「痛ましいと思いますが、汚いなどとは微塵も思いませんよ」
「本当に?」
「ええ、嘘は申しません」

 見下ろす肌には、黒々とした痕が散っている。こんな汚い体を、彼は汚くないと言ってくれる。それだけで勇気が持てた。

 彼の前で一糸まとわぬ姿になっても、体は震えていない。大丈夫、震えていない。震えていたら、テオドールはきっと手を止めている。けれど、彼の手は私から全てを剥ぎ取った。大丈夫、何も怖くない。

「体が痛むようなことは、もう無いのですか?」
「痛みは……そんなにないかな。火傷で皮膚が硬くなったところは、たまに引き攣るような痛みがあるけれど、それくらいだよ」
「そうでしたか」

 見た目は酷い有様だが、今はどこも痛まない。痛かった記憶は、己の中に蓋をした。思い出さないようにしているのだ。

 テオドールの手が、私の肩に触れた。温かい部屋の中において、彼の手はどこかひんやりとしていて触れられた瞬間、びくりと肩が跳ねた。これは怯えているからではないと自分に言い聞かせる。けれど、そんな私の反応を見てテオドールはすぐに手を引っ込めた。

「傷を負ってもなお、オーリ様は美しい」
「……美しいなんて……そんなこと、ありえない」
「私の目には、とても美しくみえるのです」
「テオはあの、えっと、身贔屓というか……そういう、普通の判断が出来ない状態にあるんだ。きっとそうだ」
「身贔屓でも、惚れた弱みでも、何でも構いません。私にとって、オーリ様より美しい存在はいないのです」

 テオドールが私を想ってくれているということを鑑みると、それは痘痕も靨というやつだった。けれど、美しいと言われて嫌な気分になるわけがない。たとえ、そう言ってくれるのが世界で彼だた一人だとしても、私にとっては過ぎるほどの幸福だった。

「ですから、このようにお体を晒すのは私だけにしてくださいね」

 彼の手の甲が、私の頬をそっと撫でた。とても遠慮がちなその触れ方に、慈しみを感じる。私は彼の手に頬を寄せた。

「……テオ以外に見せるなんて、考えたくもない」
「そのように仰っていただけて、とても嬉しいです」

 さぁ、体が冷めてしまう前にどうぞ湯殿へ。そう言ってテオドールが私の背中をそっと押した。彼は湯殿にまでついてきてくれるようだ。杖をつきながら、私は前へ進む。


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