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温かかったから、天国なのだと思った。
光がきらきらと降り注いで、その眩しさで目が痛いほどだった。瞼の痛みを感じ取ると、別の痛みがどんどんとやって来た。腕、肩、背中、足。至る所に痛みがある。その痛みを受け取って、ここは天国などではないのだと理解した。
「ここは……」
窓から差し込む光に包まれたこの部屋は、小さな小屋のようだった。木材を組み合わせて作られただけの簡素な家。扉があり、小さな机があり、そして私はベッドで横になっていた。状況が全く理解出来ない。私は一体、どうなったのだ。
裸であったため、ベッドのシーツを引っ張って体に巻き付ける。あの下品な杖が見当たらず、壁に体重を掛け、全身に纏わりつく痛みに耐えながら少しずつ前へ進んだ。扉を開けようとした直後、私が触れるより前に扉が開く。
「お……っと、なんだ目ぇ覚めてたのか」
扉の向こうには、見知らぬ男が立っていた。私より随分と大柄で、赤毛の男だ。何をされるのか分からず、体が硬直してしまう。祈るような思いで、シーツを掴んで立ち尽くした。
「これ、ちょっと持ってみろよ」
そう言って目の前に突き出されたのは、木の棒だった。太い幹を削って研磨したのか、手触りがとても良い。恐る恐る言われた通りにそれを持った。
「そうじゃなくて、それを床につけるんだよ。足の支えになるかって話」
どうやら、これは杖であったようだ。言われるままに床に杖をつけて、体を支える。とても安定感があり、あの下品な杖とは比べものにならないほど身の丈に合っていた。
「うーん、もうちょっと短くしなきゃダメか」
椅子を引いて私をそこに座らせると男は私から杖を取り上げて、また扉から外へ出て行った。一体なんなのだ、と私はゆっくり椅子から立ち上がり、また壁伝いに扉の外へ出行く。
外は、緑に囲まれていた。木々が多く、地面は草に覆われて、少し先には透き通った小川と泉が見える。とても美しい場所で、本当に天国なのかもしれないとそう思った。
男は、家のすぐそばで工具を使って杖の長さを調整していた。素朴な背中には脅威の影がなく、私は緊張を少しばかり解く。
「あの……」
「ん?」
「貴方は……一体」
振り返らない男の背中に声を掛ける。大きな背中だった。テオも立派な体躯をしていたが、テオはもう少し細身であったように思う。
「俺はジグムント。水路に落ちてたお前を拾った」
ジグムントと名乗ったその男は、再び杖を持ってきて私の手に握らせた。驚くほどに丁度良い。まるで、新しい己の足のようだった。
「今度は丁度良いみたいだな」
「あの……この杖は……」
「お前にやるよ。その足じゃ大変だろ」
その言葉に、胸が熱くなった。瞳も熱を持つ。気付いた時には涙が溢れていた。こんなふうに、私を気遣う言葉は一年ぶりだった。私を案じて優しい言葉をかけてくれる人など、もうどこにもいないのだと思っていた。
顎が震えて、ガチガチと歯がぶつかり合う。今までずっと、耐えに耐えてきたものが一気に放出しているようだった。心が感じ取る。ここは、恐怖とは程遠い場所であると。
「……ありがとう」
「えっ、なんで泣くんだよ!」
震える声で感謝を伝えれば、ジグムントは驚いた。体が痛いのか、と慌てて家の中から椅子を持ってきて私をそこに座らせる。体の痛みなど、とうの昔に感じなくなっていたのだが、ふいに与えられた優しさで具合が良くなったような気すらする。
「優しい人に……久しぶりに会ったから」
「別に俺は優しくなんてねぇよ。お前の持ってた杖はちゃっかりもらったし」
杖。杖とはなんだろうか。そう思案して、答えはすぐに得た。アントンから与えられた、あの宝石が無駄につけられた下品な杖だ。たしかにあれを窓に投げつけて飛び降りたはずだったが、私の手元からなくなっている。
「……あんな杖はいらない。この杖をもらえて、私は嬉しい」
「あんな杖って……あれだけあれば、めちゃくちゃ贅沢して暮らせるんだぞ」
「そんなものはどうでもいい。あの杖は、もう二度と見たくないから、ジグムントに託したい」
あの杖を持っていても、嫌な記憶しか呼び起こせない。どれほど高価なものであったにしても、あんなものにはもう二度と触れたくなかった。
「正直言うとな、水路を流れてたお前を拾ったのは、あの杖があったからだ。金持ちの家に夜襲があるって聞いて、おこぼれがもらえないかなってあの辺をうろついてたら、水の中になんかが落ちる音がして。見に行ったらお前がいた」
「夜襲……?」
「あぁ。なんか、よく分かんねぇけど、あいつは何かを隠し持ってたらしくて、それを奪い返しに来たやつらがいるとか、なんとか。……で、お前を見つけて、お前が持ってた杖が金になりそうだって思ったから、それを掴んでるお前ごと引っ張り上げたんだ」
「そういうことか……それでも、助けてもらったことには違いがない。ありがとう、ジグムント」
私を助けたかったわけではないが、結果的に私の命はジグムントに救われた。感謝を伝えると、ジグムントは顔を赤くして目を逸らす。
「お前、なんなんだ? なんでそんなにぼろぼろで、あの屋敷にいて、しかも水路に飛び込んだんだよ」
なんなんだ、と問われて、どう答えれば良いのだろう。素直に言うのであれば、私はオリヴィエ・アインハルト。アインハルト国の第三王子だった者だ。だが、そんな風に名乗り上げて革命を起こした連中に引き渡されたらどうしよう。ジグムントのことをまだ信じきれない私は、口を噤む。
「……言いたくないなら、聞かない」
「すまない……、ありがとう」
「でも、名前が無いのは困る。とりあえず、俺はお前のこと、まっしろって呼ぶからな」
「まっしろ?」
「そう。髪の毛がまっしろだから」
安直な名づけに、私は笑ってしまった。なんで笑うんだ、とジグムントは少し怒っている。言われるまで忘れていた。私の髪は色を無くして、全て白くなってしまったのだった。瞳の色ももともと灰色がかっているから、余計に白い印象を与えてしまうのだろう。
「まっしろは、これから行くとこあるのか?」
「……ない」
行くところなど、どこにもない。帰る場所すらなく、帰りを待っていてくれる人もいない。これではもう、オリヴィエという人間がこの世から消え去ったも同然だった。
「じゃあ、暫くここにいればいい。お前のおかげで俺は大金を手に入れたわけだし、ちゃんと三食食わせてやるよ」
ジグムントから齎されたのは、思いがけない提案だった。身に染みた猜疑心から、彼を信じきれないものの、この一年のなかで出会った人間の中では一番信頼が置ける。そんなジグムントの庇護下に入れるのは、とても有難いことだった。
宜しく頼むと告げようとした直後、私はくしゃみをしてしまった。よくよく考えれば、私は裸にシーツを一枚羽織っただけの状態だったのだ。温かいところから抜け出て、そんな状態で外にいれば体が冷えるのも当然のことだった。くしゃみをした私を見て、ジグムントは笑っていた。
「服も買ってやるよ」
光がきらきらと降り注いで、その眩しさで目が痛いほどだった。瞼の痛みを感じ取ると、別の痛みがどんどんとやって来た。腕、肩、背中、足。至る所に痛みがある。その痛みを受け取って、ここは天国などではないのだと理解した。
「ここは……」
窓から差し込む光に包まれたこの部屋は、小さな小屋のようだった。木材を組み合わせて作られただけの簡素な家。扉があり、小さな机があり、そして私はベッドで横になっていた。状況が全く理解出来ない。私は一体、どうなったのだ。
裸であったため、ベッドのシーツを引っ張って体に巻き付ける。あの下品な杖が見当たらず、壁に体重を掛け、全身に纏わりつく痛みに耐えながら少しずつ前へ進んだ。扉を開けようとした直後、私が触れるより前に扉が開く。
「お……っと、なんだ目ぇ覚めてたのか」
扉の向こうには、見知らぬ男が立っていた。私より随分と大柄で、赤毛の男だ。何をされるのか分からず、体が硬直してしまう。祈るような思いで、シーツを掴んで立ち尽くした。
「これ、ちょっと持ってみろよ」
そう言って目の前に突き出されたのは、木の棒だった。太い幹を削って研磨したのか、手触りがとても良い。恐る恐る言われた通りにそれを持った。
「そうじゃなくて、それを床につけるんだよ。足の支えになるかって話」
どうやら、これは杖であったようだ。言われるままに床に杖をつけて、体を支える。とても安定感があり、あの下品な杖とは比べものにならないほど身の丈に合っていた。
「うーん、もうちょっと短くしなきゃダメか」
椅子を引いて私をそこに座らせると男は私から杖を取り上げて、また扉から外へ出て行った。一体なんなのだ、と私はゆっくり椅子から立ち上がり、また壁伝いに扉の外へ出行く。
外は、緑に囲まれていた。木々が多く、地面は草に覆われて、少し先には透き通った小川と泉が見える。とても美しい場所で、本当に天国なのかもしれないとそう思った。
男は、家のすぐそばで工具を使って杖の長さを調整していた。素朴な背中には脅威の影がなく、私は緊張を少しばかり解く。
「あの……」
「ん?」
「貴方は……一体」
振り返らない男の背中に声を掛ける。大きな背中だった。テオも立派な体躯をしていたが、テオはもう少し細身であったように思う。
「俺はジグムント。水路に落ちてたお前を拾った」
ジグムントと名乗ったその男は、再び杖を持ってきて私の手に握らせた。驚くほどに丁度良い。まるで、新しい己の足のようだった。
「今度は丁度良いみたいだな」
「あの……この杖は……」
「お前にやるよ。その足じゃ大変だろ」
その言葉に、胸が熱くなった。瞳も熱を持つ。気付いた時には涙が溢れていた。こんなふうに、私を気遣う言葉は一年ぶりだった。私を案じて優しい言葉をかけてくれる人など、もうどこにもいないのだと思っていた。
顎が震えて、ガチガチと歯がぶつかり合う。今までずっと、耐えに耐えてきたものが一気に放出しているようだった。心が感じ取る。ここは、恐怖とは程遠い場所であると。
「……ありがとう」
「えっ、なんで泣くんだよ!」
震える声で感謝を伝えれば、ジグムントは驚いた。体が痛いのか、と慌てて家の中から椅子を持ってきて私をそこに座らせる。体の痛みなど、とうの昔に感じなくなっていたのだが、ふいに与えられた優しさで具合が良くなったような気すらする。
「優しい人に……久しぶりに会ったから」
「別に俺は優しくなんてねぇよ。お前の持ってた杖はちゃっかりもらったし」
杖。杖とはなんだろうか。そう思案して、答えはすぐに得た。アントンから与えられた、あの宝石が無駄につけられた下品な杖だ。たしかにあれを窓に投げつけて飛び降りたはずだったが、私の手元からなくなっている。
「……あんな杖はいらない。この杖をもらえて、私は嬉しい」
「あんな杖って……あれだけあれば、めちゃくちゃ贅沢して暮らせるんだぞ」
「そんなものはどうでもいい。あの杖は、もう二度と見たくないから、ジグムントに託したい」
あの杖を持っていても、嫌な記憶しか呼び起こせない。どれほど高価なものであったにしても、あんなものにはもう二度と触れたくなかった。
「正直言うとな、水路を流れてたお前を拾ったのは、あの杖があったからだ。金持ちの家に夜襲があるって聞いて、おこぼれがもらえないかなってあの辺をうろついてたら、水の中になんかが落ちる音がして。見に行ったらお前がいた」
「夜襲……?」
「あぁ。なんか、よく分かんねぇけど、あいつは何かを隠し持ってたらしくて、それを奪い返しに来たやつらがいるとか、なんとか。……で、お前を見つけて、お前が持ってた杖が金になりそうだって思ったから、それを掴んでるお前ごと引っ張り上げたんだ」
「そういうことか……それでも、助けてもらったことには違いがない。ありがとう、ジグムント」
私を助けたかったわけではないが、結果的に私の命はジグムントに救われた。感謝を伝えると、ジグムントは顔を赤くして目を逸らす。
「お前、なんなんだ? なんでそんなにぼろぼろで、あの屋敷にいて、しかも水路に飛び込んだんだよ」
なんなんだ、と問われて、どう答えれば良いのだろう。素直に言うのであれば、私はオリヴィエ・アインハルト。アインハルト国の第三王子だった者だ。だが、そんな風に名乗り上げて革命を起こした連中に引き渡されたらどうしよう。ジグムントのことをまだ信じきれない私は、口を噤む。
「……言いたくないなら、聞かない」
「すまない……、ありがとう」
「でも、名前が無いのは困る。とりあえず、俺はお前のこと、まっしろって呼ぶからな」
「まっしろ?」
「そう。髪の毛がまっしろだから」
安直な名づけに、私は笑ってしまった。なんで笑うんだ、とジグムントは少し怒っている。言われるまで忘れていた。私の髪は色を無くして、全て白くなってしまったのだった。瞳の色ももともと灰色がかっているから、余計に白い印象を与えてしまうのだろう。
「まっしろは、これから行くとこあるのか?」
「……ない」
行くところなど、どこにもない。帰る場所すらなく、帰りを待っていてくれる人もいない。これではもう、オリヴィエという人間がこの世から消え去ったも同然だった。
「じゃあ、暫くここにいればいい。お前のおかげで俺は大金を手に入れたわけだし、ちゃんと三食食わせてやるよ」
ジグムントから齎されたのは、思いがけない提案だった。身に染みた猜疑心から、彼を信じきれないものの、この一年のなかで出会った人間の中では一番信頼が置ける。そんなジグムントの庇護下に入れるのは、とても有難いことだった。
宜しく頼むと告げようとした直後、私はくしゃみをしてしまった。よくよく考えれば、私は裸にシーツを一枚羽織っただけの状態だったのだ。温かいところから抜け出て、そんな状態で外にいれば体が冷えるのも当然のことだった。くしゃみをした私を見て、ジグムントは笑っていた。
「服も買ってやるよ」
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