オーリの純心

シオ

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 体が揺れている。

 男の胴の上に私は乗って、足を広く開けていた。片足の自由が効かないために、倒れそうになる体を必死になって保っている。

 どうしてこんなに必死になっているのだろうか。そうだ。この男の上から転げ落ちると、鞭で打たれるからだった。鞭は痛い。肌に水膨れが出来て、それがずるりと剥けてしまう。あの痛みは嫌いだった。

 下から突き上げてくるものが私の内部を擦るが、大した感慨はない。だが、男には大変快感であるらしく、もう何度も私の中で果てていた。じゅぶじゅぶ、と不愉快な水音が私の臀部から響いている。

 耳を塞いでしまいたい。目を瞑ってしまいたい。何も感じないただの人形になってしまいたい。

「オリヴィエ……っ、オリヴィエ……!」

 いつからか、アントンは私のことを王子とは呼ばなくなった。馴れ馴れしく名で呼ぶのだ。初めは気分が悪かったが、それもすぐにどうでも良くなった。自分の名がオリヴィエであるということも忘れていたくらいだ。

 己の体を見下ろす。どこもかしこも傷だらけだった。太腿にはナイフで悪戯につけられた切傷が。胸のあたりにはアントンが思い切り噛みつくせいで歯型の痣が出来ている。尻や背中はよく鞭で打たれるせいで、蛇が這ったようなあとがいくつも出来ている。顔の腫れは引いた方だろう。アントンは私の顔が好きなのか、顔に対する暴力は滅多に振るわない。

 私は汚い。

 どこを見ても、汚い。こんな汚物のような命は、さっさと終わってしまえばいいのに、しぶとく私は生きている。何故なのだろう。私の命に、何の意味があるというのだろう。ただこうして、男の慰み者にされるだけが私の生きる意味なのだろうか。なんという不細工な人生だ。

「……なんだっ!?」

 爆音と共にアントンが叫んだ。屋敷の中でとても大きな音がした。かつて聞いたことのある大砲の音に似ているような気がした。慌てたアントンは私を押し退けてベッドから降り、手近にあった服を引っ掴んで扉を開けた。

「いいですか、貴方はここにいてください。貴方を見られるわけにはいかないんだ」

 随分と早口でそう捲し立てて、アントンが部屋を出て行く。ご丁寧に外から鍵までかけていった。この部屋からは出られない。一体何が起こっているのかと私も少し不安になる。

 杖を使って歩き、扉に耳を当てる。怒号や銃声、悲鳴と爆音。そんな不穏なものが聞こえた。この屋敷が襲撃されているのだと察する。

 誰に襲撃されているのかは分からない。けれど、これはあの日に似ている。市民が反逆を起こした日だ。

 あの日から私の地獄が始まった。

 その恐怖が蘇って、上手く呼吸が出来ない。逃げなければ、と心が叫んだ。また捕まってしまう。痛くて、恐ろしくて、悲しくて、苦しい場所に連れて行かれる。私は混乱して、あの日と今の記憶がごちゃまぜになってしまっていた。

 逃げなければと、追い詰められていた。それだけが頭を占めた。杖に支えられて、窓まで近寄る。硝子の窓から見下ろすと、そこには用水路があった。

 今まで、この部屋の真下に用水路が走っているなんて知らなかった。逃げるという考えすらなかったからだ。逃げれば、より酷い目に遭わされる。だからこそ、逃げるという考えを捨てていた。だが、今は逃げなければならない。

 杖を振りかぶり、硝子を思い切り殴りつける。ガシャン、という激しい音がして窓硝子は割れた。アントンが戻ってくる様子はない。迷っている時間はなかった。真下へ落ちて、用水路の浅さによっては全身を殴打して死ぬかもしれない。それでもいい。とにかく今は、ここから離れると言うこと以外、何も考えられなかった。

 窓の木枠に手をかけて杖を握りながら、ずるりと己の身を落とす。空は暗く、落下しながら見えた夜空は美しかった。美しいものを、随分と久しぶりに見た。これで死んでもいいと思った。自死の果てに、地獄に落ちるのは恐ろしかったが、地獄などとうに見飽きた。もう何も怖くない。もっと早くにこうすれば良かった。

 死を目前にして、家族のことを思い出した。家族のことを考えると、私自身の心が蘇ってしまって現状に耐えられなくなる。だから、考えないようにしていたのだ。だが、もう良いだろう。私の大切な人たちのことを考えて、終わりの瞬間を迎えよう。

 決して万能ではなかったけれど、とても勤勉で優しかった父。とても美しく、明るくて、太陽のように輝いていた母。父のあとを継ぐ自覚が強く、立派だった上の兄。寡黙ではあったけれど、多くの本を読み聞かせてくれた真ん中の兄。たくさんの悪戯を教えてくれた下の兄。乗馬を愛し、活発で、それでいて聡明だった上の姉。静かに微笑んで、たくさんの本を読んでくれた下の姉。家族皆から愛されていた、愛しく小さな妹。皆を愛していたし、皆に愛されていた。もう一度、会いたかった。

 もう一度会いたい人は、あと一人だけいる。

「……テオ」

 テオは、私のことなど覚えていないかもしれない。たくさんいる王族のうちの一人という認識かもしれない。けれど、私にとってテオは大切な人だった。

 剣術を教えてもらっただけの関係ではない。彼を見に、何度も軍の詰所に通っていた。気付かれないように、こっそりと見つめる。それだけで十分だった。あのときは、単なる憧れなのだろうと思っていたが、今でははっきりと分かる。ただの憧れではなかったと。

「テオ……、テオドール、私は、貴方のことが」

 永遠にも思えた一瞬が終わり、私はその続きの言葉を口にすることは出来なかった。激しい水音を立てて、私は用水路へと落下する。

  あまりにも冷たい水が、容赦なく肌を刺した。家族のもとから連れ去られて、一年近くが過ぎていた。限りない暴力と加虐に心も体も疲れ果てた小さな体が、水路の中へと沈んでいく。



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