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第三章 我、太陽の如き愛の伯(おさ)とならん
最終話 幸せの音(2)
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魁英の浅く日焼けした頬が赤くなっていて、伯陽は眉をひそめる。熱中症にはならないだろうが、不安にさせる顔色だ。
灰色の目を持つ青年は、一月半前に吸血鬼となった。吸血鬼の王・葵穣を主とする真血のしもべである。理由があり、現在は葵穣と離れて生活している。息子に位を譲った朱昂が伯陽と暮らす家に居候していた。
青年の本名は英龍。龍の字を嫌った伯陽は「魁英」とあだ名して呼ぶ。
何をしている、と伯陽が問いかけると、魁英は足元の盥を指さした。子静・子躍が水浴びできそうなほど大型の盥だ。中で小魚が泳いでいる。赤、白、黒と鮮やかな体色だ。
「金魚がどうした」
「一匹変なのがいます」
体躯ばかりがすくすくと成長し、中身は少年らしさが抜けない魁英がぼやんとした口調で答えた。極度の口下手で、普段は限られた者としか会話が成立しない。
「変なのぉ?」
伯陽が魁英の隣に屈む。どれだと聞くまでもなく、伯陽は「変なの」を発見した。真っ黒の金魚が一匹、盥の縁に留まっているのだ。思い思いに回遊する同胞をものともせず、口先を水面近くにまで上げている。どう見ても、金魚は魁英を見上げていた。ちこちことひれを動かし、大きなぎょろ目で魁英を熱心に見つめている。
「お前のこと、見てない?」
「月鳴様もそう思いますか」
「うん」
魁英は伯陽を「月鳴」と呼ぶ。朱昂のしもべに戻った当初は封印しようとしていた名は、封じるにはあまりにも知られすぎていた。誰だかはよそで顔を合わせるたびに「月鳴ちゃん元気ぃ?」と人目も憚らず堂々と聞き、気を遣う素振りもない。そんなことが続き、諦めて通り名として使うようになったのだ。
伯陽は「キモチワル」とつぶやいて、立ち上がった。書店に戻ろうとしたが、当然ついてくると思った魁英はまだ屈んで魚と見つめあっている。
「魁英、行くよ」
魁英はちらっと伯陽を見るだけで動かない。近寄って少し声を強めると、魁英が顔を上げた。表情を見て伯陽はぎょっとした。魁英はもうはや涙目になっていた。眉を下げ、口をへの字にし、見ている間にもりもりと涙が膨れ上がった。
「か、魁英」
「月鳴様。俺、欲しい」
「一応聞くが、何を?」
「金魚、……買いたいですっ」
魁英が決意した表情で言った瞬間、つーと頬に涙が伝う。魁英は自分の望みを主張するのに、他者より五倍から十倍の決心が必要なのだ。伯陽は主張する魁英をいじましく感じた。胸に手を置いて、魁英の若さ溢れるおねだりを噛みしめる。深く息を吸って、答えた。
「だめです」
「ど、どうして」
「あと三日で引っ越し、今日の手荷物を増やしたくない、朱昂は魚が好きじゃない。――今度な。縁があったらまた会える」
朱昂が魚を愛玩するかどうかは知らないが、理由に付け加えて指を三本折った伯陽は、にこっと魁英に笑いかける。がっくりと肩を落とす魁英がうつむいている間に伯陽は黒い金魚を盗み見た。まだ魁英を見ている。
目ばかりぎょろっと大きくて、口の脇から絹糸のような髭が生えている。金魚というには動きも顔も奇妙すぎる。欲しがる魁英には悪いがかわいくない。
一月半前に半壊した家の代わりとして、湖のある風光明媚な土地を買って新居を建てた。眺望の素晴らしい一部屋は息子の伴侶たる若きしもべに与えると朱昂が決めた。寝室も一回り大きくした。広い中庭もある。書庫も別棟で作った。あとは魁英が朱昂に慣れれば素晴らしい家庭ができあがる。そこに髭の生えた正体不明の魚が加わる。飼っていた金魚が巨大化したという話は湛礼台でよく聞いた。これが大きくなったとしたら――。
伯陽は想像するだけで身震いした。断じてだめ。絶対だめである。魚は食べるだけでいい。
「魁英、行くよ」
「……はい」
心を鬼にして伯陽は魁英に背を向けた。ぐすっと魁英が鼻を鳴らしているのが聞こえる。ところが、鼻をすする音に混じって、妙な水音がした。
ボチャン。
思わず足を止めてしまった。ボチャン、とまたも音がする。ボチャン。
「金魚……!」
魁英の感極まった声まで聞こえる。伯陽は恐る恐る背後を見た。
魁英は両膝を地面につけて、盥の中を覗き込んでいた。泣いたばかりの目がきらきら輝いている。魁英の周りいっぱいにかわいいお花が咲いたように見え、動揺する伯陽の目の前で黒い金魚が水面から飛び上がった。ボチャンと着水する。飛んで、着水。ボチャン。
「うわ……」
「月鳴様、金魚、俺に買ってほしいって! 俺、買います!」
「待って!」
魁英はめったにない満面の笑みを伯陽に見せ、奥から店主を呼ぼうとする。伯陽は慌てて魁英が店主に向けてあげた手を掴んだ。また金魚が飛んだ。伯陽の手に鳥肌が立つ。
「魁英! 今日は荷物があるからだめだ!」
「え……、こ、腰! 腰にぶら下げます!」
いつもより魁英の頭のキレがいい。魁英がものをねだり、それに執着するとは余程のことと承知している伯陽も、引くわけにはいかなかった。
「朱昂が気に食わなかったらどうする? 朱昂は魚飼うなんて許さん。唐揚げにされるぞ!」
ごめんよ、朱昂。勝手に悪役に仕立てた主へ心の中で詫びながら、伯陽は伝家の宝刀を抜いた。刀の銘は「お父さんが許しませんよ」だ。しかし――。
「か、唐揚げにしないでって、朱昂様に頼みます。ちゃんと頼めば朱昂様だって……。それでも唐揚げにされたら、俺が食べ、食べて……っくぅ」
魁英が抵抗した。
泣かない! と涙をこらえている魁英に、伯陽は涙をもよおしそうだった。何をするにもびゃんびゃん泣き放題の魁英が、耐えているのだ。双子が影の中で魁英を応援している気配まであった。
「魁英。今はだめだと言っているだけ――」
「お客さん」
「はい?」
魁英を諭そうとすると肩を叩かれた。猫耳の店主があたりを指し示すように腕を動かす。
涙目の若者と中年男が、金魚を飼うかどうかで言い争っている。関わりたくないけど見ちゃう、そんな野次馬な視線が、周囲を見渡す伯陽に一斉に突き刺さった。
「さすがに迷惑なんだよね。結局買うの? 買わないの?」
「金魚鉢と水草も頼む。あと餌も」
「まいど」
耳の先まで真っ赤になった伯陽が財布を取り出す。
結局、魁英が本箱を両手に提げ、伯陽が金魚一式を持って帰路につくこととなった。
灰色の目を持つ青年は、一月半前に吸血鬼となった。吸血鬼の王・葵穣を主とする真血のしもべである。理由があり、現在は葵穣と離れて生活している。息子に位を譲った朱昂が伯陽と暮らす家に居候していた。
青年の本名は英龍。龍の字を嫌った伯陽は「魁英」とあだ名して呼ぶ。
何をしている、と伯陽が問いかけると、魁英は足元の盥を指さした。子静・子躍が水浴びできそうなほど大型の盥だ。中で小魚が泳いでいる。赤、白、黒と鮮やかな体色だ。
「金魚がどうした」
「一匹変なのがいます」
体躯ばかりがすくすくと成長し、中身は少年らしさが抜けない魁英がぼやんとした口調で答えた。極度の口下手で、普段は限られた者としか会話が成立しない。
「変なのぉ?」
伯陽が魁英の隣に屈む。どれだと聞くまでもなく、伯陽は「変なの」を発見した。真っ黒の金魚が一匹、盥の縁に留まっているのだ。思い思いに回遊する同胞をものともせず、口先を水面近くにまで上げている。どう見ても、金魚は魁英を見上げていた。ちこちことひれを動かし、大きなぎょろ目で魁英を熱心に見つめている。
「お前のこと、見てない?」
「月鳴様もそう思いますか」
「うん」
魁英は伯陽を「月鳴」と呼ぶ。朱昂のしもべに戻った当初は封印しようとしていた名は、封じるにはあまりにも知られすぎていた。誰だかはよそで顔を合わせるたびに「月鳴ちゃん元気ぃ?」と人目も憚らず堂々と聞き、気を遣う素振りもない。そんなことが続き、諦めて通り名として使うようになったのだ。
伯陽は「キモチワル」とつぶやいて、立ち上がった。書店に戻ろうとしたが、当然ついてくると思った魁英はまだ屈んで魚と見つめあっている。
「魁英、行くよ」
魁英はちらっと伯陽を見るだけで動かない。近寄って少し声を強めると、魁英が顔を上げた。表情を見て伯陽はぎょっとした。魁英はもうはや涙目になっていた。眉を下げ、口をへの字にし、見ている間にもりもりと涙が膨れ上がった。
「か、魁英」
「月鳴様。俺、欲しい」
「一応聞くが、何を?」
「金魚、……買いたいですっ」
魁英が決意した表情で言った瞬間、つーと頬に涙が伝う。魁英は自分の望みを主張するのに、他者より五倍から十倍の決心が必要なのだ。伯陽は主張する魁英をいじましく感じた。胸に手を置いて、魁英の若さ溢れるおねだりを噛みしめる。深く息を吸って、答えた。
「だめです」
「ど、どうして」
「あと三日で引っ越し、今日の手荷物を増やしたくない、朱昂は魚が好きじゃない。――今度な。縁があったらまた会える」
朱昂が魚を愛玩するかどうかは知らないが、理由に付け加えて指を三本折った伯陽は、にこっと魁英に笑いかける。がっくりと肩を落とす魁英がうつむいている間に伯陽は黒い金魚を盗み見た。まだ魁英を見ている。
目ばかりぎょろっと大きくて、口の脇から絹糸のような髭が生えている。金魚というには動きも顔も奇妙すぎる。欲しがる魁英には悪いがかわいくない。
一月半前に半壊した家の代わりとして、湖のある風光明媚な土地を買って新居を建てた。眺望の素晴らしい一部屋は息子の伴侶たる若きしもべに与えると朱昂が決めた。寝室も一回り大きくした。広い中庭もある。書庫も別棟で作った。あとは魁英が朱昂に慣れれば素晴らしい家庭ができあがる。そこに髭の生えた正体不明の魚が加わる。飼っていた金魚が巨大化したという話は湛礼台でよく聞いた。これが大きくなったとしたら――。
伯陽は想像するだけで身震いした。断じてだめ。絶対だめである。魚は食べるだけでいい。
「魁英、行くよ」
「……はい」
心を鬼にして伯陽は魁英に背を向けた。ぐすっと魁英が鼻を鳴らしているのが聞こえる。ところが、鼻をすする音に混じって、妙な水音がした。
ボチャン。
思わず足を止めてしまった。ボチャン、とまたも音がする。ボチャン。
「金魚……!」
魁英の感極まった声まで聞こえる。伯陽は恐る恐る背後を見た。
魁英は両膝を地面につけて、盥の中を覗き込んでいた。泣いたばかりの目がきらきら輝いている。魁英の周りいっぱいにかわいいお花が咲いたように見え、動揺する伯陽の目の前で黒い金魚が水面から飛び上がった。ボチャンと着水する。飛んで、着水。ボチャン。
「うわ……」
「月鳴様、金魚、俺に買ってほしいって! 俺、買います!」
「待って!」
魁英はめったにない満面の笑みを伯陽に見せ、奥から店主を呼ぼうとする。伯陽は慌てて魁英が店主に向けてあげた手を掴んだ。また金魚が飛んだ。伯陽の手に鳥肌が立つ。
「魁英! 今日は荷物があるからだめだ!」
「え……、こ、腰! 腰にぶら下げます!」
いつもより魁英の頭のキレがいい。魁英がものをねだり、それに執着するとは余程のことと承知している伯陽も、引くわけにはいかなかった。
「朱昂が気に食わなかったらどうする? 朱昂は魚飼うなんて許さん。唐揚げにされるぞ!」
ごめんよ、朱昂。勝手に悪役に仕立てた主へ心の中で詫びながら、伯陽は伝家の宝刀を抜いた。刀の銘は「お父さんが許しませんよ」だ。しかし――。
「か、唐揚げにしないでって、朱昂様に頼みます。ちゃんと頼めば朱昂様だって……。それでも唐揚げにされたら、俺が食べ、食べて……っくぅ」
魁英が抵抗した。
泣かない! と涙をこらえている魁英に、伯陽は涙をもよおしそうだった。何をするにもびゃんびゃん泣き放題の魁英が、耐えているのだ。双子が影の中で魁英を応援している気配まであった。
「魁英。今はだめだと言っているだけ――」
「お客さん」
「はい?」
魁英を諭そうとすると肩を叩かれた。猫耳の店主があたりを指し示すように腕を動かす。
涙目の若者と中年男が、金魚を飼うかどうかで言い争っている。関わりたくないけど見ちゃう、そんな野次馬な視線が、周囲を見渡す伯陽に一斉に突き刺さった。
「さすがに迷惑なんだよね。結局買うの? 買わないの?」
「金魚鉢と水草も頼む。あと餌も」
「まいど」
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