90 / 106
第二章 月ニ鳴ク獣
第四十七話 真血の秘術(3)
しおりを挟む
大きな体であるはずなのに、あまりにも軽いのが切なかった。夜着に染み付いた血や膿の匂いに朱昂は眉を寄せる。匂いはともかく、部屋の中はこまめに掃除をした気配がある。幼い幽鬼が懸命に世話をしたのだろう。
部屋を出て階段を下りようとした時、ついてくる白火の足が止まった。
「私はこちらで失礼いたします。階段を下りれば、あとは湛礼台の男衆が玄関までお見送りいたしましょう」
「白火、そなたに借りができた。身請けの金、そなたにも払わねばなるまい。借りは必ず返す故、もう少し猶予をくれ」
白火は白髪に簪も刺さず、衣も質素なものとなっていた。月鳴の花主に返り咲く金、その値は白火の分を超えていたに違いない。龍王に株を奪われた時、奪い返す金があればそうしていただろう。
白火は笑った。首を横に振る。
「公への治療代をようやく払うことができ、肩の荷が下りました。貸し借りはございません」
「そう、か……。それではもし」
言い募る朱昂の背に白火が手を添えた。
「朱昂様。月鳴は消え、腕の中のお方と私にはもう何のつながりもございません。どうか私のことは夢を見たとお思いになってお忘れください。……良い夢でした。幻市でこれほどの恋を見ることは、今後ございますまい」
朱昂は黙って、黄色の瞳を見るしかない。白火が、朱昂の背を軽く押すようにてのひらで叩いた。
「さあ、お早く。もう開店時間を過ぎています。他の客が上がって来る前に、お帰りになってください」
朱昂は階段を見た。伯陽を抱え直して下り始める。重かった足取りは一段下りるごとに軽くなっていく気がした。
中ほどまで来た頃、背後でどさりと音がした。すすり泣きが朱昂の足を止める。
「月鳴!」
胸を切り裂くような声だった。
涙声で吼える狐に、朱昂は背中を見せたまま振り返らなかった。一段下りる。下り始めると、足が勝手に動き、気づけば術式までたどり着いていた。男衆が美しい薄紅の衣で月鳴をすっぽりと覆った。
沈んだ月を呼ぶ狐の声はもう、聞こえなくなっていた。
-----
好奇の目をものともせず正面玄関から姿を現した朱昂を待っていたのは、意外な影だった。
「葵穣……こんなところに来なくとも」
「ひどい顔色。悠長に車で帰るような体調ではありません、帰ったらまた輸血です」
朱昂の乗ってきた車の横まで行くと、地面に転移術式がすでにかけられていた。
「人数が多すぎるので全員とはいきませんし、帰ったら即輸血が待っているので、一度に血領に帰る無謀はしません。何度かに分けて飛びますよ父上」
「……構わない」
「と、思っているような顔ではありませんが」
転移酔いしやすい朱昂が眉を下げる。力の温存のため回数を分けて術式を発動させるということは、帰るまでめまいが続くだろう。しかし、体力が限界に近付いている。これ以上息子に手間をかけさせるわけにはいかないと、朱昂は覚悟を決めた。
葵穣が地面に手を置くと、術式が光る。複雑な文様の中心に歩を進めようとした朱昂の襟を、誰かが後ろから引いた。
「月鳴ちゃん、お買い上げできた?」
振り向くと、淘乱がすぐそばに立っていた。普段通りにやにや笑いながら朱昂を見下ろす。うなずくと、目を細めた。薄紅の布の上から、男の頭をなでる。
「良かったねぇ、月鳴。大願成就のご祝儀をあげよう」
淘乱が葵穣の隣に屈み術式に手を置くと、複雑な文様を描く円が急激に拡張した。光の色も、青白いものから金色へと変化する。
「これは……」
「はあい、これでみんな一息に血王城まで帰れるよ。落ち着いたら主従でご接待よろしく。……俺としては親子でもいいけど♡」
術式の変化を見て唖然とする葵穣に、にーっと淘乱が笑う。息子の腰が引けるのを見て、淘乱の背中を蹴りたくなるのを朱昂は寸前でこらえた。朱昂が円の中央に立つと、淘乱が背を向けて歩き出す。目指す先に湛礼台の門がある。
くるりと淘乱が振り返った。目が合うと朱昂の肩が跳ね、淘乱が意地悪く笑う。
「一緒に帰りたそうな顔しちゃってかわいい。でもごめんねぇ、可哀想な狐を慰めなきゃいけないでしょう。――またね、朱昂」
「帰りますよ、父上」
淘乱の言葉を切り捨てるように葵穣が言い放った。朱昂がうなずく。金色の光が強くなり、朱昂の平衡感覚が歪んだ。瞬きをしたときには、もう、見慣れた血王城が広がっていたのだった。
第二章・月ニ鳴ク獣 了
-----
注)恋:断ち切れずに心が引かれる。思いわびる。いつまでも慕わしく心が乱れるさま。(漢字源)
部屋を出て階段を下りようとした時、ついてくる白火の足が止まった。
「私はこちらで失礼いたします。階段を下りれば、あとは湛礼台の男衆が玄関までお見送りいたしましょう」
「白火、そなたに借りができた。身請けの金、そなたにも払わねばなるまい。借りは必ず返す故、もう少し猶予をくれ」
白火は白髪に簪も刺さず、衣も質素なものとなっていた。月鳴の花主に返り咲く金、その値は白火の分を超えていたに違いない。龍王に株を奪われた時、奪い返す金があればそうしていただろう。
白火は笑った。首を横に振る。
「公への治療代をようやく払うことができ、肩の荷が下りました。貸し借りはございません」
「そう、か……。それではもし」
言い募る朱昂の背に白火が手を添えた。
「朱昂様。月鳴は消え、腕の中のお方と私にはもう何のつながりもございません。どうか私のことは夢を見たとお思いになってお忘れください。……良い夢でした。幻市でこれほどの恋を見ることは、今後ございますまい」
朱昂は黙って、黄色の瞳を見るしかない。白火が、朱昂の背を軽く押すようにてのひらで叩いた。
「さあ、お早く。もう開店時間を過ぎています。他の客が上がって来る前に、お帰りになってください」
朱昂は階段を見た。伯陽を抱え直して下り始める。重かった足取りは一段下りるごとに軽くなっていく気がした。
中ほどまで来た頃、背後でどさりと音がした。すすり泣きが朱昂の足を止める。
「月鳴!」
胸を切り裂くような声だった。
涙声で吼える狐に、朱昂は背中を見せたまま振り返らなかった。一段下りる。下り始めると、足が勝手に動き、気づけば術式までたどり着いていた。男衆が美しい薄紅の衣で月鳴をすっぽりと覆った。
沈んだ月を呼ぶ狐の声はもう、聞こえなくなっていた。
-----
好奇の目をものともせず正面玄関から姿を現した朱昂を待っていたのは、意外な影だった。
「葵穣……こんなところに来なくとも」
「ひどい顔色。悠長に車で帰るような体調ではありません、帰ったらまた輸血です」
朱昂の乗ってきた車の横まで行くと、地面に転移術式がすでにかけられていた。
「人数が多すぎるので全員とはいきませんし、帰ったら即輸血が待っているので、一度に血領に帰る無謀はしません。何度かに分けて飛びますよ父上」
「……構わない」
「と、思っているような顔ではありませんが」
転移酔いしやすい朱昂が眉を下げる。力の温存のため回数を分けて術式を発動させるということは、帰るまでめまいが続くだろう。しかし、体力が限界に近付いている。これ以上息子に手間をかけさせるわけにはいかないと、朱昂は覚悟を決めた。
葵穣が地面に手を置くと、術式が光る。複雑な文様の中心に歩を進めようとした朱昂の襟を、誰かが後ろから引いた。
「月鳴ちゃん、お買い上げできた?」
振り向くと、淘乱がすぐそばに立っていた。普段通りにやにや笑いながら朱昂を見下ろす。うなずくと、目を細めた。薄紅の布の上から、男の頭をなでる。
「良かったねぇ、月鳴。大願成就のご祝儀をあげよう」
淘乱が葵穣の隣に屈み術式に手を置くと、複雑な文様を描く円が急激に拡張した。光の色も、青白いものから金色へと変化する。
「これは……」
「はあい、これでみんな一息に血王城まで帰れるよ。落ち着いたら主従でご接待よろしく。……俺としては親子でもいいけど♡」
術式の変化を見て唖然とする葵穣に、にーっと淘乱が笑う。息子の腰が引けるのを見て、淘乱の背中を蹴りたくなるのを朱昂は寸前でこらえた。朱昂が円の中央に立つと、淘乱が背を向けて歩き出す。目指す先に湛礼台の門がある。
くるりと淘乱が振り返った。目が合うと朱昂の肩が跳ね、淘乱が意地悪く笑う。
「一緒に帰りたそうな顔しちゃってかわいい。でもごめんねぇ、可哀想な狐を慰めなきゃいけないでしょう。――またね、朱昂」
「帰りますよ、父上」
淘乱の言葉を切り捨てるように葵穣が言い放った。朱昂がうなずく。金色の光が強くなり、朱昂の平衡感覚が歪んだ。瞬きをしたときには、もう、見慣れた血王城が広がっていたのだった。
第二章・月ニ鳴ク獣 了
-----
注)恋:断ち切れずに心が引かれる。思いわびる。いつまでも慕わしく心が乱れるさま。(漢字源)
0
お気に入りに追加
25
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
【BL】僕(18歳)、イケメン吸血鬼に飼い慣らされる。
猫足02
BL
地下室に閉じ込められていた吸血鬼の封印が解け、王族は絶体絶命。このままでは国も危ないため、王は交換条件を持ちかけた。
「願いをひとつなんでも聞こう。それでこの城と国を見逃してはくれないか」
「よかろう。では王よ、お前の子供をひとり、私の嫁に寄越せ」
「……!」
姉が吸血鬼のもとにやられてしまう、と絶望したのも束の間。
指名されたのは、なんと弟の僕で……!?
社畜だけど異世界では推し騎士の伴侶になってます⁈
めがねあざらし
BL
気がつくと、そこはゲーム『クレセント・ナイツ』の世界だった。
しかも俺は、推しキャラ・レイ=エヴァンスの“伴侶”になっていて……⁈
記憶喪失の俺に課されたのは、彼と共に“世界を救う鍵”として戦う使命。
しかし、レイとの誓いに隠された真実や、迫りくる敵の陰謀が俺たちを追い詰める――。
異世界で見つけた愛〜推し騎士との奇跡の絆!
推しとの距離が近すぎる、命懸けの異世界ラブファンタジー、ここに開幕!
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる