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第二章 月ニ鳴ク獣

第四十七話 真血の秘術(3)

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 大きな体であるはずなのに、あまりにも軽いのが切なかった。夜着に染み付いた血や膿の匂いに朱昂しゅこうは眉を寄せる。匂いはともかく、部屋の中はこまめに掃除をした気配がある。幼い幽鬼が懸命に世話をしたのだろう。
 部屋を出て階段を下りようとした時、ついてくる白火はくびの足が止まった。

「私はこちらで失礼いたします。階段を下りれば、あとは湛礼台たんれいだいの男衆が玄関までお見送りいたしましょう」
「白火、そなたに借りができた。身請けの金、そなたにも払わねばなるまい。借りは必ず返す故、もう少し猶予をくれ」

 白火は白髪に簪も刺さず、衣も質素なものとなっていた。月鳴の花主はなぬしに返り咲く金、その値は白火の分を超えていたに違いない。龍王に株を奪われた時、奪い返す金があればそうしていただろう。
 白火は笑った。首を横に振る。

「公への治療代をようやく払うことができ、肩の荷が下りました。貸し借りはございません」
「そう、か……。それではもし」

 言い募る朱昂の背に白火が手を添えた。

「朱昂様。月鳴は消え、腕の中のお方と私にはもう何のつながりもございません。どうか私のことは夢を見たとお思いになってお忘れください。……良い夢でした。幻市でこれほどの恋を見ることは、今後ございますまい」

 朱昂は黙って、黄色の瞳を見るしかない。白火が、朱昂の背を軽く押すようにてのひらで叩いた。

「さあ、お早く。もう開店時間を過ぎています。他の客が上がって来る前に、お帰りになってください」

 朱昂は階段を見た。伯陽を抱え直して下り始める。重かった足取りは一段下りるごとに軽くなっていく気がした。
 中ほどまで来た頃、背後でどさりと音がした。すすり泣きが朱昂の足を止める。

「月鳴!」

 胸を切り裂くような声だった。
 涙声で吼える狐に、朱昂は背中を見せたまま振り返らなかった。一段下りる。下り始めると、足が勝手に動き、気づけば術式までたどり着いていた。男衆が美しい薄紅の衣で月鳴をすっぽりと覆った。
 沈んだ月を呼ぶ狐の声はもう、聞こえなくなっていた。

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 好奇の目をものともせず正面玄関から姿を現した朱昂を待っていたのは、意外な影だった。

葵穣きじょう……こんなところに来なくとも」
「ひどい顔色。悠長に車で帰るような体調ではありません、帰ったらまた輸血です」

 朱昂の乗ってきた車の横まで行くと、地面に転移術式がすでにかけられていた。

「人数が多すぎるので全員とはいきませんし、帰ったら即輸血が待っているので、一度に血領けつりょうに帰る無謀はしません。何度かに分けて飛びますよ父上」
「……構わない」
「と、思っているような顔ではありませんが」

 転移酔いしやすい朱昂が眉を下げる。力の温存のため回数を分けて術式を発動させるということは、帰るまでめまいが続くだろう。しかし、体力が限界に近付いている。これ以上息子に手間をかけさせるわけにはいかないと、朱昂は覚悟を決めた。
 葵穣が地面に手を置くと、術式が光る。複雑な文様の中心に歩を進めようとした朱昂の襟を、誰かが後ろから引いた。

「月鳴ちゃん、お買い上げできた?」

 振り向くと、淘乱とうらんがすぐそばに立っていた。普段通りにやにや笑いながら朱昂を見下ろす。うなずくと、目を細めた。薄紅の布の上から、男の頭をなでる。

「良かったねぇ、月鳴。大願成就のご祝儀をあげよう」

 淘乱が葵穣の隣に屈み術式に手を置くと、複雑な文様を描く円が急激に拡張した。光の色も、青白いものから金色へと変化する。

「これは……」
「はあい、これでみんな一息に血王城まで帰れるよ。落ち着いたら主従でご接待よろしく。……俺としては親子でもいいけど♡」

 術式の変化を見て唖然とする葵穣に、にーっと淘乱が笑う。息子の腰が引けるのを見て、淘乱の背中を蹴りたくなるのを朱昂は寸前でこらえた。朱昂が円の中央に立つと、淘乱が背を向けて歩き出す。目指す先に湛礼台の門がある。
 くるりと淘乱が振り返った。目が合うと朱昂の肩が跳ね、淘乱が意地悪く笑う。

「一緒に帰りたそうな顔しちゃってかわいい。でもごめんねぇ、可哀想な狐を慰めなきゃいけないでしょう。――またね、朱昂」
「帰りますよ、父上」

 淘乱の言葉を切り捨てるように葵穣が言い放った。朱昂がうなずく。金色の光が強くなり、朱昂の平衡感覚が歪んだ。瞬きをしたときには、もう、見慣れた血王城が広がっていたのだった。


第二章・月ニ鳴ク獣 了
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注)恋:断ち切れずに心が引かれる。思いわびる。いつまでも慕わしく心が乱れるさま。(漢字源)
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