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第二章 月ニ鳴ク獣
第三十八話 逃避行の終わり(3)
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「莉燈は長くないと、周りも思っているようだな」
現在の太傅・莉燈は真血の主から権力を奪い取り、吸血族の頂点にある女だ。莉燈の後釜に誰が座るか、王城で権力闘争が激化しているらしい。
正当な王である朱昂を王城に招き寄せ、その功をもって自らの立場を盤石にしたい者、または朱昂復権後の報復を恐れ、協力する代わりに許しを請う者の手紙が、人界の朱昂の屋敷に届くようになった。数は多くない。だが、形勢は明らかに朱昂に傾き始めている。
「右将軍が承知したのは意外でした。しかし、軍を押さえられたのは大きい」
将軍が朱昂の要求をのんだことを聞いた仁波が、卓の上を見ながら言った。王城の見取り図が乗った卓を、朱昂と朱昂の使い魔、仁波で囲んでいた。向かい側に座る仁波の態度は、言葉とは裏腹に全く意外そうな素振りがない。朱昂が目だけで笑う。
「さて、『門まで送る』と言ったのは確かだが、城の門をくぐった後に背後から突いてくるかもしれん。右将軍が軍をどこまで御せるかも分からない。もしも、一糸乱れず兵卒がこちらを攻撃してこないようであれば、将軍職を解くわけにはいかんな」
「将軍には絶対にお殿に従ってもらわないと。向かってくる兵卒皆殺しにする気でしょ、お殿」
「当然」
仁波が即答した。「まさか」と言った朱昂の声と重なる。朱昂は少し眉を上げただけで苦笑一つもらさない。この主従は、と玄姫が眉間にしわを寄せる。
「あまり兵卒削っちゃだめだよ。即位した後に兵がいないなんてなったら、面倒でしょう」
姉の苦言を聞きながら、白郎が見取り図の下に置かれていた図を広げる。それは一見して家系図のように名前が連なっている。しかし山形に線が広がらないところが血統を示す図と違った。「司徒」「司空」などの文字が大きく書かれているそれは、吸血族の官職を示す図であった。
「右将軍を残すとなると、武官の空きは残りわずかですね」
朱昂は、即位後の人事をすでに考え始めていた。誰を残し、誰を排するか。官職ごとつぶしてしまうものもいくつかあった。
「結局、王が自由にできるのは軍の一部と医部だけだ。王座に座った途端逆臣どもを手足とせねばならん、苦行よ」
朱昂親子の手勢は少ないが、それら全てを要職につけてしまうと今いる高官の立場を奪うことになり、反感を強める。朱昂に投げ文をしてくる者たちの意思を顧みなければ、再び内乱だ。
弱った莉燈の勢力を踏み潰すのは容易い。だが、その後の政権運営を考えるとなるべく被害は小さくして王座を奪いたかった。
「しかし現状があまり長引くと、柘律殿側で自由にできる範囲というのも狭まってきます。莉燈の先が短いということが知れ渡れば助命の文はいよいよ増えましょう」
仁波の言葉に朱昂は図に目を落としたまま、「そう待つつもりはないよ」と小さく言った。
はやる気持ちを懸命に押し殺した表情で、仁波は主を見る。朱昂は仁波の半白の頭を見る。出会った頃は血気が漲った頬には、老木のような冷静が宿っていた。
「ようやく第一歩だ。葵穣を王にするためのお前の苦労も少しは報われる」
「すべて御心のままに」
「葵穣が成魔になったら、起つ」
用意をさせようと、朱昂は告げた。城攻めの用意を、居を移す用意を、王となる用意を。
「攻めるぞ」
逃避行は終わった。こちらから攻める戦を始める。初陣だと、朱昂は小さく笑った。
-----
真血の主が王城へと出発を始めたのは寒風吹きすさぶ冬の日だった。
太陽が赤に染まる頃、突如として王都に攻め込んだのはたった五百の兵。その先頭を駆ける朱昂を、王城の門番は矛を向けることなく受け入れた。
王城の中は大混乱であったという。情勢に疎く私兵を引き連れて一室に籠る者、朱昂の兵らが通り過ぎた後に、「我こそが朱昂様を招き入れたのだ」と万歳を叫ぶ者、もちろん徹底抗戦をする者もおり、王座の間に続く廊下は武装した兵で埋め尽くされた。
にらみ合う両者。その時、寄せ手から兵らを飛び越えるように現れ、彼らの前に仁王立ちした者がある。それは、正気を失った父親に誘拐されたとも、殺害されたとも噂されていた王子であった。
眉目秀麗な王子は、紅い目を怒らせ牙をむき出しにし、大音声で叫んだのだ。
「そなたらの剣は誰を守るためにあるのだ! 王が通る、退け!!」
慄く兵らは王子の後ろからゆっくりと現れたひとりの男に気がついた。若い王子より一層深い紅の瞳。精神を病んでいたはずの正当な王。
兵らはみな彼の瞳に見つめられたように感じ、剣を下げながら理解した。彼こそが、赤き水を統べるものであると。自らの血が、歓喜の熱を帯びて流れていることを。
「退けと王子は言ったのだが」
朱昂の一声の後、兵は総崩れした。玉座が朱昂を迎えるのはその四半刻後のこと。澄んだ闇に夕暮れの余韻がまだ残る内に、朱昂は王城を制圧したのだった。
-----
莉燈はというと、病を押して城を脱出し、一昼夜の後に朽ちたあばら家で死んでいたところを発見された。
見つかった時には死体からは血が抜かれており、頭と心臓、手足首の先から切断されその場に転がっていたという。遺体の状況を聞いた朱昂は、莉燈を切り刻むために家族を殺された吸血鬼が集まることを厭って、直ちにあばら家ごと火をかけ燃やせと命じた。
悔し泣きと呪詛の声は、火が消えた後も続いたとのことだった。
現在の太傅・莉燈は真血の主から権力を奪い取り、吸血族の頂点にある女だ。莉燈の後釜に誰が座るか、王城で権力闘争が激化しているらしい。
正当な王である朱昂を王城に招き寄せ、その功をもって自らの立場を盤石にしたい者、または朱昂復権後の報復を恐れ、協力する代わりに許しを請う者の手紙が、人界の朱昂の屋敷に届くようになった。数は多くない。だが、形勢は明らかに朱昂に傾き始めている。
「右将軍が承知したのは意外でした。しかし、軍を押さえられたのは大きい」
将軍が朱昂の要求をのんだことを聞いた仁波が、卓の上を見ながら言った。王城の見取り図が乗った卓を、朱昂と朱昂の使い魔、仁波で囲んでいた。向かい側に座る仁波の態度は、言葉とは裏腹に全く意外そうな素振りがない。朱昂が目だけで笑う。
「さて、『門まで送る』と言ったのは確かだが、城の門をくぐった後に背後から突いてくるかもしれん。右将軍が軍をどこまで御せるかも分からない。もしも、一糸乱れず兵卒がこちらを攻撃してこないようであれば、将軍職を解くわけにはいかんな」
「将軍には絶対にお殿に従ってもらわないと。向かってくる兵卒皆殺しにする気でしょ、お殿」
「当然」
仁波が即答した。「まさか」と言った朱昂の声と重なる。朱昂は少し眉を上げただけで苦笑一つもらさない。この主従は、と玄姫が眉間にしわを寄せる。
「あまり兵卒削っちゃだめだよ。即位した後に兵がいないなんてなったら、面倒でしょう」
姉の苦言を聞きながら、白郎が見取り図の下に置かれていた図を広げる。それは一見して家系図のように名前が連なっている。しかし山形に線が広がらないところが血統を示す図と違った。「司徒」「司空」などの文字が大きく書かれているそれは、吸血族の官職を示す図であった。
「右将軍を残すとなると、武官の空きは残りわずかですね」
朱昂は、即位後の人事をすでに考え始めていた。誰を残し、誰を排するか。官職ごとつぶしてしまうものもいくつかあった。
「結局、王が自由にできるのは軍の一部と医部だけだ。王座に座った途端逆臣どもを手足とせねばならん、苦行よ」
朱昂親子の手勢は少ないが、それら全てを要職につけてしまうと今いる高官の立場を奪うことになり、反感を強める。朱昂に投げ文をしてくる者たちの意思を顧みなければ、再び内乱だ。
弱った莉燈の勢力を踏み潰すのは容易い。だが、その後の政権運営を考えるとなるべく被害は小さくして王座を奪いたかった。
「しかし現状があまり長引くと、柘律殿側で自由にできる範囲というのも狭まってきます。莉燈の先が短いということが知れ渡れば助命の文はいよいよ増えましょう」
仁波の言葉に朱昂は図に目を落としたまま、「そう待つつもりはないよ」と小さく言った。
はやる気持ちを懸命に押し殺した表情で、仁波は主を見る。朱昂は仁波の半白の頭を見る。出会った頃は血気が漲った頬には、老木のような冷静が宿っていた。
「ようやく第一歩だ。葵穣を王にするためのお前の苦労も少しは報われる」
「すべて御心のままに」
「葵穣が成魔になったら、起つ」
用意をさせようと、朱昂は告げた。城攻めの用意を、居を移す用意を、王となる用意を。
「攻めるぞ」
逃避行は終わった。こちらから攻める戦を始める。初陣だと、朱昂は小さく笑った。
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真血の主が王城へと出発を始めたのは寒風吹きすさぶ冬の日だった。
太陽が赤に染まる頃、突如として王都に攻め込んだのはたった五百の兵。その先頭を駆ける朱昂を、王城の門番は矛を向けることなく受け入れた。
王城の中は大混乱であったという。情勢に疎く私兵を引き連れて一室に籠る者、朱昂の兵らが通り過ぎた後に、「我こそが朱昂様を招き入れたのだ」と万歳を叫ぶ者、もちろん徹底抗戦をする者もおり、王座の間に続く廊下は武装した兵で埋め尽くされた。
にらみ合う両者。その時、寄せ手から兵らを飛び越えるように現れ、彼らの前に仁王立ちした者がある。それは、正気を失った父親に誘拐されたとも、殺害されたとも噂されていた王子であった。
眉目秀麗な王子は、紅い目を怒らせ牙をむき出しにし、大音声で叫んだのだ。
「そなたらの剣は誰を守るためにあるのだ! 王が通る、退け!!」
慄く兵らは王子の後ろからゆっくりと現れたひとりの男に気がついた。若い王子より一層深い紅の瞳。精神を病んでいたはずの正当な王。
兵らはみな彼の瞳に見つめられたように感じ、剣を下げながら理解した。彼こそが、赤き水を統べるものであると。自らの血が、歓喜の熱を帯びて流れていることを。
「退けと王子は言ったのだが」
朱昂の一声の後、兵は総崩れした。玉座が朱昂を迎えるのはその四半刻後のこと。澄んだ闇に夕暮れの余韻がまだ残る内に、朱昂は王城を制圧したのだった。
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莉燈はというと、病を押して城を脱出し、一昼夜の後に朽ちたあばら家で死んでいたところを発見された。
見つかった時には死体からは血が抜かれており、頭と心臓、手足首の先から切断されその場に転がっていたという。遺体の状況を聞いた朱昂は、莉燈を切り刻むために家族を殺された吸血鬼が集まることを厭って、直ちにあばら家ごと火をかけ燃やせと命じた。
悔し泣きと呪詛の声は、火が消えた後も続いたとのことだった。
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