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第二章 月ニ鳴ク獣

第三十八話 逃避行の終わり(2)

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 サーっという川の音が辺りに響いている。しきりと蛙が鳴く合間に、怪鳥の「シィ、シィ」という声が混じって聞こえた。

 一見すると蛇行する川があるただの林だが、朱昂しゅこうが近づくとぐにゃりと木々の影が歪む。胴は馬、足は虎に似た獣に跨っていた朱昂は構わず木々の中を突き進む。すると、ある境を超えた瞬間、急に視界は開け、のどかな里が広がっていた。

 斜面を切り開いて作った幾重もの段に漆喰の白壁と黒い瓦の平屋が立ち並んでいる。中央を真っすぐ貫く大路は段に差し掛かると折り重なるように階段が右へ左へと伸び、山上には年月を経ても堂々たる屋敷があった。

 階段に差し掛かった獣は朱昂を背に乗せたまま、何度かの跳躍で一気に山上まで駆け上がった。足裏が柔らかく、音もなく難所を走る獣が豪邸の前で止まる。獣の背から降りた朱昂は、急ぎ足で柘律殿しゃりつでんに入った。
 玄関に入った瞬間、朱昂は呆れたような表情になった。奥へと続く扉の前に、黒山ができている。黒山の一部が朱昂の足音に気づき、振り返った。

「殿、お帰りなさいませ!」
「何の騒ぎだ。深夜だぞ」

 黒山のほとんどが女である。女たちは朱昂に飛びつくようにして、外套の釦を外して肩から下ろしたり、朱昂の指先を握って「冷たい」と驚いた声を出して懐炉を握らせたりする。その周りでぼつりぼつりと立っている男たちは、自分の妻や母がかいがいしく朱昂の世話をするのを、為す術もなく見守っている。慣れているのだ。

「もしや葵穣きじょうが〝成った〟か」
「いいえ、まだです。でも、お熱が下がらず重湯を飲むにも苦しそうで」
「おいたわしい」
「潤んだ目で『父上のお帰りはまだか』とお尋ねになって」
「はあ、そう……」

 若い者から老いた者まで口々に葵穣の心配をするのを、朱昂はうんうんとうなずいて聞く。

 ――家を出る前に、もう帰っていいと言ったはずだがどうして増えているんだ。

 何でも男たちは、王子に飲ませる血を狩ってこいと人界に無理やり送り出されたらしい。

「病ではなく、成魔になるのに苦しんでいるだけなのだから、そう騒がなくとも」
「早くお部屋へ。お父上の顔を見れば落ち着かれましょう」
「行きたいのだが、お前たちがまとわりつくから……」
「お早く!」
「はい」

 語気荒く朱昂を急かす女たちを見て、顔を覆う男までいる。朱昂はもみくちゃにされながら葵穣の居室まで何とかたどり着いた。

 扉を閉めてほっとする。さすがに部屋までついてくる者はいない。
 室の奥の寝台はひっそりと静まり返っていた。寝台の脇に置かれた卓に水差しがふたつある。銀色の水差しの隣に、白い陶器の水差し。白い方の腹を触るとあたたかいので、それを白磁の湯飲みに注いで、朱昂は寝台に腰かけた。

 ぎしりという音に掛布団を顎まで引き上げて眠っていた葵穣きじょうのまつげが震えた。水っぽい紅眼が現れ、一度まばたきをすると涙が膨れ上がり一筋流れた。朱昂が拭う前に濡れる頬を枕に押し付けた葵穣が、父親へと寝返りを打った。

「お帰りなさい」

 低い声はかすれていた。葵穣は朱昂と柘律殿の皆に見守られ、凛とした佇まいの青年に育っていた。白い肌、父とは趣の異なる切れ長の目。珊瑚色の形良い唇。通った鼻梁。泰然とした裏に、青年の情熱を秘めた心。
 葵穣が歩けば後から花々が咲き散らしそうだと男女ともなく盛んに美を讃える。武勇に優れ、頭脳明晰、医術にも通じている。葵穣は幼い頃から続く皆の期待を超えた、絶世の貴公子になっていた。

 そんな葵穣が五日ほど前、発熱した。同時に小さな歯が抜け落ちた。吸血鬼は成体になる際に円いこどもの歯を捨てて牙を得る。成魔への最後の一歩を葵穣は踏み出したのだ。

「将軍の方は、どうでしたか」

 息子の問いかけに朱昂は「まあまあかな」と答え、湯飲みを傾ける。葵穣の熱い手が伸びてきたので、支えて起き上がらせると、湯飲みをもたせた。

 朱昂の背を追い越した葵穣だが、両手で湯飲みを包んで飲む姿はどこか稚く朱昂の目に映る。白い額に、黒髪が一筋張り付いている。下ろしたままの髪がうっとうしいのか、何度も頭を振り、髪をかき上げるが張り付いたままだ。朱昂はそれをつまみとると、耳にかけてやった。宝石の如き瞳を収めるにふさわしい形良いまぶたを伏せて、葵穣はされるがままだ。

 葵穣が成魔となり、真血の主となるのは喜ばしいことで間違いない。感傷めいた胸のざわめきに蓋をして、朱昂は腕を組んだ。

「熱が下がってから、詳しく話す」
「何日続くんですか、これは。五日程度で終わると聞いていましたが、まだですか」

 葵穣がくしゃりと嫌そうな顔をした。体の不調に慣れていない葵穣は、寝台を出たくてたまらないのだ。

「こればかりは何とも。十日は続くまい。明日、明後日だと思っていろ」

 もう一杯くれと、葵穣が朱昂に腕を突き出す。腕組みをほどいて、朱昂は息子の世話を焼いた。成魔になったから子のわがままが途切れるなどということはないだろう。そう思いながらも朱昂は今が最後の機会とばかりに、葵穣を甘やかす。

 父が注いだ白湯を飲み干した葵穣はもぞもぞと布団の中に戻る。眠そうに瞬きを繰り返しながら、乾いた唇を動かした。

「真血……くださいね、父上」
「真血? 今?」
「初吸い」

 ぼそぼそと葵穣がつぶやく。吸血鬼同士の吸血は禁忌であると同時に親密を現す。特に、成魔になって初めての同族に対する吸血は「初吸い」と呼ばれ、特別視された。
 葵穣の求めに朱昂は意外に感じる自分を見つけた。父親を初吸いの相手に選ぶのは、おかしなことではないはずなのに。

「くれないんですか」
「……いや。俺でいいならいいが、仁波じんぱが悲しむだろうと思ってな」
「仁波は、うん、まあ、また今度。初吸いは父上でお願いします」

 葵穣がくるりと目を回しながら、いい加減な返事をするのに朱昂は吹き出した。葵穣も苦笑いをこぼすとあくびをし、すぐに寝入ってしまった。
 自分の初吸いがどうであったか全く記憶にない朱昂は、父を慕う子を見下ろし、しばらく湯飲みを傾けていた。いよいよ寝息が深まるのを感じ、足元に声をかける。

白郎はくろう、仁波を部屋に呼んでくれ」

 是との返答を聞き、立ち上がる。枕もとの明かりをひとつに絞った朱昂は、優しく息子の髪をなでてから、葵穣の居室を去った。
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