上 下
70 / 106
第二章 月ニ鳴ク獣

第三十八話 逃避行の終わり(1)

しおりを挟む
 深更、朱昂しゅこうは吸血族の邸宅に迎え入れられた。
 人界の朱昂の屋敷に治療を求める文が投げ入れられたのは五日ほど前のこと。吸血鬼の少年が疱瘡を患ったが、何をしてもよくならない。助けてくれという内容だ。

 差出人の名前は見覚えがなかった。しかし、吸血族の将軍の孫が奇病に罹っているらしいとの情報を得ていた朱昂は、祖父が同席することを条件に依頼を引き受けた。五日後の今夜、朱昂は将軍宅を訪れたのだった。

 治療に混乱はなかった。幼子に治療を施した朱昂は立ち上がり、同席していた男を見る。少年の祖父が緊張した面持ちで、伏し目で椅子に座っていた。

「古い病だが強力です。瘤が気道を塞ぎかかっていたので、悪い部分だけ先に真血で癒しました。皮膚の瘡は朝までには萎み、昼頃には熱も下がるでしょう。今家中かちゅうで発熱したり湿しんが出ている者はありませんか?」

 将軍の握った拳が震えている。朱昂が「将軍」と低く問いかけると、肩が跳ねた。

「いないはずです。伝染しますか」
「するにはしますが、たやすくはうつりません。ただ、怪我をした手で膿を拭ったりした場合はうつる場合がございます。もし症状を訴える者があればご連絡を。別に治療代をよこせとは言いません。将軍が私の願いを聞いてくだされば、ですが」
「拙めの力でできることでしょうか、陛下……」
「そう呼ばれる立場に私がいないのはよくご存じのはず」

 朱昂の低い声は穏やかだ。しかし、将軍はあとずさるそぶりを見せた。
 将軍は、朱昂に対して鬼畜の所業をしたわけではない。ただ、朱昂の父や朱昂が嬲られるのを黙って見ていただけだ。小心者には小心者の使い方があると、朱昂は言葉を続ける。

太傅たいふのお加減が良くないと耳にしました。もしが必要であれば馳せ参じますので将軍より太傅にお伝えください。『朱昂はいつでも王城に参る準備はできている』と。太傅は私を疎んじていらっしゃり城に入れてはくれません。将軍の導きがあれば、入城が果たせるかと」

 太傅たいふとは莉燈りひを指す。将軍の額から汗がどっと流れる。謀反の誘いだ。長らく吸血族を牛耳っていた女を見限り、朱昂につけとそそのかしている。

「太傅は昔、真血の治療を受けた者の足を軒並み切り落としたそうですな。真血の奇跡を受けたなら、足は再び癒えるはずだと言ったとか。もしも孫君がそのような目にあったらご連絡ください。失われた足、私であれば癒すことができます。その時が来ないことを祈っておりますが、万一のことがありますからな」

 それでは、と朱昂が外套の裾を翻して歩き始める。朱昂の連れの若者が扉を開こうとした時、背後から「お待ちを」と声がかかった。朱昂は連れの青年を押しとどめ、振り返る。

「門までお送りいたします」
「門まで」
「はい」

 大きな紅の瞳の中にある瞳孔が、わずかに収縮した。見開いていた目を細め、口角を滑らかに持ち上げる。牙の先端に照明があたり、白っぽく光った。

「よろしくお願いします」

 機嫌よく喉を鳴らす猫に似た満足の笑みに、将軍は羞じるように俯き、拳を解いた。
しおりを挟む

処理中です...