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第二章 月ニ鳴ク獣
第四十六話 商談(2)
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「もし仮に花主がお亡くなりになっていたとしても、それを湛礼台で確認せぬうちに他の方へ娼妓を売ったとなれば、我々の商いは立ちゆきませぬ。――現在の月鳴の株を五割増しでお買い上げになれば、花主となることも可能でございますが、今お運び頂いた金ではそこまでには至らないかと」
「金の亡者め……」
拳を握ると、カタカタカタ、と朱昂の発する怒気で卓が揺れる。しかし、女は動じない。幻市には秘蹟もいくつか裏で糸を引く者がいるらしい。湛礼台の楼主を屠り、戦争の口実を作るのは下の下策かと、朱昂は拳を開いた。
椅子に深く座り、顔を覆う。避けたい方法ではあったが、と額の汗をぬぐう。前が見えづらい。
「湛礼台では、金払いの悪くなった娼妓を解体して金にすると噂を聞いた」
「噂……」
かすかに、女が嘲るような声を出した。無礼を朱昂は見逃したふりをして、言葉を続ける。
「そのような話が出る以上、血肉を金に換える商いをするものがいるのだろう。両替屋とともに呼んでまいれ」
部屋の壁に同化していた男たちが、一斉に楼主を取り囲んだ。朱昂に向けて殺気を放つ。
「残念ではございますが、商談は破れたということでよろしいですか?」
楼主の声に朱昂はくつくつと笑う。殺気が皮膚を焼くようだ。それくらい警戒してもらわないでは面白くないと、朱昂は青白い顔を歪めて笑い続ける。
「早とちりをするな。楼主を解体しようというのではない、我が血を売る」
楼主が目を見開いた。背後にざわめきが生じる。今度は、吸血鬼側が朱昂を取り囲む番だった。「なりません!」と悲鳴じみた声で、朱昂の膝に取りすがる。
「うるさい。呼べ、肉屋を」
「殿、おやめください。治療費ならばいざ知らず、真血自体に値をつけてはなりません!」
「うるさい!」
怒鳴った瞬間、ぶつりと影の中にあったはずの月鳴の使い魔の気配が消えた。
嫌な予感が腹の底から悪寒となって湧き上がる。
「真血の価値などどうでもいい! 早く肉屋を呼べ!!」
朱昂の叫びで、目の前の卓がひび割れ、調度品が一度に割れ砕けた。部屋の中の者がバタバタと床に倒れる。破裂音と悲鳴とが折り重なる中、朱昂の背後の扉が開いた。
「お取込み中失礼いたします。私も月鳴の件でお話がしたいのですが、加わってよろしゅうございますか」
しんと、一瞬の静寂が訪れる。倒れずに踏みとどまった楼主が、扉に顔を向け、一礼をした。
「お久しぶりでございます、老狐殿」
老狐と聞いて、朱昂の膝が崩れかかった。周りに支えられている間に、白火は倒れていた椅子を起こし、朱昂に勧める。
顔を合わせるのは、治療の時以来だった。流木の如き老いの風情を漂わせる白火が、朱昂の足元にひれ伏した。
「朱昂様、ご無沙汰しております。お顔を拝見し恐悦の極みでございます」
「あぁ、白火」
うめき声がする部屋で、朱昂は白火に手を伸ばす。白火は朱昂の手を額に戴いてから、後ろを振り返った。手招くと、狐がもうひとり現れる。書類らしきものを持っているようだ。
「楼主。月鳴の株を買い上げたい。金は金雀屋に預けている。これが証文だ。確認してくれるか」
白火がするりと言ってのけると、連れの男が楼主へ証文を渡す。楼主は白火の証文と、ぐしゃぐしゃになった書類とを突き合わせて何かを確認すると、うなずいた。
この狐は何か重大なことを言わなかったかと、朱昂が呆然としている間に、楼主が何やら書類に書きつけて白火に見せた。
「たしかに受け取りました」
「ややうれしや。私もとうとう十五楼の花主よ。さあて、朱昂様」
白火が朱昂へ手を差し出す。
「商談といきましょう」
朱昂は差し出された白火の手を勢いよく握った。
「金は全部持ってきた。会計は任せたぞ」
言い終わらぬ内に、部屋を出るために踵を返した。
「金の亡者め……」
拳を握ると、カタカタカタ、と朱昂の発する怒気で卓が揺れる。しかし、女は動じない。幻市には秘蹟もいくつか裏で糸を引く者がいるらしい。湛礼台の楼主を屠り、戦争の口実を作るのは下の下策かと、朱昂は拳を開いた。
椅子に深く座り、顔を覆う。避けたい方法ではあったが、と額の汗をぬぐう。前が見えづらい。
「湛礼台では、金払いの悪くなった娼妓を解体して金にすると噂を聞いた」
「噂……」
かすかに、女が嘲るような声を出した。無礼を朱昂は見逃したふりをして、言葉を続ける。
「そのような話が出る以上、血肉を金に換える商いをするものがいるのだろう。両替屋とともに呼んでまいれ」
部屋の壁に同化していた男たちが、一斉に楼主を取り囲んだ。朱昂に向けて殺気を放つ。
「残念ではございますが、商談は破れたということでよろしいですか?」
楼主の声に朱昂はくつくつと笑う。殺気が皮膚を焼くようだ。それくらい警戒してもらわないでは面白くないと、朱昂は青白い顔を歪めて笑い続ける。
「早とちりをするな。楼主を解体しようというのではない、我が血を売る」
楼主が目を見開いた。背後にざわめきが生じる。今度は、吸血鬼側が朱昂を取り囲む番だった。「なりません!」と悲鳴じみた声で、朱昂の膝に取りすがる。
「うるさい。呼べ、肉屋を」
「殿、おやめください。治療費ならばいざ知らず、真血自体に値をつけてはなりません!」
「うるさい!」
怒鳴った瞬間、ぶつりと影の中にあったはずの月鳴の使い魔の気配が消えた。
嫌な予感が腹の底から悪寒となって湧き上がる。
「真血の価値などどうでもいい! 早く肉屋を呼べ!!」
朱昂の叫びで、目の前の卓がひび割れ、調度品が一度に割れ砕けた。部屋の中の者がバタバタと床に倒れる。破裂音と悲鳴とが折り重なる中、朱昂の背後の扉が開いた。
「お取込み中失礼いたします。私も月鳴の件でお話がしたいのですが、加わってよろしゅうございますか」
しんと、一瞬の静寂が訪れる。倒れずに踏みとどまった楼主が、扉に顔を向け、一礼をした。
「お久しぶりでございます、老狐殿」
老狐と聞いて、朱昂の膝が崩れかかった。周りに支えられている間に、白火は倒れていた椅子を起こし、朱昂に勧める。
顔を合わせるのは、治療の時以来だった。流木の如き老いの風情を漂わせる白火が、朱昂の足元にひれ伏した。
「朱昂様、ご無沙汰しております。お顔を拝見し恐悦の極みでございます」
「あぁ、白火」
うめき声がする部屋で、朱昂は白火に手を伸ばす。白火は朱昂の手を額に戴いてから、後ろを振り返った。手招くと、狐がもうひとり現れる。書類らしきものを持っているようだ。
「楼主。月鳴の株を買い上げたい。金は金雀屋に預けている。これが証文だ。確認してくれるか」
白火がするりと言ってのけると、連れの男が楼主へ証文を渡す。楼主は白火の証文と、ぐしゃぐしゃになった書類とを突き合わせて何かを確認すると、うなずいた。
この狐は何か重大なことを言わなかったかと、朱昂が呆然としている間に、楼主が何やら書類に書きつけて白火に見せた。
「たしかに受け取りました」
「ややうれしや。私もとうとう十五楼の花主よ。さあて、朱昂様」
白火が朱昂へ手を差し出す。
「商談といきましょう」
朱昂は差し出された白火の手を勢いよく握った。
「金は全部持ってきた。会計は任せたぞ」
言い終わらぬ内に、部屋を出るために踵を返した。
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