上 下
86 / 106
第二章 月ニ鳴ク獣

第四十六話 商談(1)

しおりを挟む
 駆けて、駆けて、半日後には幻市げんしに入城した。障壁を感じずに到着できたことを喜ぶ暇もなく大通りを抜け、朱昂しゅこうは妓楼・湛礼台たんれいだいの前にいた。

 聳え立つ八角形の楼を見て、朱昂はしばし言葉を忘れた。天を仰ぎ、はるか遠くにある最上階を見る。あそこに伯陽が。そう思うと背筋が震えた。朱昂の馬車に近づく者がある。窓から顔を出すと、男が「ご用向きをお伺いいたします」と一礼の後に微笑する。まだ夕暮れまで時間がある。湛礼台は開店前のはずだ。
 男は、朱昂の紅い目に動じる気配もなかった。

「湛礼台の者と見受けるが、間違いないか」
「おっしゃる通りでございます」
「楼主に会い、身請けの相談をしたい。金も持ってきている」

 朱昂の馬車の後ろには、これ見よがしに車が数台続いている。すべて金の粒を収めた車だ。
 男は落ち着いた様子で腰のあたりから紙片と筆立てを取り出した。

「恐れ入りますが、ご希望の娼妓の名と可能であれば第何楼にいるかをお聞かせ願えますでしょうか」
「第十五楼・月鳴」

 ほんの一瞬、男の筆の走りが止まった。しかし、最後まで書ききると、顔を上げる。

「承知いたしました。ご案内いたします」
「金も持ってゆくぞ。よいな」

 男は浅く、うなずいた。

-----

 開店前とはいえ、妓楼の中は驚くほど静かだった。娼妓らしい姿はなく、回廊を歩く者はみなひっそりと壁際に寄ってうつむく。ただし、あちこちから見られているのは明白だった。部下たちが重い箱を担いで朱昂の後に続く。朱昂は、疲労で視界がかすんでいることを面に出さず、涼しい様子で案内の男に従って歩いた。

 楼主の部屋が一階にあることが、朱昂には意外だった。
 最奥部の、大きな扉をくぐると、背の高い女が立っていた。透きとおるような白い肌に黒目がちの瞳。年齢不詳の美女が、朱昂にひざまずく。

 ――湛礼台の主は蛇か。

 なるほど、と妙な納得をする朱昂が勧めた席に座るのを見ると、楼主が立ち上がった。向かい側ではなく、朱昂の左斜め隣の席に座る。

「月鳴をご所望と伺いました。湛礼台でいただく額を計算いたしましたのが、こちらです」

 女が月鳴の価格を書いた書類をひとつ朱昂の前に出す。桁のおかしさは相変わらずだが、朱昂は軽く目を通して、扉の脇に置いた箱を指さす。

「あれと同じものを百と四十用意している。十分なはずだが」
「両替はお済みですか?」

 朱昂がくっと眉を寄せた。手元の紙を見ると、数字の最後に「せん」と書かれている。幻市の共通通貨だ。
 魔境には複数の通貨があるため、それぞれの価値を統一する必要があるらしい。そのため、幻市では両替屋が要所要所に置かれていた。

「これは金本位と聞いているが」
「概ね間違いございませんが、金のみをよりどころとはしておりません。公正な商いのため金であろうと両替をお願いしております。身請け額相当と概算は出せますが、過不足があると困ります故」
「両替商を呼んでもらえるか」
「ここで両替をなさいますか?」

 もちろんとうなずく朱昂に、楼主はしばし考え込む風を見せる。

「ご意向に反することを申し上げますが、ご容赦くださいませ。身請けは、お客様と花主の間で行われるものでございます。花主の皆様より妓楼に代金が払われ、契約が破棄されるのが流れとなります。今の取引に花主の同意はございますか? 月鳴を一晩お買い上げいただくことのお手伝いはできましょうが、身請けは……」
「くどい。内乱で龍騎兵が多大な損失を受けたようだ。龍王が妓楼に金を払う余裕などあるまい。生死とて分からぬというではないか。そもそも、月鳴は客を受け入れることを花主に止められているとか。できぬことをできるようにぬかすなよ」

 龍王が龍宮に帰還したことは伏せて、朱昂は楼主をねめつける。しかし、女は目を伏せたまま首を横に振った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

異世界ぼっち暮らし(神様と一緒!!)

藤雪たすく
BL
愛してくれない家族から旅立ち、希望に満ちた一人暮らしが始まるはずが……異世界で一人暮らしが始まった!? 手違いで人の命を巻き込む神様なんて信じません!!俺が信じる神様はこの世にただ一人……俺の推しは神様です!!

総受けルート確定のBLゲーの主人公に転生してしまったんだけど、ここからソロエンドを迎えるにはどうすればいい?

寺一(テライチ)
BL
──妹よ。にいちゃんは、これから五人の男に抱かれるかもしれません。 ユズイはシスコン気味なことを除けばごくふつうの男子高校生。 ある日、熱をだした妹にかわって彼女が予約したゲームを店まで取りにいくことに。 その帰り道、ユズイは階段から足を踏みはずして命を落としてしまう。 そこに現れた女神さまは「あなたはこんなにはやく死ぬはずではなかった、お詫びに好きな条件で転生させてあげます」と言う。 それに「チート転生がしてみたい」と答えるユズイ。 女神さまは喜んで願いを叶えてくれた……ただしBLゲーの世界で。 BLゲーでのチート。それはとにかく攻略対象の好感度がバグレベルで上がっていくということ。 このままではなにもしなくても総受けルートが確定してしまう! 男にモテても仕方ないとユズイはソロエンドを目指すが、チートを望んだ代償は大きくて……!? 溺愛&執着されまくりの学園ラブコメです。

君のことなんてもう知らない

ぽぽ
BL
早乙女琥珀は幼馴染の佐伯慶也に毎日のように告白しては振られてしまう。 告白をOKする素振りも見せず、軽く琥珀をあしらう慶也に憤りを覚えていた。 だがある日、琥珀は記憶喪失になってしまい、慶也の記憶を失ってしまう。 今まで自分のことをあしらってきた慶也のことを忘れて、他の人と恋を始めようとするが… 「お前なんて知らないから」

早く惚れてよ、怖がりナツ

ぱんなこった。
BL
幼少期のトラウマのせいで男性が怖くて苦手な男子高校生1年の那月(なつ)16歳。女友達はいるものの、男子と上手く話す事すらできず、ずっと周りに煙たがられていた。 このままではダメだと、高校でこそ克服しようと思いつつも何度も玉砕してしまう。 そしてある日、そんな那月をからかってきた同級生達に襲われそうになった時、偶然3年生の彩世(いろせ)がやってくる。 一見、真面目で大人しそうな彩世は、那月を助けてくれて… 那月は初めて、男子…それも先輩とまともに言葉を交わす。 ツンデレ溺愛先輩×男が怖い年下後輩 《表紙はフリーイラスト@oekakimikasuke様のものをお借りしました》

『これで最後だから』と、抱きしめた腕の中で泣いていた

和泉奏
BL
「…俺も、愛しています」と返した従者の表情は、泣きそうなのに綺麗で。 皇太子×従者

転移先で辺境伯の跡継ぎとなる予定の第四王子様に愛される

Hazuki
BL
五歳で父親が無くなり、七歳の時新しい父親が出来た。 中1の雨の日熱を出した。 義父は大工なので雨の日はほぼ休み、パートに行く母の代わりに俺の看病をしてくれた。 それだけなら良かったのだが、義父は俺を犯した、何日も。 晴れた日にやっと解放された俺は散歩に出掛けた。 連日の性交で身体は疲れていたようで道を渡っているときにふらつき、車に轢かれて、、、。 目覚めたら豪華な部屋!? 異世界転移して森に倒れていた俺を助けてくれた次期辺境伯の第四王子に愛される、そんな話、にする予定。 ⚠️最初から義父に犯されます。 嫌な方はお戻りくださいませ。 久しぶりに書きました。 続きはぼちぼち書いていきます。 不定期更新で、すみません。

転生悪役令息、雌落ち回避で溺愛地獄!?義兄がラスボスです!

めがねあざらし
BL
人気BLゲーム『ノエル』の悪役令息リアムに転生した俺。 ゲームの中では「雌落ちエンド」しか用意されていない絶望的な未来が待っている。 兄の過剰な溺愛をかわしながらフラグを回避しようと奮闘する俺だが、いつしか兄の目に奇妙な影が──。 義兄の溺愛が執着へと変わり、ついには「ラスボス化」!? このままじゃゲームオーバー確定!?俺は義兄を救い、ハッピーエンドを迎えられるのか……。 ※タイトル変更(2024/11/27)

俺たちの誓い

八月 美咲
BL
高校生の暖と琥珀は血の誓いを交わした幼なじみで親友だった。 二人にはある思い出があった。それは雪の日に見た二人の男たちの死で、男同士の友情に強い憧れを持つ琥珀は、二人は究極の血の誓いを交わしたのだと信じていた。 そんな琥珀は文化祭で走れメロスを演じることになる。 演技の勉強にと、暖と演劇を観に行った帰りに暖の彼女と間違えられた琥珀は、もっと男らしくなる! と周りに宣言し、暖に弟子入りするが......。

処理中です...