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第二章 月ニ鳴ク獣

第四十六話 商談(1)

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 駆けて、駆けて、半日後には幻市げんしに入城した。障壁を感じずに到着できたことを喜ぶ暇もなく大通りを抜け、朱昂しゅこうは妓楼・湛礼台たんれいだいの前にいた。

 聳え立つ八角形の楼を見て、朱昂はしばし言葉を忘れた。天を仰ぎ、はるか遠くにある最上階を見る。あそこに伯陽が。そう思うと背筋が震えた。朱昂の馬車に近づく者がある。窓から顔を出すと、男が「ご用向きをお伺いいたします」と一礼の後に微笑する。まだ夕暮れまで時間がある。湛礼台は開店前のはずだ。
 男は、朱昂の紅い目に動じる気配もなかった。

「湛礼台の者と見受けるが、間違いないか」
「おっしゃる通りでございます」
「楼主に会い、身請けの相談をしたい。金も持ってきている」

 朱昂の馬車の後ろには、これ見よがしに車が数台続いている。すべて金の粒を収めた車だ。
 男は落ち着いた様子で腰のあたりから紙片と筆立てを取り出した。

「恐れ入りますが、ご希望の娼妓の名と可能であれば第何楼にいるかをお聞かせ願えますでしょうか」
「第十五楼・月鳴」

 ほんの一瞬、男の筆の走りが止まった。しかし、最後まで書ききると、顔を上げる。

「承知いたしました。ご案内いたします」
「金も持ってゆくぞ。よいな」

 男は浅く、うなずいた。

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 開店前とはいえ、妓楼の中は驚くほど静かだった。娼妓らしい姿はなく、回廊を歩く者はみなひっそりと壁際に寄ってうつむく。ただし、あちこちから見られているのは明白だった。部下たちが重い箱を担いで朱昂の後に続く。朱昂は、疲労で視界がかすんでいることを面に出さず、涼しい様子で案内の男に従って歩いた。

 楼主の部屋が一階にあることが、朱昂には意外だった。
 最奥部の、大きな扉をくぐると、背の高い女が立っていた。透きとおるような白い肌に黒目がちの瞳。年齢不詳の美女が、朱昂にひざまずく。

 ――湛礼台の主は蛇か。

 なるほど、と妙な納得をする朱昂が勧めた席に座るのを見ると、楼主が立ち上がった。向かい側ではなく、朱昂の左斜め隣の席に座る。

「月鳴をご所望と伺いました。湛礼台でいただく額を計算いたしましたのが、こちらです」

 女が月鳴の価格を書いた書類をひとつ朱昂の前に出す。桁のおかしさは相変わらずだが、朱昂は軽く目を通して、扉の脇に置いた箱を指さす。

「あれと同じものを百と四十用意している。十分なはずだが」
「両替はお済みですか?」

 朱昂がくっと眉を寄せた。手元の紙を見ると、数字の最後に「せん」と書かれている。幻市の共通通貨だ。
 魔境には複数の通貨があるため、それぞれの価値を統一する必要があるらしい。そのため、幻市では両替屋が要所要所に置かれていた。

「これは金本位と聞いているが」
「概ね間違いございませんが、金のみをよりどころとはしておりません。公正な商いのため金であろうと両替をお願いしております。身請け額相当と概算は出せますが、過不足があると困ります故」
「両替商を呼んでもらえるか」
「ここで両替をなさいますか?」

 もちろんとうなずく朱昂に、楼主はしばし考え込む風を見せる。

「ご意向に反することを申し上げますが、ご容赦くださいませ。身請けは、お客様と花主の間で行われるものでございます。花主の皆様より妓楼に代金が払われ、契約が破棄されるのが流れとなります。今の取引に花主の同意はございますか? 月鳴を一晩お買い上げいただくことのお手伝いはできましょうが、身請けは……」
「くどい。内乱で龍騎兵が多大な損失を受けたようだ。龍王が妓楼に金を払う余裕などあるまい。生死とて分からぬというではないか。そもそも、月鳴は客を受け入れることを花主に止められているとか。できぬことをできるようにぬかすなよ」

 龍王が龍宮に帰還したことは伏せて、朱昂は楼主をねめつける。しかし、女は目を伏せたまま首を横に振った。
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